論文評24 Article Review 24

 

Tarak Barkawi and Mark Laffey, “Retrieving the Imperial: Empire and International Relations”, Millennium, 31-1 (2002), pp. 109-127.

 

「帝国」的なるものの復権:IREmpire

 

ハートとネグリの共著Empire(Harvard University Press, 2000)は2000年3月の刊行以来、今年3月18日の時点ですでに52865部を売り上げ、10カ国語に翻訳されている。一世を風靡したかに見えたヴェントのSocial Theory of International Politics (Cambridge University Press, 1999)の売り上げが5760部に過ぎず、ヴェント本もその1冊であるケンブリッジ大学出版会の、Cambridge Studies In International Relationsの全75巻(当時)の総売上部数が約16万部であることを考えても、Empireが国際関係関連の書籍としては近年になく広く読まれていることがわかる。バークベック大学講師のバーカウィとロンドン大学講師のラフィーの(以下BL)共著である本論文は、ハートとネグリの仕事を評定し、さらなるインプリケーションを引き出すと同時に問題点を指摘した試みである。

Empireの積極的な貢献としては、International Relations(IR)にもとづいた世界理解の不十分な点をより直接的かつ鮮明に解明しうること、そしてその限りにおいて国際(the International)という言葉の持つより豊穣な意味合いを分析の俎上に載せられることがあげられる。従来のIRはいわゆるウエストファリア・モデル、すなわち閉じた実体(entity)としての領域主権国家間の関係としてのみ国際関係を見る。しかし、現実の国際関係は国境を比較的自由に越えて相互に影響を与え合う複雑で多様な諸関係が生起する場であって、ウエストファリア・モデルは20世紀後半においてさえ神話に過ぎなかった。そうした諸関係によって相互の主体(それはそれ自体移動しない国家であれ移動する主体であれ)がお互いを構成し、構成されるプロセスの中で国際関係は形成され、変容してきたのである。

 相対的に固定化された領域に基づく主体間関係のみを見る、すなわち「領域という罠」(territorial trap)にかかった状態で世界を見る場合、そうした現実は隠蔽されてしまう。しかし主権国家ではなく帝国概念を中心に据えて近代国際関係を見れば、「領域という罠」から脱却した視座を獲得できる。

そもそも、西欧主権国家体系が確立してきた歴史過程は、同時に西欧帝国主義が非西欧世界を植民地化し、支配していく過程と同時進行したものであった。その意味で、IRが依拠するようなウエストファリア・モデルの形成は、帝国的な支配と従属の諸関係の形成と不即不離の関係にあった。IR的な視点が見落とすのはまさにそうした帝国主義の進展過程と、それが西欧・非西欧世界が相互接触の結果お互いがお互いを構築していった歴史過程であり、それは例えばギルロイやアッパデュライといった、ポストコロニアルな視点からの諸研究が明らかにしたような社会的、文化的な側面だけでなく、政治的、軍事的な関係においても看取することができる。

「帝国」概念は、こうした世界大の歴史過程、世界史の現実を形成していった諸現象を検討する途を開くのであり、Empireはこうした方向へ国際関係研究を開く先鞭を付けたという意義を持つ。特に、労資対立というマルクス主義の古典的なテーゼを焼き直した、一般庶民(multitude)が世界政治に果たす役割の強調という視点は、アイデンティティ・記憶・歴史といった点を巡る人々の生活レベルでの政治を、帝国主義の拡大と世界市場の成立、そしてそれと密接に関係する主体化権力の作用、といった、文化研究や一部の文化人類学が開拓してきた、従来のIRではとらえきれない領野を国際関係研究者に示す。

しかし、Empireにも問題点はある。第一にその中心的な主張、すなわち古典的な帝国的実体はもはや存在せず、近代的な領域に根ざした主権ではなく、世界市場のネットワークを主な舞台にした人やモノのフローに浸透している脱中心的で脱領域的な、ポストモダニックが主権が登場している、という論点は、歴史的変化の断続性を強調しすぎている。こうしたEmpireのあり方が見られるのがテト攻勢以後のアメリカの方向転換である、という主張にしても、アメリカが世界に展開している軍事・政治的諸関係は依然として、まさに古典的な意味で帝国主義的であるという点から見ても支持し得ない。

また、核兵器の存在によって戦争の危険性がなくなり、近代的主権と帝国主義という組み合わせが、ポストモダニックな主権に根ざしたEmpireという形態へ変容していく条件の一つになった、という説にしても、印パ対立、パレスチナ問題といった対立関係、核拡散の問題などから見れば、そうした現状認識は支持できない。

結局、IRも、そして実はEmpireの議論も共にアメリカ的なのだ、とBLは言う。ウエストファリア・モデルに依拠するIRは、帝国であったヨーロッパ「旧世界」と主権国家であるアメリカ「新世界」との対抗関係を背景にしつつ、アメリカの主権国家性が全面化されるが故にその古典的帝国主義的性格が隠蔽される。IRと対抗関係にあるかに見える左翼的な視点に立つハートとネグリがポストモダン的主権の名の下で概念化したEmpireもまた、旧世界の血みどろの殺し合いの歴史からアメリカを切り離し、抽象化していく傾向を持つが故に、未だに失われていないアメリカの古典的帝国主義的側面が見落とされるのではないかとBLは考えている。

BLの最後の批判は、若干揚げ足取りに近いものの歴史的変化を過度に強調しがちな議論に対する一定の歯止めとしては評価できる。

 より注目に値するのは、BLがハートとネグリの問題提起を、国際関係というものを動かない主体同士の関係ではなく、動く主体間の関係としてとらえる際の視座構築の足がかりとしようとしている点にあると思われる。こちらの論点は、いわゆる「動く国際関係」を主として国際関係を把握する一連の試み(平野健一郎『国際文化論』東京大学出版会、2000年など)との関連においてEmpireを読み直す契機を生み、さらにカルチュラル・スタディーズやポストコロニアル研究と国際関係研究がどういう文脈においてコラボレートしていくか、またはし得るか、という、理論的な課題を考究する上で多くのヒントを与えてくれる。ただし、こうした方向性で議論を進める場合に、果たしてEmpireという歴史的な負荷の高い用語がどこまで適切かどうかはさらに検討を進める必要があろう。

 

 

 

 

 

(芝崎厚士)

 

 

 

 

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