演習室11 20世紀における国際政治学の展開

Seminar11 International Relations in the twentieth century

(2001年1月21日第1稿)

 

【テクスト】

 

山本吉宣「二つの戦後と国際政治学」『国際問題』2000年3月号、4−28ページ。

 

【目次】

 

はじめに

一 第二次世界大戦後

 (1)現実主義の支配

 (2)ヴェトナム戦争

 (3)ネオ・リアリズム

二 冷戦後

 (1)「大国間の平和」、「第三世界の不安定」、「グローバリゼーション」

 (2)リアリストの再構成

 (3)リベラル

 (4)グローバリゼーション

 (5)リベラリズムの再編成−リベラリズムU

 (6)組織化した国際社会

 (7)混沌の理論−第三世界の不安定

 (8)コンストラクティビスト−冷戦後国際政治学の方法論

 

【内容】

 

 今回は夏期講習の時に、国際政治学入門ということで扱った山本吉宣先生の論文をまとめることにします。

 

 20世紀が終わるにあたって、20世紀における学問の歴史的な展開をふりかえる仕事が、様々な分野で提出されました。国際政治学もその例外ではないのですが、日本語で読める作品としては、日本を代表する国際政治学者である山本吉宣先生が執筆した本論文が最も充実した力作であるといってよいでしょう。

 

はじめに

 

 まず冒頭では、「国際政治学は一つの社会的に構成されたものであり、そこに、現実の国際政治と国際政治学のフィードバック過程がみられるのである」(4ページ上段)と述べている。これは、国際政治学は現実の国際政治の変動に伴って、その変化を理解するために変化していくということ、すなわち国際政治学という学問は現実の国際政治という社会的な環境の変化によって形成され・変容するということ、をさす。

 

本論文は、そうしたフィードバック過程の存在を仮設して、第二次世界大戦と冷戦という現実の大きな変化を軸に、国際政治学の変容を歴史的に捉えようとしているということになる。

 

 ★★芝崎注★★ もちろん、どんな学問も現実との間にフィードバック過程が存在します。しかし、私見に拠れば国際政治学は現実の変化に多き引きずられる傾向が他に比べると強いと思われます。それはなぜか、それが国際政治学という「学問」にとってどのようなプラスとマイナスがあるのか、といった点については、後ほど考察してみようと思います。

 

一 第二次世界大戦後

 

 (1)現実主義の支配

 

 第二次世界大戦後の国際政治学は、「アメリカの社会科学」というスタンリー・ホフマンの指摘が象徴するように、アメリカが主導して作ってきたものだということができる。

 

冷戦後の国際政治学においてまず問題となったのは、「いわゆる理想主義と現実主義の間の『大論争』」(6ページ上段)であった。ここで『大論争』(great debate)とは、国家間の利害の調和や協力が可能であると見なす理想主義と、国際政治は中央に権威がないため、国家間の国益実現をめぐる対立は必然的であると見なす現実主義との争いである。

 

この論争の意味は、現実主義から見ると国家間の対立は不可避であり、国際政治においては軍事力が決定的な役割を果たすということ、もう一つはアメリカが国際情勢に積極的にコミットするべきであるということにあった。ただし、理想主義、現実主義それぞれは必ずしも一義的なものではなかった。そしてこの論争の結果、現実主義が優勢となり、アメリカの国際政治学は客観的な力の分布に焦点を置き、力の分布を軸に国際政治の安定の条件を探ることを大きな課題としていくことになった。

 

 冷戦後の世界は米ソの二極構造となったが、多極安定を是とする古典的な勢力均衡論(balance of power)からみると二極構造は不安定なものであった。しかし60年代以降、特にキューバ危機以降米ソ関係が安定していくと、いわゆる二極安定論が出てくるようになった。こうした新たな勢力均衡に対する考え方は、「大国の利益、対立、力を客観的な所与のものとして議論を進めるもの」で、しかも「それを所与として『問題解決』(対立のなかでの安定、平和維持)をはかろうとするものであった。」

 

 こうした所与を前提として、50年代から60年代のアメリカでは近代自然科学に根ざした「行動科学革命」に影響を受けた国際政治学が発展した。その際に起きた「第二の大論争」は、「制度、歴史、了解を手とする伝統的な方法と、科学的、客観的な分析を主とする行動科学的な方法」との間に起きたのである。

 

 (2)ヴェトナム戦争

 

 ところが、ヴェトナム戦争や国際経済の再編が起きた七〇年代初頭になると、現実主義が前提としてきた条件が揺らぎ始めることになった。そのなかで登場した国際政治理論には二つの流れがあった。

 

 一つは、国際経済をめぐる政治の分析の重要性が高まった結果登場した、相互依存論などを代表とする国際政治経済学と呼ばれる分野の台頭である。そしてもう一つは、国際社会における格差と階層性を世界全体の資本主義の動態から説明しようとする、従属論、世界システム論と呼ばれる理論の台頭のことである。

