演習室16(2) 大森荘蔵『流れとよどみ』(4−6)

Seminar16-2 Shozo Omori 4-6

01/08/14 第1稿

 

【目次】

 

4 真実の百面相

5 ミリンダ王の車

6 「論理的」ということ

 

【内容】

 

4 真実の百面相

 

 カメレオンの色はすべて真実の色であり、どれかひとつだけの本当の色、というものはない。そのように、「真実とは貧しく偏頗なものではなく豊かな百面相である」。にもかかわらず、人間は物事を一面相で整理したがる。たとえば人に「本当の人柄」があるかのように思ってしまう。しかしそれは単に統計的推測の間違いに過ぎず、その人はそういう人なのである。人の真実は水深ゼロメートルなのである。

 世界の姿もまた百面相である。にもかかわらず人は世界を「本物−写し」の比喩で捉えようとしがちである。それは「ひとつの本物の世界(客観的世界)」と「その十人十色の写し(主観的世界)」でとらえることであり、こうしたとらえ方は誤っている。山道の人影に見えたものが岩であったとしても、人影に見えた時それは真実そのようなかたちで現れたのであり、世界は百面相で現れることこそが状態なのである。

 もちろん、人影に見えたことは「見誤り」である。しかしそれは、人影が「この世界に実在しない虚妄」である、という誤りではない。それは、「ただその一刻の面相」を「永続する堅固な面相」だと思いこんだという意味での「誤り」なのである。

 この誤りには人間の命の生活がかかっている。しかしこの誤りは真実のなかでの誤りであって、真実に対しての誤りではない。これは世界観上の真偽の分類ではなく、きわめて動物的でありまたきわめて文化的でもある分類なのである。にもかかわらず人は「客観的世界とその主観的世界像の剥離の幻影」に陥ってしまうのである。

 

5 ミリンダ王の車

 

 ナーガセーナは「すべての相貌はただ名のみであって実体を持たない」と主張した。我々はそうした相貌に囲まれて暮らしているのだが、彼の言い方は正しいのであろうか。

 たとえば人の顔の表情を元に考えてみると、相貌の存在様式は政府や学校といった組織の存在様式に似て、「それが全体として持っているとしかいえない、そのような所在の仕方でしか存在しないもの」なのである。しかも姿相貌ははかないものであるし、消えてしまうものである。それゆえにナーガセーナは「ただ名のみ」であり実体はないと述べたのである。しかしこれは間違いである。

 ナーガセーナのやり方は、相貌と事物を引きはがしてそれを対比し、一方に対して一方を名のみを言うというものであるが、実際にはそこには事物だけしかない。では写しの比喩で考えるとするとそれは正しいかというと、やはり誤りである。

 常識的に考えれば、日常の相貌と科学的な(原子分子の)相貌とは、日常生活のひとつの層に、同じ時同じ場所に共在しているのである。すなわち、日常的相貌の姿と原子分子の姿とは、主観的世界と客観的世界という二つの世界ではなく、同じひとつの世界の二つの描写の仕方に他ならない。いわばひとつの世界の描写の仕方には様々な可能性があり、それらは一方が他方に還元されるものではなく、また補完的なものである。こうして「一にして他ならざる事物」は、様々な「抜き描き」によって表現されているのである。

 

6 「論理的」ということ

 

 「論理的」という言葉はよく使われる。「論理的である」ことの特性は、「理路整然としていること」ではなく、むしろ「冗長であること」であると思われる。

 論理学は、(1)でない、(2)かまたは、(3)でありまた、(4)みんな、(5)である、という5つの規則の組み合わせによって構成されている。そうした論理学が持つ普遍性や必然性とは、事実がどうであろうと正しい、ということである。とういうのも、論理は、いわば規則が生み出した規則なのであって、事実についての情報を全然持たないからである。ある前提に従って、その規則通りであるから正しいのであって、論理的なのである。それはもう少し複雑な「公理系」のような場合でも同じである。

 結局のところ、論理的であるということは、ある前提を部分的あるいは全面的に言い直すことの連続である。それははじめに言ったこと以上の情報を論理としては与えないのである。だからこそ、論理的転回においては同じことを何度も繰り返すことになる。よって、論理的であるということは冗長であるということなのである。

 このことは「理論」にもいえる。理論的な説明とは、ある理論からその何かを論理的に引き出すことである。だから、理論的説明とは、「何かを理論から引き出すというよりは、その何かがその理論の中にしまい込まれていることを見せること」もしくは「それがしまい込まれていることを見せるためにそれを引き出してみせること」なのである。

 とはいえ、そうした理論や論理や、公理系や定理を発見するのはいわば非論理的な直観の働き、「神的な知性」のなせる技なのである。

 

【コメント】

 

 

(芝崎厚士)

 

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