演習室07 思考のフロンティア01 権力

Seminar07 Frontier of contemporary thought 01: Power

12/12/00 第1稿(はしがき、第T部まで)

 

【テクスト】

 

杉田敦『権力』岩波書店、2000年。

 

【目次】

 

 

【内容】

 

はしがき

 

 権力を論じる際には一種の胡散臭さが付きまとうが、「国民主権」のもとにある我々はみな権力者なのである。権力を捉えるための対立軸は色々あるが、本書はそのどれかに依拠するのではなく、権力の多義性(ambivalence)を出発点として、その多義的な様相を把握することを目的とする。

 

T 権力はどう語られてきたか

 

 権力は「主体間関係」、誰かが誰かに対して権力を振るっている、というふうに捕らえられることが多い。しかしそこには様々な問題点がある。本章では、主体間関係としての権力観の問題点と、主体観関係としての権力観が根強い理由について考察する。

 

 1 3つの権力観

 

 ルークスによると、権力観には(1)一次元的、(2)二次元的、(3)三次元的なものがある。(1)は1950年代にダールが示した、「ABに対して、さもなければBがしないような何かをさせるかぎりにおいて、ABに対して権力を有する」というものである。この考え方は、両主体の意図が明確であることを前提としているが、それは「観察可能な行動のレヴェルで政治を論じたいという」、行動主義に対応したものであった。(2)はバクラックとバラッツによる「問題として露見すること自体がAにとって不都合であるような争点については、事前にAが握りつぶしてしまうという種類の権力(決定回避権力)」をさしている。これは「もうすこし隠微な権力のあり方」を示したという意味でも、行動主義批判でもあったが、両主体の意図の明確性はここでも前提されている。

 

 ルークスが提出した(3)は、「Aにとって都合が悪い考え方をBがしないように、ABを洗脳してしまう権力」、いわば「紛争そのものを消失させてしまうような権力」である。この議論は、Bが明確な意図をもつ存在とはみなされないがゆえに、主体間関係としての権力観をはみでているが、Aの方は依然としてそのような存在でありつづけるばかりか、そのちいはさらに強化されている。こうしたルークスの思考は、マルクス主義における古典的な虚偽意識論の系譜に立つものである。

 

 2 主権と主体

 

 主体間関係としての権力観はこのように根強いが、その淵源には主権論がある。それは、「すべての権力の源泉として主権という特権的なものを想定する考え方」で、「色々なレヴェルで決定が行われるが、それらのすべてをくつがえしても最終的な決定を行いうる」ものを主権と呼ぶ。

 

 主権論は神学に触発されつつ展開してきた。カール・シュミットが、教会的秩序における無過失性と国家的秩序における主権とは本質的に同じであると述べているように、「特別の権力主体を想定する議論は、究極的には、失われた神の概念を継承するものと言えるかもしれない」。

 

 こうした主権論へ対抗する動きとしては、伝統的な自由主義者のように権力中心の複数性を制度的に保証する(法学的な権力理解に根ざした)ものもある(トクヴィル、ジュヴネルなど)。一方で、複数の中心は制度化されるとは限らず、移りかわる(社会学的な権力理解に根ざした)ととらえる多元主義者(ダールなど)もいる。

 

 世俗化が進展する結果、主権論は王権神授説から脱却してホッブス的な契約論と結びつくようになる。「本来は平等であった主体が自らの主体性を進んで放棄し、中心Aを固定化することではじめて安心できる状態が生まれる」のである。いわば人工の神(deus ex machina)として、王の命令=権力という状態が現出する。

 

 こうした王的な権力の特徴は、フーコーによると、公開処刑やパレードに象徴される。それは、(1)「視線を集める権力は、後述する規律権力と比べると、一般の人々に対して余り直接的にはたらきかけるものではなかった」、(2)「王と重罪犯が陽画と陰画の関係にあるということは、両者は同形ということでもある」。つまり王的な権力とは、「権力というものが事実上の力関係に依存していることを、誰の目にも見え易くしてしまう傾向を持ち、その意味では本来的に脆弱性を帯びている」のである。

