演習室10 新社会哲学宣言

Seminar10 Manifest of a New Transdisciplinary Social Philosophy

 

【テクスト】

 

「相関社会科学的問題群・基礎概念の定式化:社会科学基礎論の試み」山脇直司『新社会哲学宣言』創文社、1999年、88−104ページ。

 

今回は社会科学論として、山脇先生の議論のもっとも核となる部分である、『新社会哲学』の第四章の前半をまとめることにします。山脇先生の著作としては、ほかに『包括的社会哲学』(東京大学出版会、1993年)、『ヨーロッパ社会思想史』(東京大学出版会、1992年)があります。いずれも不必要な晦渋さを排した明晰な議論を展開しており、おすすめです。

 

なお、これに関連した議論としては、ウォーラースティン、グルベンキアン委員会『社会科学をひらく』藤原書店、1996年があり、本書と合わせて社会科学の今後を見据える上で有益です。

 

【目次】

 

4・1 相関社会科学の理念:その概略

 4・1・1 社会諸科学の相関

 4・1・2 社会科学と哲学との相関

 4・1・3 社会科学と自然環境・文化・歴史との相関

4・2 大きな問題群としての自然環境・文化・歴史と社会科学:新しい方法論の提唱

 4・2・1 「全体論的自然考察」と「個人の身体的自然性」

 4・2・2 「文化の多様性」と「対話論的・生成論的な自己−他者了解」

 4・2・3 「大きな歴史」と「個人の歴史性」

 4・2・4 方法論としての「全体論的・対話論的・生成論的な個人主義」

4・3 システム・生活世界・公共世界:社会観的基礎概念の吟味

 4・3・1 システム論の展開と社会哲学的難点:ルーマンとウォーラースティン

 4・3・2 生活世界の無規定性と一面的方位付け:シュッツとハーバーマス

 4・3・3 システム・生活世界・公共世界の媒介項としての対話的・公共的個人

4・4 理論と実践:「アイデアリスティックなリアリズム」へ向けて

 4・4・1 「プレ専門化」時代と「専門化」時代の問題状況

 4・4・2 「アイデアリスティックなリアリズム」宣言

 

【内容】

 

4・1 相関社会科学の理念:その概略

 

 19世紀中葉以降進行した「専門化」によって、社会科学は個別科学として蛸壺的に、いわば「純粋」社会科学として発展してきた。しかし、「ポスト・専門化」時代においてはこうした社会科学の状況を打破していかなければならない。いわば「純粋社会科学」から「相関社会科学」への転換が必要なのである。

 

 ここで「相関」というとき、大きく分けて3つの意味がある。それは(1)諸社会科学間の相関、(2)社会科学と哲学の相関、(3)社会科学と自然環境・文化・歴史との相関、である。

 

 4・1・1 社会諸科学の相関

 

 今日の大学や学会で見られる蛸壺的な社会科学の状況は、社会諸科学の関係を切り離し、社会を政治・経済・法などの諸領域に分断した考察であるという意味で現在問題となっている。こうした状況は、専門化時代におけるデュルケーム、ヴェーバー、ワルラス、シュンペーターなどの考察からみても異様である。したがって、政治学、経済学、社会学の間の相関性を取り戻す必要がある(政治経済学、政治社会学、社会経済学などの提唱)。

 

芝崎注

明示的には言及されていませんが、法学も相関させる必要があるように思いますし、また可能ではないでしょうか。村上淳一氏の一連の仕事(『仮想の近代』(東京大学出版会、1992年)〜『システムと自己観察』(東京大学出版会、2000年)にいたる)を参照のこと。

また、政治経済学、政治社会学、社会経済学などの「名称」を積極的に使用するべきである、という見解はむべなるかなと思いますが、その相関のあり方次第では、実体が伴わず名前だけが先行してしまう危険もあるようにも懸念されます。すなわち「相関」させるとはどのようなことなのか、具体的にどのような研究であれば「相関」していることになるのか、を考えていくことがこの先にあるように見えます。

 

 4・1・2 社会科学と哲学との相関

 

