演習室03 政治学と「近代」・「脱近代」

Seminar03 'modern' and 'post-modern' in political science

06/23/2000 第1稿、07/23/2000 補綴 05/20/2006補綴2版

 

【テクスト】

 

杉田敦「政治における『近代』と『脱近代』」杉田敦『権力の系譜学−フーコー以後の政治理論に向けて』岩波書店、1998年、1−46ページ。

 

【目次】

 

≪イントロダクション≫

≪一 近代の風景≫

≪ニ 近代の政治≫

≪三 脱近代の構図≫

≪コメント≫

 

【内容】

 

≪イントロダクション≫

 

 

(2000年6月記)

 

 さて、政治学です。政治学のテクスト選定には、いつも困ってしまいます。というのは、日本では、狭義の政治学(端的には、法学部政治学科の専攻科目)のテクストと、広義の政治学(あらゆる人文・社会科学が取り扱うという意味での)のテクストとの間に大きな断絶があるように思われるからです。しかも、狭義の政治学と広義の政治学とを架橋するような形で、政治学を構想しようとする試みがあまりなかったような気がします。

 

 杉田さんは、狭義の政治学で学問形成をされた方だと推察しますが、そうした架橋をもっとも建設的な形で試みている研究者の一人と思われます。特に本論文は、扱う議論の包括性、論点を煮詰める手際のよさ、どちらをとっても大変よくできた作品です。本論文は上掲書の第1章(初出1993年)ですが、特に第2章のフーコー論(初出1989年)と併せて読まれると、内容がつかみやすいのではと思います。

 

≪一 近代の風景≫

 

 ここは、以下の3節に分かれています。内容としては、近代とはどういう時代であったのかを概観している部分です。

 

 1 監視と処罰

 2 身体の改造

 3 消費機械

 

1 監視と処罰

 

 ここでは2点に言及しています。第1に、チャップリンの『モダン・タイムス』が象徴する、人間が機械に使われてしまう状況が出現したのが近代ですが、こうした工場と監獄は、ある共通点を持っています。それは、

 

(1)いずれも人を閉じ込める所である

 

(2)内部における活動を阻害するような外部からの影響を排除することで、目的(工場においては労働、監獄においては労働の習慣をつけさせること)を効率よく達成しようとする

 

という点です。後に触れるとおり、これらの特徴は監獄や工場だけではなく、学校や投票所をはじめとする近代的な施設に共通しています。

 

 第2に、フーコーの『監獄の誕生』に依拠しつつ、こうした近代的な施設の誕生が、権力の性質の転換を示しているといます。

 

 その変化とは、

 

(1)可視的であるのが権力者から受刑者に代わったことが示すように、権力は自らをできる限り誇示するかわりに、できる限り目立たない存在へと変化した

 

(2)受刑者の身体を破壊するという公開処刑から受刑者の身体の改造を目的とする監獄制度への転換に現れているように、権力の目的は国民を「死なせる」ことから国民を「生かす」(働かせる)ことへ変化した

 

という2点です。

 

2 身体の改造

 

 次の個所は3つに分かれています。第1に、武智鉄二『伝統と断絶』に依拠しつつ、明治日本において体操や唱歌教育が推進されたのは、一定の拍子に合わせて整然と行動する、近代的な軍隊や工場労働に適した身体を作り出す必要があったためでした。

 

 この指摘は、日本人が集団主義的な行動を得意とする、というような「伝統」は、そもそも近代以降「創出」されたに過ぎないのではないか、という論点につながっていきます。さらにいえば、その「伝統」は個別性であるよりも近代人にとって普遍的な特徴でさえあるのではないか、という議論ができます。

 

 第2に、「空間・時間、及び人間の身体の徹底した管理」こそが、近代以降に登場した施設に共通する原則であるということです。

 

 これは、

 

(1)内燃機関の改良に端を発する産業革命に伴って、無限な動力にもとづいた限度のない生産が可能となった。その結果、人間が機械に合わせて労働するようになり、正確な作業を絶えず続ける機械の一部として人間を捉えて管理する必要がでてきた

 

(2)機械式時計の普及によって、時間を管理することがいっそう容易になった

 

といったことが背景にあります。人間の活動の拡大、テクノロジーの進展という話にかかわってくる主張です。

 

