論文評8 Article Review 08

 

グローバリゼーションと人権

 

Robert McCorquodale with Richard Fairbrother, "Globalization and Human Rights", Human Rights Quarterly 21 (1999), pp.735-766.

 

『国際問題』第488号(2000年11月)、59−62ページ所収。 

 

グローバリゼーション研究者は、普遍的価値の普及(及びその普及が生み出す相克)の例として人権についてしばしば言及する。一方、人権研究者の多くは人権が普遍化する要因としてグローバリゼーションをあげる。しかし、グローバリゼーションと人権の関係について、それ以上立ち入って具体的に論じようとした仕事は意外に少ない。オーストラリア国立大学のマコーコデール助教授がフェアブラザー研究助手の助けを借りて執筆した本論文は、特に途上国での人権擁護を軸に、考えられ得る様々な側面からこの点を簡便に整理し通観した作品である。

 

まず序論でマコーコデールは、本論文の目的を、グローバリゼーションが人権の擁護に及ぼす影響を国際人権法の観点から分析すること、と規定する。次節「グローバリゼーション」では、グローバリゼーションとは第一義的に経済的なプロセスであり、それによって国家主権が変容し、冷戦終焉以降は非国家主体、特に多国籍企業や政府間組織の重要性が増すと同時に「下からのグローバリゼーション」(フォーク)として市民社会や非政府組織が力を強めることを指摘し、人権の擁護はこうした「下からのグローバリゼーション」という流れの中に位置すると述べている。

 

 第三節「国際人権法」では、既に人権は国際法の一分野の中に確固として位置付けられ、人権擁護の必要性は普遍的な合意を得ており、人権問題は世界規模での、政治、経済、社会、文化的な相互作用が生じる際に決まって持ち出されるようになったことを再確認している。しかし、こうしてグローバル化した人権に対しては、国際人権法は普遍的ではなく、西洋的・ヨーロッパ的なものに過ぎないという批判がある。この批判は、人権が特定の文化的な文脈に依存しているとすれば、国際的な人権擁護システムは不適切で有害なものであるという議論に結びつく。また、人権擁護の取り組みが依然として国家単位の枠組みで進められているということも批判の対象となっている。

 

これらの批判を受けて、現在人権は単なる市民権や政治的権利との関連だけではなく、経済的、社会的、文化的、集団的な権利として理解されるようになり、また人権の発展を促進する非ヨーロッパ的なシステムも動き始めている。人権は、上述の批判を踏まえる形でさらに人々の間に浸透している。

 

続く第四節「経済的権利と経済成長」では、経済のグローバル化に伴う全体としての経済成長が人権擁護を促進するかどうかという点について考察している。基本的には経済成長は生活水準を向上させ、人権の促進につながるが、現実には逆の場合も多い。

 

それは、(1)開発投資がハードなインフラストラクチャーに向けられることが多く、福利厚生や教育がおろそかにされる傾向がある(2)開発投資が社会の福祉を無視した利潤追求に走りがちであり、その結果環境汚染が進行する。あるいはIMFの構造調整プログラムに端的にみられるように、意思決定に受け手の社会が参加できず、政府の力も脆弱であることから利潤追求が抑制できない(3)いわゆる「飢餓輸出」が象徴するように、単なる指標上の経済成長は逆に人権侵害を助長することもあり得る、といった理由のためである。こうして、経済発展は人権の擁護とセットで進められなければならない。

 

第五節「政治的権利と国際投資」では、経済のグローバル化と民主主義の促進(人権の促進)の関係が考察される。この点については、経済決定主義的な立場に立つ、あるいは投資環境の整備としての「法の支配」の直接的、間接的な要請が民主主義を促進するとみなす、等の理由から関係をポジティブに捉える見方がある。その一方で、経済発展のためにはむしろ権威主義的体制のほうがよい、あるいはグローバリゼーションによって途上国政府の力は脆弱となる、「法の支配」が確立することと民主主義の促進は必ずしも同じではない(さらに言えば、民主主義の促進と人権の促進も必ずしも同じではない)、ということから関係をネガティブに取る見方があり、この点でもグローバリゼーションは両刃の剣的性格を持っている。

 

さらに第六節「文化的権利とグローバル・コミュニケーション」では、いわゆるITの進展が人権擁護に与える影響を考察している。グローバル・コミュニケーションの発達は、人権侵害をより可視的なものとしたが、同時に実態を矮小化し、また報道されないケースが黙殺されるという逆説的な面がある。他の大手通信社の四〜七分の一しか支局を持たず、二〇〜三〇分の一の海外特派員しか擁していないCNN(数字は九七年)の報道が「安全保障理事会の一六番目のメンバー」(ガリ事務総長)と形容されるほど過剰に影響力を持つ、ということも問題である。こうしたメディアによる「歪曲」という点からも、グローバリゼーションと人権の関係を単純に観念することを躊躇させる。

 

最後に「結論」では、国家単位だけではないより柔軟な枠組みでの人権擁護の促進、人権擁護をこれまで以上に考慮に入れた援助・開発の実現、などによって、効率と利潤を優先するグローバルな自由主義市場経済が人権という価値に及ぼす圧力へ対処することで、危機であると同時に好機でもあるグローバリゼーションという現象の中での人権促進への展望を示している。

 

NIMBY(not in my backyard)症候群」(ランファル)の典型例と言うべき、ローレンス・サマーズの悪名高きメモランダムをはじめ、国連や国際機関の重要文書をふんだんに引用した本論文は、グローバリゼーションが経済・政治・文化もしくは社会面で人権擁護にもたらす、両刃の剣的な影響を的確に整理した、よい意味で便利な作品である。しかしその一方で、事実の整理に終始するあまり、概説として書かれたという点を割り引いても、欠落してしまった論点があるように思われる。

 

それは、グローバリゼーションが人権という概念それ自体に与える影響、さらにいうならばグローバリゼーションの進展が人間そのもののあり方を変容させるという点に対する考察の欠如である。国民国家が主権概念に基づいてビリヤード・ボール的な主体として観念されたのとほぼ同様に、近代において人間は自我概念に基づいて一貫した合理的な主体として観念された。人権という概念もまた、そうした近代的な人間主義に立脚して形成され、発展してきたものである面は否めない。

 

グローバリゼーションの進展は、古典的なナショナリズムに基づいた国民国家観を変容させると同時に、近代的な人間主義に基づいた人間観をも確実に変容させる。もちろん、国家が存在意義を失って消滅することがないのとほぼ同様に、人間が「波打ち際の砂の表情のように」(フーコー)消滅するわけではない。しかし、こうした人間観の変化を踏まえて人権概念を再検討しなければ、グローバリゼーションと人権の関係について論じ尽くしたとは言い難い。この点はグローバリゼーション研究者、人権研究者、そして国際関係研究者に等しく共通する、重要であるにもかかわらず看過されがちな課題である。

(芝崎厚士)

 

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