ネパール日記



 はじめにのはじめに

「ネパール日記」と言いましても何年間もネパールに滞在していたわけではなくてただの8泊9日の小旅行なのですが、小心者の僕にとっては勇気をふりしぼって行った大冒険の旅でありますので、はじめてのおつかいに行く子どもを見守るぐらいの気持ちで読むと丁度いいと思います。
日記は旅から帰って来てすぐに書かれた物をほぼそのまま写し取りたいと思います。

 はじめに

ネパールでも日本でも「なぜネパールに?」という質問が多かった。
様々な理由がいろんな方向から合わさって結局は「なんとなく」という理由でネパールに行った。
「ネパ〜〜〜ル」という言葉のひびきもある。
日記中のネパール人との会話はおそらくこういうことを言ってるのだろうといういうことで書いてある。
会話はだいたい僕の年齢や相手の年齢を当てるということから始まったが日本人には若く見られたがネパール人はだいたい僕の年齢を当てていた。
このノートは旅中つけた日記をよんで思い出したものをつけくわえている。
字が小さいのはノートがたりなくなると計算したためだがあまってしまった。
誤字脱字だらけでしかも読みにくい。

2000年 11月16日(木) 出発前日

いつも通りバイトに行く。PM5:00になりバイトが終わると急いで家に帰る。PM6:00過ぎに家に着き、1週間も前から用意していた荷物のリュックサックの中身を確認する。
タオル、下着、くつ下、Tシャツ、セーター、雨具、洗面用具、薬、めがね、帽子、ハンカチ、ちり紙、トイレットペーパー、ウェットティッシュ、筆記用具、色えんぴつ、ノート、カメラ、フィルム、ガイドブック、サブバック、目覚まし時計、計算機、パスポート、サイフなど。
これらを確認してはリュックをしょいバランスを整えるというむだなことを1週間何回もくり返してきた。なんといっても初めての海外旅行であり飛行機を乗ることも初めてでわからないことだらけなのである。それも1人ぼっちとなるとそわそわするのもあたりまえである。そわそわもしていたが1人で旅に出るのがとても楽しみでワクワクもしていた。誰も知る人のない国で英語も全くといっていいほどわからないぼくが1人ぼっちで何ができるのだろう。なんとかなるでしょうとのんきでこんきょのない自信があるのはぼくの特徴の1つだ。
リュックの中を確認したあとフロに入った。明日からこんなにゆったり湯ブネにつかってはいられないだろうと思いながらゆったりしていた。フロからあがり夕食のブリのテリヤキを食べた。これも明日からは口に合う食事がないとも限らないと思い大事に食べた。
PM8:00ごろになり家を出ようとしたとき母が1万円をくれた。ことわったがお守りだといって受けとった。そして家を出た。家を出てすぐの所にある島田医院の前で父と会った。それじゃ寒くないかと声をかけられだいじょうぶとかえし駅に向った。

まずは姉である久美ちゃんちに向かう。AM6:30羽田発関空行きの飛行機に乗るには自宅からではとうてい間に合わず、綱島にある久美ちゃんちに泊めてもらい、朝、車で久美ちゃんのだんなの正美さんに送ってもらうということになっていたのである。
駅のベンチに腰をおろしまもなく電車が来た。ガラガラの電車のまん中あたりの車両の一番はしっこにリュックをかかえすわった。「地球の歩き方」をパラパラみながら入国の手続きの確認をし、表参道まで目をつぶっていた。表参道から久美ちゃんに電話をしてから東横線ホームを目指す。東横線は混むからすわっていった方がいいと言われていたが綱島まで30分くらいだからドアのわきにリュックをおろし立っていた。すると人がどんどんのりこみギュウギュウになりながら綱島に向った。綱島駅はたくさん人がおりるが改さつ口に向う階段が1つしかないらしくすごくこみ合った。
改さつを出てすぐの所に久美ちゃんが立って待っていた。少し雨が降っていたらしくかさをもっていた。まずは駅前のマックに行ってからミニストップに寄った。久美ちゃんが小腹がすいたときにあるといいといってプリッツとチョコとのどあめを買ってくれた。あとおいなりさんとビールとぼくのすきなリーフティーもかってくれた。そこから久美ちゃんちまで歩く間にもう1人の姉である美いちゃんから久美ちゃんの携帯に「気をつけてね」とメールが入った。
久美ちゃんちには正美さんがすでに帰っていておなかをすかせていた。ニュースステーションをみながらビール、おいなりさんをたべた。久美ちゃんはとなりの部屋でフェレットのマロンとクッキーと遊んでいた。電気を消しニュースステーションでやっていたビートルズのプロモ「ペニーレイン」を見てから明日のためにねた。マロンとクッキーが元気よく動き回っていた。

2000年 11月17日(金) ネパールへ

AM4:00におきた。着がえてしたくしてすぐに家を出た。
外は少し雨が降っていた。まだ暗い街を車で羽田まで向った。モノレールはまだ動いていないらしかった。羽田の駐車場のパンダの階に車をおいて空港内へ。時刻はAM5:30。交通手だんや宿のてはいをしてくれたK旅行社の集合時間であるが1人ぼっちなので受付にいきパスポートを出し航空券を受けとった。そして出発ロビー入口で久美ちゃんと正美さんにお礼を言い、出発ロビーへ。
ゲート入口付近のいすにすわっていると他の人たちがなにやら航空券を機械に入れている。これがうわさのマイルをためる機械だなとぼくも航空券とわきにそなえつけられていた簡単なカードを入れた。どうやら関空までじゃだめらしく、すぐもとの席にひき返しすわった。
AM6:00ごろになりジャルウェイズの方がゲート入口に立っていよいよ初の飛行機に乗り込む時が来た。ゲートを通り通路を歩き、わきにおいてあった新聞をなれた手つきで手に取り、スチュワーデスさんの「おはようございます」というあいさつにかるく会しゃくをし、さっそうと飛行機に乗り込んだ。
自分の席の番号を確認し座っていきなりそなえつけてあるイヤホンをはめて新聞をよんでいると、自分の席がないという人がいる。これだからシロウトは困るよと思いつつ自分の席の番号を確認すると、なんとぼくの席はもう一つ後ろであった。何もなかったようにすぐに後ろの席に移った。
シートベルトのしめ方などのビデオをりちぎに見てシートベルトをしめ、いよいよ離陸である。飛行機はゆっくりとかっ走路まで移動して、なにやらエンジンの音が急にはげしくなる。いよいよだいよいよだと思いながらも表情はいつものりなれててあきちゃったという感じですましていた。飛行機のスピードが上がっていき、陸をはなれ、上昇していったが真中の席だったのであまり実感がわかなかった。なんだこんなものかと思いつつ、たまにゆれると少しビビリつつ、出されるリンゴジュースなどをのんでるうちに関空についた。