 第3に、こうした「人間行動の規格化」が進行すると、時にそうした規格化された行動に対して美的快感を覚えることがあります。シモーヌ・ヴェイユの「機械的な幸福感」や、ナチス芸術などがその例です。勝手に付け加えるなら、北朝鮮のマスゲームなんかもそうでしょう。そして、こうした美的快感を覚えることがヴェイユの言うように「堕落」であるかどうかは即断できません。

 

3 消費機械

 

 ここでは2点について論じています。第1に、大量生産は大量消費の存在によってはじめて成り立ちます。付け加えますと、ほんとうは大量採取→大量生産→大量消費→大量廃棄ということになります(見田宗介『現代社会の理論』)。その結果、手作りの品物に対する美的な価値観が剥奪され、しだいに美意識までも転換していきます。

 

 第2に、その結果として我々は、大量生産によって提供され規格化された画一的な商品を、あれこれ頭を悩ますこともなく、心乱されることもなく、受け入れ、楽しむようになります。いわば我々は、「消費機械の歯車」として習慣的・惰性的に行動することに、一種の快楽を覚えるようになってしまうのです。生産や販売だけでなく、消費までも管理されているわけです。

 

 例えば、スーパー・マーケットでは、消費者は、厳密な生産・販売管理によって規格化された商品を規格どおりの分量を買わざるを得ません。つまり、消費者は玉石混交の品物の中から、買いたいものを買いたいだけ選ぶ自由を奪われ、一定の規格に合致したもののみを消費させられているのです。

 

 こうした規格化・標準化の衝動とともに生活しているというのが、近代の生き方の特徴です。では、政治の世界においてこうした規格化・標準化の衝動はどのように現れているのか。それを検討するのが次節の課題です。

 

≪ニ 近代の政治≫

 

 ここも、3つのパートに分かれています。

 

1 国家という装置

2 労働者の誕生

3 政治の規格化

 

1 国家という装置

 

 ここでの主張は次の3点です。第1に、ホッブス・ルソー・スミスをとりあげ、彼らの相違点と共通点を総括します。三者の相違点は、個人の身体の外部の「観察者」と身体の内部の「観察者」との、いずれかをより強調するかという点にあります。

 

 すなわち、ホッブスは外部の観察者たる「主権者」を強調し、ルソーはやや内部に踏み込んで、共同体内部での自己規制制度を導入しようと試み、スミスはそうした自己規制の装置は各人に内面化されるものであるとして内部の観察者を強調しています。そして、三者の共通点は、人間のあるべき姿を定め、それに基づいて人々の行動を規制するメカニズムを考案する点にあります。杉田氏が強調したいのは、この共通点の方です。

 

 第2に論じているのは、ではそうした自己規制メカニズムは近代以前にも存在したのかどうか、ということです。答えはイエスで、ここではフーコーの有名な「牧人=司祭権力」の話が紹介されています。中世ヨーロッパにおいては、キリスト教という「普遍性」と、世俗権力は散在するという「多元性」とが同時に存在していたわけですが、その両方が崩壊して、近代主権国家が登場したということになります。

 

 では、こうした中世から近代への「神は死んだ」とも表現される政治世界の「世俗化」(日常化)という転換は、どのように評価できるのでしょうか。これが第3の論点です。この評価には、2つのパターンがあります。

 

 第1のパターンは、近代を擁護する人々の主張です。彼等は、政治が神による「所与」から人間の「作為」とみなされるようになったことで、人間主体の改革の契機が保証されるようになったという理由から、近代を肯定的に評価します。いっぽう、第2のパターンは、近代に批判的な人々の主張です。神という超越的な存在を失った人間主義は、かえって人間のあるべき姿を人々に厳格におしつけることで、異質な要素を差別・排除することになり、新たな権力の発生を促したという理由から、近代を否定的に評価します。これは、第3節で触れる「近代」と「脱近代」の対立の一つの重要な側面です。

 

2 労働者の誕生

 

 近代においては、労働こそ人間にふさわしい行動様式であるという意識が普及することになります。次に、世俗化された修道院として近代社会を論じたウェーバー、「自分の手は自分のものであると言う一見自明な命題から出発して、一気に近代の支配的原理の一つとしての私的所有権を導き出してしまった」ロック、そしてマルクスについて言及しています。そして、彼らの共通点は結局、人間とは労働する存在である、という前提に立っている点にあることを指摘しています。

 

