演習室01 社会科学とは?

Seminar01 Social science: the how and the why

06/30/2000 第1稿、07/23/2000 補綴、04/29/2006 補綴2版

 

【テクスト】

 

竹内啓「科学的認識の対象としての人間」『岩波講座科学/技術と人間』第6巻、1999年、1−53ページ。

 

【目次】

 

≪イントロダクション≫

 

社会科学とは何か?と問う時には、大別して二つの方法があります。一つは、他とは独立した形で構成されている学問の一分野としての社会科学の構造や機能を説明する方法。もう一つは、歴史的な過程の中で、さまざまな学問との関係で社会科学はどのような位置や意味を持っていきたのか・いるのかを解明する方法です。比喩的にいえば、前者は既成の建築物そのものの構造や機能を説明する方法で、後者はどうしてそのような構造や機能を持つ建築物が誕生し形成されてきたのかを説明する方法だと言えるでしょう。前者はHOWの問題を扱い、後者はWHYの問題を扱う、と言い換えてもよいと思われます。

 

私が興味を持っているのは後者の話であり、またWHYの問題を探求すること、すなわち歴史的構成物としての社会科学を考えていくことは、単なる私個人の関心である以上に、現在社会科学が喫緊に必要としている課題であるとも申せましょう。竹内論文は、そうした方向性で社会科学を問う際に示唆に富みます。

 

ちなみに、竹内氏は下記の3本とあわせて、この岩波講座に合計4本の論文を書いています。いずれもクオリティが高く、この4本をまとめて本にしてもいいくらいの秀抜な出来です。逆立ちしてもこのような引き締まった文章は書けないなと思う次第です。というわけで、できれば、下記3論文もあわせて参照されることを望みます(便宜のために論文に番号を付けておきます)。

 

A論文:竹内啓「科学の人間観」『岩波講座科学/技術と人間』第6巻、1999年、213−231ページ。

B論文:竹内啓「総論」『岩波講座科学/技術と人間』第8巻、1999年、1−44ページ。

C論文:竹内啓「地球の有限性と人間」『岩波講座科学/技術と人間』第8巻、1999年、213−240ページ。

 

 

その後、これらの4論文は、『科学技術・地球システム・人間』(岩波書店、2001年)に収録されました。

 

では、早速内容に入っていきましょう。

 

≪科学的認識の対象としての人間≫

 

本論文の構成は以下の通りです。

 

1 科学の客観性

2 客観的対象としての人間

3 対象としての「心」

4 対象としての「社会」

5 自由と必然

6 社会における客観性

7 社会の歴史性

8 情報概念と社会システム

9 人間を対象とする技術

10 操作の対象としての身体

11 心の操作

12 社会的技術

 

1 科学の客観性

 

 まず竹内氏は、科学の対象とはすべての客観的現象であるとしたうえで、「客観的」であることを「それがそれを認識する主体と独立に存在しているということ」と定義します。ただし、「あるものが客観的に存在すると考えられるか否かを客観的に証明することは実は不可能」です。

 

 もちろん、だからといって科学の客観性は虚構であるとか幻想であると思う必要はありません。なぜなら、「科学は何が客観的であるかについて、観念的に定義するのではなく、むしろどのような手段によって客観性に到達できるかを操作的に定義することによって、それをいわば間接的に規定している」からです。

 

 ここは、ポスト・モダンなどをかぶった後の科学における客観性のとらえかたを過不足なく表現している部分です。科学的営為における客観性は、その客観性がどういうかたちで担保されているかを外側に開いておくことによって検証可能なものとなっている、ということ、そしてその客観性の追究の仕方は、個々の研究によって異なっているということに注意しておかなければなりません。

 

 

 この部分でもう一つ重要なことは、「操作性」と「実行可能性」は必ずしもイコールではないということです。操作的な定義によって得られる仮説に依拠した研究によって、現実の中にある事実が存在することが発見されることも少なくありません。「科学の発展は、『仮説』として提示された『あるもの』が実験や観測を通して客観的な事実として確立される過程と理解すべきであり、すでによく知られた『客観的事実』に関する法則性を確立する過程ではない」のです。この箇所は、科学的説明の本質は、理論からの論理的演繹にではなく、よりよい事実描写にある、という、大森荘蔵の科学観(特に『物と心』。ノート49−1参照)と共通点が多いです。

