論文評4 Article Review 04

 

グローバリゼーション、国家、変容する社会的紐帯

 

Richard Devetak and Richard Higgott, "Justice unbound? Globalization, states and the transformation of the social bond", International Affairs, 75/3, 1999/07, pp.483-498.

 

(『国際問題』第483号(2000年6月)、67−69ページ所収)

 

 最近著The Spectre of Comparisons (Verso, 1998)においてベネディクト・アンダーソンは、『想像の共同体』における議論をさらに洗練した形で提示した。すなわち彼は、サルトルのsérialité概念を援用しつつ、ナショナリズムを含めた近代世界における集合的な主体性の形成を、劃られた集列性(seriality bound)、遍在する集列性(seriality unbound)という二つの概念によって説明しようとしたのである。

 

 前者は、人口調査や地図作製等によって一つの均質な集団(例えば国民)の存在を人々に想像させることで形成され、後者はそうした均質な諸集団が世界中に存在している(例えば「諸」国民)という認識を人々に扶植することで形成される。両概念が重ね留められる場(site)が国民国家である。それゆえ近代の世界観や社会構想は、ナショナリズムに根ざした国民国家を基礎的な単位であると前提して形成・展開されてきた、というのがアンダーソンの議論の骨子である。しかしグローバリゼーションの進行は、国民国家を単位としてbound / unboundを重ね留めるという世界構成を根底から揺るがし、変容させてしまう。ウォーリック大学講師のデベタクと同大教授のヒゴットによる本論文は、この点を正義(justice)の問題を軸にして論じている。

 

 デベタクとヒゴット(以下DH)はまず、冒頭でケインズを引用し、人類にとって政治的に重要な問題として、経済の効率、社会的正義、個人の自由の三つを実現することをあげる。これらの問題を考察する際に我々は、安定した政治社会、すなわち明確な境界によって区切られた領域国家を単位とするアイデンティティや社会的紐帯(social bond)の存在を前提としていた。人々は主権国家毎に一括りに結びつけられて(bound together)おり、正義も国民国家単位で観念されていた。しかし現今主に経済面で進行しているグローバリゼーションとガバナンスの変容を考慮に入れると、正義の問題を考察する際にはこうした伝統的な前提から脱し、社会的紐帯が解体・再編しつつあるという前提から出発しなければならない。

 

 次のSovereignty and modern political lifeでは、近代世界において進行した、主権原則に基づいた政治・経済的な統合を基礎とした社会的紐帯の安定化過程を概観している。さらに、ラギーの「埋め込まれた自由主義(embedded liberalism)」、つまり国内と対外関係の安定的な運営のトレード・オフを実現するような仕組みが機能してきたが、グローバリゼーションが進展し、これまでの社会的紐帯の動揺や解体が進行しつつあるため、こうしたシステムに依拠した安定的な国内・対外関係運営は困難となってきた。その意味で、貿易や金融の国際化が代表するようなグローバリゼーションは、経済的な現象であると同時に政治的な現象でもあるのだが、そうした政治的な面はこれまで見過ごされてきた。というのも経済現象の分析は、それが持つ政治的効果を分離して捨象する形で進められてきたためである。その結果我々は、重要な論点を見逃してしまう。例えば、いわゆる「民主化」の問題は、グローバリゼーションが社会的紐帯を国家という単位から切り離し、国境を越えたかかわりを含める形で再編成していく強力な力として我々に等しく影響するにもかかわらず、民主主義に立脚した国家単位での安定した政治体制の確立が要請され、追求されるという意味で、パラドクスを孕んでいるのである。

 

 続くGlobal Governance and the transformation of the public sphereでは、こうした経済分析と政治・社会論の乖離を埋めるべく、新たな公共圏(public sphere)の構築について考察が行われる。まず、公共圏を論じる際に、市場と国家に加えて市民社会(civil society)という場が加わったこと、次にテクノロジーの進展により、公共圏の範囲はトランスナショナル、もしくはグローバルな単位に拡大したことが確認されている。

 

 そして、地球大のガバナンスを担う新しい主体としてのNGOs、およびグローバルな社会運動(GSMs)の活動が検討される。近年のNGOsGSMsはいわばボトム・アップ型で、グローバリゼーションに伴って不利益を蒙る人々の声を代弁し、それを政策に反映することで、新たな社会的紐帯に基づく正義の実現を追求しているのである。    

 

 さらにGlobalization, justice and the stateでは、そうしたNGOsGSMsとの連係という観点からみても、依然として国家の役割は重要であり(特にテロリズム、ドラッグなどの'collective bads'にかかわる面)、両者が補完的に機能することで、国家という単位から解き放たれ、流動化しつつある正義や公正を再編成しつつ保証するような超国家的な制度形態(supranational institutional forms)の確立を課題としてあげている。  

 

 DHが提示する現状及び現状に至る過程に対する認識、処方箋の方向性自体は、目新しいものではない。しかし彼らの視座はよく練られていて、示唆に富む。第一に着目すべきは、グローバリゼーションに対する国際政治経済学論と、政治社会論、もしくは社会構想論との間の積極的な架橋を試みている点である。上述の「民主化」のパラドクスをはじめ、経済の自由化の進展と、社会規範や価値の変容との関係をめぐって、鋭い考察が展開されている。

 

 第二に、これまでの研究が陥ってきたアカデミックなアポリアに対する危機感が、彼らにそうした架橋が必要となることを自覚させていることが重要である。文中でも言及しているようにDHは、限界革命以降進展した経済学的分析と政治学的分析の乖離、科学的な分析と規範・価値の問題との乖離を強く認識している。そうした乖離を解消するための手段として、架橋が模索されているとみなしてよい。

 

 DHは、再編成された公共圏における、今度は地球単位でboundされることになる「正義」のありよう、国家と非国家行為体との関係等については、必ずしも明確に言語化できてはいない。そうした「限界」を割り引いても本論文は、近年とみに主張される科学と哲学の再統合という課題に対する国際政治経済研究者発の真摯な展望として、検討に値する密度の濃い問題提起を行っている優れた仕事である。

 

(芝崎厚士)

 

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