演習室12 自由としての経済開発

Seminar12 Development As Freedom

2001/1/29第1稿

 

【テクスト】

 

アマルティア・セン、「自由についての見解」アマルティア・セン、石塚雅彦訳『自由と経済開発』日本経済新聞社、2000年、第1章、11−35ページ。

 

今回は、昨年9月に使用したセン論文です。1998年にノーベル経済学賞を受賞したことで、その名声が更に高まった感のあるセンですが、日本でもそれ以降数多くの訳書が出版されています(本書もその一つ)。今回はそうしたセンの議論の思想的な部分がよくわかるところを選びました。

 

以下、各部分のかんたんな要約にコメントをつけていく、という形式でまとめてみようと思います。

 

【目次】

 

(冒頭部分)

不自由の形態

手順と機会

自由の二つの役割

評価システム:所得と潜在能力

貧困と不平等

所得と死亡

自由、潜在能力、生活の質

市場と自由

価値と評価過程

伝統、文化、民主主義

結語

 

【内容】

 

冒 頭

 

 経済学と開発の関係とは、経済的な富をいかにして増やすかという問題と、そうした富によって「生きたいように生きるための潜在能力」の向上との関係を意味する。しかし、富の増加が潜在能力の上昇=自由の向上を常に意味すると考えることは大きな誤りである。こうして、開発と自由の関係を単なる富の増加の有無に還元せず、他のさまざまな要因とのかかわりの中で、開発のプロセスを綿密に考察していくことが必要である。

 

★★芝崎注★★ 冒頭では、インド出身のセンらしくウパニシャッドを引きつつ、所得や富とは手段であって目的でないこと、富が増すことが自由を増すことであると単純に観念することは正しくないこと、それゆえに開発は手段としての富や所得の最大化を基本的な目的とするべきではないこと、というセンの年来の主張が要約されています。ここで自由の拡大とは、「社会的により完全な人間になること」、「自分自身の意志の力を行使し、生きる世界と作用し合い、その世界に影響を与える」ことを可能にしてくれることを意味するのです。

 

不自由の形態

 

 「不自由」には、貧困や飢餓、差別といった形での自由の剥奪、政治的自由や市民的自由の欠如といったさまざまな形態がある。そして、それらと経済開発の間には密接な関係がある。経済開発のために自由を剥奪するような政治体制が認められてはならないし、経済が安定しているからといって自由を剥奪されているような政治・社会を容認することもまた、望ましいことではない。

 

 ★★芝崎注★★ ここでは冒頭の議論を具体例によって敷衍しています。要するに、政治的自由や市民的自由が抑圧されている状況下においては、たとえ経済開発が進行して富が蓄積されて所得が増大したとしても、そのことによって自由が拡大したとは言いがたい、というわけです。富が蓄積されれば例え抑圧されていたとしても自由は結果的に拡大されるようになる、という考え方もあり、これは原始時代から歴史時代へいたるヒトの発展などを直観的に思い起こすと正しいような気もするのですが、マコ−コーデール(論文評を参照してください)などによると、自由の拡大と開発の進行の関係についてはどちらの方向が正しいかは実証的に決着がついていないようです(決着をつける必要がない問題なのかもしれませんね)。

 

手順と機会

 

 自由には二つの側面がある。すなわち、行動と決定の自由を許す「プロセス」に関わる自由と、人々が個人的、社会的状況の中で持つ実際の「機会」に関わる自由である。どちらか一方が不適切であっても、不自由は起こりうるのであって、自由について考察する際には両者を峻別するとともに、どちらかだけを重視するような姿勢をとるべきではない。

 

★★芝崎注★★ここは短いですが、自由をこの二つに分けるというのがセンの議論では重要になってきます。

 

自由の二つの役割

 

 本書は、開発を個人の自由、とりわけ「人々が大事にし、あるいは大事にすべき理由が認められるような生活を送るための『潜在能力』の拡大」とのかかわりにおいて捉えることを基本的な視座としている。そうした分析において自由は、第一に社会を個人的自由が享受されている度合いに応じて評価するという点、第二に個人の独創力と社会的有効性の拡大、すなわち個人の「エージェンシー」の向上において自由が大きな役割を果たす点、以上二つの役割を果たしている。