 

 そして、「科学はこのようにいわば階層化され、構造化された『客観的現象』を、何らかの意味で『実在』するもの、すなわちわれわれの観念が作り上げたのではない何ものかであると規定し、いわばそのような過程の上に全体系を作り上げている」と竹内氏はまとめています。

 

2 客観的対象としての人間

 

 次に考察するのは、認識の主体としての人間と認識の対象としての人間をどのように区別するのか、という問題です。

 

 ここで、「客観的対象を操作して望む方向へ変えること」を「広い意味の技術」、「その操作の過程そのものが客観的に把握されているもの」を「科学的技術」と竹内氏は定義しています。

 

 そして氏はこの論文全体の課題を、「このような科学と技術における主体としての人間と、対象としての人間の区別がどのようになされ、そこにどのような問題があるかを具体的に論ずること」と述べています。

 

 このあと、主体と対象がともに人間であるが故に生じる、(1)方法論上の困難、(2)倫理上の困難に言及しています。(1)は、例えば自分自身を客観的に把握することが困難であるということ、(2)人間の生体実験は限定されているということ、を想起すれば足りるでしょう。ここは議論の流れから言うとやや唐突です。

 

 重要なことは、「人間にかかわるすべてのこと、あるいはより狭くはすべての学問的研究の対象が、科学的認識の対象となりうるわけではない」ということです。人間を考察の対象とする分野には(1)芸術と(2)学問があり、学問にはさらに@科学とA科学でない分野がある。言語表現を通じる分野に限ると、芸術とは広い意味での文学(詩、小説、戯曲など)であり、学問とは学術的作品である。さらに、科学とは人間と対象とする科学の諸分野であり(暫定的に「人間科学」と呼びましょう)、非科学とはいわゆる人文学(humanities)である。

 

人間科学と人文学との違いは、端的には宗教学と神学の相違として表現することができますが、要するに客観的な分析かどうかということに尽きます。つまり科学の目的とは、「対象を人間の認識から独立した客観的な存在として把握し、かつそれを人間の価値的、あるいは感情的判断から独立な、客観的な論理によって把握すること」です。(とはいえ、人文学と近年の人文科学の間の異同、人文科学、における科学性の問題、また人文科学と社会科学の重複と異同、などの論点はもう少し詰める余地がありそうです。むしろ日本学術会議の議論は、この辺について参考になると思います)。

 

 このあと、そうした「人間の客観化」が起こるまでには長年月を要したことが振り返られています。それは簡単に言えばデカルトの物心二元論の登場であり、さらにそれが人間に摘要されることで身心二元論となったという流れでもあります。

 

 さらに、医学の話を例に、身心二元論の功罪(医学の発達と人間の肉体の道具視)が振り返られつつ、「身心二元論は人間を対象とする科学の結果ではなく、前提であることが明確に認識されなければならない」と結んでいます。

 

3 対象としての「心」

 

 人間を対象とする科学(人間科学)には3つのレベルがあり、第一のレベルは前節で触れた「身体」です。第二のレベルが「心」です。第三のレベルは、第4節以降で詳述される「社会」です。本節は「心」に関する科学のまとめです。

 

 さて本節の前半では、科学的実験心理学と行動主義心理学の登場について考察します。まず前者は、「人間機械論」的発想から心を身体と同様に機械的な法則性の下に客観的に把握しようとするものでした。しかし、当然のことながら心そのものを客観的に把握することは無理な話です。そうした困難を回避し、心自体ではなく心理現象を「刺激−反応」の過程として捉えようとしたのが後者です。

 

 こうして行動主義心理学は、「神とは不要な仮説である」という前提に立つ自然科学と同様、「心とは不要な仮説である」と前提することになったわけですが、そうした前提自体がひとつの仮説に過ぎないことを忘れてはならないのです。というのも、そうした前提は「無神論」や「無心論」に転化しやすいためです(方法と実体の混同の危険性。この点は竹内氏の議論の骨子の一つであり、また丸山眞男・加藤周一『翻訳と日本の近代』でも異なった角度から取り扱われている問題です)。(さらにいえば、大森荘蔵が言うように、非科学的説明は、それが誤っているからではなく、科学的説明にとって必要がないことだから省かれるのだ、という指摘を、ここで思い起こすべきでしょう)。

