論文評13 Article Review 13

 

Bradley A. Thayer, "Bringing in Darwin: Evolutionary Theory, Realism, and International Relations", International Security, 25-2 (Fall 2000), pp. 124-151. (『国際問題』第493号(2001年4月)、81−83ページ)

 

 進化理論とリアリズム−国際関係論における利己と利他

 

 真木悠介(見田宗介氏の筆名)氏は『自我の起原』(岩波書店、1993年)で、ドーキンスの「利己的な遺伝子」理論が遺伝子レベルの利己性と個体レベルの利己性を混同している、という発見を手がかりに、人間を含めた生物の「自我」の形成過程について、生命の誕生にまでさかのぼってユニークな考察を行っている。同書によれば、生物は自己の体内・対外において原初的に愛とエゴイズムを同時に抱え込み、両者の相剋を引き受けざるを得ない存在として創られており、愛とエゴイズムは、一方が一方の上位に立ったり、包摂したりするような関係には本来ないのである。こうした関係を真木氏は、利己・利他の重層的非決定性と呼ぶ。

 

 こうした議論を基礎に、真木氏は以降の仕事で、愛がエゴイズムを滅却することもなく、エゴイズムが愛を消し去ることもないような仕方で、ただし愛の側に重点を置きつつ、利己的であると同時に利他的でもありえるような社会を構想しようとしている。

 

 動物社会学、社会生物学の成果を社会科学の考察と連関させようとする試みは、『自我の起原』の高みに届くものは少ないものの、徐々に進められている。国際関係論ではこうした仕事は目立たなかったが、ミネソタ大学助教授のセイヤーが発表した本論文は、進化理論(evolutionary theory)とリアリズム、ひいては国際関係論とを架橋しようとしており、国際関係論の学際化の表れとして、注目したい作品である。

 

 セイヤーの中心的な主張は、進化理論によってリアリズムの弱点の改善が可能である、ということであり、副次的な主張は、進化理論は戦争やエスニック紛争といった国際政治上の主要問題の原因の解明に大きく寄与する、ということである。

 

 論文の分析道具としてセイヤーは、「根本的因果関係(ultimate causation)」と「直接的因果関係(proximate causation)」を区別する。前者は、後者を説明する「普遍的な言明」であり、後者は前者から演繹可能で、生の事象を直接説明するものである。

 

 これまでのリアリズムは、「根本的因果関係」としては(1)ニーバー由来の「人間の本性は悪である」、(2)ホッブス、モーゲンソー由来の人間は「支配欲」を持つ、という2つを、また「直接的因果関係」として(1)エゴイズム、(2)支配の2つを、それぞれ基盤としてきた。しかし、これらは単に神学的もしくは形而上学的な主張であって、科学的な基礎付けが希薄であるとセイヤーは断じる。

 

 いっぽう進化理論に従うと、リアリズムの科学としての脆弱性を取り除くことができる。つまり、(1)種の遺伝子レベルでの多様性、(2)「適者生存」による適応性の工場、(3)遺伝による適応性の継承、によって構成される自然淘汰を基礎におく進化理論を「根本的因果関係」と位置づければ、古典的なダーウィニズムやドーキンスの「利己的な遺伝子論」によってエゴイズムを、いわゆる「順位(dominance hierarchy)」形成の理論によって支配、というふうに、進化理論に即して「直接的因果関係」を説明することができるというのである。

 

 こうした理論化によって、リアリズムはヘンペルやポパーのような科学哲学の厳密なテストにも耐えることが可能な理論となる。さらにセイヤーは、こうして組み上げた論理装置の妥当性を、戦争やエスニック紛争の事例を引照して検証する。

 

 最後に結論として、本論文がマスターズやウィルソンといった進化理論研究者がもくろむ進化理論の社会科学への適用の一つの可能性を示していること、これまで社会科学が軽視してきた進化理論と、これまでの社会科学が重視してきた具体的な社会環境の影響分析の双方を上手に組み合わせていくことによって、マルチディシプリナリーな研究が可能になると述べて、擱筆している。

 

 セイヤーの狙いは、控え目に言って、半分成功していて、半分失敗している。失敗していると思われるのは、彼の主眼である進化理論とリアリズムの関係付けである。真木氏がセイヤーも依拠しているウィルソンやドーキンスを用いて明らかにしたのは、生物の利己・利他が、遺伝子レベル、細胞レベル、個体レベル、集団レベルにおいて重層的に非決定的であり、愛とエゴイズムは常に相剋するということである。

 

 真木氏はあえて利他の可能性に賭けてはいるが、それはあくまで非決定性を前提に置いた上でのことである。しかしセイヤーは、進化理論が究極的に逢着してしまうこの非決定性を、リアリズムの補強という目先の目的にひきつけるだけである。

 

 さらに、進化理論とリアリズムの親近性を指摘すること自体が、循環論法になっていると言わねばならない。ドーキンスを読めばよく分かるはずなのだが、進化理論における生物界の分析は、そこから人間社会へのインプリケーションを得ることを最初から目的としており、本来両義的であるはずの進化理論は、そうした傾向からイデオロギー的に一意的に歪曲されている面がある。そういう意味で進化理論とリアリズムは同根であり、進化理論もまた、というよりも科学一般が究極的には神学的、形而上学的な信念に裏打ちされざるを得ないことにセイヤーは全く気づいていない。

 

 このように、数々の錯誤があるものの、セイヤーが自然科学と社会科学の橋渡しを試み、学際研究の登攀口を確保しようとしたことは諒としたい。彼自身結論部分で指摘しているように、国際関係研究者がほとんど考慮の外に置きがちな自然科学的な知見を、従来の社会科学的な手法の良さを損なうことなく効果的に取り入れることは可能であるし、必要となっていくであろう。

  (芝崎厚士)

 

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