論文評16 Article Review 16

 

Ersel Aydinli and Julie Mathews, "Are the Core and Periphery Irreconcilable?: The Curious World of Publishing in Contemporary International Relations", International Studies Perspectives 1-2(2000), pp. 289-303.

 

国際関係研究業界におけるオリエンタリズム?

 

 学者は言語によって支えられ、同時に制約を受ける。そのことをJ・K・フェアバンクは自著の日本語版への序文で、学者を母国語という「湖水」に浮かぶカモに擬してこう述べた。「調べることの好きなカモは確かに、水面からもぐって、草や泥、あるいは何か湖底の証拠となるものを体につけて、また水面にあがってくる。しかし空気は水とは違った媒体である。どんな軽快なカモでも、翼をバタバタさせ、苦心の揚句やっと空にのぼることもできるだけである。空にのぼることができても、そこに高く棲息することはできない」(市古宙三訳、『中国』上巻、東京大学出版会、1972年、5ページ)。

 

 日本では、英語に通暁する研究者が増加し、日本国際政治学会が英文誌International Relations of the Asia-Pacificを刊行するなど、状況は改善されつつある。マッギル大のアイディンリ(トルコのクルッカレ大と兼任)とマシューズ(以下A&M)によるこの小論は、こうした問題の背景に伏在する論点を大胆に明示している。

 

 パラダイム上の差異に関しては、さまざまな分析がなされてきた。しかし、地理的な差異、いわば国際関係研究における「空間的な境界(spatial boundaries)」がもたらす影響については十分検討されてこなかった。ISA(米国国際関係学会)の理念からしてもIRは真の意味で「国際」的であるべきであるし、欧米での議論は世界中で共有されるようになっており、グローバルな関係を理解し課題を解決するためにも欧米以外の議論を取り入れる必要性は高まっている。

 

 IRというディシプリンは、自らを精緻化しようとするあまり硬直的な学問になる恐れがある。あらゆるテクストには求心的な力と遠心的な力がある、というバフチンの理論に従えば、多様な声を取り入れて双方の力のバランスを取ることが必要となる。

 

 以前から、IRがアメリカ中心主義・欧米中心主義であるという批判はなされてきた。欧米に属さない「周辺」の人々の研究は、「盛んである(flourishing)」と認識され、ある程度注目されつつあるが、認知の程度は不透明である。本論文の目的は、こうした現状を把握して課題を提示することである。

 

 まず、アメリカ、英国の雑誌を中心に、それにカナダ、オーストラリア、ドイツ、スカンジナビア諸国、インド、ロシアなどの代表的な雑誌を20種類選ぶ。それらの雑誌に90年代に掲載された論文の著者を、国籍や所属機関、名前などをもとに判断して分類する。使用されるカテゴリーは、@グループ4(core):アメリカ、Aグループ3(periphery of the core):カナダ、イギリス、西ヨーロッパ、イスラエル、オーストラリア、Bグループ2(core of the periphery):インド、日本、ロシア、東ヨーロッパ、中国、韓国、Cグループ1(periphery):その他、である。同時に、論文をテーマ別にも分類し、テーマとグループの間に関係があるかどうかも検討する。

 

 その結果は予想通りで、アメリカやイギリスの雑誌ほどグループ4や3が多く、グループ2や1は少ない。また、グループ4、3が主に理論的な最新の展開を執筆し、2、1は主に自国の地域のケースを研究、紹介する(4,3の著者と共作することも多い)という、ある種の垂直的国際分業状況が現出していることも看取される。

 

 例えばJournal of International Affairs, Mershon International Studies Review, Journal of Conflict Resolution, International Organization, International Studies Quarterly, International Security, World Politics、以上のアメリカを代表する7誌を分析してみると、グループ4以外の寄稿者は全体の15.25%である。グループ1、グループ2の寄稿者はわずかに3.28%であり、これに、グループ3、4に属していても、名前から判断して1、2の国に関連がある寄稿者を加えても10.47%に過ぎない。

 

 中にはJournal of International Affairsのように、グループ1,2の寄稿者が8.82%、名前から判断した数を加えると27.45%にのぼる雑誌もあるが、これは同誌がさまざまな地域の特集を組む際に、地域研究の専門家に寄稿を求めることが多いためである。多様な集団間の対話を促進することを規約に定めるISAの雑誌International Studies Quarterlyに至っては、アメリカ以外の寄稿者は10%に満たず、グループ1の寄稿者は1.5%以下という皮肉な結果が得られた。

 

 このように、コアに近ければ近いほど周辺の寄稿者は減り、また理論的な考察であればあるほどコア以外の寄稿者は少なく、周辺に近ければ近いほどその研究者は自国を論じる役割に限定される、という状況が判明した。実際には特定の地域を論じる場合でさえ、周辺の執筆者は少なすぎるとA&Mは述べている。

 

 さらに、グループ1に属して、アメリカ、カナダ、イギリス、ノルウェイで博士号を取得した、もしくは近く取得する9名の若手研究者にインタビューを行って議論を補強している。生々しい証言を引用しつつ、コアに完全に同化(assimilate)しない限り認められることは不可能に近く、また理論的な議論をしようとしてもまともに受け止められないような風潮が存在していると彼らの多くは認識しているのである。

 

 結論としてA&Mは、アメリカ・欧米中心主義的な風潮はほとんど改善されていないこと、学術誌は門戸開放の努力をさらに行うべきであること、英語以外での寄稿を認め、翻訳サービスの充実をはかるべきであること、ISAのような組織が国際会議などの積極的に対話を促進し、実現する行動を取るべきであることを強く主張している。

 

 冒頭に紹介した部分に続けてフェアバンクは、翻訳は相互理解と同時に摩擦を生む可能性もあるが、それでも「世界の大国民はみな、互いに愛し互いに助けることができる」と考えたいと述べている。国際関係研究が現状に至った原因は複雑で、それ自体学問的な検討が必要である。また、オリエンタリズムと同様、こうした権力関係がコア対周辺だけでなく、あらゆる自他関係に存在し得る以上、我々は自己批判なき他者問責に奔るべきではない。国際関係研究を充実させるための課題の一つとして、すべての研究者の協働による慎重かつ着実な事態の改善を望みたい。

(芝崎厚士)

 

 

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