演習室14 20世紀の政治学

Seminar14 Political Science in the 20th century

2001/05/26 第1稿

 

【テクスト】

 

杉田敦「全体性・多元性・開放性−政治観念の変容と政治理論」日本政治学会編『20世紀の政治学』岩波書店、2000年、3−17ページ。

 

今回は政治学ということで、現在の政治学者の中でも最も優れた議論を展開されている一人に数えることができる杉田氏の論文を取り上げることにします。杉田氏の論文はすでに演習室03、演習室07でも紹介していますので、そちらもご参考まで。

 

【目次】

 

0 はじめに

1 全体性

2 多元性

3 開放性

 

【内容】

 

0 はじめに

 

 ここで杉田氏は、20世紀の政治理論の前提となっていたのが国家という単位の自明性であり、そこで中心的な位置をしめていたのがナショナル・リベラル・デモクラシーであったことを確認しています。その上で、現在は「国家以後の政治理論」、つまり、ナショナル・リベラル・デモクラシーが信憑性を失いつつある中でどのような理論が必要であり、可能であるかを検討することを課題として設定しています。

 

1 全体性

 

 まずここでは、全体性というキーワードをもとに、「国家時代の政治理論」とでもいうべき20世紀の政治理論のあり方を整理しています。

 

 最初に、植民地帝国国民国家の時代そのたそがれ、という20世紀の流れを説明する場合に、経済的な要因で説明し尽くそうとするような手法があることを述べていますが、そこには「構造的な無理」があるといいます。というのも、産業化のために国民国家という単位が選択されたという命題は、なぜ産業化が必要であったかと問われると、国民に食べさせるためであると応えざるを得ないし。その意味で、産業化に論理的に先立つ形で国民という単位が選択されているためです。さらにいえば、ある一定の「群れ」に餌を与えつづけることを最大の政治的課題と見なす考え方がその前に生まれており、そこから国家が、そして国家を単位にした産業化が生まれてくるわけであります。

 

 次に、フーコーの「全体的かつ個別的に」を引照しつつ、政治を構成する二つの要素である、「動物飼育術」と「政治的なるもの」の分離という現象を考察の出発点に据えます。これは、人間が人間を率いる時代において、(1)人間に餌を与えつづける仕事、ここの人間の世話をする仕事を農夫や医者などが分担し(「動物飼育術」)、(2)人間の群れを大所高所から管理する仕事(「政治的なるもの)に政治家が従事するようになったことをさします。

 

 (1)は国家理性論に引き継がれていくわけですが、政治理論の主流はあくまで(2)であり、それを構成するのが主権論と社会契約論だったわけです。(2)は、還元すると、法的な言説に基づいて国家の成立過程を説明するものと言えますが、こうした把握が見落としてしまうことがいくつかあります。

 

 それは、第一に、契約の母集団としての「群れ」がどのように区切られたかがわからなくなっているということです。つまり、契約の自発性という前提は、群れを確定するための暴力的な形を隠蔽している可能性を秘めているわけです。第二に、「群れ」に対して加えられた「国民化」権力の重大性を過小評価してしまう可能性があるということです。つまり、法の上で先取りされてしまった法的主体としての同質性を実現するために、多様性が抑圧され「国民」として平準化・規格化された過程を批判的に捉える視点が出てこなくなる可能性があるわけです。

 

 このあと、フーコーの『監獄の誕生』を引照しつつ、「群れ」の管理という動物飼育術の歴史的な展開について説明がなされています。近代においてそれは、「国民」の創出であり、生活様式や言語などの、平準化・規格化の進行であるわけです。

 

 ここで杉田氏が強調するのは、「「こうした動物飼育術への傾斜が、ある特定の飼い主たちによる陰謀にとどまらない」、ということです。これは、国民の規律化が、支配者による被支配者への強制という面と同時に、生活の安定を望む国民自身の自発的な強力という面ももつからです。国家理性が群れに餌を与える役割をになっている以上、人々は国民になることによって「安定」を獲得できるとすれば喜んで同質化をめざすわけです(「『安全(security)』への関心が、あらゆる国家の起源である」)。

 

 こうして、20世紀とは「構成員の平等性を前提とする考え方が最も広まった」時期であり、国民化の圧力が最高潮に達した時代だったわけです。そして、国民化の圧力は、同一性を持っていない人間を排除し、国民として役に立たないと思われる人間を排除するわけです。そうした方向性が極限まで押し進められたのが、全体主義体制であったわけです。具体的にはナチスの優性思想とそれに基づいた虐殺であり、社会主義国で見られた強制労働による産業化だったわけです。それ以外にも、北欧諸国での「断種」なども同じような傾向をもっていたということができるでしょう。

 

 こうした「国民化」は常に両義的です。というのも、フーコーが「臣下=主体化」の二重性と名づけたように、国民として規律化されることに対して、人は受動的にそれを甘受して内面化することを迫られるが、同時に人はそうした主体化を経ることによってその社会の中で主体的・能動的に働きかけることができるようになるためです。

