論文評10 Article Review 10

 

Daniel Philpott, "The Religious Roots of Modern International Relations", World Politics 52 (January 2000), pp.206-245.

 

ウエストファリア体系の「起源」としての宗教改革

 

吉川弘之氏が述べているように、学問の本来の目的は世界の全体を統一的に理解することにある。この目的を国際関係研究者が引き受ける場合、国際関係の特質を解明することが直接的な目標となる。そのために採りうる手法は大別して二つである。すなわち第一が将来の変化の予測、第二が現状の起源の解明であり、どちらに重点が置かれるにせよ両者は根底において一つの目的−今我々が生きている世界とは何なのかということを理解すること−に志向している。

 

今回紹介する、UCサンタバーバラ校助教授のダニエル・フィルポットの仕事は、このうち第二の点を、これまでの「起源」をめぐる通説の妥当性を確認しつつも、「起源の起源」を遡及しようとすることを通して探究している。

 

近代国際関係の起源が1648年のウエストファリア条約であるならば、ウエストファリア条約を用意したのは1517年以降の宗教改革であった、というのが本論の骨子である。このことは夙に言及されてきたが、それらの指摘はいわば直観的もしくは部分的なものに過ぎず、「起源の起源」としての宗教改革を包括的かつ理論的に解明する作業が課題となるとフィルポットは考える。

 

そこでフィルポットはまず下準備として、クラズナーらに代表される、ウエストファリア条約を近代国際関係の起源と見なすことに対する懐疑的な見解に反批判を加え、(1)国家主権の確立と帝国機構の衰退、(2)政教分離と(欧州内での)宗教戦争の消滅という意味での、ウエストファリア条約の「起源」としての正統性を再確認する。

 

次に、今度はウエストファリア体制確立の原因を唯物論的にのみとらえる見解に反対して、コンストラクティビズムの概念を援用しつつ、宗教改革という「アイデア」の重要性を説く。かといって彼はコンストラクティビズムの二番煎じに甘んじているわけではなく、(1)アイデアがアイデンティティを形成する、(2)新たなアイデンティティを持ったエージェントたちがさまざまな社会変革を実現していくという、コンストラクティビストがうまく統合しているとは必ずしも言えない、アイデアに関する二つの過程を有機的に捉えることを目指しているという。

 

さらにフィルポットは、そうした社会変革のプロセスを(1)社会諸集団がエリートに圧力を加える「下からの宗教改革」(ドイツなど)、(2)エリートがより強力な役割を果たす「上からの宗教改革」(スイスなど)、(3)プロテスタント国家樹立の代わりに政治の世俗化を伴う社会的妥協を引き出す「政治的解決」(フランスなど)の3つに類型化し、それぞれのケースを分析する。

 

そして、それらの異なる経路に沿って、神と人の関係を変革する宗教改革というアイデアが聖なるものと俗なるものの分離につながり、さらに主権国家システムを基礎付けるウエストファリア条約へと諸国を導いていった過程を詳細に記述して、自らの仮説を検証し、宗教改革というアイデアが主権国家システムを導出したのであれば、新たなアイデアが主権国家システムからの脱皮という近年の傾向を生む決定的な原因となりうるであろうと述べて筆を擱いている。

 

通説としての「起源」の正統性を再確立した上で「起源の起源」を提出して見せたこと、そして歴史社会学やコンストラクティビズムを摂取しつつ、必ずしもそれらに回収されない形で議論を作り、ホルボーンやバラグラフによってなされていた、宗教改革が持つ国際関係史上の意義に対する指摘を仮説として提示しようとしたところが、フィルポットの新味である。

 

ただし、膨大な参考文献を引用している割には、リベラリストとコンストラクティビストにおける「アイデア」概念の差異を見逃すなど消化不良の面もある。またcounterfactualであることを強調しようとするあまり、論理が過剰になっている面もある。就中、そうした既存の議論との関係付けに勤しむあまり、宗教改革が「起源の起源」であることの意味自体については、通説的見解の域を出ていないのが残念である。いわば、宗教改革の歴史的な意義に対するフィルポット自身のオリジナルな考察が欠如しているのであって、それは本論文の最大の瑕疵であろう。

 

なかでもとりわけ核心にかかわると思われる論点は、宗教改革が「神と人類の関係に新たな概念を付与し」た帰結として、いわゆるindividualな<近代的自我>の確立をもたらしたことが持つ意味である。

 

聖と俗の分離による社会変動がウエストファリア体系という政治的要請へと接続されることは確かであるが、そこで希求された「俗」の秩序が、individualな国家が相互排他的に「主権」国家として存在し、それらの諸主権国家が一種の「国際社会」を構成する、というかたちでデザインされたのは、近代的な主体としての「個」を基本単位として(ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの転換という契機をも伴いつつ)社会が構成されるという、近代市民社会的な観念の先行的形成の結果でもある。

 

こうして宗教改革の「アイデア」としての最も重要な歴史的意義とは、いわば<自我−国家−国際関係>とでも言うべき近代的社会構成の階梯的思考を準備することになった点にあると思われる。明治−大正期の日本が近代的自我の確立と近代的国民国家の確立を同時に遂行しようとしたこと、その際に近代西洋哲学やキリスト教が自我の確立と国民国家体系に根ざした世界観の確立において、さまざまな偏差を含みつつも決定的に重要な役割を果たしたことからもわかるように、このような階梯的思考の形成過程は、西欧・非西欧を問わず、人々や国々が「近代」を「自分のものとする(apprppriation)」(シャルチエ)ための必死の知的格闘を惹起した、と仮設することができる。

 

このように、近代国際関係の形成は近代的自我の形成といわばセットになっており、両者を同時的に一貫して把握するような視座が要請される。そして<自我−国家−国際関係>階梯の形成と変容を問うことは、起源を問い、将来を予測するための有力な手法の一つともなりうる。フィルポットが分析している研究対象は、フィルポット自身が自覚しているよりもはるかに深い含意を持つのである。

 

(芝崎厚士)

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