 

★★芝崎注★★ ここも特に贅言を要しませんが、重要なところです。潜在能力の定義が出ていますし、自由が果たす役割を社会と個人の相互関係において捉えていく(特に公共政策の実施という局面において)という視座が大事です。

 

評価システム:所得と潜在能力

 

 伝統的な実践倫理や経済政策分析は、所得と富の重要性や精神的な満足、手続きとしての自由などに気を取られすぎている。本書の議論では、人間の本質的な自由としての潜在能力の欠如を中心に分析を進める。もちろん、潜在能力の欠如は所得の欠乏と密接に関連しているが、所得の多寡が常に潜在能力の有無を決定するわけではない。異なった情報ベースを基準にして人間生活と自由の貧困をさまざまな要因とともに考察していくべきである。

 

★★芝崎注★★ ここで強調されているのは、センのアプローチがあくまで「事実」に基づく分析、すなわち「人々が持つべきだと考える理由のある本質的自由に焦点を当てるもの」である、という点です。もちろん、所得が低いことと個人の潜在能力の欠如は密接な関係にあります。しかし、所得だけが個人の潜在能力の欠如の原因ではないので、そこに関係する様々な要因(異なった情報ベース)を捉えていくことが必要となる、というわけです。「所得と富の役割は、影響のある他の事柄とともに重要であるが、それは成功と窮乏に関するもっと広い、完全な全体像の中に組み入れられなければならない」とはその謂です。

 

貧困と不平等

 

 貧困とは単なる所得の低さを意味するのではなく、基本的な潜在能力の欠如としてとらえるべきである。貧困は発展途上国だけではなく、豊かな社会にも存在する。それらの社会では、低所得というよりはむしろ人口学的、医学的、社会的な問題が貧困を生み出しているのであり、そうした側面の情報を元に分析をしていくべきである。

 

★★芝崎注★★ 貧困を所得の低さによってのみ把握しないで、基本的な潜在能力の欠如として捉えることの旨みのひとつとして、ここで指摘されているように、途上国における貧困も、豊かな社会における貧困もともに一貫した概念で把握できるという点があります。こうした文脈に属する議論としては、見田宗介『現代社会の理論』岩波新書、1996年、第3章がありますのでぜひ参照してください。

 

所得と死亡

 

 中国、インドのケララ州、アメリカのアフリカ系アメリカ人、以上三者の比較からわかるように、生存率が所得の高さと比例するとは限らない。欠乏状態は社会制度や地域における医療の普及、公的な保健衛生、学校教育、法と秩序、暴力行為の多さなどの要因を含めて説明することが出来る。

 

★★芝崎注★★ ここは前節の議論の根拠ということになります。

 

自由、潜在能力、生活の質

 

 ここまでで取り扱った基本的な自由、潜在能力、生活の質と経済開発を関連付けることは、経済学の伝統からは逸脱しているかのように見える。しかし実際にはこうしたアプローチは、「人間がよい暮らしをするために持っている機会を評価するとともに、そうした機会に影響を与える原因となるものを調べる必要性」から生じた経済学の古典的な伝統を継承したものであり、専門的経済学の最も古い遺産の回復を意味する。

 

★★芝崎注★★ ここでセンがいいたいのは、アリストテレスからアダム・スミス、そしてラグランジェにいたる系譜をひいて、所得はあくまで手段であり、生活の質の向上や本質的自由の拡大を目的だと考える系譜のほうが実は「伝統」的であって、所得分析オンリーでやっている現在の主流経済学の方がそれから逸脱気味であるということです。この指摘は、経済学批判としては非常に強力なものであって、主流経済学の一付けを逆転させる刺激的な見解です。ちなみにセンのとるような経済学史の見方は、プレ専門化時代から専門化時代へと変化する際に経済学が陥ったアポリアという形で山脇先生が議論していること(研究ノオト参照)と共鳴関係にあります。

 

市場と自由

 

 市場メカニズムと自由の関係については、第一に、恣意的な統制を通じる取引機会の否定は、それ自体が不自由の源泉であるという議論、第二に市場こそが所得と富、人々が持つ機会を拡大させる作用をするという議論があり、両者を峻別するべきである。近年の経済学は市場を支持し、第二の議論に焦点を集中させてきた傾向がある。その結果として、所得と富の「効用」に分析が偏り、「自由」の問題が見過ごされてしまいがちであった。

