演習室04 翻訳と日本の近代

Seminar01 Translation and modern Japan

07/16/2000 第1稿

 

【テクスト】

 

丸山眞男・加藤周一『翻訳と日本の近代』岩波新書、1998年。

 

【目次】

 

イントロダクション

内容

T 翻訳文化の到来

U 何を、どう、翻訳したか

V 「万国公法」をめぐって

W 社会・文化に与えた影響

コメント

 

【本編】

 

イントロダクション

 

 本書は翻訳論であると同時に近代日本論であり、また近代論でもあります。それは「翻訳」という行為が近代において持つ政治的な性格がそうさせると同時に、丸山&加藤両氏がそのことに極めて鋭敏な感覚を持っているためだと言えるでしょう。ということで、本書を選んだ理由は、「翻訳」というものが持つ日本的な文脈を理解することと同時に、日本の「近代」の典型的な理解を確認しておくことができるからということにさしあたりなるでしょう。

 

内容

 

T 翻訳文化の到来

 

 本章の内容は以下のとおりです。

 

01 時代状況を考える

02 日本にとって幸運な状況

03 攘夷論の劇的な転換

04 近代軍隊とテクノクラートの出現

05 幕藩制国家と領土意識

06 江戸時代の翻訳論

07 外国語としての中国語を意識する

08 比較の視点

09 徂徠から本居宣長へ

10 なぜ翻訳主義をとったか

11 翻訳とラディカリズム

12 『訳書読法』について

 

 では、各節毎に簡単に要約してからまとめましょう。

 

1 時代状況を考える

 

(1)翻訳の背景、(2)翻訳の対象とその理由、(3)翻訳主義をとった理由、(4)翻訳の手法、(5)翻訳主義の功罪、以上について考察したい。中国と西洋を比較すると、前者は情報が多く人は来ないのに比べて、後者は人は来たが情報はなかった。こうして、西洋に直面した日本は慌てて情報収集を開始することになる。

 

2 日本にとって幸運な状況

 

明治維新から1904年ごろまでの間に、日本は近代化を達成することができ、植民地状況に陥るのを免れることができた。その理由は、日本の対応がすばやかったことと同時に、普仏戦争、クリミア戦争、南北戦争などに西洋諸国が忙殺されていたためである。そして、前者のすばやい対応の一つとして、翻訳という活動が行われた。

 

3 攘夷論の劇的な転換

 

薩摩や長州といった、攘夷論の急先鋒勢力は、西洋との軍事的衝突に惨敗した結果、すぐさま攘夷論を捨て、西洋に留学生を送り込み、西洋に学ぼうとした。こうした身代わりの早さが、日本を西洋の軍事占領から免れることに寄与した。

 

4 近代軍隊とテクノクラートの出現

 

 支配階級である侍は、同時に軍事担当者であった。それゆえに、西洋諸国の登場を軍事的脅威として受け取ることが可能であり、迅速に対応することができた。ただし軍隊を中心とした技術官僚主導の欧化に対して、イデオロギーを交換可能と考えない下級武士たちの間には不満も残り、その不満は西南戦争や士族民権論となって現れた。

 

5 幕藩制国家と領土意識

 

中国においては「礼」の問題が土地の問題以上に重要であったが、日本においては藩を単位とした近代国家的な領土意識がすでに定着しており、それゆえに廃藩置県などによる近代的な領土再編成も容易であった。

 

6 江戸時代の翻訳論

 

 荻生徂徠は原典主義を取ると同時に、比較の視点を導入した。つまり、返り点を付けて読むことで、中国人以上に文章の構造を理解できる面があるというのである。それは、福沢諭吉が「一身二生」という形で自分の問題に経験をもつことを有利であるとみなしていったアプローチと共通する面がある。

 

7 外国語としての中国語を意識する

 

 徂徠の場合、日本語は数多くある言語の中のひとつに過ぎない、という多言語的な世界観の萌芽といえる考え方が見受けられる。その要因としては、蕃書の禁が解かれて以降、蘭学が生まれつつあり、オランダ語の存在を知るようになったということもあげられるであろう。