関空についたはいいもののいったいどこへいったらいいのやらまるでわからない。とりあえずみんながのってる動く床にのりウロウロしているうちになんとかチェックインカウンターまでたどりついた。ここではパスポートと航空券を見せ空港使用税を払い、出国の手続きや出発ゲート行きのシャトルの場所などを教えてもらった。手荷物検査を受けていよいよ出国の手続き。ここにはカトマンズに行く団体客がたくさんいた。山登りがしゅ味のおじさんおばさんが多い。出国手続きは1人1人しっかり見るのでだいぶ時間がかかった。それからシャトルにのって出発ゲートへ。
すぐに飛行機にのりこんだ。スチュワーデスさんはタイの人らしく、なまった日本語で「おはようございます」といった。ぼくの席は今度は左の窓側だったので今度の離陸はどんどん陸が海が離れていくさまが見れて楽しかった。雨が降っていたが雲の上に出るとすごい日ざしだった。雲の上の世界はげんそう的で遠くの方から神さまが歩いてきてもいいんじゃないかと思った。機内食は全部食べたが食べずらかった。トイレに入ったがカギがしまらずぼくの前に座っていたヨッパライが入ってきた。飛行機はどんどん進みインド洋の上まできた。となりにすわっていたおじさんは東京の写真の会社に勤めていて、今回は大阪に住んでいる奥さんと娘さんと3人でネパールに旅行とのことだった。前に娘さんがネパールに行ったとき前の国王の方と知り合いになって今回はとめてもらうらしい。そのうち機内でビンゴゲームが始まった。ぼくのビンゴカードはどんどんリーチになっていくがとうとう最後までビンゴにならなかった。
ネパールが近ずくとヒマラヤが右の方に見えてきた。エベレストも見えた。初めて見るヒマラヤはさすがに神々しかった。山自体が神様のように思えた。ヒマラヤはずーーーーっとつながっていた。となり合わせた家族としゃべっているうちに飛行機はとうとうカトマンズに近づいてきた。山しか見えなかった地上に家が見えるようになりカトマンズの街が見えてきた。どんどん家の屋根が近づいてきて大きく見えるようになったらいつのまにか飛行機は地上につき、地上を走っていた。8、9時間乗った飛行機の中で体をのばしカトマンズの空の下に出た。

となり合わせた家族と別れ入国手続きの方へ。たくさんの日本人団体客で混み合っていたので先に両替場に行った。両替する人はあまり並んでなかったが1人1人すごく時間がかかった。ぼくは1万円を両替した。ネパールルピーは見なれないため数えるのに手間どったがちゃんと数え小額紙幣をまぜてもらった。入国手続きには日本人団体客がいなくなり欧米の団体客で混んでいた。列がいくつもあるのでどこへ並べばいいかわからないが両替を先にやっていた他の日本人に聞いてなんとか入国手続きをすませた。次は手荷物検査だがぼくがくぐるとビーーとなった。が、いいよいいよとながしてくれた。そしていよいよ空港の外に出た。
するとたくさんの客引きが横一列にずら〜〜〜と並んでいる。なんとかK旅行社のガイドさんを見つけた。ガイドさんの名前はプラカスさん。飛行機が遅れたのでずっと待っていたらしかった。予定では今日はガソリン値上げによるストライキがおきて車が走らずリキシャで移動するはずだったが、どうやら解決したらしくタクシーに乗ることができた。タクシーといってもおんぼろ自動車で前がつぶれているような車も走っている。そんな車でタメルにあるホテルムーンライトへ向った。初めてみるカトマンズの街にぼくはそれだけでカルチャーショックを受けた。なんかすごい。走っているバスはギュウギュウで屋根の上にも人が乗っている。道路の交通量はすさまじく、バイク、リキシャ、人々がみんなどっち側通行かわからない。信号はほとんどなく、あっても使われてないような状態で、クラクションは1つの車につき5秒に1回はならしている状態でビービーうるさい。子供たちはタイヤをころがしてはだしでかけまわっており、牛はのんびり歩き、犬はだらけていた。街の風景は砂ぼこりの中のはいきょの街という感じでボブディランの「はいきょの街」が似合いそうだ。レンガ造りの家はくずれかかってるのが多い。王宮はとても立派だった。タメルまでくると道がせまくいりくんで、ますます道が混雑してくる。車のサイドミラーはみんな折りたたんでおり、
みんなすれすれをすれ違っていく。人々の目がするどく強く、みんな車の中の日本人をにらんでいるように見える。みんな悪人顔だ。車がとまるたびに人々が車の中のぼくをのぞいている。ぼくはこの街を1人で歩くことが出きるんだろうかと不安になりながら、宿であるムーンライトに着いた。

ムーンライトではまずチェックインのために紙にパスポートNO
、国籍など書きこむ。英語がさっぱりわからないぼくはプラカスさんの助けをかりながらやっと書いたが自分の名前に大文字小文字がまざってしまった。そして翌日の市内観光やカトマンズを出る日の待ち合わせ時間の打ち合わせをしてから部屋へ、ルームNOは404、プラカスさんがボーイさんに電話やシャワーのお湯を調べさせていた。お湯はでない。昼は5分朝夜は15分くらい出しっぱなしにしていればお湯になるとのことだった。
プラカスさんにお礼を言い部屋に1人になった。窓の外に見えるのはたくさんの民家、屋上でのんびりと洗たく物をたたいてる女性や何をしてんだかわからない人など窓の外には初めて目にする日本以外の人々の生活があった。遠くに見える高いビルのかべはほとんどくずれ、中の階段がむきだしになって不気味な感じがする。そういった建物はあちこちにある。街の音はビービービービーやっぱりうるさい。ぼくはサブバックの中にガイドブックなどを入れてすぐに街に出ようと部屋を出た。しかしカギがしまらない。何回やってもしまらない。フロントにいきボーイさんにきてもらいカギのかけ方を教えてもらう。中のポッチを押してドアをしめればいいだけのことだった。そして夕方の街に出る。

表通りに出るのに人がすれちがうのにギリギリの小道を歩いていく。子供や女性、学生とすれちがう。みんなジロジロみている。表通りに出るとせまい道に人、車、リキシャがごちゃごちゃになっている。ぼくはてきとうに方向をきめてまっすぐ道を歩いた。後ろから車がビービーならしてくるは前から人がぶつかるはリキシャが声をかけてくるは足元に犬がころがってるは前を牛がのんびり横ぎるはでとても歩きずらい。ここらの人たちは家の前で何をするでもなくボーっと立っていたりすわっていたりそんな人ばっかりだ。そんな人たちはぼくのことをジロジロみている。わきの小道をみると小さな子供たちがどろだらけではだしでタイヤをぼうでころがして元気に遊んでいる。子供たちはほんとにみんな元気であちこちで遊んでいる。犬はどの犬も耳がたれさがっていて、おとなしくというよりも元気がなくころがっている。牛はあまりいないが車にビービーやられてものんびりしている。人々はそんな牛を空気のように扱っているようだ。この道は地元の人用の店がならんでいる道らしく観光客らしい人はあまりみかけない。そんな道を歩いているうちに6本の道に分かれている交差点についた。ここでまよったらやばいと元きた道を引き返す。途中の店でミネラルウォータ−1リットル15ルピーをかう。初めてのおつかいをなんとかこなし宿に戻ろうと道を進むが、どの小道を入っていけば宿につばがるのかさっぱりわからなくなってしまった。とりあえずてきとうに小道を入っていくと民家にきてしまった。表通りに引き返そうとするとせまい道で犬とはちあわせになってしまった。おとなしいがかまれると狂犬病になると聞いていたのできんちょうしながらスレちがった。そしてまた違う小道に入っていく。今度は見覚えがあるが小道から小道へ何本か分かれているので宿がどこなのかわからない。スレちがった青年に地図を見せて聞くと「そこの小道を右に曲がって2分だよ」とのことだった。「ナマステ」というと青年はかわいいはにかみ笑顔で「ナマステ」と返し去っていった。