 本書の根本モチーフは、この第二の相関としての「社会科学と哲学」の相関である。「専門化」時代が進行するにつれて、もともとは分離していなかった哲学と社会科学が、実学としての社会科学と虚学としての哲学として断絶してしまった状況を「ポスト専門化」時代に再統合することが必要になる。それはすなわち「哲学を認識論、倫理学、存在論などの諸側面から成る社会科学のトランスディシプリンとして捉え、その相互浸透的な再統合をめざす」ということを意味する。

 

芝崎注

山脇先生のもっとも核にある主張が、「社会科学と哲学の再統合」なわけです。「専門化」時代の進行とともに社会科学と哲学がいかに分離してしまったか、そしてその状況が現在までいかに続いてきたかという点に関する考察は、本書の1〜3章までで明確にされています。とはいえ、では社会科学と哲学を相関させるとはどういうことなのか、相互浸透的な再統合とはどのような状態をさすのかなどと言った点についての考察はここでも先送りされているようにも見えてしまいます。

 

 4・1・3 社会科学と自然環境・文化・歴史との相関

 

 第三の相関が、社会科学と自然環境・文化・歴史との相関で、これはそれぞれ環境問題の登場、多文化主義やカルチュラル・スタディーズの登場、「歴史認識」の問題(ここではおそらく、「ショアー」や従軍慰安婦問題、ドイツの歴史論争や日本の教科書論争などをさすのであろう)の登場によって説明される。これらの問題は社会科学や哲学に大きな影響を与えるが故に、「ポスト・専門化」時代の社会科学はそれらと「否が応でも相関せざるを得ない」のである。

 

芝崎注

この観点は山脇先生に限らず、様々な形で議論されているところです。これらの現象が、以前は社会科学の対象となりにくかったのが現在では対象となってきている、ということになりましょう

 

4・2 大きな問題群としての自然環境・文化・歴史と社会科学:新しい方法論の提唱

 

 「専門化」時代の社会諸科学で最も基本的な哲学的争点をなすのは、方法論や社会における「全体論」と「個人主義」の問題であった。この問題を「ポスト・専門化」時代の相関社会科学はどう考えるべきか、という点について、自然環境・文化・歴史との相関という観点から考察することで、「全体論」と「個人主義」を超えた地平での社会科学方法論を提唱する。

 

 4・2・1 「全体論的自然考察」と「個人の身体的自然性」

 

 環境問題に代表されるように、自然環境の問題が社会科学において重要となってきている。それはまず、既存の社会科学を新たな研究へと促しているが、同時に「自然と人間」のありかたをめぐる哲学的・倫理的な問題の再考を促す。具体的には、機械論的・要素還元的な自然科学的な「狭い」自然認識を越えて、自然を全体論的に捉えると同時に、その自然の中での人間の位置やかかわりかたに関する考察を要求する。こうした考察は、個人の身体性の問題(脳死、臓器移植)と統合されていかなければならないのである。

 

芝崎注

自然科学的な狭い自然認識が変更を迫らざるを得ないという指摘、また全体論的な自然考察と個人レベルでの身体の自然性の考察は、「自然と人間」のかかわりに関する新たな考察が展開される中で当然一貫して把握されなければならないという指摘、どちらもなるほど、という他ありません。では、「自然と人間」のかかわりがどのように再考されなければならないのか、具体的には自然観や人間観がどう変化するべきなのか、次にはこれらについて考察していく必要があるでしょう。

 

 4・2・2 「文化の多様性」と「対話論的・生成論的な自己−他者了解」

 

 人間は、言語を通した「自己−他者−世界」理解という点で他の生物種とは異なる存在である。そして人間は、そうした言語作用を通したコミュニケーション・慣習・ルール・規範を形成するが、それが人間「文化」の特質である。

 

 人間の文化は、ポジティブな側面とネガティブな側面を持つ。人々を結び付けて協力関係を気づいて秩序を維持すると同時に、多様性や差異にもとづく断絶・敵対を日起こすのである。近年の多文化主義の主張は、まさにそうしたネガティブな面を批判し、多文化共存を目指すものである。こうして、人間の文化については、ポジティブな側面を評価すると同時に、ネガティブな側面を批判していくことで、常に対話を通した新たなコミュニケーション・慣習・ルール・規範を形成しつづけることが必要である。このことは、人間の文化が、ひいては人間の「自己−他者」了解は生態的なものであるべきではなく、対話論的かつ生成論的でなければならないことになる。

 

 4・2・3 「大きな歴史」と「個人の歴史性」

 

