論文評23 Article Review 23

 

Gerald Holden, “Who contextualizes contextualizers?: Disciplinary history and the discourse about IR discourse”, Review of International Studies 28 (2002), pp. 253-270.

 

メタIR言説論:IRの学問史研究をめぐる方法論的考察

 

 国際関係(international relations, ir)を人間存在を規定する境界設定に基づく諸関係という意味で「文化」とみなし考察する分野が「文化としての国際関係」であり、国際関係論(International Relations, IR)という認識の装置それ自体を「文化」とみなし考察する分野が「文化としての国際関係論」である。後者においては、IRと「国際関係論」の差異も考察の対象となり、その意味では中立的な「国際関係研究(study of international relations)」という概念を用いて、「文化としての国際関係研究」と呼ぶ方が望ましい。

 

 欧米のIRにおいては、ここ7,8年ほどの間に、「文化としての国際関係研究」に照準する研究が数多見受けられるようになった。しかし、それらの諸研究全体に関する総括的な仕事はこれまで不十分であった。フランクフルト大学のホールデンによる本論文は、そうした総括的な考察の端緒と位置づけられる。

 

 IRは基本的には「英語を話す人々」(anglophone)のもので、英語圏の研究者たちは英語で書かれ、英語に翻訳された文献のみに依拠して活動する。しかし、実際には世界中で多様な国際関係研究が営まれている。そこで、IRの歴史を記述する際には、第一にアングロ・サクソン世界内部での歴史をこれまでとは違った形で研究していく方向性と、第二に英語圏以外の様々な地域を含めたグローバルな経験としてのIRの歴史を記述する方向性が生まれる。本論文が主に考察するのは、前者に関する議論である。

 

 前者に関しては、過去のIRの歴史をどのように文脈化(contextualize )するかが問題になる。ここで主に引照されるのは、近年の当該分野の代表的な研究であるシュミット(Brian Schmidt, The Political Discourse of Anarchy, State University of New York Press, 1998.)、ダン (Tim Dunne, Inventing International Society, Macmillan, 1998.)、グッズィーニ(Stefano Guzzini, Realism in International Relations and International Political Economy, Roultedge, 1998.)の著作である。

 

 ホールデンの主張は大別すると4段階に分かれる。第一は、これらの新しい諸研究の特徴の整理である。それらは、これまでの研究が陥りがちであった、国際関係の歴史上の実際の出来事が、学問としての国際関係を形成し、変化させてきたと見なす、アカデミズム外部の歴史的文脈を重視する文脈主義(contextualism)を批判し、アカデミズム内部の言説のせめぎあいや展開過程をより重視する内在的言説アプローチ(internal discursive approach、これはシュミ

ットの用語である)を採用した点にある。

 

 第二に、こうした諸研究は、それ以前の通説とは異なった、より深く広い学問史的な理解を我々に与えたが、それと同時に方法論的に不明確な点を残す。

彼らは文脈主義を批判するあまり、文脈主義と言説内在的な手法をあまりに排他的にとらえようとしすぎている。と同時に、実際の分析の中では、彼らは文脈主義を完全に否定してはいないのである。こうした方法論上の混乱は、彼らがクエンティン・スキナーの思想史研究における一種の文脈主義的なアプローチが持っている良い意味での複雑さを十分に理解しておらず、スキナーの位置づけを誤っている点からも明らかである、ということである。

 

 第三に、言説内在的分析と並び、これらの研究が有している方法論的特徴として、批判理論的なスタンスをあげることができる。彼らはある特定の価値判断に基づいて、新しいIRの学問史を描出しようとしているが、それはそうした価値判断に立っている以上、その価値判断が由来するある特定の時間的、場所的な制約の下で生まれたものである。つまり、IRの学問史を考察し文脈化する研究者自身の立ち位置もまた、さらに上の視点から歴史的な文脈の中に位置づけて

いくことが必要なのである。

 

 第四に、批判理論的な立場をとるこれらの論者たちが依拠している文脈とは、60年代以降の世界規模での社会変動が生んだ知的風土であり、彼らの多くが大きな影響を受けているフーコーやデリダの理論もまた、そうした文脈から生まれているのであって、彼らの立場をそのような歴史的な背景と切り離すことはできない。

 ある作者が持つ意図(intention)を固有の歴史状況に即して非決定主義・非還元論的に読み解いていくスキナー的な文脈主義の普遍的有効性と、70年代以降欧米圏に輸入されていったにすぎない批判理論が持つ欧米IR固有の特殊性を指摘し(この指摘自体がスキナー的な視座からなされている)、シュミットら近年の文脈決定者(contextualizer)たちの方法論的な無自覚性を批判していく、というのがホールデンの本論文における戦略である。

 

 スキナーの「誤読」に関しては、シュミットらの仕事が先駆的であることと引き換えに存在する道具立ての拙さをやや不当に貶めているともとれるが、今後の理論的枠組を確立していく際には有効な指摘である。いっぽう、批判理論の歴史性に関しては、観察者それ自身が分析の対象となる社会科学においてはある意味誰も完全な外部に立ちえない、という論点と関わる問題である。

 

 この点はフーコーに即してもよく論じられてきたものである。とはいえ、社会科学における客観的、もしくは中立的な立場構築はいわば仮説のレベルにとどまるのであって、それが厳密には完全な外部たりえないとしてもその構築した視座からの見え方が結果としてどこまで外部的なものの見方として説得力を持つかどうかに、ある特定の視座が持つ意義があるのではないであろうか。

 

 あらゆる学問的な考察はスキナー的な固有の文脈から逃れ得ないが、同時に幾分かの普遍妥当性を持ちうるものである。その普遍妥当性が完全なものになり得ないからこそ、それぞれの時代に生まれた人間の努力もまた無限になりうるということなのではないであろうか。そう考えてみると、批判理論に依拠することの歴史性を批判するだけでは片手落ちでもあり、そこに本論文の功罪が存するということができそうである。

 

 

(芝崎厚士)

 

 

 

 

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