 

8 比較の視点

 

 徂徠的な比較の視点は、比較文法論を構想する伊藤東涯や比較文化史を実践した新井白石の中にも見受けられる。そうした多文化世界に対する気づきは、江戸初期の最高レベルの知識人に共通して見られるのかもしれない。

 

9 徂徠から本居宣長へ

 

 オリジナリティのある思想は、異文化の異質性を自覚し、それを完璧に理解しようとしたときに初めて登場する。こうした発想は明治初期と徂徠に共通する視点である。そのいっぽう、徂徠の方法論は「今言をもって古言を解す」ことを排した宣長に大きな影響を与えている。

 

10 なぜ翻訳主義をとったか

 

 森有礼の英語国語論に対抗して、馬場辰猪は英語を国語とすることに反対した。その根拠は、英語国語化は上流階級と下流階級の言語を全く異なるものにし、国家は脆弱化するであろうと論じた。国民は同じ言葉を話し、同じ言葉で考えなければならないという発想がその根本にはある。

 

11 翻訳とラディカリズム

 

 スペンサーの『社会静態学』は、『平権論』という題名で翻訳されることで、それほど過激な内容ではないはずにもかかわらず、自由民権運動の聖典となっていった。このことに現れているように、翻訳で読むとよりラディカルな理解を生むのではないか、というのが安岡章太郎の説である。

 

12 『訳書読法』について

 

 矢野文雄が翻訳書の読み方を講義した書によれば、明治一六年ごろにすでに翻訳文化の時代が到来している。明治時代には原文で読まざるを得なかったのではないかという通説的前提は必ずしも妥当しないことがわかる。そして矢野は、「精解の法」「疎達の法」を併用すること、「連結」の法を用いることなどを提唱している。

 

***************

 

おおよその内容を分割しますと、第一に、1〜5が近代日本における「翻訳」の登場の前提となる時代背景の説明にあたります。第二に、6〜9が近代以前の日本における「翻訳」的発想・方法の前期的な萌芽を徂徠や宣長に見る部分。そして第三に、10〜12でようやく本題に入っています。

 

第一の部分は、知っている人にとっては当然のお話ではありますが、丸山・加藤世代以降の典型的な近代理解ということができると思います。あえて付け加えるとすれば、日本が近代化を達成して植民地化を逃れることができた理由としては、(1)すばやい対応、(2)西洋が忙しかった、のほかに、近代化のスピードそのものがそれ以降に比べて遅かった、ということもあげていいのかな、と思います。東南アジアやアフリカが20世紀後半以降に経験している近代化の速度に比べると、はるかにゆったりしたものだった思われます(もちろん、日本以前の西洋の近代化過程はもっとゆっくりしていたでしょう)。この要因は、日本が翻訳主義をとることを可能にしたともいことができるでしょう。

 

 第二の部分は、丸山的な発想、近世に近代の萌芽を見るというお話で大変興味深いところです。いろいろ考えることが出来ますが、ここでは、丸山・加藤両氏とも、ではなぜ徂徠や宣長、あるいは東涯にそうした多文化・多言語的世界観が備わったのか十分に説明できていないという点を指摘しておきましょう。

 

 第三の部分では、馬場対森の、英語公用語化反対・賛成論の論議における馬場の議論がそのまま、日本における翻訳主義が成立した理由としてふれられています。しかし、丸山・加藤両氏ともに、その理由について自分のオリジナルな見解を述べているわけではありません。ここがやや残念。というのも、ここでの馬場の議論を援用するだけでは、理由の説明にはならないからです。なぜなら、馬場と森は英語と日本語のどちらかを選択することをかなり自由に考えているのですが、実際に翻訳が選ばれていったのは森の意見が負けて馬場の意見が勝ったからではないためです。彼らの議論は「べき」論であって、現実の過程が彼らの意見に従って進んだからではないはずです。12の矢野文雄の『訳書読法』の序は、そのことを序実に示しています。

 

U 何を、どう、翻訳したか

 