 マルクスは、私的所有を前提とする体制においては人々は「自己疎外」に苦しむが、私的所有を廃止し生産物を共有する共産主義のもとであれば、労働を通じて共同体の中に自己実現することができることによって、人々は真の自由を獲得し、「自己疎外」は消滅すると論じています。結局この理論は、「労働する存在」としての人間ということを前提としており、その意味ではロックやウェーバーと変わりません。

 

 こうした「労働の優位」に対して批判を加えたのが、ハンナ・アレントです。彼女の議論は、人間の行為様式を「活動(action)」「仕事(work)」「労働(labor)」」に分けて、「活動」>「仕事」>「労働」という関係にあることを示したものです。すなわち「活動」とは、演説などの狭義の「政治」をさし、「仕事」とは、芸術作品など永続的なものをつくる行為であり、そして「労働」は、「人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力」で、消費財のような、すぐに消え去ってしまうものをつくることを意味します。

 

 しかし、彼女の議論には問題点があります。それは、政治の純粋さを回復するために経済過程を政治から切り離したことで、「労働」から切り離しえないわれわれが抱える問題を先送りした点です。古代ギリシャという、奴隷労働を前提にした政治体制を原型に置くアレントの「限界」として、このことはよく指摘されます。

 

3 政治の規格化

 

 さて、ようやく政治の規格化を正面から扱う部分に来ました。ここも3つに分かれます。

 

 第1に、議会制民主主義の功罪、という話です。ウォーラス・スティーヴン・ハーシュマンなどが引用されていますが、結局言いたいことは、

 

(1)議会制民主主義は、本来多種多様であって差し支えないはずの人間の政治活動を、選挙を通じて代表を選出するというもっとも間接的な形態に限定してしまった

 

(2)そしてそのことは、一般の人々の政治へのかかわり方を固定化し、ある種の規格に押し込めてしまったという側面がある

 

(3)こうした規格化、画一化による管理は、工場、学校、監獄などで人々が味わっていることと全く同じ性質のものである

 

以上3点です。

 

 こうした状況が登場した背景には、ハーバーマスのいうところの「公共性の構造転換」という事態の進行があります。これが第2のパート。ヨーロッパにおいては、18世紀から19世紀にかけては、ブルジョワたちがサロンやクラブという討論する場を持っており、彼らは公共の問題、特に経済問題に関して議論する「公衆」として機能していた。しかし19世紀末までには、国家の統制が強化されていったことによってブルジョワたちは地位も経済的余裕も失っていき、「公衆」は消滅してしまった。その結果、マスコミの情報を一方的に消費し、普段は労働に忙殺され、公の事柄について関心をもつことも、討論することもままならない大衆だけが存在するようになった。このような、ブルジョワから大衆へと公共性の担い手、およびそのあり方が変化したことを、ハーバーマスは「公共性の構造転換」と呼びました。

 

 最後に、「民主主義的方法とは、政治決定に到達するために、個々人が人民の投票を獲得するための競争的闘争を行うことにより決定力を得るような制度的装置」であるというシュンペーターのシニカルな見方を引き合いに出しつつ、「そのような有権者達が選ぶ政治家達が、はたしてどこまでの見識を備えうるか」が気がかりであると述べています。というのも、「有権者たちを『機械的』に投票所に動員することだけに関心を有する政治家たちは、流れ作業の監視員にはふさわしくても、公的事柄についての討論に向いている保証はない」からです。

 

≪三 脱近代の構図≫

 

 さて、ようやく最終節にたどり着きました。ここも3つに分かれます。

 

 1 「近代」批判

 2 近代の「利得」

 3 「近代の超克」?

 

1 「近代」批判

 

 ここでは、フーコー、アドルノとホルクハイマー、コノリーの3者の議論を紹介することで、ポストモダンの理論を概観しています。フーコーの主張としては、『監獄の誕生』や『性の歴史』などをもとに、「人間がいかに自分も他人も一定の型にはめようとしているかということ」「そもそも人間には本質などないこと、人間を特定の型に整理しきろうとするのが不当であること」をあげています。

 

 次に、アドルノとホルクハイマーの主張として「『野蛮からの解放』をめざす『啓蒙』が、かえって新たな野蛮を生む」「人間は労働を通じて自然を隅々に至るまで支配する『主体』となろうとしてきたが、そのために、自分の中の『自然』(規律化された労働に抵抗する部分)を抑圧しなければならなかったし、分業の結果として、機械的メカニズムの一部と化してしまった」ことを、『啓蒙の弁証法』に依拠してまとめています。