 

 次に人工知能について論じています。ここで重要なのは、人工知能の開発に代表される、コンピュータの機能と人間の知的作用を対比していく作業は、後者をよりよく知る上で有益であるが、いわゆる「自己言及命題」に伴う限界によって、人間と同じようなコンピュータやロボットを作ることには限界があることを示しています。

 

4 対象としての社会

 

 さて、第三のレベルが社会科学です。「社会科学は人々の社会の中での行動によって、個人個人の意図や目的とは直接結びつかない、あるいはそれとは離れた結果が生み出されることを認識し、それを客観的な形式によって表現することによって生まれた」と簡潔に要約しています。

 

 ここから第七節までが、今回考えたい社会科学論の中心的な部分となります。

 

 本節で俎上に載せているのは、(1)原子論的アプローチと全体論的アプローチ、(2)原子論(還元論)と全体論(有機体説)、(3)(1)と(2)の違い、という問題です。

 

 まず(1)ですが、社会科学的認識の前提としては「個人の行動を重視する立場」(原子論的アプローチ)と「社会における統合を重視する立場」(全体論的アプローチ)があります。前者は「社会現象を考察する際のすべてをそれを構成する個人個人の行動にまで還元して考察すべき」であるという主張、後者が「社会全体を一つの対象として考察すべき」であるという主張です。

 

 次に(2)ですが、「社会は単なる個人の集合に過ぎない」(原子論)、「(社会は)個人を越えた何らかの実体と考えるべきである」(全体論)、という二つの考え方があります。原子論は「社会現象はすべてそれを構成する人々の行動にまで還元して説明しなければならない」という主張であり、全体論は「社会全体はそれを構成する個人の集合以上の何ものかであり、いわばより高い存在である」という主張です。

 

 最後に(3)ですが、要するに(1)は仮説であり、方法に過ぎないのに対して、(2)は実体に対する命題です。にもかかわらず、両者は混同されがちです。すなわち、原子論的アプローチと原子論が混同されることで個人主義と結びつきやすくなり、全体論的アプローチと全体論が混同されることで全体主義と結びつきやすくなる、という傾向があります。

 

 結局この問題は、まず、両者の混同(「仮説の命題化」)を避け、次に、原子論が個人の行動に着目したとしても、構造としての社会の存在は否定できないし、還元論が社会の構造に着目したとしても、社会が個人の集合であることは否定できないということを理解しておけばよい、ということになります。原子論も全体論もそれだけでは正しいとはいえません。「社会は人々が社会を作るのではなく、人々は社会の中に生まれるのであり、そして社会によって作られるものであることは自明」なのです。

 

5 自由と必然

 

 さて、次に論じているのは、「社会現象における法則性と、人間の意志の自由性の関係」です。つまり、(1)人間が自由意志によって行動することができる限り、人間の行動が何らかの外的な法則性によって決定されているとはいえない、(2)逆に人間の行動が客観的な法則性によって完全に決定されているとすれば、人間が自由な意志を持つというのは錯覚にすぎないのではないか、ということになります。つまり、社会現象を法則化できるとするならば人間の自由意志は存在しないし、人間の自由意志が存在するとするならば社会現象を法則化することはできない、ということになり、(1)と(2)は矛盾してしまいます。この矛盾は、最終的な解決は不可能です。

 

 特に社会科学で問題となるのが、第一に、合理性と意志の自由の関係です。合理的な行動はその限りで予測可能であり法則性に従うと見なしてよいわけですが、かといって合理性は意志の自由とは矛盾しません。「合理的行動」とは不合理な選択を前提として初めて存在するわけで、それゆえに意志の自由と合理性の関係は微妙です。

 

 第二に問題になるのは、社会的枠組みに対する考え方です。結局のところ「すべて偶然に動くものではないが、またそれは一定の必然的法則性が貫かれるというものでもない」としか言えないようです。

 

 こうした「自由と必然との矛盾」、すなわち、「人間行動の社会的結果が、必然的なもの として認識可能であるとすれば、人間の主体的自由はどこにあるのか」という問題には、完全な答えはありません。結局、社会科学において、社会的結果の必然性の認識可能性と、主体の自由な行動可能性とを同時に認めることは常に最終的には解決不可能な矛盾を孕まざるを得ないのです。