 本章と次章は、やや各論的です。まず、小見出しごとに要約してみましょう。

 

13 なぜ歴史書の翻訳が多いのか

14 歴史を重んずるのは日本的儒教だからか

15 愛読された史書

16 道徳の体系となった過程

17 「仁」から「仁・義・礼・智・信」へ

18 論理用語とその語法

19 「個人」と「人民」

20 「もし」と因果論

21 「論理」をつきつめる姿勢

22 造語をめぐって

23訳語の問題性

24 ラテン語・ギリシャ語の知識はあったか

 

13 なぜ歴史書の翻訳が多いのか

 

 単なる実用主義的関心からでは説明し切れないのが、ギゾーやバックルといった歴史書に対する関心である。これはおそらく、中国モデルに対する日本側の学習の型である、文明理解の方法としての歴史理解という手法が反映されたものであろう。中国に対する関心の衰退と卑俗な現代主義や実用主義の隆盛とは関係がある。

 

14 歴史を重んずるのは日本的儒教だからか

 

 歴史重視の姿勢は、儒教的世界の伝統でもあると同時に、歴史を通じて妥当する聖典である経書の理解が中国文明理解の鍵であると見なす日本的なものの見方があったためであろう。日本では歴史に、中国では永遠なるものに対する関心が強く、その点両者は相違しているとも言える。

 

15 愛読された史書

 

 中国においては、昔から大量の史書が編纂され、日本でもそれらは幅広く読まれてきた。しかし、中国においてそうした史書は、事実そのものに価値を見出していると言うよりは、事実を通して永遠の規範を明らかにすることに重点があった。

 

16 道徳の体系となった過程

 

 儒教が教訓的になったのは孟子以降であり、徂徠はその意味で孟子以下を認めようとしなかった。しかし徂徠にも政治の倫理という教訓性はある。そうした儒教に対するスタンスの相違は「異端」をめぐる解釈に如実に表れている。

 

17 「仁」から「仁・義・礼・智・信」へ

 

 儒教の国教化、および科挙制度の試験科目化によって、儒教の道徳体系化は進行する。孔子時代には「仁」のみが主張されていたのが、後に「義」が、さらに「信」が加わり、最終的には五常となった。こうした過程は、論争のために孔子の教えを相対化するものであるとして、徂徠や東涯によって批判される点である。

 

18 論理用語とその語法

 

 (1)原因論的な関係をどう訳したか、(2)相互排他的でないような分類をどう処理したか、(3)一般化や数の表し方はどうであったか、以上のことが翻訳の問題を考えるときに重要な論点となるだろう。

 

19 「個人」と「人民」

 

 集合的な概念としての人民と、個々人との区別が曖昧であることが、日本において権利の問題を考えるときに重要である。日本で人権よりも平等の方が強く定着しているのは、自由と切り離された平等と、人権から切り離された民権とがばらばらにむすびついてしまった(自由−人権、平等−民権)ことにも原因がある。

 

20 「もし」と因果論

 

 排中律的な二者択一論は新井白石に、「必然」という用語は西周に、原因・結果は福沢諭吉に、causal chains的発想は富永仲基に、それぞれ起原を求められる。

 

21 「論理」をつきつめる姿勢

 

 徂徠や宣長に見られる公私の区別とは、領域の区別であって価値の区別ではない、というものであった。徂徠の弟子である太宰春台になると、規範を徹底的に外面化するようになる。こうした「物理」と「道理」を区別する厳密な論理性は、日本ではあまり受けは良くないが、西周に継承されていくと思われる。

 

22 造語をめぐって

 

 「自由」「民権」、各種の法律用語、「演説」「討論」などの造語には、(1)既製の漢字の意味を変えずに組み合わせて使えるもの、(2)以前からある漢語の意味を変えて使う、(3)全く新たに作り出すもの、以上の3種類がある。

 

23 訳語の問題性

 

 朱子学の「格物窮理」という伝統的な概念は、物理学や哲学を翻訳するときに利用された。また、「天地の公道」などと言うときの「道」概念にも、そうした伝統的な用語法が見られる。