宿につくとテラスに飛行機で前の席でヨッパらっていたおじさん2人と青年1人がガイドさんと座っていた。声をかけて街をいっしょに回ろうと通りにくり出した。わけのわからない小道の他にすぐに表通りに出られる道があった。青年の名前は杉岡さん24さい。土木作業をしていて今回2人のおじさんのつきそいで初めての海外だそうである。「こんなとこ1人じゃよう歩けんわ。大阪より商売の街やな。」といっていた。他の2人のおじさんはうっちゃんとやっちゃん。そのスジの人らしく今回100万円現ナマで持ってきていた。3人共大阪人である。ガイドさんはラムさん。とても親切そうなガイドさんだ。タメルは民芸品、楽器、本、じゅうたん、両替所、レストランなどがみんな小じんまりとひしめきあっていてかん板だらけで歩いても歩いても同じような風景で、1人ではもう帰れない状態であった。街はお香のにおいでじゅうまんしている。途中立ち止まってじっとしていたら、はいつくばっていた人が足にからみついて手を出していた。うわっと思い先に進んだ。タンカ屋さんに入っていくといきなり真っ暗になった。停電だったがすぐついた。道にはサランギをひきながら「レッサンピリリ〜」と歌う人(ガイネ、吟遊詩人)が歩いていた。杉岡さんが道ばたでポップコーンを買ってたべた。おいしかった。少し大きめの通りにもこじきが多かった。ほんとに小さなまずしそうな子供が道ばたにおしりをつけて座っていた。あたりが暗くなりきっ茶店で紅茶をのんだ。このあたりどこにカメラを向けても絵になる感じだったがすでにぼくのカメラはこわれていた。
PM7:00になり夕食にしようとラムさんおすすめの店にタクシーでいくことになった。おんぼろタクシーに揺られて「ボジャングリハ」という昔の王様の宮殿を改装してつくられた、ネパールのダンスと音楽と料理が楽しめる1番のレストランについた。中に入るとサリーをきた美人ネパール女性たちが出迎えてくれておでこに赤い点(グッドラックという意味)をつけてくれた。階段を上りくつをぬいでお座敷の入口で手を洗うために水をそそいでくれた。お座敷に座るとロキシーという強ーいお酒を高い所からうまいぐあいにおちょこになみなみついでくれた。これは一口のんだだけで口びるがいたくなりざせつしたのでビールをたのんだ。よっぱらいおじさんたちはこれを何杯ものみ他のお客さんにちょっかいだしていた。くる人くる人にチップをわたしていた。やがてダルバートというネパール人の主食の料理がはこばれてきた。サラサラした細長いごはんをそなえつけてあるジャガイモや青野菜をいためて味つけしたものとまぜ合わせて手にとり、親指で押し出して口に入れて食べるとおいしかった。後からきた豆のスープをかけたりやぎの肉とまぜてたべてもおいしかった。やぎの肉はとてもおいしくおかわりをした。モモという餃子のようなのもおいしかった。手は右手だけしか使ってはいけない。ネパール音楽はかねやタイコ、フエ、サランギで楽しくなってくる。どこかおまつりのおはやしのようなリズムもありのりのりだった。ラムさんの友人のサランギひきが近くによってきて動物の鳴きまねをまじえながら楽しく歌っていた。BUKUNさんといってネパールでは有名な人らしい。CDを買った。やがてネパールダンスが始まった。男が女にアタックするようなおかしげなダンスで女性のおどりがとても魅力的だった。他にもいろんなタイプのダンスがあった。火をつかんだりたべたりするきとう師が元気のない人を元気にさせるという物語のものもあった。とても楽しい夕食が終わり、右手を洗い、宿に帰るためにタクシーにのった。が、エンジンがかからない。やがて何人ものネパール人がやってきてタクシーをおしエンジンがかかった。タクシーの運転手は宿の場所を知らず、スレちがう車や人に道をきいてやっと宿についた。

部屋にもどるとベランダが開けっぱなしになっていた。鼻をかむとまっ黒だった。のどもいたい。のどあめをなめてTVをつけると知らない人がディランの「天国のとびら」をうたっている。TVはチャンネルが多く日本のアニメもうつるしBBCニュースもうつる。が、何をしゃべってんのかわからない。CMやTVドラマは言葉がわからなくてもおもしろおかしく、歌やおどりも多くとてもおもしろい。出演している女性は美人ばかりだ。ネパールの女性は街を歩く子供からおばさんまで美人の人が多い。だらだらしているうちにフロにも入らずねてしまった。ちょっと不安で1人ではおじけづきそうな初日だった。

2000年 11月18日(土) カトマンズ観光

たぶんねたのは1:30ごろで5:30ごろニワトリの声やかねのチリンチリンという音で目が覚めた。宿のとなりに小さなお寺があって朝から何人も人がおとずれているようだ。どんとの「あこがれの地へ」を大声でうたったりいろんなことをする夢をみた。ベランダのドアにすきまがあったが思ったより冷えなかった。朝シャンをしようとお湯を出した。すぐに出た。熱湯かぬるま湯。TVをつけるとタイVSマレーシア、サッカーの試合、タイが2-0で勝った。ベランダに出ると家の屋根に少年がモンペみたいのをならべていた。カメラでパチリとしたがフィルムが巻かれない。このときにカメラがこわれているのに気が付いた。朝食を食べようと宿にあるレストランにいく。ガイドのプラカスさんはサインをすればタダで食べられるといっていたが他の欧米人たちはピンクのクーポン券をもっている。ぼくはその後についていってパン、たまご、ウインナーなどをとって水をかって席についた。1人で食事しているのはぼくだけだがめげずに紅茶をおかわりしたりウェイターさんにパイナップルジュースをもらったりしながら食べた。「ブレックファーストプライス?」ときくとルームNOをきかれ404とこたえるとリストをみていた。「ユーアチケット?」とかそんなことをいわれ「ノー」とこたえるとたくさんのウェイターさんがあつまってなにやら想だんしている。結局「あなたはお金を払わなくてもいいですよ」とたぶんいわれ「サンキュー」といって部屋に戻った。うんこは快便、のどがいたいのでのど飴をなめAM10:00になりロビーでプラカスさんと待ち合わせ。