 

6 社会における客観性

 

 本節で問題になっているのは、次の2点です。第一に、対象の客観性(現象と記述の関係)。第二に、対象の理解における客観性、です。

 

 第一の点について。「社会現象」とは「人々の行動が相互の交渉を通して作り出す現象」であるというのが竹内氏の定義です。では社会現象を客観的現象として認識されるのはなぜか、ということが問題となります。つまり、客観的事実とは何か、ということについて考えなければなりません。

 

 事実は、それに関する「記述」から生み出されます。しかし、そもそも「記述」それ自体が、客観的な現象とどの程度正確に対応しているかがわからないものであり、100%信頼することが不可能です。つまり、社会的現象そのものが、純粋かつ完全に客観的な物であり、社会的に構成されるものなのです。換言すれば、社会現象に関する客観的事実とは、その時々の社会において、ある現象を「事実」とみなす主観によって形成されるのです。その意味で事実とは本来、純粋な客観性を持つものではなく、歴史的な主観とは無関係ではあり得ません。 (社会構成主義、社会構築主義)

 

 こうした事実の社会的構成という論点は、「社会に関する客観的事実の認識が可能であるという立場を批判し、近代のいわゆるモダンな社会科学が、あたかも社会認識について客観的真実性をもつ認識を構築し得たかのように考えたのは一つの幻想にすぎないものであって、それは常にその当時に支配的であった思想の作り出した言説にすぎない」というポスト・モダンの思想とも共鳴し得るものです。かといって、相対主義やニヒリズムに陥る必要はないと竹内氏は言います。

 

 というのも、記述の通り、「社会現象についての客観的事実とは、必ずしもそれについての人間の認識とは独立という意味での『客観性』を持つものでなければならないとは限らない」からです。この、ポスト・モダニズムが社会科学の客観性を過度に純粋化しているという視点は、私も賛成です(ただし、すべてのポスト・モダニズムがこうした単純なイデオロギー暴露に陥っているわけでも、またイデオロギー暴露にとどまっているわけでもないと思います)。事実自体の主観性、科学の客観性は、検証手続きが開かれた形で存在していることによって担保されるのであり、問題はどのような客観性がどのように構築され、どのように提示されているかを検証していくことにあるのです。

 

 第二の論点では、対象の理解における客観性を扱います。社会科学という知の営為は、人間社会の自己認識の論理化、体系化を意味しています。そうである以上、社会現象を理解しようとするときには必ず、その対象に社会的実践的関心を持つ研究者自身の利害、理念、先入観念などが影響を及ぼし、その分客観性がそこなわれることが避けられません。

 

 しかし、社会科学がそういった意味で中立的ではありえないとしても、科学性とは矛盾するものではないと竹内氏は言います。というのも、イデオロギー的な想定から完全に自由ではありえないとしても、社会科学の科学性は、ある主張を行う際の客観的な事実の認定の仕方をおろそかにしないことや、前提から諸論への論理の展開がゆがめられないように注意することなどによって追求し得るためです。

 

7 社会の歴史性

 

 ここでは、第一に社会科学と自然科学の相違の問題、第二に歴史主義と普遍主義の対立、そして社会科学そのものの歴史性の問題を扱っています。

 

 第一の問題は、社会科学は個別記述的であり、一般的な法則性を確立することは不可能なため、普遍法則の確立を目指す自然科学は区別されなければならない、という見解に対する反論として議論を進めています。竹内氏に言わせれば、こうした区別の仕方自体、間違っていることになります。厳密に言えば、客観的世界についての完全な意味での普遍的な法則性の確立を目指しているのは理論的物理学だけで、他の自然科学の諸分野は、それぞれ特殊な条件の下における物質のあり方を研究し、それをより一般的な論理に照らして理解しようとしているのです。「科学の前提は対象を客観的に把握し、そして理解することができるということであって、その限りでは対象がある種の一般的論理に従っており、そういう意味では共通の秩序ないし構造をもっているということなのである」と竹内氏はまとめています。

 