 

24 ラテン語・ギリシャ語の知識はあったか

 

 抽象語を訳すときに問題となるのは、いわゆる古典語それ自体をどの程度知っているかという問題である。おそらくそれほど体系的な知識はなく、本の中の記述から述語に関してのみ身に付けていたと思われる。

 

***************

 

 まず、13〜17の前半部では、歴史書が大量に翻訳された理由を考えながら、中国と日本における儒教のあり方の違い(この点については渡辺浩『近世日本と宋学』東京大学出版会、をご参照ください)へと話が及んでいきます(悪く言えば「脱線」(笑))。そして18〜24の後半部では、明治時代の翻訳の各論的なポイントについて指摘があります。

 

 前半部で面白いのが、中国理解の手法として歴史主義が想定され、中国への関心が衰退すると同時に現代主義や実用主義がはびこる、という指摘です。これは、中国理解の方法としての歴史重視が西洋理解に応用されたという話がさらに拡張された論点です。これらの指摘がどこまで妥当なのか、私には良くわかりませんが(第4章では翻訳は軍事関係が多く、2位が歴史であったということも考え合わせると、丸山・加藤氏がたまたま多く翻訳の存在を知っているのがこの分野だったのでは?と言う疑問もあります)、中国と歴史理解の手法との関係というのは、ユニークな視点だと思います。

 

 また後半では、日本人は「道理」と「物理」の区別をするのがへたくそだという、いかにも彼ららしい指摘です。意地悪な言い方をすれば、区別をしなくてはいけない、という見解自体が「道理」として受け取られてしまう可能性もあるわけで、それはそれで戦後民主主義的な啓蒙が持つ特徴を明らかにしてしまうのかもしれませんね。で、現在は、依然として区別が出来ない人々、「物理」しかわからないで道理を知らない人々、などなどいろんな人がいるようです。

 

V 「万国公法」をめぐって

 

さて、本章も引き続き各論です。

25 幕末の大ベストセラー

26 英語・中国語・日本語を対照する

27 伝統的な言葉をどう訳したか

28 法意識の問題

29 「国体」という言葉

30 訳せなかったもの

 

25 幕末の大ベストセラー

 

 ホイートンの『万国公法』は、中国語訳がまずでき、さらに中国語訳から日本語訳が生まれた。その意味で、初期の翻訳に関する諸問題が数多く含まれており興味深い。例えば、国際私法の項目が日本語訳では欠如していること、そして中国語訳が国際私法を含めて「万国公法」とまとめていること、など。

 

26 英語・中国語・日本語を対照する

 

 「動物」「植物」「虧空放釈」「負欠者」「成就」などの訳語についての三ヶ国語の観点からの考察。

 

27 伝統的な言葉をどう訳したか

 

 「君主」「欽差」「明示」「黙示」「社会」などに対する考察。All civilized nationsを「耶蘇同宗の国」と訳しているが、そこには、国際法の普遍性批判という、大きな含意が潜む可能性がある。

 

28 法意識の問題

 

 未開と文明という問題でいえば、国際法を文化の違う地域を含めてグローバルに広げてしまったということは大きな問題である。それは、日本において裁判を好まない、法律と倫理を混同するという傾向とも関連する。

 

29 「国体」という言葉

 

 「国体」に関しては、日本語では「主権者の尊厳」「主権者への臣下の忠誠」に対する訳語として、中国語では「国家の基本構造」の訳語として言及がある。中国語のこうした視点は幕末以前の日本、そして美濃部達吉の天皇機関説的なものの見方と共通する。

 

30 訳せなかったもの

 

 「海賊」「黒人の売買」といった項目については、意味がわからなかったのか大事だとは思わなかったのか、上手に訳せていないか翻訳できていない。そうした訳せないことの意味、何が大事だと思っていたかということを考察することは興味深い。

 

***************

 

 ここでは、ホイートンの『万国公法』を肴にして議論が進められています。それ自体非常に面白いですが、論点として取り上げるという意味では次の二点に注目しておくことにします。

 