 

 こうした状況においては、「国民という単位を安定化させるべく国民化を押し進めた結果として、国民の中に国家を相対化する能力が蓄積したという逆説」、すなわち、国家は国民化を押し進めるために、領域内での文化的な同一性を高めていった。そのことによって支配が容易になり、国家は安定したが、同時に、文化的な同一性を利用した国家に対する批判や反政府運動もまた容易となってしまう、ということが成り立ちます。しかし、だからといって国民化の圧力を正当化することはできません(植民地支配によって教育を身につけた人々がポスト・コロニアル批判ができるからといって、植民地支配は正当化されない)。

 

2 多元性

 

 ここでは国家への対抗うる試みとしての自由主義を、(1)個人を拠り所にする個人主義的な自由主義、(2)何らかの集団の機能に注目する結社形成的な自由主義、(3)国家を越えた世界のレベルから国家に対抗するグローバルな自由主義に分類し、(3)は今後の成長過程にあると見なした上で、(1)と(2)の可能性と限界を検討しています。

 

 (個人的)自由主義は、まず政教分離としての公(政治)、私(宗教)の領域の区別を維持することを課題としていました。その後、公・私の領域の分離は、「経済運営の主導権を国家が握るのか個人が握るのかをめぐる対立以上のものではなくなる」わけです。この観点において、「国家に指図を受けず、個人が自らの知識にもとづいて経済活動を行える時、彼は自由なのである」というハイエクの考え方と、「経済の国家管理によって産業化を進めようとする」社会主義国家の考え方とは対立しています。

 

 しかし、ハイエク的な経済活動の自由を主張する自由主義の主張と、経済の国家管理を基礎とするいわゆる社会主義国家の教説とは、政治の課題は何よりもまず国民経済の状態をよくすること、すなわち動物飼育術にある、という前提を共有していたわけです。こうした動物飼育術への関心に対して、アレントのように「政治的なるもの」に政治理論を限定しようとするような見解も出てくるわけです。

 

 しかし、個人的自由主義は、それが依拠する「個人」概念の多義性に悩まされることに成ります。というのも、個人主義的自由主義のよりどころとなっている「個人」には、社会契約の主体として個人を捉える法的主体としての個人、経済的な主体としての個人、といったさまざまな意味が含まれており、個人が含むそうしたさまざまな側面はどのように整合的に理解し得るのか、なかなかはっきりしたことが言えないためです。

 

 なぜこういうことに悩まされるかというと、経済的な自由主義は「本来的に国家についてノミナリスティックな考え方をする」ため(いわゆる新自由主義など)であり、一方法的な主体は、「国家という枠組みの中で権利を有志、国家という枠組みを維持することを自らの課題としている」ためです。「市場は容易に国境を越えるが、法は定義上、国境を越えない」わけです。こうして、経済的自由主義と法的な自由主義には決定的な対立と分裂があるため、20世紀においては、「産業化が進んで消費社会が生まれ、人々の関心が消費生活などの『私的』な事柄に集中するようになると共に、政治参加などの『公的』な活動への関心が失われる」という構図がしばしば見られるわけです。

 

 結局のところ、個人主義的自由主義は、法的な側面から見ても経済的な側面から見ても限界があります。それは要するに、法的な個人主義は、国家という枠組みを前提し、再生産しつづけるため、動物飼育術的な争点に対しては国家理性に対抗できないということであり、経済的な個人主義は、国家を相対化することは可能だが、国家に代わる枠組みを構想することはできない、ということになります。

 

 次に検討されるのは、結社形成的な自由主義です。これは要するに、個人という単位と国家という単位の間に「中間団体」を想定するわけです。しかし、丸山が「個人析出のパターン」において述べるように、その「中間団体」は以前から伝統的・共同体的な古い紐帯を利用すると、逆に国家による国民動員の装置として利用されかねない。したがって、そうした古い紐帯をいったん壊して、ゼロから新しい紐帯を作り上げなければならないのですが、それはノミナリスティックな考え方を広めると同時に集団を作ろうとするという矛盾した作業を同時進行させることであるため、なかなか根付かないということになります。

 

 なお、20世紀後半に特にアメリカで登場した利益集団自由主義は、経済的な関心に基づいた自由主義ということができます。しかし杉田氏によれば利益集団自由主義は、「国家そのものが市場的なプロセスに依存しているのだとする点で」、「国家からその神秘性を奪うことができる」一方で、「公領域を私領域の集合名詞にすぎないものとし、政治を動物飼育術に全面的に還元することと引き換え」であったということになります。

 

 利益集団自由主義に代表されるように、自由主義の限界を経済的・市場的な論理によって解消しようとする議論がある一方で、70年代以降登場したのは、ロールズに代表されるリバタリアニズムと、共同体論であります。前者は社会契約的な理論構成の、後者は国家という個人に先立つ共同体を前提にしているという特徴がありますが、結局のところいずれも根本的な問題の解決を提示しうるものではないということになります。

