論文評18 Article Review 18

 

Barry Buzan and Richard Little, "Why International Relations has failed as an Intellectual Project and What ot do About it", Millennium 30-1, pp. 19-39.

 

失敗した知の企てとしてのIR

 

『国際問題』2002年1月号(第502号)、77−79ページ。

 

 ウエストミンスター大学教授のブザンとブリストル大学教授のリトル(以下BL)による本論文の主張は、国際政治学(International Relations, IR)は、知の企てとしては失敗であった、といういささか衝撃的なものである。

 その理由は、第一に、IRは他の学問分野から様々な概念や理論を借用するものの、IRが他の学問に対してほとんど影響を与えなかったこと、第二に、アカデミズムの外での公的な論争をほとんど生み出さなかったこと、第三に、いまだに国家間関係を分析の軸に据えていること、である。その結果としてIRは、他の学問分野からみて「遅れた」('backward')社会科学と見なされるようになっており、内部でのみ流通する議論に汲々としている、というのである。それには二つの原因がある。

 第一の原因は、ウエストファリア体制を理念型と見なし、その理念型を基準に過去を解釈するため、歴史を非歴史的に、時には反歴史的に解釈する傾向を持ってきたことである。BLはこれを「ウエストファリアの拘束衣(Westphalian Straitjacket)」と呼ぶ。

 こうした傾向は、IRが二度の世界大戦という現代の激変を理解することを目的として誕生した結果歴史的視座が十分でなかったことや、ヨーロッパで生まれた主権国家システムが世界大に拡大したという通念を素朴に信仰して、国際システムの多様なあり方に対する視点が欠如していることからも強化される。

 第二の原因は、世界を全体として一貫して把握するような展望を確立することを怠り、ひたすら研究を細分化し、理論的な分裂を進行させてきたことである。一般に近代科学は分析を主な任務とし、専門分化を深める傾向を持つ。しかしIR研究者の場合、そうしたドライブに加えて、国際関係現象を過度に単純化して政治的・軍事的領域(両者はしばしば混同される)に還元してしまいがちであり、歴史的発展過程や経済、社会・文化的な領域との相互作用が無視されることになる。その結果として、国際関係全体の有り様を総合的に把握するような、big/wideな視座をうち立てることは少なく、研究者の視点はますますsmall/narrowになってゆくのである。

 さらに、「人は自分の飼い犬に似る」というたとえ通り、「ウエストファリアの拘束衣」をまとったIR研究者たちは、相容れないパラダイム間の激しい対立と競争という、アナーキーな世界の中で活動している。しかもその論争は時を経るごとに矮小化していき、論点はトリビアルになってゆく。そしてその論争は他の分野で行われた論争をいわば周回遅れで取り入れているものが多く、そういう意味ではIRは学問分野の中でも「周辺」に甘んじていると言ってもよいのである。

 こうした状況を踏まえて、打開策としてBLが提唱するのは、第一に「国際システム(international systems)」概念を媒介にした、IRと世界史研究(World History)の融合であり、第二には、その分析を行っていく際の、理論的多元主義(theoretical pluralism)の採用である。

 第一の主張は、「国際システム」にはウエストファリア的な、ハードな領土と国境を持ったものだけではなく、人類史的な視座から見れば多様なあり方が存在した、という前提に立っている。これはIR研究者が持つヨーロッパ中心主義的な非歴史主義(Eurocentric ahistoricism)を打開するためでもあり、同時に、「国際システム」が数々の変容を経ながら人類史全体にわたって様々な形態で存在してきた、とみなすことで、「国際システム」という概念を、国際関係現象を一貫して把握することのできる視座としてばかりではなく、彼らが成功例として盛んに引き合いに出すウォーラースティンの「世界システム」論と同様、他の学問分野に対しても影響を与えうる、IR発のグランド・セオリー的な視座として改めて定立することをもねらって提起されている。

 第二の点は、理論は同じ現実の異なる要素を見ているのにすぎないのであって、様々な要素の複合的な様相を理解するために、理論間の補完性に着目していこうとするものである。これは、リアリズム・リベラリズム・ポストモダニズム・コンストラクティビズム、もしくはホッブス的理解・グロティウス的理解・カント的理解、といった形で展開されてきた、理論の細分化・相互排他的な対立によるIRの分裂状況を打開することを目的としているのである。

 そしてBLは、こうした改善のヒントをもっとも与えてくれるのが自分たちの属するイギリス学派であり、コンストラクティビズムの良質な部分とイギリス学派の対話は、事態の打開に貢献するであろう、とやや手前味噌な形で局を結んでいる。なおBLは、共著であるInternational Systems in World History: Remaking the Study of International Relations (Oxford University Press, 2000)ですでに、こうした問題意識を踏まえて世界史研究との融合に着手している。

 BLIRにたいする現状認識には共感できるところが多い。そしてIRの目的を、人類史上に現れた「国際関係」の様相を理解してその意味を研究することにある、として今後の研究の方向性を見いだしたこともまた、IRを単なる政治学の下位分野としてではなく、確固たる歴史科学として発展させていく可能性を提示しているという意味で高く評価できるであろう。前出の共著でも、そうした意図はかなりの程度成功しているとみてよい。

 しかし、もう一方の柱である理論的多元主義に関しては、たどたどしい印象が強い。彼らの理論的多元主義は、今のところ多様な理論を並列して、相互排他性を排除するという程度のものでしかない。それではおそらく、IRは「失敗」したままであろうし、「国際システム」の人類史的な分析も、玉虫色の両論併記的なレベルを脱却しきれないと思われる。

 おそらく今後必要なのは、そこからさらに進んで、諸理論を破壊的に再創造することであろう。そして、その際には、主体と属性の水準癒着から脱却しなければならない。国際理論は一般に、重視する主体とその属性がセットになっている(国家中心主義とリアリズム、非国家行為体の重視とリベラリズム、など)ことが多い。しかし現実には、あらゆる主体間関係には対立から協力までの様々な可能性が常に同時に存在しているのであるから、主体と属性の組み合わせは常に非決定的であり、またそれらの関係は常に両義的であって、変化する可能性を持っている、と前提しなければならない。

 こうして、BLの主張するIR再生プロジェクトは、「ウエストファリアの拘束衣」からの脱却と同時に、そうした主体と属性の組み合わせの非決定性・両義性から出発して、理論的多元主義を超えた、国境を越えるあらゆる主体の相剋と相乗の様相を一貫して把握する理論的立場を伴ってはじめて、十分なものとなるであろう。そして、このような視座を構想することは、人類史的な視座と併せて、IRを、そして国際関係研究全体の「失敗」を克服していく契機にもなるのではないかと思われるのである。

 

(芝崎 厚士)

 

 

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