 

 前者の代表的な議論として、相互依存論がある。相互依存論とは、「マクロ的に言えば、貿易(経済関係)は世界全体の経済厚生を増大し、またそれぞれの国の利益となる、という『ポジティブ・サム』の世界であり、現実主義が想定するゼロ・サム的な世界では必ずしもない」と論じるもので、経済覇権国の存在、国際レジームの形成と維持、政策協調などが研究された。

 

こうした一種の理想主義的な議論と同時に、天然資源の枯渇、人口問題、環境問題といった地球規模の問題も顕在化し、「グローバル・ガヴァナンス」的な問題意識も萌芽を見せ、さらには脱国家的国際関係(transnational relations)の重要性も模索された。

 

 

 いっぽう世界システム論とは、「世界には資本と高度の技術を持つ中心、資本もなく技術もない準周辺、さらにそれらの中間にある準周辺の三層構造からなっており、中心は周辺、準周辺を搾取し、資本を蓄積する」という認識に立つ。主権国家は三層構造のいずれかに属し、世界資本主義という全体の中で競争と発展を行っている。こうした世界システム論は、「国際経済のなかで階層、格差の再生産を焦点とし、リベラルな相互依存論と対峙するもの」であったということができる。

 

 (3)ネオ・リアリズム

 

 1970年代に、現実主義、相互依存論、世界システム論の鼎立状態が生じたが、79年のソ連のアフガン侵攻以降、新冷戦状況が訪れると、ネオ・リアリズムが台頭する。

 

 ネオ・リアリズムとは、ウォルツの定義に従うと、(1)国際政治は中央に政府のない無政府状態にあり、各国はそれゆえに自己の生存を目的とし、自力救済が行動原理となる。(2)国家は均質であり、国際政治はそれらの国家がその目的を達成するために相互作用する世界である。(3)そのような相互作用においては勢力均衡による安定メカニズムが働き、そのもととなる力の分布が国際政治の構造をあらわす。(4)国際政治の安定は、二極体系のときにもっとも安定する、というものであった。

 

ネオ・リアリズム的な国際政治の把握の一形態として80年代前半から後半に盛んになったのが、ギルピンらの主張した「覇権安定論」、すなわち国際システムに一つの圧倒的に強い国が存在するとき、国際政治システムは安定する、とするものであった。ウォルツやギルピンを見ると、ネオ・リアリズムは、力の分布が国際政治で大きな役割を果たすという前提を持つ「構造的現実主義」(structural realism)という共通点があることがわかる。


 いっぽう、リベラリズムの側は、コヘインなどによって、覇権が衰退しても、国際レジームの維持により、国際政治/経済の安定は保たれ得ると論ずる「ネオ・リベラル・インスティテューショナリズム」(ネオ・リベラリズム)が主張された。

 

ネオ・リアリズムとネオ・リベラリズムは、相互依存の深化が対立を生むか強調を生むかという点、または経済・貿易関係がポジティブ・サムなのかそうではない(絶対的な利得はポジティブ・サムであるが、相対的な利得においてはゼロ・サム的である)か、といった点で対立していた。しかし、ネオ・リアリズムとネオ・リベラリズムとは、国家を単位と考える点、また国家を合理的な行為者であるととらえる点、力や経済的利益に基づいた合理的行動、客観的分析といった共通点をもって降り、それに基づいて双方が歩み寄っていくことで、いわば「ネオ・リアリスト統合」(ネオ・ユーティリタリアン)という現象が見られるようになった。そして、そうしたネオ・リアリスト統合に対する批判が登場し、「第三の論争」とよばれるものを引き起こすことになる(後述)。

 

★★芝崎注★★ ここまでの整理はまさに「完璧」です。私も講義やゼミでずいぶん鍛えられましたが、特に60年代以降の動きは、吉宣先生の研究歴と重なる部分で、徹底した文献少々と的確な分析・整理の末にこうした平易かつ簡潔な形で提示された理論史の整理には敬服する他ありません。

 

二 冷戦後

 

 (1)「大国間の平和」、「第三世界の不安定」、「グローバリゼーション」

 

「国際政治学が直面しなければならない国際政治のいくつかの基本的な特徴」(13ページ下段)として、「大国間の平和」、「第三世界の不安定」、「グローバリゼーション」をあげることができる。

 

第一に「大国間の平和」とは、大国間の戦争はここ10年起きておらず、また当面の間考えられないということである。第二に「第三世界の不安定」とは、第三世界の国内の紛争が大きな問題となっているということである。第三に「グローバリゼーション」とは、グローバリゼーションが経済厚生を増大させ、経済発展を促進する一方でさまざまなリスクを生み出し、国家間そして国内の格差を拡大し、周辺の更なる周辺化をもたらす、ということである。