 

 最後にコノリーの主張としては、「自己というものが他者との対比ではじめて成り立つものである」「人々は、『合理的主体』たれという要求を自らに課し、自分の中でそれに逆らう非合理的な部分を服従させようと努力する。そして、めでたく『主体』となったものは、今度は他の人々にも同じことを要求し、枠をはみ出す存在は、排除するか『治療』しようとする」というあたりを、杉田氏が共訳されたIdentity / Differenceからまとめています。

 

2 近代の「利得」

 

 次に、近代の肩を持つ論者として、テイラーとハーバーマスをあげています。杉田氏の論点をまとめると、

 

(1)テイラーやハーバーマスは、近代の進行にはよい面もあり、それを過小評価することはよくないと考えている

 

(2)よい面とは例えば、人間主義の確立や規律化は、平等な個人が自由に結合する場合にも必要であり、そうした結合に基づく抵抗運動や政治を可能にしているという点(テイラー)である

 

(3)もう1つのよい面は、近代における自然支配の衝動は、人間と人間との自由で平等な関係としての「相互行為」の可能性を開いたという点(ハーバーマス)である

 

ということになります。

 

3 「近代の超克」?

 

 「近代は、監獄に似ているとしても、監獄ではないのだ」という「近代派」の主張と、「近代は、監獄ではないにしても、監獄に似ているのだ」という「脱近代派」の主張にはある共通した欠落があります。それは、「近代派」も「脱近代派」も、例外なく労働の問題を棚上げし、「労働する存在」としての人間観については、多くを語っていないということです。

 

 「近代派」に対しては、労働する身体としての近代人の特質を十分考慮に入れないまま、「他方で強制のない自由なコミュニケーションを実現するということは、果たして可能であるだろうか」、と述べ、また「脱近代派」に対しては、「『労働する存在』としての人間観をわれわれが否定できるかどうかについては、正面から語っていない」「規律・規格化を弱めた結果、労働とともに消費を削減するだけの心構えが、われわれにあるだろうか」という形で疑問を投じています。

 

 そして最後に、この「労働する存在」としての人間観という問題を度外視することではじめて成立した議論として、有名な「近代の超克」論を取り上げて考察しています。その考察の要点は、

 

(1)近代哲学の行き詰まりが、ただちに近代そのものの消滅を意味すると考えた点に「彼らのつまずき」があった

 

(2)「彼らのつまずき」は、西洋哲学が近代の権力と一体化しているため、社会において進行しつつある規格化を止める論理を生み出しえないのであれば、「西洋近代」すべてが終わりであり、かわって日本が時代の中心となるという飛躍した議論へと結びついてしまった

 

(3)その結果としてその日本もまた、規格化にもとづく生産力に依存する近代の論理によって支えられているというジレンマに気づかなかった。換言すれば「真に近代を超えるためには、労働や教育の現場における規律・規格化を否定せざるを得ないという視点が全く欠落している」ことになった。

 

ということです。

 

 最後に、われわれは近代の検証を注意深く進めていかなければならないし、「脱近代」という視角はそのために有効であると述べた上で、「しかし、近代のアイデンティティに代わる人間のあり方は、まだ見つかっていない」と結んでいます。

 

≪コメント≫

 

 文章のわかりやすさ、論点整理の手際の鮮やかさ、議論を煮詰めていく手腕の堅実さ、どれをとっても大変立派な作品だということができます。引照する文献も過不足なく、重要な文献をおさえてあります。こういう論文は、読む側としては簡単に読めてしまうので、こんなこと、自分でも書けるよ…などと思ってしまいがちですが、いざこういう大きなテーマでこの分量で密度が濃くしかもわかりやすい文章を書けと言われてみると、それがいかに難しい仕事であるかがわかると思います。

 

 さて、では杉田氏の論点に即した形で、いくつかコメントをしてみたいと思います。

 

1 「近代」対「脱近代」という捉え方

 