 

★★芝崎注★★ ではなぜそうなったか、をセンなりに分析して見せたのがこの部分。自由から効用への転回は、近代世界の急速な進行に伴って、自由概念を効用概念に換算することで起きた、という感じになるでしょう。このあたりの記述は、山脇先生の議論と並べてみると非常に興味深いです。

 

価値と評価過程

 

 個人の自由とは社会的な産物であり、多様である。したがって、個人の利益や社会の進歩を評価するために、そうした自由の相対的な重要性を決定するために、明示的な価値基準を設ける必要がある。そうした価値基準は、人々が社会的連携の中で意見を交換していくことで作られていくべきである。

 

★★芝崎注★★ 「個人的自由を拡大する社会体制」と、「個々人の生活を改善するだけでなく、社会制度をもっと適切で有効なものにするために個人の自由を行使すること」との間には双方向の関係がある、というのがここでのセンの主張です。こうした、公共政策や社会制度が一種の「公共圏」で議論され、決定されなければならないという見解は、理念としてはまったくその通りなのですが、具体的にはいろいろ考えなければならないと思います。セン自身が後述している「文化」の問題が、公共圏の性質や決め方そのものに影響を与えるからです。

 

伝統、文化、民主主義

 

 開発という文脈において、どういった価値が守られるべきであり、どういった価値が変更されるべきであるかは、その社会に属し、そうした変化に直接かかわりをもつ人々が参加して決定されなければならない。そうした参加型の解決を保障するためには、報道の自由や意思を通じ合わせる権利の抑圧は否定されるべきであるし、学校教育の機会は保障されなければならない。そうした参加の自由を保障していくこともまた、自由としての開発というアプローチが含意する点である。

 

★★芝崎注★★ 「人々には、どの伝統を維持したいのか、あるいは維持したくないのかを自由に決定することが許されなければならない」ことが重要であり、それは「定着している伝統は(なんであれ)維持されなければならない、または人々は伝統−現実のものであれ想像上のものであれ−を押し付ける宗教的あるいは世俗的権力者による決定に従わなければならない、という主張」を対立し、前者が後者に優越しなければならない、というのがセンの考え方です。これも至極最もな話で、基本原則としてはそうであるべきでしょうが、個人という主体をあまりにも自由な選択が可能な、容易にタブラ・ラサから出発可能なような存在として措定しすぎている(その意味で西欧中心主義的とさえいってもよいかもしれませんが)のがやや気になります。金子勝氏が指摘したように、「こういう主体にならなければならないが、現状ではそうなっていない」という堂堂巡りの議論になりかねない気もします。

 

結語

 

 開発は、人々のこうむっている不自由の除去を目的としてなされなければならないし、評価しなければならない。評価の際には、自由を構成する要素の多様性を捨象して「完全な序列」を作成する必要はなく、そうした多用な自由のあり方をそれ自体として承認し、幅広い文脈の中で開発を捉える姿勢が必要であり、民主的な参加によって開発のあり方を論じていくことが望ましい。

 

★★芝崎注★★ まとめの部分ですね。センが、所得分析、効用概念に立脚した主流経済学を批判して潜在能力と本質的自由をキー・コンセプトにした経済学を建てていこうとしたということ自体が革新的であり、現在もまたこれからもこうした観点から開発や貧困の問題を取り扱っていくことが重要となることは間違いないでしょう。とはいえ、後半部分で若干触れたように、センが理念型として置く社会のイメージは西欧近代市民社会のそれであって、しかもそれ以外の社会のあり方に関してどこまで考えているのか今ひとつしっくりこないなあという印象もあります。グローバル・ガバンンス論、シビル・ソサエティ論がしばしばそうであるように、西欧(もしくはアメリカ)的な価値観によってのみ社会構想やコミュニケーションのコードの理念型が予め決定されてしまう傾向が、こうした開発の議論にも、センの議論においても若干垣間見られるのかな、と思いますが、この点についてはセンの他の著述を踏まえて考えていかなければならないなあと思いました。

 

(芝崎厚士)


 

 

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