 第一に、"All civilized nations"を「文明国」と訳すという感覚についてです。これは、国際法の普遍性批判みたいな視点が翻訳という作業によって逆に見えてきてしまうこと、つまり「一身二生」であることをアドバンテージとしてしまうという感覚を良く示しているようです。

 

 第二に、最近かまびすしく議論が行われている「国体」という言葉ですね。要約部分でまとめたように、日本では訳語に「道理」が入り込むが中国語にはそれはなく、日本でもそういう時期があった(美濃部など)という話があります。これは近代日本の地の形成過程を考えていくうえできわめて重要な指摘だといえます。

 

 ついでに言えば、この「物理」と「道理」の区別および混同はどこまで日本的な問題なのか、比較の視点を持って考えていくとは極めて面白いのではないかと思います。それだけで十分、修論や博論のテーマ足り得るでしょう。どなたかそういう文献をご存知のかた、ぜひご教示ください。

 

W 社会・文化に与えた影響

 

 さて、では最後に行きましょう。

 

31 何が翻訳されたか

32 化学への関心はなぜか

33 進化論の受容

34 世界観にどう関わったか

35 福沢諭吉の科学観

36 知識人に影響を与えた翻訳書

37 原書の質の問題

38 後進国の早熟性

39 明治政府の関わり方

40 文明開化−民心と政府

 

31 何が翻訳されたか

 

 軍事関係、兵法を筆頭として、次に化学、その他の自然科学、さらに法律や制度・歴史、最後に文学や芸術が翻訳された。文学や美術は一種の技術の問題して扱われていた側面もある。

 

32 化学への関心はなぜか

 

 染料、火薬、肥料の作成には欠かせなかったということ、朱子学的世界観に衝撃を与えたこと、実験による証明という方法が新鮮であったということなどが挙げられる。

 

33 進化論の受容

 

 進歩は18世紀の思想、進化は19世紀後半以降の思想。適者生存・自然淘汰の思想は明治10年以降入ってきたが、日本では強者の側、中国では弱者の側に立ってそれを理解してきた傾向がある。

 

34 世界観にどう関わったか

 

  中国において進化論は、『天演論』に代表されるようなコペルニクス的転回を引き起こした。しかし日本では、科学的思考が客観性を獲得するよりはむしろ、イデオロギーと結びつきやすい傾向があった。それはいわば、存在の法則と道理とを混同しやすい、伝統に根ざす傾向だと言えるだろう。

 

35 福沢諭吉の科学観

 

 主観と客観を完全に対立させて、あらゆる意味や価値を剥奪するような伝統は日本にはない。福沢は、人間と自然の峻別に基づいた虚学と実学を構想し、科学と技術を明確に区別した上で実験を重視した一種の相対主義的思考を持っていた。

 

36 知識人に影響を与えた翻訳書

 

 トクヴィルが社会概念としてデモクラシーを自然科学的に冷静な観察眼を持って分析したこと、バジョットの隠蔽された共和制論、ミルの個人主義的自由主義などをあげることができる。

 

37 原書の質の問題

 

 第一級の作品と、通俗的、または二流の書物が同時に、大量に翻訳されており、内容のレベルを問わず大きな影響を与えた。

 

38 後進国の早熟性

 

 近代化の進展の伴う様々な社会問題に関する考察を、自らの国家が近代化する途上で、翻訳書を通して受容することができたため、事前に予防策を講じることができた面がある。

 

39 明治政府の関わり方

 

 政府は、ジャンルを問わず様々な種類の翻訳書を大量に翻訳させた。そのなかには、政府の体制にとって都合よいものも含まれていたが、中江兆民のように反政府の側に立つ人間に翻訳を依頼するような懐の広さもあった。

 

40 文明開化−民心と政府

 

 明治初期においては、文明開化のインパクトは全国的に普及していた。平田派国学者が役割を失って全国で啓蒙運動を行ったりもしていた。朝野の別は今から考えるほどははっきりしておらず、もっと混沌とした関係であった。欧化と日本らしさの兼ね合いがもっとも問題となるのは、政治・経済や倫理の領域であり、翻訳はそうした問題のありようを鮮やかに活写している。