 対話論的・生成論的に人間の「自己−他者」了解を遂行しなければならないときに大きな問題となるのが、「歴史」認識である。それは個人レベルでの歴史とそれを規定する「大きな歴史」との関係をどうとらえるかということであり、「進歩」や「発展」といった単線的な歴史観に迎合せず、過去の過ちを繰り返すことなくそれを克服していくような歴史認識が求められているということである。

 

 4・2・4 方法論としての「全体論的・対話論的・生成論的な個人主義」

 

 以上の点から理解できることは、(1)認識論的レベルでは全体論的な思考が不可欠であること、(2)その全体論的な思考は、「自己−他者−世界」了解と結びついた存在論的・倫理学的レベルでは「個人」という存在の代替不可能性と行為の責任という次元を重視するものでなければならない、ということである。したがって、「全体論的な個人主義」というような方法論に立たなければならないのである。

 

 そして、この「全体論的な個人主義」における個人は、(1)ミクロな次元で固有の自然性、文化性、歴史性を持ち、同時に(2)マクロ的な自然、文化、歴史、人倫と関わっている。さらにその個人は、独我論的でモノロジカルではなく、前項で見たように(3)対話論的・生成論的である。

 

 これらを合成すると、「所与としての自然・文化・歴史に規定された各個人が、対話論的コミュニケーションを通して新たな『自己−他者−世界』了解を生み出していくような視座」が必要であり、それを「全体論的・対話論的・生成論的個人主義」と呼ぶのである。

 

芝崎注

本書の核をなす、「全体論的・対話論的・生成論的な個人主義」は、定式化、という理念レベルでは、今後必要なことを足し算して合成し、総合化したという意味では納得のいくものである。もうすこしはっきりさせる必要があると思われるのは、「全体論的個人主義」と、「対話論的・生成論的個人主義」の位相差であるような気がする。また全体「論」と個人「主義」の関係、つまり「論」と「主義」の関係については、「個人」と「全体」に関係とあわせて、竹内啓氏の整理(演習室01)などを参考にしてさらに詰めることが可能であるように見える。

 

4・3 システム・生活世界・公共世界:社会観的基礎概念の吟味

 

 3節と4節(5節以下も同様)は、「全体論的・対話論的・生成論的な個人主義」という方法論に立脚して、社会科学のいくつかの基礎概念を新たに定式化する試みである。

 

 4・3・1 システム論の展開と社会哲学的難点:ルーマンとウォーラースティン

 

 システム論の先駆者としてはベルタランフィーやパーソンズがいるが、それを徹底的に機能主義的な社会システム論として発展させ提示したのはルーマンであり、それを歴史社会学として発展させ提示したのはウォーラースティンである。

 

ルーマンの社会システム論の構図は、自己準拠性を持つシステムが、社会において自己を再生産ないし創出していくことで、相互に何ら階層性が存在しない程度にまで複雑に進化(機能分化)しつつ、社会を構成し秩序付ける、というものである。そして現代の社会理論の課題は、そうした社会の複雑性を以下に軽減するかにかかっている、というものである。

 

このルーマンの議論は、社会的行為をシステムの要素としてのコミュニケーションのネットワークとして機能的に把握するために、規範や倫理の問題について批判を遂行することが出来ないために現状肯定に傾きがちである。個人はシステムの中に埋没し、多様なあ文化の世界も均質化されるのである。

 

ウォーラースティンの世界システム論の構図は、商品連鎖によって経済的に統合されつつも政治的には統合されておらず地域や国家に分化している「近代世界システム」がもたらす貧富の格差の拡大や不正をもたらしており、それに対抗して自由・平等・博愛の実現を目指す「反システム運動」が展開されることになる、というものである。

 

この世界システム論は、ネオ・マルクス主義的な経済重視の立場から、現状を批判し改革する視座を提供するが、その一方で社会における個人の行為や存在は「反システム運動」という局面にだけ採用されているため、結果として個人を過小評価しているという。

 

 4・3・2 生活世界の無規定性と一面的方位付け:シュッツとハーバーマス

 

 いっぽう、システム論とは正反対の個人中心的な社会理論として、シュッツとハーバーマスを検討しておこう。シュッツはフッサール由来の個々の人間主観にとって形成される「生活世界」から社会を捉えようとする徹底した方法論的個人主義を採用したが、「生活世界」概念は社会や政治や経済といった公共的な側面を論じるうえではあいまいに過ぎる。いわばシュッツの議論は生活世界一元論的なのである。