まずは車でスワヤンブナートに向った。途中バイクが後ろから追突してきた。ドライバーがおりて何やら話しにいったがすぐに発進、4車線ある広い道に出たがなんと前から4台の車がならんでやってくる。人もわたるし牛ものんびり歩くし犬は何匹も道でひなたぼっこしている。車いすも車道を走りスケボーくらいの台車にのった足の不自由なおじさんも走る。もうたいへんなのでクラクションビービーならしながら走る。犬はしぶしぶどき牛はそのまま歩き大きな荷物をつみすぎた自転車はたおれ、もうたいへん。いちおう車も人も左側通行らしいがそんなのおかまいなしである。バイクに乗る人たちも後ろにのる人はヘルメットをかぶらない。前の人がかぶってればいいという規そくがあるらしい。
そして車はスワヤンブナートの前についた。車をおり坂を登っていく。目の見えない人やあごの下に大きなコブをつくっているおばあさんがいた。わきにある露天商の人はみんな声をかけてくる。ここにはさるもたくさんいてハヌマンテンプル(さる寺)といわれているそうだ。登りきると大きなストゥーパがあった。みやげもの屋もならんでおり、ひなたでは犬が何匹もころがっていた。休日の土よう日なので人々がたくさん巡礼にきておりすごく混んでいた。ここからのながめはカトマンズの街が一望できてすばらしい、が晴れてるのに全体的にガスっている。ガスってなければヒマラヤも見えるらしい。ここにある1つ1つのものにはどれも伝説があったり意味があったりする。マニ車を右まわりにまわしながらたくさんの伝説をきいた。自分の顔をうつすと動物の顔がうつる水とか、ここにあがるための階段365段のぼりきると悪行が許されるとか、ここには108つのろうそくがあるとか、ストゥーパのてっぺんからたれているカラフルな布には1枚1枚お教が書かれているとか、他にもプラカスさんはおしえてくれた。その間にも巡礼者たちは本当に熱心に多ぜいの人がおいのりしている。ここにはヒンズー教の人もチベット仏教の人もおとずれる。さすがブッタさんが生まれた国だなと思う。と同時に商売も熱心ですべてのみやげ物屋さんがぼくに声をかけてくるようだ。

次に車でダルバード広場に向った。ここには大きなお寺がいくつもあり、やっぱりそれぞれに意味がある。欧米人がたくさんいて1人の大きな欧米人は貧しそうな子供たちにガムをあげて人気者になっていた。世界一速い鳥で神様をのせてはこぶガルーダの像、ネパール最古の建造物で一本の大木からつくられたカスタマンダブ寺院には今でもヒッピーが住みついている。大きなぼだい樹の木もあった。旧王宮にはチケットがないと入れないのだがプラカスさんがたのんで門を少し入った所から中を見せてもらった。といってもわきには銃剣をもった衛兵2人がにらんで立っており、プラカスさんが顔がししで体が人間で門の外でもなく中でもなく夜でもなく朝でもないときに悪人を殺すシヴァ神のはなしなどをしてくれたが衛兵が気になってしまった。他にも目をかくされているさるの神様などがあった。注目はカイラバイラヴという恐怖の神様で写真よりも大きく見えた。悪人を殺す神様だそうだが裁判所ができる前までは悪人をこの神様の前に連れてきて悪いことをしないとちかわせて、うそついたら5ヶ月以内に処刑するということを本当にやっていたらしく、王様が見る高い台もあった。クマリの館ではぼくの肩にハトがフンをした。クマリとは家柄正しい幼女たちの中から選ばれた生き神様のことで、血が出るまでそこに親から離されて住み、1年に数回の祭りの時しか外に出されないかわいそうに思える女の子である。ぼくとプラカスさんしかいなかったがクマリが顔を出してくれた。これはとても運がいいといわれた。ちなみにクマリは写真にとったらいけないのだが館を出るとおばちゃんがクマリのカードかってくれ〜とせまってきた。

その後サイノというチベット料理の食べられる店で昼食をとった。ここのトイレはなぜかバスタブがついている。部屋の壁にはたくさんの神様の絵がカラフルにかかれている。かかっている音楽はジョンレノンやサンタナ、ネパール音楽とごっちゃである。チベットはさすがに寒い所だから熱い鍋料理でロキシーも出てきた。モモもたべた。プラカスさんは最近映画で7人のサムライを見たらしい。三船としろうはおもしろいと気に入っていた。ちなみにぼくはあまりしゃべらない剣豪が好きだ。中村しゅん介とだぶってくる。帰りぎわにTBSが入ってきた。みたことがあるような30代くらいの男と50代くらいの女性がいた。テーブルに数ルピーおき店を出てネパール最大のヒンズー寺院のパシュパティナートに向った。
ここにはインドからも巡礼者がやってくる。外人や皮製品をもった人は入れないが川のほとりで火葬が見られた。もっと高い所からながめようと登っていくとサドゥーとよばれる苦行僧?がたくさんいた。ぼくのガイドをしようとする人が勝手にガイドをしていたが無視して上まで登ると見はらしのよい所に出た。ここの川はガンジス川につながっていてきたなそうだったけど人々は入っていた。ボーっとけむりをながめたあと次にボダナートに向った。
ここのストゥーパはとても大きい。欧米人もたくさんいたが日本人おばさん軍団がいて貧しそうな子供にお金をあげていた。大きなお金だったらしく、いのっている僧などに見せびらかしながらはだしで走っていった。ストゥーパのまわりにはマニ車がたくさんありみんな回している。ぼくも回した。108つの神様の像も1つ1つ違うふうにほられている。ストゥーパの上は風が強かった。近くにあるチベット仏教寺院の中にはブッタ像などの3つの大きな像がありすばらしい絵がかかれていた。たくさんのお坊さんが向い合ってすわりお教をよみはじめ途中からカネやタイコや長ーいフエ?も入った。(なんだかおもしろおかしい)2人の若いお坊さんがその横でふざけながらおそなえものをしていた。壁ぎわでは数人の欧米人がめいそうしていた。プラカスさんの知り合いのタンカ屋さんにいくと年配の女性と若い女性2人の日本人がいた。年配の女性はキルティプルに住んでいてサリーをきていた。若い女性は今日きたばっかりの神奈川の人だった。一緒にタンカの説明を店の人(ラマツォンナマゲルさん)に聞いた。この店の人はとても好意的で輪ねのタンカ、まんだらのタンカなど日本語と英語をまじえながらとてもていねいに説明してくれた。とてもこまかく色もすごくこの世のものじゃないようなものも見せてくれた。その逆でカラフルで大ざっぱなのもあった。欧米人は後者を好むらしい。お金があれば5、6万のがほしいがぼくは小さい15ドルのタンカをかった。お店の人が手紙を下さいと名刺をくれた。わきにはタンカをかいてる人がいる。店長自身もかいており親せきもかいており、タンカをかく家系なのだそうである。描く人によってマンガチックだったり顔の表情がすごかったりもするらしいがぼくはどっちも好きだ。