 

***************

 

 31,32あたりは翻訳されたものの分類の話です。32〜35は進化論をベースとした世界観の問題。ちなみに34で触れられている厳復については、石田論文のほかにベンジャミン・シュウォルツ『中国の近代化と知識人』(東京大学出版会、1978年)という傑作がありますのでぜひご参照ください。35の福沢の科学観ですが、これは今の私から見ると誉めすぎ、というか、特に社会科学的な思考という観点からするとややリニアに過ぎる福沢理解ではないかと思います。

 

おそらくそのあたりが、坂野潤治『思想の実像』でも垣間見られるような、翻訳でもいろいろと読んだであろう、また、自分の著作で原著を日本語にパラフレーズする過程で「翻訳」を読むことによってラディカルに科学を理解した福沢の現実と科学的思考との格闘の面白さなのではないかなと思う次第です。

 

36、37は、ある意味では重要でありながらあまり確認されていない論点。38は国家の立場から書かれていますが、これは同時に在野の人々や反体制の人々のにも言えることでしょう。そして語彙が先行して実体が希薄となりがちな日本、といったような形で日本批判する場合の根拠ともなるのかもしれません。

 

39、政府がホッブスやバークを訳させて、植木枝盛が激怒するなんて話は実に面白いです。40では平田派国学者が文明の啓蒙の使者となるという皮肉な話がまた面白いところです。

 

コメント

 

 すでにかなり長くなっているので、簡単にしたいと思います。

 

 まず、翻訳主義という行為は近代化一般においてはむしろ特殊だったということですね。特に植民地支配の圧力が強いところでは翻訳主義は不可能に近かったでしょう(たとえばベネディクト・アンダーソン『言葉と力』日本エディタースクール出版部、特に第7章。ただしこの日本語訳はお勧めできません)。そういう意味で、冒頭における時代背景の分析をどういうふうにとらえていくかが問題となるでしょう。

 

 次に、いろいろと重要な問題は提起されているけれど十分に論じ尽くされてはいない、ということも指摘しておくべきでしょう。(1)日本が翻訳主義をとった理由(およびその後の翻訳主義と原典主義との関係)、(2)近世日本の徂徠や白石が多文化・多言語状況を踏まえた比較という視点を打ち出せた理由、(3)歴史重視と中国(理解)との関係など。このあたり、後日「補遺」として、加藤周一氏の論文の解題を付け足すときに考えてみましょう。

 

 最後に、翻訳で読むか原書で読むか、どう翻訳するか(パラフレーズするか)というのは今でも研究者を悩ませるところであることにもふれておきましょう。すべての言語に通暁することは出来ない以上、なんらかの形で翻訳という行為に依存せざるを得ないわけですが、まったく考えさせられるところです。はっきりしているのは、翻訳という行為を介在させることによって、確かに「一身二生」的なアドバンテージを教授できているということです。とはいえこれは、言葉が話せるかどうかということではなくて、徂徠は薬石のような問題意識を持って分析的に比較する力があるかどうかということが決め手になるようで、現在はむしろ語学はできるようになってきても、かえってそういう力が落ちているのかもしれませんね。

 

違和感、というか摩擦係数が大きければ大きいほど、考える人はそれだけ考えるでしょうが、バイリンガルやトリリンガルになったとしても、言語Aの世界から言語Bの世界へとただ自分をまるまる投げ込んでしまうような形であるならば、そうした語学習得者は翻訳という行為が持つアドバンテージに無自覚になるように思います。

 

ともかく、近代の特に非西洋世界において「翻訳」という行為は極めて政治的であり、また、政治的でしかありえなかった側面があること、そしてそこに展開された様々なドラマが、近代日本という研究対象を面白くしているということだけは間違いないようです。丸山眞男と加藤周一という、戦後民主主義の神様的存在が何気なく話していることからは、汲めども尽きぬインプリケーションが得られると思います。

 

(芝崎厚士)

 

 

 

 

Home 演習室へ戻る