 第一に考えてみたいのは、本論文における「近代」と「脱近代」の関係の捉え方についてです。簡単に議論の構成を振り返ってみると、第1節で近代という時代についてこれまでの研究をもとに「規格化・標準化」による「時間・空間・身体の厳密な管理」という基本的趨勢を指摘し、第二節でそれが政治の世界にどう反映されているかを検討し、政治の世界もその例外ではないことを確認した上で、第三節でそうした近代の基本的趨勢に対する評価として「近代派」と「脱近代派」をとりあげて、「労働する存在」としての人間に対する考察が鍵となる、とまとめています。

 

 すなわち「近代派」と「脱近代派」は、規格化・標準化の進行による時間・空間・身体の管理というのが近代の基本的趨勢であることについては一定の合意があるが、それに対する評価が正反対である、というのが本論文の基本的な把握です。そして、文末に集約的に現れているように、真に近代を超えるためには、「労働する存在」としての人間をどう考えていくかが鍵になるが、いまだ答えは出ていない、というのが議論の到達点です。

 

 こうした理解は、太い線において肯綮を外れてはいません。しかし、なお重要な部分で、大きな魚を取り逃がしているような印象を受けます。それは、「近代」と「脱近代」の関係を、思想としても現象としても二項対立的に把握しすぎているという点です。別の言い方をすればモダンとポストモダンという思想論壇上の標語が流通することによって生まれた分断の効果そのものをもっと奥底から疑ってみる、という戦略を立てることもできるのでは、ということです。

 

 思想としてその純化された形態を比較する場合、確かに「近代」の理論と「脱近代」の理論は全く正反対の性格を持つものとして捉えることは可能ですし、またそういう帰結に至るのは当然でさえあるでしょう。その意味で、両者を対立関係において議論を進めることで、文章がキレイにまとまったということができます。

 

 しかし、そうして抽象化された理論的な相違を、逆に個々の思想家に還元して考えていくと、かえって思想家一人一人の豊穣さが損なわれてしまうのではないでしょうか。そうした傾向は、例えば杉田氏が否定的には評価していないはずのフーコーに対する評価に現れているように思います。

 

 この点は、現象に対する把握にも同様に表れています。例えば、政治活動が投票所という規格化された空間に押し込められているという議論があります。しかし、現実にはさまざまなかたちで、われわれは政治に参加しているし、可能であるように思います(マスメディア、マルチメディア、NPO、市民運動などなど)。狭義の政治だけが政治ではない、という話に持っていった場合、このことはより広い範囲であてはまるのではないでしょうか。その意味で、ここでの議論から更に進んで、広義の政治と狭義の政治との関係について、もう少し踏み込んでいくことができそうです。

 

 消費という行動をとっても、手作りの品物や、マーケットでは手に入らない規格化されていない品物に対する評価は近年ではむしろ高まってきていること(端的には、古典的な販売スタイルの百貨店の売上げ低下、ないしは売上げスタイルの変容など)は周知のとおりです。

 

 ちなみに、スーパーマーケットも負けてはいません。最近、箱詰めされ、規格化されたきゅうりの横に、最近「ふぞろいな胡瓜たち」という商品(といってもただのキュウリですが)が置いてあります。透明なポリ袋に5、6本がさがさっとつめてあり、同封されている紙には胡瓜畑の写真を背景に、「太陽をいっぱい浴び、元気が良くて、ついつい曲がってしまった私たち!!でも中味は同じだよ!」と書いてあります。で、規格化された商品よりも単価は安いんですよ。父親の昔話で、子供の頃はお化けキュウリの話(路地物で、最後まで収穫されずに残っているため栄養を吸いすぎて巨大化したもの。色も黄色く形も悪いけれどとてもおいしい)を聞いて、今そんなのはないよね、と話していたところだったので、ふぞろいキュウリになんとなく親近感を覚えました。

 

話を元に戻しましょう…

 

 このように、「脱近代」は「近代」を否定したり超克することによって成り立ったりするのではなく、「近代」のある部分を変化させつつ、お互いが絡み合って徐々に進行しているのではないでしょうか。大森荘蔵ではないですが、理論物理学者が神社のお守りを肌身離さず大事に身につけたり、「アニミズム」を採用したりすることと、自己の学問を追究することは相反することではないわけですし。

 

 この点、思想家の思想形成や研究者の研究活動もまた同じなのではないでしょうか。フーコーが近代のある面を肯定しているからといって、それは彼の理論的破綻を意味することにはならないはずです。「近代」の要素がなくならないからといって「近代派」が「勝ち」であるというわけではないということ(それと逆に、「脱近代」的な要素が登場したからと言って「脱近代派」が「勝ち」であるわけではない)、その「勝ち負け」よりも実際に今何がどう変わってきているかに目を向けていくことが、大事になると考えます。