そして宿に帰った。エアコンがこわれているのでなおしにきてもらったら昔のTVのダイヤルみたいのを持ってきてそれをはめるだけだった。
それから夕食を食べようとタメルに出た。日本ではなぜかイタリア人が作る本場のピザが安く食べられるという店にいこうとしていたが日本食がはやくも恋しくなり「味のシルクロード」に向った。が違う道に入ってしまったらしく「ハッパですか〜?」と何回も声をかけられながらもなんとかたどりついた。ビールと肉じゃが定食をたのみ1人でいる40代くらいの日本人男性に声をかけていっしょに食事した。立川さんといって1人でさびしかったらしい。インドからネパールに入ってきて明日の飛行機で日本に帰るらしい。初めての旅行だというといろんなことを教えてくれた。まずはドミトリーにとまってその街の情報を仕入れるとかみやげ物は露天商で値切るときは言い値の半額以下じゃないと買ってはいけないとかなっとくいかなければかえるそぶりをすれば引き止めて安くしてくれるとか旅人同士はおごったりしたらいけないとかいろいろ。「ハッパ?」と声をかけられたことをはなすとよりいっそう熱心に、チョコは1ドルか2ドルでいいとか吸うときはベランダをあけてすうようにとかつかまってもチップを渡せばすむとかこのはなしになると気合いが入っていた。立川さんは毎日8:00ごろ吸って寝て早起きするという生活をしているらしい。吸わないと旅で気が高ぶっているからねむれないらしい。ぼくはやらないといっても何回も気をつけるようにといっていた。インドのはなしもしてくれてインドはカトマンズよりも交通もこじきもサギ師もすさまじいといっていた。あとバクタプルは静かでいいから行った方がいいと行き方をおしえてくれた。食事を終えて外に出て立川さんはジョッチェンに宿をとってるからリキシャで帰るといってわかれた。ちなみにジョッチェンはチョコ売りが多くやたらとしつこいらしい。ぼくは真暗になった道をまよいながら宿に戻った。
夕食を終え宿に戻ったぼくはTシャツとくつ下を洗たくして日記をつけてわりあいはやくに寝た。昨日はこわく見えた人々のするどい眼光にもなれてきて自信がついてきた日だった。

2000年 11月19日(日) バクタプルへ

AM5:30ごろ、ちょい寒いのとかねの音で起きた。エアコンをつける。あまりきかないが少しきく。朝シャンをしようとお湯をひねるが冷たい水。10分くらい出しっぱなしているうちにぬるま湯になってきた。肩からかけると冷たいががまん。トイレの電気をつけるとバチッていってきれた。洗たくものはエアコンの前につるしているうちにかわいた。初日からとび回っていたハエが1匹ふえた。 TVではタイVSインドネシアのサッカーをやっていた。「ヒデトシナカタセリエAなんとかかんとか」といっていた。世界のナカタとはこういうことなんだと思った。
今日も宿のレストランへ。先に「チケットないけどいいですか?ルームNO404利充萩原なんだけど」とペラペラッとイングリッシュでいったらリストをみて「OK!」といった。チーズオムレツをやいてくれた。今日もパイナップルジュースを飲んだ。ダルバール広場まで散歩しようとホテルを出るときにこやかけいびの人に呼びとめられた。フロントにいくと日本語の出来る人が「レストランのお金払わなくていいよ私がチケットわたしておいたから」といってくれた。とても親切な人でダルバールへの近道も教えてくれた。この人はぼくのことをどうやら「ぼくちゃん」扱いしているらしいというかこの宿の人全員が「ぼくちゃん」扱いをしている空気がある。「ぼくちゃん」扱いというのはネパール行きの前にイヤホンで耳をおかしくして耳なりが何日も続き、耳鼻科に行ったら年とったお医者さんが26才のぼくのことを「ぼくちゃん」とよんだことからそういう扱いを差す言葉として作られた。数回かよったが作業着をきてても毎回「ぼくちゃん」とよばれた。

そしてぼくはダルバール広場へ向った。左側通行を実行するとなるほど少しは歩きやすくなった。犬はコンクリートからもれる水をいっしょうけんめいなめている。ここらの人はしまっている門があるとすきまから中をのぞくくせがあるらしく門があればのぞく人がもれなくついてくる。ダルバール広場にいく途中のチェトラパティという6つの道の交差点で後ろから「昨日の人だよね?」と立川さんに呼びとめられた。タメルまでリキシャで食事しにきたら帰るときに道に迷ってしまったそうだ。ぼくは地球の歩き方の地図のページをきりとって持っていたので一緒にダルバール広場までいこうということになった。アサン広場に寄ってからいこうとしたらアサン広場にいくのに迷ってしまい地元の人にダルバール広場への道を聞いた。その道は地元の人がよく使う道らしくみやげ物屋は全くなく金ビカの金物のならぶ日用品などや野菜が売られていた。声をかけてくる人は全くいなく道はジャリ道だった。
ダルバール広場には多くの欧米人観光客がいた。お寺の階段でミシンをかけている人もいる。まずはクマリの館にいった。中には欧米人団体客がいた。団体客がいるとお金をもらえるのでクマリは出てくるらしいと聞いていたのでこれは見れると思った。すると中からクマリさんが窓にのり出してこちらをむいた。これはラッキー。立川さんは何回か来たがクマリを見たのは初めてだといっていた。そして広場には民芸品を売る露天商がずら〜と並び商品を並べてる所だった。おもしろい顔のお面があれば買うつもりで1店1店見まわる。50店くらいあるだろうか。商品を並べながらみんな声をかけてくる。気に入ったものがないので何も買わなかった。立川さんがバクタプル行きのバスが出るオールドバスパークの場所を教えてくれた。すると後ろからたくさんのフエをしょっているおじさんがフエをふきながら声をかけてきた。ぼくは横ブエがほしかったので1本1本吹いてもらい気にいった物を買うつもりでいた。細めで高音のフエがあったので「いくら?」ときくと150ルピーといってきた。立川さんが「おれがこうしょうしてやるよ」といった。帰るそぶりをしたりすると60ルピーになったので買った。日本円で93円である。立川さんは今日日本に帰るのでホテルのチェックアウトをしに宿に向った。