 

 ハーバーマスの批判的社会理論は、生活世界を意識ではなく言語で媒介される(コミュニケーション的行為)ものととらえ、その生活世界が「行政システム」と「貨幣経済システム」によって「植民地化」されている状況を「自立した市民の支配関係なき討議に基づくポジティブな合意形成」によって乗り越えようとするものである。

 

この批判的社会理論は、「討議文化」という近代ヨーロッパ中心主義的な社会観に偏重した点に弱点がある。コミュニケーションは「討議」という形式に還元されてしまうものではないはずで、「もっと根源的な『自己−他者−世界』了解の論理を要求する」のである。

 

 4・3・3 システム・生活世界・公共世界の媒介項としての対話的・公共的個人

 

 個人は、システム論的な把握においては演繹しきれない対話論的・公共的個人であると同時に、生活世界重視の視座、公共世界重視の視座(ハーバーマス)では把握しきれない、「自然的、文化的、歴史的に規定された相互依存的かつ個性的な存在者」なのである。

 

芝崎注

この節の整理は、前著『包括的社会哲学』の考察を引き継いた部分ともいえ、非常に説得力がある。ただし、実際になされていることは「新たな定式化」の一歩手前の段階、すなわち従来の理論の問題点の指摘と、それを改善するための漠然とした方向性の提示である。

もう少し批判的な言い方をするならば、新たな定式としての「全体論的・対話論的・生成論的個人主義」という一種の「ワイルドカード」から見れば、どの理論もどこか足りないという指摘が出てくるのはむしろ当然ではないだろうか。それらの理論の強みを生かして総合する、という方向に議論を動かすと、おそらくもっと違った話になるような印象もある。

 

4・4 理論と実践:「アイデアリスティックなリアリズム」へ向けて

 

 「個人」と「全体」の関係と同様に重要なのが「理論」と「実践」の関係である。本節ではその点について考察する。

 

 4・4・1 「プレ専門化」時代と「専門化」時代の問題状況

 

 「プレ専門化」時代においては、理論と実践は分かちがたいものであった。そのことは、アリストテレス、近代の社会契約説、フランス啓蒙思想、アダム・スミス、カント、ヘルダー、ヘーゲルをみればはっきりする。これらの社会理論は、それぞれが目的とする実践理念と一体のものであり、分離は考えられないものだったのである。

 

しかし、「専門化」時代になると、理論と実践の関係は多様なものとなる。大別すると、(1)理論的・実証的研究だけを社会科学とみなす立場(純粋経済学、ヴェーバー社会学)、(2)理論的・実証的研究を最終的に公共政策ないし社会政策と結びつけようとする立場(デュルケーム社会学、ドイツ歴史学派)、(3)社会変革ない社会批判のために理論的・実証的研究を営もうとする立場(マルクス主義、批判理論)がある。

 

 4・4・2 「アイデアリスティックなリアリズム」宣言

 

 では、「ポスト・専門化」時代において理論と実践はどうあるべきか。簡単に言えばそれは、「社会科学の今日的状況を十分に踏まえつつ」、「プレ・専門化」時代の種々の伝統に立ち返る形で理論の実践の再統合を図るということになる。

 

 その際に必要なのが「アイデアリスティックなリアリズム」、すなわち「理想的社会への希求を放棄することなく、常に『理想の実現可能性をその都度の状況に応じてリアルに熟慮する』」立場である。アイデアリズム(「何をなすべきか」)がリアリズム(「何ができるか」)に還元されてしまうと、現状肯定に陥り、リアリズムがアイデアリズムに還元されてしまうと、単なるユートピア主義になってしまうのである。

 

具体的には、まず「自然環境」という問題群では(1)経済発展と環境保全をめぐる理論的問題と、環境政策の遂行という実践的課題は切り離せない。また環境政策を実行するには、「国境を越えた政策作りと環境に関わる各個人の自覚」も重要となる。

 

次に「文化」の問題群においては、(2)多文化主義やマイノリティの権利などをめぐる理論的問題と、その実現可能性への展望、そして各自の他者理解の深化という課題は不可分に結びつく。