 

 「近代」が「脱近代」によって克服されないからといって「近代」が続くのでもなければ、単なるものの見方の差として両者の見解が乖離してしまうのでもないように私は思います。「近代の超克」が愚かだったのは、戦勝に浮かれる傲慢さという点と同じかそれ以上に、「超克」しなければ次の時代は来ないと思い込んでいたところにあるのではないでしょうか。

 

 こうした、近代と脱近代が多層において多重的に混在し絡み合っているのが、現在の様相ですし、変化に対する二項対立的な思考からの脱却こそが、現在の課題であるように思います。単なる思想の問題であると同時に、現象自体がそういう形で進行しているということに目配りを聞かせた議論をしていくことができそうです。

 

2 「労働」という問題

 

 第二に考えるのは、「労働」の問題です。本論文が指摘しているように、確かに近代派・脱近代派ともに「労働する存在」としての人間について十分に考察しているとはいいがたいと思います。ここに論点を集約させていく着眼点は、見事としか言いようがありません。

 

 「真に近代を超えるためには、労働や教育の現場における規律・規格化を否定せざるを得ない」という主張は、妥当でしょう。しかし、第一の点で見たように、「超える」必要はないと私は考えています(杉田氏がどう考えているかははっきりしません)。したがって、「脱近代」が近代と絡み合った形で進行する場合、規律化・規格化それ自体を全否定する必要はありません。そうではなくて、脱近代的な事態が進行していくにつれて、規律化・規格化の程度・性質・範囲が変容していく、ということに着目する必要があるのです。

 

 本論文では、「労働」概念が近代以降その本質において不変であると見なしています。しかし、「労働」のあり方もまた、徐々に大きく変わっていくのではないでしょうか。そして、それは近代的な労働の在り方がゼロサム的に消えていくということは意味しないのです。

 

 例えばキャステルズは、現在進行中のネットワーク社会において労働は、テクノロジーや需要、マネジメントの変化に合わせて自分を再訓練し、新しい仕事や新しい過程、新しい情報源に適応していく「自己プログラム的労働」(self-programmable labour)と、交換可能、使い捨てで、世界中の低スキル労働や機械と同じ回路に共存する「一般労働」(generic labour)に二分されていくと主張しています(Manuel Castells, End of Millenium, Blackwell, 1998, p. 341以下)。

 

こうした変容は、近代的な労働それ自体のありかたを消滅させてしまうものではありませんが、だからといって労働と人間の関係が変わらないわけでもありません。「モダン・タイムス」のイメージによってのみ労働を把握するだけでは、十分な考察をしていくことは難しそうに思います。ついでに言えば、オーウェルの「1984」とモダン・タイムズを比較したりするのも、いいのかもしれません(特に、アガンベンやシュミットとのかかわりとこの議論をリンクさせる上では)。

 

3 まとめ

 

 というわけで、「脱近代」と「近代」の二項対立的な把握ではなく、相互が重なり合い絡み合い、変質しながら進んでいるという形で、現象の変化と思想の変化をとらえていくべきである、というのが、この優れた仕事からさらに引き出すことのできる議論だと考えます。

 

 杉田氏は文末で、「真に近代を超えるためには、労働や教育の現場における規律・規格化を否定せざるを得ないという視点が全く欠落している」、あるいは「しかし、近代のアイデンティティに代わる人間のあり方は、まだ見つかっていない」と言及しています。このことから私が思ったのは、「彼は、近代を超える必要があると思っているのかどうか」、そして「彼は、近代のアイデンティティに代わる人間のあり方を見つける必要があると思っているのかどうか」ということです。

 

 この答えは、文面からは十分にはわかりませんが、はっきりしているのは、「代わる」「超える」という発想に基づく把握では十分ではないこと、また、思想上の対立の問題よりも、現象の複雑な変容過程に答えがあるということではないでしょうか。ポストモダンを上手に消化してモダンの理論を擁護することと、現在進行形の変化を観察して考察していくこととは別の問題であるような気がします。このあたりをどう考えていくかが、われわれに課されているようです。

 

(芝崎 厚士)

 

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