 第二の問題は前半と後半に分かれます。前半は、社会の歴史的性格をどのように考えるか、という問題で、具体的には、「社会科学は人類社会の普遍的一般的な形を想定して、具体的な個々の社会はその特殊事例と見なし、またその変化も社会の一般的運動ないし変化の法則から導き出すべきである」という「普遍主義」と、「具体的な歴史的社会はそれぞれに違った個性に従って、異なった法則性を持つものであるから、個々別々取り扱うべきものである」という「歴史主義」の対立として現れます。

 

 もちろんこれは程度問題だと竹内氏は言います。ただし、社会科学においてこの問題は特殊な位相を持っています。というのも、社会科学においては、「近代社会」が「普遍」であって、それ以外の社会が「特殊」であるとみなされることがあるためです。この点はいわゆる西洋中心主義批判とも絡み合ってきます。

 

 こうして社会科学は西欧近代社会を、その対象とする「社会」の基本的なモデルと考える傾向があります。したがって社会科学が西欧中心主義的な性格をもっていることは否定できません。それ故に、科学の客観性を脅かすような過度の西欧中心主義を批判することは必要です。とはいえ、社会科学が西欧近代社会において発展してきたものである以上、そういう傾向を持つことには必然性があります。

 

 しかし、だからといって「近代の超克」のように西欧近代社会をモデルとする社会科学を拒否することはあまり意味がありません。というのも、(1)実際の世界のほとんどすべての国が西欧社会を理想とし目標としてきたという事実があること、そして(2)社会科学が西欧由来のものであったとしても、そのことは社会科学が異なる社会を共通の方法によって認識しようとする「科学的認識」を追求するものではないということを意味しないとためです。以上のことから、「近代主義」に立つからといって、社会科学の普遍性を否定することはできないと結論づけています。

 

 第四節からここまでが、今回特に考察してみたい社会科学論の中核部分となります。ここから先は、若干毛色が変わります。

 

8 情報概念と社会システム 

 

 「物質」と並んで「情報」が客観的世界の一つの構成要素として認められるようになったことが人間の理解に及ぼす影響は、大きなものでした。

 

 第一に、人間における「情報システム」の多様性・多層性が明らかになったことがあげられます。第二に、遺伝子情報と環境因子との間の複雑な相互関係が解明され、物理的・科学的な外的因子が、このような情報システムに影響を与え、そしてそれを通じて生理的システム、場合によっては心理的システムにいろいろな影響を引き起こすことがわかってきました(いわゆる「環境ホルモン」はその一例)。もちろん、だからといって、こうした情報システムは人間機械論を正当化するものではありません。

 

 こうした情報システムの重要性は、社会科学においては過小評価されがちだったと竹内氏は述べています。

 

9 人間を対象とする技術

 

 「技術」とは「一定の目的を持って対象を操作するもの」であります。また、その目的には、(1)具体的な目標、(2)それを通して達成すべき目的、とがあります。人間を対象とする技術の場合はなおさら、そうした目標や目的に対する価値判断、すなわち科学的論理を超えた倫理的価値判断が必要となります。目的から目標を切り離して、目標を価値中立的にとらえて議論を回避することは許されません。

 

10 操作の対象としての身体

 

 ここでは、そうした技術に対する倫理的価値判断を様々なレベルで考える、ということで、ここでは身体のレベルで、「人間を手段として扱うことがどこまで許されるか」という点について、臓器移植、尊厳死、胎児・妊娠中絶の問題を例に検討しています。

 

11 心の操作

 

 次に心のレベルです。ここでは、心の存在は仮定できても、心を直接観測することは出来ず、その機能しか観測できないという事実から出発して、心の病気の原因を肉体的な機能(特に脳の作用)に求める方向と、肉体と切り離して心の因果性に求める方向(フロイト)とがあったことをふりかえっています。

 

 前者は明確な因果的理由付けは持ち得ないし、後者は厳密には科学的とは言えないと竹内氏は言います。結局のところ、心的作用と身体的作用は複雑な形で相互に作用し合っているわけで、その作用は完全には解明されていません。

 

12 社会的技術

 

で、第三のレベルとしての社会(=人間の集団)です。

 

 ここではまず、近年注目されている社会工学的なアプローチを概観しています。それには大きく分けて、これまで工学的アプローチになじまなかった既存の社会科学が工学的な把握をするようになってきた場合と、これまで純粋に技術的な分野と考えられてきたものが社会的視野を考慮に入れるようになった場合とがあります。

 