 

第三に「歴史」という問題群では、(3)過去の歴史の反省とそれを可能にする歴史観(理論)、またそれを踏まえた新しい未来社会の実践的創造、および各個人の歴史性の自覚と責任意識が相互に補完しあう必要がある、ということになる。

 

こうして、「アイデアリスティックなリアリズム」という立場にたてば、「社会哲学は単なる思弁やイデオロギーに陥ることなく、相関社会科学の基礎たりうるだろう」ということになる。

 

芝崎注

理論と実践の再統合という主張もまた、筆者の哲学と社会科学の再統合という主張とともに強力なものであるということができる。ただしその際に、「社会科学の今日的状況を十分に踏まえつつ」(4・1・2でも「専門化」時代の社会科学の発展を十分踏まえつつ)と述べている)と述べているが、この「十分に踏まえつつ」を更に掘り下げていくことが次の段階として要請されるように思われる。

次に、「アイデアリスティックなリアリズム」であるが、具体的に「自然環境」「文化」「歴史」において展開されている話はむしろ理論と実践の再統合の姿であって、アイデアリスティックなリアリズムという概念がどのような新たな強みをもって現実の社会科学において効いてくるのか、もうすこし突っ込んだ議論を聞いてみたいところである。

また、理論と実践の「再統合」であるが、「再統合」とは何がどうなることなのかが必ずしも明確では内容に思われる。少なくとも、これが旧来の政治哲学や経済哲学を「復権」させることよりもさらに先の話になるようには見えるのだが。。。また、「自然環境」「文化」「歴史」において展開されているレベルでの理論と実践の再統合は、現実には多くの研究者が直面し、考慮に入れているものであるようにも思われる。

たとえば「十分踏まえつつ」という場合、こうした伏勢して存在してきたであろう社会科学における健全な思考をどうすくい取るか、ということも課題となるだろう。その観点から見て、「専門化」の圧力の中でも相関社会科学的な思考を発展させてきた人々の系譜を明らかにすることは、「専門化」時代以前の相関社会科学的な学問形態を呼び起こすことと同様に重要であろう。こうして、「再統合」を方法論的な自覚として明確化することが何をどのように変えるのか、それが問題となるように思われる。

 

【コメント】

 

 山脇先生が提示している問題は、哲学の側からの問題提起なわけですが、この問題提起は社会科学の側からのレスポンスがあって初めて生かされるものだと思います。哲学研究者は社会科学研究を行わず、社会科学研究者は哲学研究を行わない現状では、そうした橋渡しが必要でしょう。というのも、本書の議論が哲学の分野からの発言であるが故に社会科学研究者に読まれない可能性があり、さらには読んだとしてもそれを十分理解できない可能性すらあるためです。社会科学と哲学の分断状況はそれほど深刻だとみることもできます。

 

 本書の理念レベル、それも規制理念的な新たな定式(「全体論的・対話論的・生成論的個人主義」、「アイデアリスティックなリアリズム」、「再統合」など)は、当然そのまま具体的な社会科学研究にあてはめることのできるようなツールではありません。だからといって使えないと思うのも総計でしょう。ある意味で、社会科学研究者ばかりではなく、山脇先生もまた「分断」の「被害者」であり、山脇先生と我々がその「分断」を埋めていかなければならないのです。山脇先生がさしのべて来た手に、どうこたえていくか、これが社会科学研究者に課せられた宿題なわけです。

 

 そのためには、本書の議論を社会科学の側から、実践的な社会科学論としてどう引き受けていくのか、という考察を進めていくべきでしょうし、同時に、個別具体的な研究において、新しい社会科学研究を打ち出していかなければならないと思います。

 

とりわけ重要なのは、具体的な研究成果の提示、それが新たなモデルとなるような研究を提出することだと思います。哲学の側も社会科学の側も、具体的な学問的実践において双方が変わっていくことがもっとも重要ではないでしょうか。

 

とはいえ、社会科学研究者が哲学し、哲学研究者が社会科学するという状況がまずは進まないことには、そうした研究成果はおろか、新しい学問の方向性は見えてこないでしょう。おそらく現在においては、そうする必要性すら閑却されつつあるわけで、山脇先生の議論はそういう状況へ活を入れるという意味でも意義深いと思います。

 

(芝崎厚士)

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