 

3 開放性

 

 こうしてみてきたように、自由主義にはいろいろな意味で限界があります。第一に、自由主義は経済による政治の植民地化を一層押しすすめこそすれ、それを止めることができず、経済というし領域を守ろうとするあまりドグマ化する恐れがあるということ。第二に、自由主義は学校や家庭を始めとする規律化装置について一般に無批判でありつづけてきたため、そうしたレベルにおける抑圧や弊害を十分認識できないということです。

 

 こうした自由主義を反省した形で出てきたのが「市民社会」論ですが、市民社会の再興という議論は、自由主義を経済主義的な偏向から脱却させる側面を持つ点で評価できるものの、閉ざされたアイデンティティに基づくマイノリティによる結社結成的な政治が多数登場すると、今度はそのマイノリティ集団の内部で一種の「国民化」圧力が働くことになり、国民国家が依拠していた政治のあり方と実質的には変わらなくなる可能性があるわけです。

 

 多文化主義の登場以降特に注目されているのはいわゆる「アイデンティティの政治」ですが、こうした政治は、実は「群れの境界を自明とする点で、それは、これまでの政治のあり方を引き継ぐことになる」と杉田氏は述べます。「ある種のアイデンティティが自然なものと想定されてしまうと、集団の内部に実は存在するさまざまな差異は不自然なものとされ、不純物として除去されることになる」のです。

 

 自由主義にも「アイデンティティの政治」にも限界があるとすれば、我々にはどのような可能性が残されているでしょうか。一つの選択肢は、「国民という単位が恣意的なことはわかったが、それ以外のどのような単位も恣意的ではないか」というわけで、国民という単位に還るという選択肢です。とはいえ、幾多の抑圧を生み出してきた国民という物語に安易に還ることはやはりできないでしょう。

 

 どうしたらいいかは定かではない、と杉田氏も認めています。しかし、はっきりしていることは、「ある単位を相対化するため別の単位を対置するという従来の戦略自体が問題にされなければならない」ということです。つまり、国民国家という単位に根ざした議論、自由主義的な立場、「アイデンティティの政治」のいずれも、ある特定の単位を取ることによって生じる抑圧を批判し、新たな単位(結社やマイノリティなど)を提唱することですした抑圧から人々を解放することが目指されているが、実はどの立場も突き詰めてみると、よりよい「飼育」「管理」を実現するために群れを確定するという、同じゲームの規則に従っている。したがって、そうしたゲームの規則自体から逃れなければ、結局は同じことの繰り返しになってしまうのです。我々は、そうしなければ「『群れ』の呪縛」から逃れることはできないわけです。

 

 最後に杉田氏は、カール・シュミットの『政治的なものの概念』を援用しつつ、持論を展開しています。「政治理論が今直面している問題は、国家からの『解放』ではなく、われわれの想像力を縛る一切の境界の『開放』である」と最後に杉田氏は述べていますが、これは、いかなる単位も歴史的な存在という意味で偶然であり、何らかの権力作用の所産という意味で人為的なものに過ぎない。したがって、何らかの「群れ」をアプリオリに単位として前提しなくてはならないとか、それがよいことだとは考えてはならない。政治理論はそれでも何らかの単位に言及さざるを得ないものの、その際にはノミナリスティックな検討を十分に行い、さらに選んだ後もその実践的な意味を問いつづける必要がある。このようにして、境界の設定そのものをあらかじめ固定化しようとせず、現象を把握していかなければならない、ということであります。

 

【コメント】

 

政治とは、「群れ」(集団)が形成され、集団間での差異化と、集団内での同質化の同時進行過程において展開されるというのが、杉田氏の議論の根幹にあるようです。そして、そうした集団は歴史的な偶然であると同時に人為的な創作物でもある以上、ある集団を単位に取ることの恣意性を忘れてはならないということになるようです。

 

いろいろと議論できる点はあると思います。(1)グローバルな自由主義を第三の類型としてあげているが、これをどう測定するか(もっと専門にひきつけると、一般的な政治理論と国際政治理論の位相差をどう測定するか)、(2)ゲームの規則からの開放は可能か、(3)何らかの単位に言及せざるを得ない時に生じる問題の精密化(たとえばブルデューの言う「分析カテゴリー」と「実践カテゴリー」の峻別という問題)、(3)選択肢は果たして妥当か(国家に戻るか一切の開放か、という問題のたて方、など)、(4)フーコー的な把握とこれまでの政治理論との架橋の仕方それ自体(これまでの政治理論にとってむしろ使いやすい風に加工しようとした結果、フーコー以降のうまみが消えている可能性はないか(特に、架橋それ自体というよりは、議論全体のスタイルという意味で)、などなど。今のところ断片的な思いつきでしかありませんが、いずれ日を改めてまとめてみたいと思います。

 

(芝崎厚士)


 

 

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