 

 こうした事象に対して、リアリズム、リベラリズム、ネオ・マルクス主義がどう対処しているのかを以下で見ていくことになる。さらに、それらに当てはまらない新しいパラダイムが要請されている点についても考察することになる。

 

 (2)リアリストの再構成

 

 ネオ・リアリスト的な世界把握は冷戦後の世界において必ずしも妥当性が高いものとはいえなかった.それゆえに、リアリズムのなかでも新しい立場か提出されることになる。それらは、「防御的リアリズム」「ネオ・伝統的・リアリズム」などと呼ばれている。

 

こうした新たなリアリズムは、「国際システムにおける力の分布、国家の国際システムにおける相対的な地位およびその変化を出発点としつつも、国家間の関係(相互作用)のあり方、国家の属性(現状維持志向か修正主義か、など)、国家の『強さ』(国内の資源をどのくらい動員できるか)、国内の政治、政策決定者の認識、などの変数を取り入れ、国家の行動を分析し、さらには、戦争と平和の問題を取り扱おうとする。」

 

彼等は、力の重要性、国家を唯一の行為者と認めるという意味では共通項を持ちつつも、「無政府」と「力の分布」のみからでは国際政治の大要さえも説明できない点、国家間(大国間)関係は常には対立的ではない点、二極がもっとも安定的であるとはいえない点、などからネオ・リアリズムを批判し(彼等はネオ・リアリズムを「ハイパー・リアリズム」「攻撃的リアリズム」と呼ぶ)、その基本的な仮説を否定するものである。

 

 (3)リベラル

 

いっぽう、リベラリズムの理論としては、民主主義体制をとる国同士は戦争をしない、という「民主主義の平和」論、リベラルとアメリカ一極構造が相互作用して、アメリカがその圧倒的な力を背景として、民主主義とか人権という価値をときに力によって国際的に達成しようとする「リベラル・ヘゲモニー」論などが唱えられている。

 

 (4)グローバリゼーション

 

 グローバリゼーションとは、ここでは「国家を単位とする国際関係から、国家(政府)だけではなく、企業、非政府組織(NGO)などの脱国家主体が国境を越えて活動し、情報、金融あるいは環境など、一つのグローバルなシステムが形成され、そのなかでさまざまな社会、文化が、世界政府のないなかで接触している、という状況」をさす。

 こうした状況の進展に対して、リアリズムは、グローバリゼーションによる変化は単なる背景要因であって、リアリズムの基本的な理論の枠組みは変化しないと考える。リベラリズムは、経済のグローバリゼーションも、リベラルな基本のグローバル化も歓
迎すべきものであり、国際レジームはグローバリゼーションにともなう諸問題の解決・管理を追及することになるであろう。

 

 (5)リベラリズムの再編成−リベラリズムU

 

 そうした管理の追及の方向性としては、国家(政府)だけではなく、企業、NGOなどが、国境を越えて活動し、ネットワークを作っている状況の中で、なんらかの「統治」の枠組みを作り出していこうとする動きとして、「グローバル・ガヴァナンス」論がある。「グローバル・ガヴァナンス」論は、「グローバルに共通な様々な問題領域において、国家(政府)、企業、NGOなどが分業し、多様な方法で、問題の解決をはかる、というもの」である。

 もう一つの方向性としては、「世界市民社会論」がある。「世界市民社会論」は、NGOを中心とした非政府行為体のネットワークを一つの社会と見なし、システム論的に意義付けようとする議論であり、いわゆる「グローバルな民主主義」論とも接点を持つ。

 

 (6)組織化した国際社会

 

いっぽう「ネオ・マルクス主義」(19ページ上段)は、グローバリゼーションは世界資本主義の拡大・進化に他ならず、その進行によって更なる格差の拡大・搾取が顕在化する、と捉えている。

また、冷戦後の国際社会構造の把握として、ネオ・マルクス主義的に「国家からなる国際社会を二層、あるいは三層になっていると捉える考え方」も登場している。二層と考えるものは、国際社会を(1)戦争は起こらず、平和と繁栄を享受している先進国、(2)戦争と貧困に悩まされる開発途上国に分け、三層と考えるものは、(2)をさらに、(2)国家として十分に機能している国、(3)国家としての昨日が脆弱な国に分ける考え方である。

 

 (7)混沌の理論−第三世界の不安定

 

 こうして階層化された構造は、様々な理論的インプリケーションを生むが、その一つが「混沌の理論」と呼ばれるものである。これは、第三層内における混乱と、第一層と第二、第三層の接するところに紛争や国際政治の不安定の原因を求めようとするものであり、世界資本主義のグローバルな範囲で自走しつづけ、文化・宗教・文明が衝突しあうと観念する。