 フランス革命以降王権が打倒され人民主権状態が成立すると、こんどは監獄に見られるように、「主権者が自らを主権者に改造する」という状態が生まれる。これは、ルソーも述べているように「人民は理念的には理性的であるが、現実的には理性的でない」故に、「現実に存在する人々を『主体化』(主体形成)する必要性が生じてくる」。その結果として、「人民は自らが権力を行使することに論理的に先立つ形で、自らに権力を及ぼされることになる」。この、「人が権力の主体となることが同時に権力の客体となることである」ことを、フーコーは「臣下=主体化(assujettissement)」と呼ぶ。

 

 主体形成権力は、国民国家時代には「国民化」の権力として現れる。法学的な説明では、こうした権力は「立法主体としての主権者を作り出すため」に行使されるということになる。しかし現実には、「多数の人間が共存しているという条件の下で、人間の『群れ』を管理するテクノロジーが利用された」という文脈を理解する必要がある。つまり「多くの人間が共存して行くためには、一定の行動パターンを共有していることが必要であるとされ、そうした身体のふるまい方が教え込まれて行く」。

 

 こうした理解は、主体化権力をある特定の集団の陰謀と見なすことからは距離を置くことになるという。「主体化権力とは、必ずしもある特定の個人や集団の意図に還元できるものではないし、権力を及ぼされている側も、一方的に権力を行使されているわけではなく、この権力は人に力を与える面と人から力を奪う面との二面性を持っている」のである。

 

 3 意図とは何か

 

 主体間権力論のもうひとつの問題点として、主体Aが確固とした意図をもつと前提することが問題となる。「Aの意図については、つねにBによる解釈の可能性が残り、したがって誤解の可能性もある」。これは、「人間という主体の『原型』である神の真意について、それを人間が知りうるかという神学的な問題」が人間同士のレベルにも下降してきているのである。

 

 向きを変えると「Aがはっきりを意図を持っている」ということ自体をかんたんに前提できないことにも気づかざるを得ない。「たいていの人は、なりゆきの中で瞬間的に反応している」のである。さらに、「誰がどんな意図を持っていようと、それがそのまま実現することなどありえない」し、「出来事がつねに誰か特定の主体の意図によって引き起こされる」と言い切ることは困難なのである。

 

 4 責任について

 

 こう考えてみると、主体間関係としての権力観、そしてそれが前提とする明確な意図をもった主体の存在、という前提にはさまざまな無理な点があるが、それでもこうした権力観が根強いのには理由がある。

 

 それは、「社会的な事象について、それを意図を持って実現した主体を探し当てたいという欲求」である。神がいた時代は、容易に人間的な主体を特定できない場合は、神にすべてを帰することが可能であったが、神が死んで以降は、「宗教から切り離された形で道徳を維持しなければならない」わけで、その際には、「ある主体の意図にもとづいてある事象が生じたと考えることで、道徳的な動機付けを維持しようとした」のではないかと杉田氏は考える。主体を特定する可能性を否定してしまうと、無責任な言い逃れがはびこって、社会は自然状態になりかねないのである。

 

 とはいえ、かんたんには主体が特定できない。責任の擦り付け合いが起こったり、権力をもっていれば責任を回避する可能性も高くなるし、個人に原因をおしつけると構造的な要因が隠蔽されてしまうが、かといって構造のせいにすると個人を処罰することが困難になる、など。こうした問題は、いわゆる戦争責任の問題にも厳しい形であらわれている。

 

 こうして、責任を問うことは、道徳意識の維持のためには必要かもしれないが、誰にどの程度責任を還元するのかはきわめて困難な問題なのである。

 

(以下続く)

 

 

芝崎 厚士

 

 

 

 

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