 さて、前者の場合ですが、社会的性格の問題を準工学的に捉えすぎてしまうことには問題が、とくに倫理上の問題が生じます。例えば「政治は基本的には人々の価値選択に関わるものであるから、政治的問題を完全に技術的に扱うことは許されない」し、また教育は広い意味での社会技術ではあるものの、人間を社会にとって「有用な存在とする」ことが同時に、その人本来の「人間的発達」を歪めて社会に順応させる危険を常に含んでいるのです。

 

 また、社会的技術は原理的に矛盾を孕みます。それは、技術を使う場合の目的の評価基準は社会的に構成されるためです。こうした、社会的技術が「技術」として存在していることを前提とし、その倫理的限界がどこにあるかを論じていくことが必要だと竹内氏は言います。

 

 竹内氏は最後に、こうした問題を、「社会的技術が現実の社会の中でどのような効果を持ちどのような結果をうむのかを客観的に分析し批判的に明らかにしていくこと」が重要な課題となると述べて、結んでいます。

 

≪コメント≫

 

 では、4節から7節を中心に、適宜上記3論文を参考にしつつ、いくつかのポイントに絞って議論をしてみましょう。

 

1 解決不可能であることに対する認識

2 客観性という問題

3 人間の営為の中の科学、科学の中の社会科学

4 タテの普遍とヨコの普遍

5 おわりに

 

1 解決不可能であることに対する認識

 

 竹内論文の優れた点として、社会科学という営為におけるいくつかの基本的な問題を明快に整理していることがあげられます。例えば、

 

 @原子論(還元論)対全体論(有機体説)

 A社会原則の法則性(決定論)対人間の意志の自由性(自由意志論)

 B歴史主義対普遍主義

 

 といったことですね。で、これらの問題に対する竹内氏の理解は、(1)どちらかだけが正しいということはありえないし、最終的な形で解決するのは不可能である、(2)方法(仮説・アプローチ)としてのありかたと、実体(命題)としてのありかたを混同してはならない、という2点に尽きるといってよいでしょう。

 

 この2点は、当然のことであり、また極めて初歩的なことでありながら、忘れられがちです。(1)に関していえば、特に英語圏ではよく、こうした社会に対する二項対立的な見解がぶつかり合って、果てしのない議論をしてしまうことがあります。

 

 むろん、(1)であることをわかった上で敢えて、豊かな成果を見出すために議論が行われることもありますが、ほとんどの場合はかなり不毛である言わざるを得ません。また、議論がエスカレートするとお互いの歩み寄りはますます困難となり(双方の立場が理論的に純化されていくので)、徐々に(2)的傾向、つまり方法論としての過程であったのが存在論的な命題のようになっていくことがあります。

 

 こうした対立に即した形で研究者が養成・再生産されると、対立自体を所与と受け取った、自らの陣営の正しさを信じて疑わない人々が増えてきて、対立が固定化される傾向が強まっていくこともあるようです。

 

 しかし、そうした(1)を軽視する傾向は、一種の科学万能主義的発想、もしくは、すべてに解決を与えなければならないし、解決を与えられないことは愚かなことである、といったような発想に他なりません。しかし、本当に知るということは、すべてを説明し尽くすということではなく、何が解決可能で何が解決不可能であるかを知っていると言うことなのではないでしょうか。

 

 見田宗介氏が真木悠介の筆名で書いた『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)には、すべてに意味を与え、すべてを説明しようとする「明晰」と、そうした「明晰」自体の限界を知る、対自化された<明晰>とを区別する、という議論が出てきます。(1)における解決不可能性を知った上で議論をし、研究をしていく姿勢こそ、まさに、<明晰>を持つ姿勢であるといえましょう。後述するように、竹内氏もまたそうした視点からものを見ていると思います。きれいに整理することの出来ないような対象に取り組んだ場合、むりにきれいに見せるのでなく、それがいかにきれいに整理できないのか、ということを明確に明らかにしてみせる、ということも、社会科学の科学的説明の一つのあり方なのではないでしょうか。この論点は吉川弘之氏のいう、近代科学は分析しやすい研究対象に取り組み、社会的に重要であっても分析しにくい研究対象を迂回しがちであった、という議論ともかかわってきます。

 