ぼくはオールドバスパークに向うため大きな道を横ぎり芝の広〜い公園を冊をこえてつっきった。ネットのないゴールでサッカーをしていた。公園をこえて交通量のすごい道路を遠回りして歩道橋を渡りたくさんのバス(30〜40台くらい)がめっちゃくっちゃにたむろしているオールドバスパークについた。ガイドブックによると6番のバスにのればバクタプルにつくとかいてあるのだが番号がついているバスはあまりなく文字もネパールの文字なのでわけがわからない。たくさんのバスの間をウロウロして6番のバスをさがすが全くない。そうしているうちに1人のおじさんが「バクタプル?」ときいてきた。ので「バクタプル」とこたえると「じゃあこれに乗りなさい」といってくれた。バスにのっていすにすわる。シートが左側にかたむいている。右前のおじいさんが「ナガルコット?バクタプル?」ときいてきたので「バクタプル」とこたえると「じゃあこれでいいんだよ」とたぶんいった。そして次々とネパール人がのってくる。みんなぼくの方をするどい眼光でジロジロとみている。どうやらオールドバスパークは旅行者はあまり利用しないらしい。かごやてんびんに野菜、いろんなものを持った人がたくさんのってきた。そしてバスは出発した。1人の男が開けっぱなしにしているドアから「なんとかかんとかバクタプ〜ル」とさけびつづけていた。途中で人がのったり降りたり、大きな荷物を持った人が乗り降りするときは乗客の人が手伝っていた。そして1時間ほどするとお金をかいしゅうしにきた。たしか10ルピーほどだった。そしてバクタプルにつくと「君はここで降りなさい」といわれおりた。

みやげ物屋のならぶ坂を登っていくとゲートが見えてきた。1人の青年が近づいてきて「ここでチケットかって下さい」といったので300ルピーでチケットをかいバクタプルの街に入った。その青年はずっとついてきて英語で「私がガイドする」というようなことをいったので「アイキャンスピークジャパニーズオンリー」といった。するとどっかへ行った。するとすぐに「私日本語の勉強しています。お金はいりません。ガイドしていいですか?」という青年がきたのでたのんだ。バクタプルはカトマンズとは全く違い車が入ってこないのであのクラクションの音もない。地面はレンガでしきつめられお金をためるためのつぼを大きなろくろを回してつくってたくさん並べていた。子供たちは元気に遊びまわっている。カトマンズで一番というりっぱな五重塔が高くそびえていて、空には11:00すぎというのにまだ月が見えている。日本語を勉強して3ヶ月という青年はていねいな日本語でいろんな建物の意味などについて教えてくれた。王様が入っていた大きなプールのような露天風呂にも案内してくれた。建物にほどこされている木のちょうこくは本当にこまかかった。ネパールは職人が多い国らしい。そして細い路地を通ってタンカを制作している店に入った。日本語のうまい店長さんがたくさんのタンカを見せてくれた。150ドルのタンカが気に入って1万円を出してしまった。これはガイドさんとこの店の策略だと思うが気に入ったので別によかった。(家で見たらヘタクソだった。まあいいや。)ガイドさんには10ルピー払ってわかれた。
バス停に行こうとすると来た時に英語でガイドするといっていた青年が「タクシー?」ときいてきた。バス停をさがすのがめんどくさくなったのでこうしょうした。400ルピーといっていたのが200ルピーぐらいになった。そしてタクシーにのると10人くらいのネパール人がとりかこんで「これをかってくれー」といってきた。金がないといってカトマンズのダルバール広場に向った。ドライバーに地図を見せると助手席にいた人といっしょになってなやんでいた。どうやらネパールの人は地図というものをあまり見ないらしい。ということをあとから聞いた。そして車は走る。「音楽かけていいか?」というので「いいよ」という。ネパールの歌よう曲らしい音楽がながれる。車の天井やかべにはネパールの女優か歌手の写真がはってある。川では洗たくしたり水あびしている人たちがたくさんいた。そして運転手がわきを走っている自転車をとめて「あぶねえ走り方するんじゃねえ!」というようなことをいっていた。

そしてダルバール広場についた。交番はペプシコーラのペイントがされている。カトマンズにはペプシコーラペイントの建物がけっこうある。ダルバール広場のシヴァ寺院のてっぺんに上り足を出して座ってくつろいでいるととなりに座っていたネパール人がはなしかけてきた。「私は山登りのガイドをしています」と英語でいってきた。とても親切そうな人で英語でたくさん話をしていたが全くわからず。次にハッパをやりながらあぶない顔の青年がとなりに座った。25さいで日本語ペラペラだった。ネパールの歴史などたくさんはなしてくれた。日本でやるとつかまるけどカトマンズではつかまんないよとハッパをすすめられたがことわった。

おなかがすいたのでタメルにある「ふる里」に向った。まったく逆の方向に進んでしまったがなんとかたどりついた。道の途中たくさんの学生が下校していてみんなでワイワイおかしを買ったりしながら楽しそうに帰っていた。「ふる里」の中には日本人がいた。1人の男性に声をかけていっしょに食事をした。大阪出身で今はタイのバンコクに住んで仕事しているらしい。ぼくは今日のおすすめナスチリ定食その人はカツ丼をたのんだ。ハッパはバンコクでつかまると死刑になるといっていた。刑務所の中で死ぬ日本人もいるそうだ。オランダは合法だからそういう店もあるらしい。その人は生態の仕事をしていて1年に少なくとも10カ国はいって1週間に1回は飛行機にのるといっていた。パスポートを見せてもらうとビザだらけで増冊していた。今回ネパールに来たのも仕事で明日ネパールの政府と話し合ってなんかの許可をとるためだといっていた。あさってには日本に帰りまたすぐにインドのデリーにいくといっていた。帰りぎわにおくにいた日本のおじさん軍団がはなしかけてきた。山登りをしてきたらしい。とてもすがすがしく帰っていった。ぼくは大阪出身の人の宿ブルーオーシャンに寄ってから宿に戻った。

フロントで1000ルピーをくずしてもらい部屋に戻った。TVをつけるとMTVミュージックアワードでポールマッカートニーの娘のステラマッカートニーが賞をもらっていた。ちゅうとはんぱな時間に食事をとり帰ってきてしまった。時はPM5:00やることがなくヒマである。ナガルコットに行く時間もあったかもしれない。今日の朝も早かったし明日も早いしダラダラして腹へったらメシを食ってねよう。残りのルピーを数えてヒマをつぶしPM7:00にシャワーをあびた。シャツやパンツはがまんできるのでまた着た。くつ下はがまんできないにおいなのでうらにしてはいた。くつもがまんできないのでソールだけ洗った。3日目にしてくつはまっ黒けだ。メシを食いにいくのがめんどうになり久美ちゃんにもらったプリッツとチョコとカロリーメイトを食べてから荷物整理をした。道も少しわかるようになりバスやタクシーの移動もできるようになり気軽に知らない人と話せるようになりネパールのやさしさも少しわかってきたような気がした。観光客からどうにかしてお金をもらおうとか少しでも多くもらおうとする人は多いが根からの悪人は少なそうだ。そしてぼくはねむった。北まくらであった。

