論文評1 Article Review 01

 

国際関係論における「新功利主義」と「社会構成主義」

 

 John Gerard Ruggie, "What Makes the World Hang Together? Neo-utilitalianism and the Social Constructivist Challenge", International Organization 52-4, Autumn 1998, pp. 855-885.

(『国際問題』第480号(2000年3月)、77−79ページ所収)

 

 90年代のパラダイム・シフトをめぐる議論はこれまで無数になされてきたが、その中でも特筆に値するのが、International Organization誌が創刊50周年を記念して1998年秋に組んだ特集号であり、とりわけコロンビア大学教授であるラギーの手になる本論文は、コンストラクティヴィストの立場からの議論でありながらも、英語圏の国際関係論(以下IR)における論争の布置状況をさほど偏ることなく明確に示すことに成功している。

 

 なお、本論文は、上述の記念号を単行本化したExploration and Contestation in the Study of World Politics (Peter J. Katzenstein, Robert O. Keohane, and Stephan D. Krasner eds. , The MIT Press, 1999)に、若干手を加えたものがラギー自身の単著Constructing the World Polity (Routledge, 1998)に収録されている。

 

 本論文は、まずTHE CONVERGENCE OF THE NEOsにおいて、戦後IRの二大潮流であるリアリズムとリベラリズムが、相互に論争し、また各自がネオ・リアリズムとネオ・インスティテューショナリズム(新制度主義)として発展していく中で徐々に、Neo-utilitarianism(新功利主義、以下nu)として一括できるような理論的な立場となった過程を明らかにしている。

 

 すなわちnuは、国際社会のアナーキー性を前提し、国家を第一義的なアクターと見なし、国家のアイデンティティや利益を所与の外生的なものとしてとらえる。そして、ネオ・リアリズムとネオ・インスティテューショナリズムの争点としての相対−絶対利得、制度の役割といった問題は、nuという基本的な立場の枠内で論じられている。こうした収斂過程は、研究の精緻化を意味すると同時に、nu以外の立場に立つような現実把握がIR研究から不当に疎外されるという現象をもたらしたのである。

 

 こうしてラギーは、次節THE EMERGENCE OF SOCIAL CONSTRUCTIVISMにおいて、nuとの対比においてsocial constructivism(以下sc)の特徴を描き出す。比較の軸となるのは次の四点、すなわち@核となる仮定(core assumptions)、A観念的因果関係(ideational causation)、B統制的・構成的規則(regulative and constitutive rules)、そしてC変容(transformation)である。

 

 まず@については、nuがアイデンティティや利益を外生的かつ所与として前提すること、規範的要素の軽視を批判している。次にAについては、nuが行為の原因(cause of actions)の解明を目的とするのに対して、scは行為の理由(reasons of actions)の解明を目的としている。またBについては、nuが統制的規則(例えば交通法規)を分析するのに対して、scの分析の対象は構成的規則(例えばチェスのルール)である。最後にCでは、システムの変容を無視するnuに対して、変容を重視する。

 

 こうして、国家のアイデンティティと利益自体を問題とし、アイデアがもたらす影響を広く深く捉え、構成的な規則を重視し、変容を常態と見なして、さまざまなスパンにおいて生起する事実の影響を幅広く考慮に入れるという、scの基本的立場が明快に示される。

 

 続くTHE SOCIAL CONSTRUCTIVIST PROJECTでは、scの先駆者としてマックス・ウェーバーとデュルケムを取り上げ、再度scの基本的な特徴を整理した後、現在展開されているconstructivistの立場を三つに分けて説明している。その三類型とは、@neo-classical constructivismApost-modernist constructivismBnaturalistic constructivismである。@は、デュルケムやウェーバーの影響を受けた立場で、ラギーを含めてプラグマティックに社会学・言語学的知見を援用していく人々の総称である。Aは、ニーチェ・フーコー・デリダの影響下にあるグループで、社会科学そのものからはむしろ距離を置いた批判・脱構築を主眼としている。最後にBは、バスカールのnaturalistic realismに立脚するヴェントやデスラーをさしている。そして最後のPARADIGMATIC (IR) RECONCILABILITYでは、nuscの間の和解可能性を肯定的に捉え、何らかの幸福な妥協点(some happy middle ground)が見出しうると結論づけている。 

 

 ミクロ経済学的な合理性を核とするnuに抗し、社会学的な間主観性とダイナミズムに基づいた分析手法としてのscが登場する、というラギーの描く構図は、post-modernistをも自らの陣営に位置づけるという勇み足を割り引いても、現在進行中のIRの研究状況を最も的確に描写している。しかし、例えばグルベンキアン委員会が指摘するような、現在の社会科学が直面している課題にIRが答えるためには、nuに対してscを立てるという、ある意味で問題を横にずらすことだけでは済まないであろう。

 

 ラギーは、scは人間の意識や存在論的な考察を含むとしながらも、scとは「理論」なのかという問いに対して、ある箇所では理論ではなく「理論的に洗練されたアプローチ(theoretically informed approach)」であると表現する一方、別の箇所では「成熟した理論(full-fledged theory)」となることを期待するという矛盾した態度をとっている。これは、scの登場が(scが、ではなく)原初的に含んでいた社会科学としてのIRが孕んでいる幅の狭さに対する根本的な問いが、scの「理論」としての対自的な確立という作業によってかえって曖昧なまま閑却されかねないことをも示しているように思われる。 

(芝崎厚士)

 

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