 次に(2)ですが、これも社会科学においてはきわめて広く見られる現象です。私も仕事上研究史批判をすることが多いですが、たいていの研究はこのレベルでなんらかの問題を抱えてしまいます(自戒を含め)。逆に言えば、それだけ方法と実体は結びつきやすいと言えますし、またどのように結びついているかをみていくことそれ自体が、研究を進めていく上で鍵ともなり得ます。

 

2 客観性という問題

 

これについては、

 

(1)「それがそれを認識する主体と独立に存在しているということ」という意味での客観性は、観念的にではなく、客観性に到達できる手段を操作的に定義することによって間接的に規定される

 

(2)対象の客観性は社会的に構成されるし、対象の理解における客観性は完全に中立的なものではありえない。しかし、だからといって社会科学の科学性が損なわれるというわけではない

 

といったあたりに集約されます。一言で言えば、「客観性」とは観念的かつ純粋なものではありえないし、またそう考えようとする必要もない、ということです。開かれた客観性とでも、表現できる見解です。

 

 この論点について、いくつか議論してみましょう。第一に、社会的に構成される、操作的であり間接的に規定されるものであるという客観性の性質は、単にアプローチの問題にとどまらず、社会科学すべて、そしてすべての科学においてあてはまる、ということです。こうした客観性の捉え方からは、純粋な客観性などあり得ないというポスト・モダニズム的な主張や、事実の社会的構成を強調する社会構成主義(social constructivism)の主張を想起される方も多いと思いますが、竹内氏に言わせればもともと客観性とはそういうものなのだ、というわけです。

 

 そこで問題となるのは、こうした竹内氏の客観性把握は、ポスト・モダンや社会構成主義といった潮流の影響を受けて「修正」されたものなのか、それともそれ以前から竹内氏は客観性をそういうものとして捉えていたのか、ということです。そのあたりは、竹内氏本人にお聞きするしかないのですが、私は後者だと思います(もちろん、そうした思潮を踏まえた上でこの議論をしていることは、文中からも容易に推察できます)。それは、自分のこれまでの乏しい経験から言っても、客観性とはそういうものでしかあり得ないと理屈以前に感得できます。

 

 さて、だとするとポスト・モダン風の客観性批判はいったいどこから来たのか?という問題が生じます。かなりいい加減な言い方かもしれませんが、そうした客観性批判の多くはイデオロギー暴露と結びつくパターンが多いのと同時に、科学万能主義的な信念を逆に強く持ってしまった場合に科学が持つそうした「ずるさ」がよけいに汚く見えてしまっている、という傾向があるような気がします(受けた教育によって異なる科学観を抱いている??)。そうした傾向を持つ研究の中には、自分の立ち位置を明確にする(イデオロギー的な自己批判)なしに研究することは不可能であり、結局社会科学というのはそうした信念の吐露以上のものではないと開き直ってしまっている場合もあります。

 

 竹内氏が言いたいのは、それでもなおかつあらゆるレベルで、竹内氏の言うような意味での客観性を追求することが社会科学の営為なのであって、そういった開き直りや相対主義に走る必要はないのだ、ということのように私には見えます。

 

3 人間の営為の中の科学、科学の中の社会科学

 

 第三に考えてみたいのが、竹内氏の視座の高さということです。それは科学が、「人間を考察の対象とする分野」のひとつに過ぎないというものの見方に現れています。すなわち、

 

人間を考察の対象とする分野:(1)芸術(2)学問

学問:(1)科学(人間科学、客観性)(2)非科学(人文学)

科学:(1)身体を対象とするもの(2)心を対象とするもの(3)社会を対象とするもの(社会科学)

 

 という分類です。ちなみに、B論文では以下のような分類も試みています。

 

 科学の目的:「自然=人間の置かれている条件」、を理解すること

 科学:

 

(1)普遍的科学(universal / cosmic science) 宇宙全体に妥当(物理学・化学)

(2)局所的科学(local / global science) 地球上の条件のみ(地球科学、生物学、人文・社会科学)  

 

 この分類は、自然科学と社会科学の間に線を引いてしまいがちな傾向に対する基本的でありかつ重要な示唆を与えてくれるでしょう。こうした分類を念頭におくことは、社会科学における「明晰」と<明晰>との関係を理解する上でも役に立つと思います。ある学者にとって自分の専門分野は「すべて」でありえるとしても、人間の置かれた条件を知る道具としてその専門はほんのわずかなことしか教えてくれないものであるということは、決して忘れてはならないことだと思われます。