2000年 11月20日(月) ポカラへ

AM5:00に目が覚めた。生野菜をバクバクたべたからかちょっとゲリぎみだった。TVでマカオGPをやっている。日本のフクダが4位を走っている。結局3位になったらしい。突然電話がなる。英語なので何を言ってるかわからない。しばらくするとドアをたたく音がした。にこやかけいびの人がチェックアウトだよといった。2人で忘れ物はないか確認してロビーへ。しばらくするとプラカスさんがきた。
今日はポカラへ行く。車でカトマンズの空港へ向かった。たくさんのおまわりさんがトレーニングしていた。空港使用税110ルピーを払いコズミックエイルのカウンターへ。プラカスさんがぼくが英語できないことを伝えてくれた。少し飛行機の出発が遅れるらしい。プラカスさんと別れて手荷物検査を受けて出発ロビーでしばらく待つ。杉岡さんとおじさん2人がきた。マウンテンフライトでエベレストを見るらしい。ぼくの飛行機は8:25分発だが1時間すぎても呼びにこない。ここの空港は表示がなにもなく係員が飛ぶ前に「なんとか航空のなんとか行き〜」とさけぶのだがひょっとしてぼくの乗る飛行機はすでに飛び立ったんじゃないかと不安になった。まわりを見てもコズミックのチケットを持っている人は見当たらない。すると日本人団体客がやってきた。そのネパール人ガイドさんにチケットを見せて「何時に出るかわかりますか?」と聞くと「ちょっとまってねトイレいくから。」といった。トイレから戻ってきてその人は友だちを連れてきた。名前はアジュさん。日本語ペラペラであった。コズミックエイルの人に時間を聞いてくれた。9:45発になったそうだ。飛行機が出るまでの間いっしょに話した。日本人と20年もいっしょに仕事しているからネパールにいても忙しいといっていた。王宮の裏のファミリーゲストハウスという所で働いている。そこは部屋は少ないがアットホームで納豆やみそを自家製でつくっているらしい。1泊9ドルだから今度来たら利用してくださいと名刺をもらった。日本からでも予約できるそうだ。アジュさんは登山家で3年後にはエベレストに挑戦するといっていた。とてもあったかい人でいろんなことを教えてくれた。(見た目はグラサンかけてちょっとこわい)自分も違う飛行機でポカラにいって今日のうちにカトマンズに戻るといった。飛行機に乗る時は右側に座るとヒマラヤ山脈が見えるよと言い残し先に飛んで行った。
結局ぼくの便は9:45にも飛ばず2時間遅れで係員が呼びにきた。バスで小さなプロペラ機まで移動して右側の席に座ろうとすぐに飛行機にのりこむとめちゃくちゃ美人のスチュワーデスさんが「ナマステ。おはようございます。」とはにかみ笑顔で笑ってくれて胸がキュンとなった。くばられた綿を耳につめると小さな飛行機は大きな音をたててガタガタと飛び立ったが全くこわくなかった。カトマンズの街がどんどん離れていき段々畑が広がっていった。とてもきれいだった。しばらくするとヒマラヤの山々が見えてきた。とてもきれいだったがスチュワーデスさんの方がきれいだった。そして30分もすると高度が下がってきて家にぶつかる〜と思ったら着陸した。

ポカラに着いた。小さな空港におりるとコパルさんというガイドさんがすぐにむかえてくれた。すぐにベースキャンプリゾートという宿に車で送ってくれた。フロントでチェックインをぎこちなくすませコパルさんと別れてルームNO9の部屋に入った。お湯もすぐに出るし冷ぞう庫もついている。(結局使わなかったけど)おさいほうセットもさびていたがついていた。すぐにトイレに入る。ゲリだった。地球の歩き方のポカラの地図をきりとり昼食をとりにダムサイドの方へ歩いていった。空港で会ったすぐにトイレにいったガイドさんと偶然すれちがった。「だいじょうぶね」とあたたかく声をかけてくれた。
ポカラはカトマンズと違いほんとにのんびーりした空気がただよっている。道は牛だらけでやたらとうんこがおちていて歩くときはつねに下を気にしていないとふんでしまう。のんびりと歩いていくとアニールモモという店があった。店に入ると日本人がいたので声をかけて一緒に食べた。ぼくは野菜いため定食とお茶とミネラルウォーターをたのんだ。お茶はとうめいなふつうのコップに熱い日本茶がそそがれてきた。なんかへんな感じ。ぼくの生野菜にはハエが2、30匹たかっていたがかまわずバクバク食べた。その日本人はカトマンズに10日ポカラに来て3日だといっていた。カヌーのインストラクターをしていたが日本に帰ってから職をさがすそうだ。地球の歩き方の地図はけっこう間違っているといっていた。そういわれてみればこのアニールモモという店の位置もだいぶ違う。そしてその人は去っていった。ぼくのおかんじょうは110ルピーだった。店を出る時日本人のおじさん2人おばさん3人が入ってきた。昨日サランコットに登ってきてとてもビューティフォーだったといっていた。

そしてぼくは南に歩いていき何もなくなってきたので引き返してしばらく歩いていると片言の日本語でフレンドリーに話しかけてくる自転車に乗った19さいの青年がやってきた。名前はラジ。しばらく話しながら歩いているといきなり犬にほえられビビった。しっぽはふっていたが。ラジくんはぼくのガイドをするといってきた。バイクでサランコットの丘まで行って帰って40$だといっていた。ねぎると36$になった。日本人にもらった写真や手紙をたくさん出してきた。なんかあやしい。値段の計算するときにノートに書いてするのだが簡単な計算でもめちゃくちゃなやんでいた。20$は前払いといわれ断った。すると「ネパール人女性紹介するよ」とか「ハッパ好きそうだね、ハッパやる?」とかいってきた。断って宿の近くのK旅行社オフィスに入った。オフィスには誰もいなかった。しばらくするとオフィスの人が入ってきた。サランコットのツアーの値段を聞くと20$だった。25$にするとトヨタの車になるといっていたが20$でいいよといった。でも「いい車の方がいいよ」といっていたので25$にした。30$渡したがおつりがなく後でということになった。朝5:15出発とのことだった。