 「混沌の理論」に対してリアリストは、第一層の国益が脅かされたり、不安定が波及してくるときのみ、第一層は第二層、第三層に関与する、という対応をとり、リベラリストは、人道、人権、開発といった勝に基づき、第三世界の国際紛争におしなべて関与することになる。

 

 結局のところグローバリゼーションは、「国際政治学から言えば、国家単位の誠二ではない政治、(軍事)力によらない政治、さらに規範とかルールを軸とする政治、を構想することを要請しており、この点から言えば、従来の、リアリズム、ネオ・リベラリズム、ネオ・マルクス主義を超える視野と枠組みが必要となり、また、次項で述べるコンストラクティビストとの関連も強く出てくる」ことになる。

 

 そして、グローバリゼーションの捉え方は国や地域によって異なる。それゆえにグローバリゼーションは、「単に多くの学問分野が交差する場になるだけではなく、さまざまな国の国際政治学を架橋する役割をも果たすのである」。

 

 (8)コンストラクティビスト−冷戦後国際政治学の方法論

 

 ネオ・リアリスト統合に対する批判は、(1)国家の行動を規定する要素として、物質的なものではなく、ルールや規範を重視する方向、(2)客観を否定するポストモダンの方向、(3)国家を中心とし、それを所与と考える考え方への批判という方向、から、それぞれが相互作用しながら進められてきた。こうした批判は、(1)冷戦の終焉にともない各国がアイデンティティを自己規定する必要が生まれたこと、(2)グローバリゼーションの進展のなかで国際政治の捉えかた、とりわけ国家主権の意味、内容、新しい解釈が問題となったこと、という現実の国際政治の変容と関連している。

 

そのような中で、80年代末から注目されるようになったのが、コンストラクティビズム(社会構成主義)である。

 

社会構成主義は、(1)全体と個に関して言えば、個の相互作用としてのみ全体と見るのではなく、全体の「属性」も個及び個の相互作用に影響を与える、と考えて分析を行う。すなわち、ルールや規範がアイデンティティや利益の形成にどのような影響を与えるか、といった点に注目する。(2)純粋に客観的な分析を否定するが、すべてが主観的なものであり、分析なり評価に何らの基準も存在しない、という立場も取らず、主体間の「間主観性」を重視する。(3)ルール、規範、アイデンティティなどの非物質的な要素に着目する、という特徴をもつ。

 

当初、社会構成主義はネオ・リアリスト統合と厳しく対立するかに見えたが、現在では両者の距離は縮まっており、いわば「コンストラクティビスト統合」といった立場が生じつつある。「コンストラクティビスト統合」とは、(1)全体が個の相互作用に及ぼす影響を重視するものの、全体がすべてを決定するとは論じていない。(2)間主観性を重視するものの、客観性を否定してはいない。(3)非物質的な要素に着目するものの、物質的な要素を無視するわけではない、という立場である。こうした双方の面に対するバランスの取れた目配りは、「ネオ・リアリスト統合」の立場とはむしろ親近性を持ちうるということになる。

 

最後に吉宣先生は、「『コンストラクティビズム統合』は、それ自身、また『ネオ・リアリスト統合』との対話のなかで、単にアプローチとしてではなく、分析手法を精緻化しつつ、実質的にも、冷戦後、そして二一世紀へかけて大きく変容していく国際政治に有効な視野と分析枠組みを(特にリベラリズムの再編成のなかで)提示するものと考えられる」と結んでいる。

 

★★芝崎注★★

 

80年代以降の整理については、(1)ネオ・リアリズムの米国における席捲状態、(2)ポスト・モダニズムの強力な論争、がやや薄めに書かれているように思いました。

 

(1)アメリカの学会における発表の8割方がネオ・リアリスト的な研究だ、と言われるほどネオ・リアリストはアメリカでは強力な影響力を持つようになっていったのですが、その点はもう少しはっきりさせておくことも必要かもしれません。また(2)ですが、80年代における論争はポスト・モダニズム対ネオ・リアリズム&ネオ・リベラリズムという構図が、理論的対立という意味では大問題であったと考えることもできるわけで、こうした対立がネオ・リアリスト統合を促した面もあるように思われます。

 

さらには、リアリズム・リベラリズム・ネオ=マルクス主義の鼎立状態という構図が基本的に使われているのですが、80年代以降の描写としてこの鼎立という話で押し切るのは果たして妥当かどうか、という問題もあります。実際、この鼎立がどこまで実態を反映したものなのかはやや疑問が残りますし、コンストラクティビズムをこの三者との関係でどう位置付けるか(特にネオ・マルクス主義との関係。加えて、ポスト・モダニズム理論とネオ・マルクス主義、コンストラクティビズムの関係は?)といったところも、更に論じていく余地があるようです。

 

【コメント】

 

(近日公開)

 

(芝崎厚士)

 

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