論文評14 Article Review 14

 

Rogers Brubaker and Frederick Cooper, "Beyond 'identity' ", Theory and Society 29-1 (2000), pp.1-47.(『国際問題』第496号(2001年7月号)、92−94ページ)

 

「アイデンティティ」を超えて−分析概念としての飽和

 

 文化人類学者の前山隆氏は自身の研究の中で、(1)他者による名づけとしての「範疇」、(2)自己解釈としての「アイデンティティ」、(3)研究者による「分析概念」を峻別し、三者の混同を回避しなくてはならないことを強調している(『エスニシティとブラジル日系人』お茶の水書房、1996年)。研究者が使用する(3)に対置すれば、(1)と(2)は研究対象が使用する「民俗概念」である。


 研究者と研究対象の概念化の間に適切な距離を維持しなければならないのは、文化人類学のみならず人間科学一般において注意されるべき点である。ナショナリズム研究に新生面を開いたNatinalism Reframed(Cambridge University Press, 1996)の著者であるUCLAのブルベイカー教授と、ミシガン大のクーパー教授のコラボレーションである本論文は、現在マジックワード的に氾濫しているきらいのある「アイデンティティ」という概念の用法を、同様の観点から批判した好論文である。


 冒頭でブルベイカーとクーパー(以下BC)は、アイデンティティ概念があまりに頻繁に使用されており、社会科学・人文科学は「アイデンティティ」に対してお手上げ(surrender)になっていると述べる。しかし、「アイデンティティ・ポリティックス」という言葉に集約されているように、現在世界の人々がアイデンティティという言葉を頻繁に使っているからといって、その語を学術的な分析概念として使用するのが自動的に妥当であるということにはならないはずであろうと論じ、分析概念としてのアイデンティティの妥当性とその代替可能性を検討していく。


 まず「社会科学における『アイデンティティ』の危機」では、「アイデンティティ」という語が、60年代以降エリクソン、フット、マートン、ゴフマン、バーガーなどによって使用され、また市民運動の高揚とともに広まり、70年代初頭には早くもクリシェと化していたものの、80年代以降台頭した人種、階級、ジェンダー研究によってさらに乱用され現在にいたる、という過程を振り返っている。BCに言わせると、「アイデンティティ」という語は、使われすぎて有効性を失いつつあるという意味で危機にあるのであって、今やアイデンティティ概念を無理に使わなくても可能な研究であっても、ほとんどの人は使って書くほうを選んでいるということになる。


 次に「実践カテゴリーと分析カテゴリー」では、こうした状況を分析するための概念として、ブルデュー由来の「実践カテゴリー(categories of practice)」と「分析カテゴリー(categories of analysis)」を導入する。前者は通常の社会的アクターによって日常生活の社会経験から生み出される概念(いわば「民俗概念」)であり、後者はそうした経験から距離を置いた社会的な分析者によって使用される概念(いわば「分析概念」)である。現在の人間科学研究者の多くが、「実践カテゴリー」としてのアイデンティティと「分析カテゴリー」としてのアイデンティティを混同してしまっている、というのが本論文におけるBCの核心的な主張である。「アイデンティティ」という用語を一切使うべきでないというのでは必ずしもなく、その使われ方が問題なのである。


 その点を詳述しているのが次節の「『アイデンティティ』の用法」、および「『アイデンティティ』の『強い』理解と『弱い』理解」である。まず、アイデンティティの用法としては、(1)利益(interest)の対極にある意味で、社会的・政治的行為の根拠となるもの、(2)ある集団の基礎的な同一性(sameness)、(3)個人や集団の中核にある個性(selfhood)、(4)社会的・政治的行為によって生み出される、集合的な行為を可能にするもの、(5)複合的で競合するディスクールによって現出する、現代人の、不安定で、断片的で、動揺する自我(self)、という5つが代表的である。アイデンティティという一語にこれだけの意味を込めてしまっているのはあまりに重荷であるし、また指示内容が曖昧になってしまうことは明白である。


 こうした用法を整理すると、(1)アイデンティティを普遍の同一性として本質主義的にとらえる「強い」理解と、(2)アイデンティティを常に変動し、浮遊するものとしてコンストラクティビズム的にとらえる「弱い」理解とに大別できる。BCによれば、(1)はある特定の利害関係からのアイデンティティをめぐる発言を結果的に強化する方向に作用する可能性があり、研究の客観性が損なわれかねないし、(2)は単なるクリシェで使われることも多く、またそれほど不安定で一定しないものならばなぜ(1)的な意味で使われてきた「アイデンティティ」という言葉で表現するべきなのか疑問であるし、分析概念としての有効性も不明確である。結局双方とも、アイデンティティと呼ばれる何かをあらかじめ措定して具象化する(reify)作用を持っており、それはアイデンティティ・ポリティックスに何らかの形で利用される可能性を孕むのである。


 実践カテゴリーと分析カテゴリーの混同を避けるためにBCが提唱するのは、別の概念の使用である。彼らは(1)同一化と範疇化(identification and categorization)、(2)自己理解と社会的位置(self-understanding and social location)、(3)通有性、関係性、集団性(commonality, connectedness, groupness)といった代案を提出し、アフリカ・東欧・アメリカのケースを用いてその妥当性を検討している。


 分析者と対象者の間に線を引くことが、科学における客観性を担保する条件であることは言うまでもない。もちろんこの客観性は完全なものではありえないが、完全なものでありえないからといって客観性の追求を放棄してよいわけではない。アカデミズムにおいて「アイデンティティ」概念がある意味で錦の御旗として機能しがちなのは、分析者も対象者と同様に現代社会の日常経験の中で「アイデンティティ」に敏感になっているためではないであろうか。


 しかしそこで止まることなく、自分自身の拘束性から自分自身を可能な限り切り離すような視座を持つことが必要であり、国際関係研究者もその例外ではない。BC論文は、ある意味で聖域と化している「アイデンティティ」に正面から挑戦した意欲作であり、また本質主義とコンストラクティビズムの関係を明らかにしようとしているという意味でも、味読に値する力作である。

 

(芝崎厚士)

 

 

 

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