 

4 タテの普遍とヨコの普遍

 

 第四に指摘しておきたいのは、社会科学における「普遍」の問題、とりわけ何を「普遍」とするかということ、いわば、「普遍」自体の歴史性の問題です。

 

 この点に関して竹内氏は、「西欧近代社会」を普遍と考えるのは社会科学自体の歴史性からいっても当然であるし、だからといって西欧近代からうまれた社会科学の普遍性は否定できない、と述べています。

 

 確かにそれはもっともです。ただ、そこからさらに付け加えることがあるとするならば、現在の社会科学における普遍は、「西欧近代社会」を普遍として考える方向から、「世界全体」および「歴史全体」における普遍を普遍としてとらえる方向へと動きつつある、ということになるでしょう。この点に関しては、ちょっと長くなったのではしょりますが、山脇直司『新社会哲学宣言』(創文社、1999年)、ウォーラースティン『社会科学をひらく』(岩波書店、1996年)などを参考にしていただければと思います。

 

 竹内氏はB論文で、20世紀の歴史の特徴として、「科学技術の大きな発展によって特徴づけられる西欧近代文明の世界全体への普及、つまり人類史上初めて世界全体が一つの文明世界に属するようになったことと、その中における西欧の覇権の衰退という、表面的に矛盾する二つの流れ」をあげています。そういう観点から見ても、「西欧」から「世界全体」へというヨコの方向、「近代」から「人類史全体」へというタテの方向への普遍という水準の移行が始まりつつあると考えることは妥当であるように思われます。

 

5 おわりに

 

 だいぶ長くなってしまいました。冒頭で述べたように、ある特定の科学のあり方として「社会科学とは何か?」と問うのではなく、なぜ社会科学というものが存在するのか、人はなぜ「社会科学する」のかを、外側の世界とのかかわりで理解したいというのが私の狙いでした。社会科学の本はたくさんあります(たとえば、Gerard Delanty, Social Science, Minnesota University Press, 1997James B. Rule, Theory and Progress in Social Science, Cambridge University Press, 1997Patrick Baert, Social Theory in the Twentieth Century, Polity Press, 1998など。同じくDelantyの、Social Theory in a Changing World: Conceptions of Modernity(Polity Press, 1999)も悪くない本です。)が、そうした外側の世界とのかかわりをも含めた形で十分に考察を深めたと言える作品はとても少ないように思われます。だからこそ、竹内論文は貴重な作品であるといえるでしょう。

 

 自分の専門とのかかわりでいえば、こうした議論を極めて軽視してきたのが、近年の国際関係論であったと思います。現在英米圏では、存在論や認識論をめぐる議論が盛んになっていますが、そのほとんどが竹内論文のような「外側」とのかかわりを無視したものであると同時に、自己の党派的な(つまり内弁慶的な)自己正当化が優先している感があります。要するに、これまでの国際関係理論をめぐる論争とのかかわりのなかでしかそうした議論が為されない(ヴェントなんかもそうなのではないかなと思うのですが…)が故に、根底から理想再設計することが出来ないまま論争だけがたまっていくような印象もあります。

 

 もちろん、国際関係論の原初的な出発点においては、学際性・総合性が追求されるような理念やあり方もありました。しかしそうした、国際関係論の一部で為されていた大きな議論は、むしろ竹内さんや吉川さん、あるいは学術会議レベルで行われているように思います。国際関係研究の中で、この水準での議論、「この世界とは何か」という問題をじかに掴み出そうとするような議論をしていきたい、というのが、個人的なささやかな願いです。

 

 近代日本という問題と絡めていえば、「こうした社会科学的な認識はいつごろ、どのように形成されてきたのか?」ということ、つまり竹内論文的な社会科学論が持つ歴史性の解明が興味深いテーマとなるでしょう。石田雄氏のすぐれた仕事(『社会科学再考』、『続社会科学再考』、東京大学出版会、1984年、1995年)などを出発点に、いろいろと考えてみたいと思っています。

 

 では、とりあえずここまでにしておきます。

 

※2006年版では、字句の訂正と新たなコメントを入れました。

 

(芝崎 厚士)

 

 

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