宿に帰ってトイレへ、水が流れにくいことがはんめいした。PM6:00ごろまでだらだらして夕食をたべにレイクサイドの方へ歩いた。味のシルクロードに行こうとしたがなかなか見つからずどんどん暗い道になっていったので引き返して宿の近くの「たべものや」という日本食料理店に入った。ここは入り口でくつをぬいで入る。サリーを着たかわいいネパール女性が出迎えてくれた。「レストランですか?」ときかれ「はい」とこたえて中へ、他にお客さんはだれもいない。にこやかウェイターさんにカールスバーグビールとカツ丼をたのんだ。ビールをのんでいると4、50代くらいの日本人男性が入ってきた。めがねをかけてくちのまわりにヒゲをはやし頭はすずしそうだった。なんかオーラを感じてすぐに「仕事でこられているのですか?いっしょに食べませんか?」と声をかけた。するとカリスマ笑顔で「そうしましょう」といった。これはとても素晴らしいミラクルな出会いとなった。
まずぼくがネパールにきたいきさつやネパールで何をしたかなど話した。はじめての海外旅行というと笑っていた。その人の名前はHさんといった。Hさんはざるそばとすなぎもとたんをたのんだ。「ここのそばはおいしいんだよ」といっておいしそうにたべていた。すなぎもとたんはぼくもたべさせてもらった。酒のつまみにちょうどいい。ネパールでは肉よりもキモの方が高いらしくネパール人にキモを出されたら歓迎されていると思っていいそうだ。Hさんはサランコットよりもう1つ奥の山で農業をしておりそこで作ったハーブを日本に送る仕事をしているそうだ。他にモロッコではアトピーにきくねんど、インド、タイ、その他世界各地にオフィスがあり飛び回っているそうだ。僕のポストカードを見せると気に入ってくれて「これをどこかに送ってもいいよね。いろんな人に広がって」といっていた。二人でいろんなことをはなした。Hさんの連らく先も教えてくれた。
しばらく話しているうちに「あなたには本当のことを教えなくてはいけないみたいだな」といった。「実はK旅行社をつくったのは僕なんです。」ということだった。初の海外は1人でインドにいったらしくネパールには17年前にきたらしい。今はK旅行社には関わってないそうだ。「実はこのレストランも僕がつくったんです。もう1ついうと実はこの上の3階に僕は住んでいるんですよ」と笑顔でいっていた。そういえばこの店は入り口でくつをぬいで中に入ってテーブルに座っていると日本の家の台所で食べているような感じがする。座敷もある。食事もおいしくビールもネパールにきて初めて冷えたビールをのんだ。日本人がいごこちいいようにこまかい所まで気をつかっているようだ。Hさんはネパールに来て長いから知り合いが多くネパールのレストランではキッチンで食事させてもらってるらしい。働く女性を見てるとグッとくるといっていた。
そして「あなたはこのはなしを聞いたらきっと感動すると思うよ。さると人間は98%遺伝子が同じなんだけど2%の違いが決定的な差を生んだ。さて何だと思う?」と質問された。「しゃべること?」というと違くて、さるは5才までに成長しきってしまって人間は60才まで成長することができるということだった。成長するというのは幼児性があるということで、それはいいことだといっていた。これのことを「ネオトニー」といってHさんの知り合いの京都大学の教授が研究していてその世界では定説になっているそうだ。会社に入って文句をいいながらもそこにはまってしまうと成長しなくなる。チャレンジやめるとさるになる。Hさんも子どものような人で同じ所にいられず住所不定でいつも何かチャレンジして生きたいというような人だ。奥さんもそうらしく絵の先生をしているらしいが40過ぎになって大学に行って勉強したいといっているそうだ。2人の娘さんもそそんな感じで1人は自由の森学園、もう1人はあこう学園という所に行っていたらしい。自由の森学園は学校行くのも行かないのも自由、卒業式に校長を出すのも出さないのも自由でそのかわりすべて自分で決めるという学校だったらしい。その卒業式は自分達でつくった歌をうたい、校長先生は生徒達の中心においてスポットライトをあび、あいさつをしてとても感動的だったそうだ。娘には失敗してもいいから幼児性を持ってチャレンジしてほしいといっていた。その他ねむの木学園に行った話をしてくれたり、カトマンズのはずれにすごいマンダラをかくチベット人のおじいさんがいて、あなたはネパールの本当を見るには行った方がいい、僕が紹介するよといってくれた。
そして明日はHさんの農場のあるアスタムコットという村に連れていってもらう約束をした。そこはインスピレーションがわくと思うよといっていた。そこは鳥の中でも最も位の高いタカやワシが通る所でヒマラヤが見え700m下には川があり水の音が聞こえるらしい。「山を見るのもいいけど川がないと血が流れてないような気がするんだよね。」といっていた。AM10:00にKオフィスの前に来れたら一緒に行こうということになった。
食事が終わりにこやかウェイターさんに「料理はどうでしたか?」と聞かれ「とてもおいしかったです」とこたえ、レジのかわいい女の子にお金を払った。とても充実した食事だった。
部屋に戻りシャワーをあびていると外で銃声のような音がなり犬が吠えさわがしくなった。耳をすませていたが何もなかったようだ。

2000年 11月21日(火) サランコットとアスタムコットへ

AM4:00に起きる。へんな蚊とありんこがいた。首とうでがかゆい。ゲリは少しよくなってきた。5:15にロビーにいくと誰かが寝ている。外からコパルさんが迎えに来た。空を見上げると満天の星、1つ1つがでかい。月も明るい。こんなに星を見たことがない。電気がなければもっと見えるよとコパルさん。コパルさんはHさんのことを知っていた。
サランコットの途中まで車で行く。車を降りると欧米、日本人団体客がたくさんいる。そこから歩いて登っていった。小さな子供がたくさん寄ってきて足下をライトでてらし「50ルピー50ルピー」とガイドしようと寄ってくる。かわいそうだけど無視するしかない。どんどん登っていく。ポカラの町の光がたくさんみえてきれい。途中でぼく達2人だけ違う道に向かった。年寄り用と若い人用の展望台があるそうだ。登っていくうちに少しずつ明るくなっていった。細い登山道のわき所々に民家があり民芸品などを並べている。頂上につくと何人かの若いグループがいた。雲にかくれて山は見えない。しばらくすると暗い空に白いものが見えはじめた。マチャプチャレの頂上だ。なんて神々しいのだろう。この山は神様が住む山とされていて、昔頂上を目指した者は神に敬意を示して50m手前で引き返したといわれる。今では登ってはいけない山で誰も頂に行ったことがない。マチャプチャレはしばらく出ていたがやがて雲にかくれてしまった。右や左にうっすらとアンナプルナが見えはじめた。やがて真っ赤な太陽が出てきて山肌が赤く浮き出てきた。そんな光景を犬もながめていた。眼下に見えるペワ湖やポカラの町をながめてしばらくいたがマチャプチャレが見えてこないので下ることにした。するとすぐに引き止められた。山にきふして下さいとのことだった。40ルピーきふして下っていく。ヒマラヤの方を見るとマチャプチャレもどんどん見えはじめ山々がくっきりしてきた。とても素晴らしいが下から水をくんで布でおでこからぶらさげて運んでいく少女など山で暮らす家の手伝いをするたくさんの働く子供達やそこらへんにいる犬やにわとりやひよこたちを見ている方が心にグッときた。子供達の目は本当に純すいだ。赤ちゃんをやっと卒業したような子が「ハロー」と声をかける。後から「ナマステー」と地元の人がぼくらを追いこしていく。ここでも生活してるんだなーと思った。

車で宿に戻りレストランで朝食を。バイキングの料理はほとんどなくなっていた。ウェイターさんが座ってて下さいというので席につくとトーストやオムレツなど持ってきてくれた。バイナップルジュースも飲んだ。となりの親子2人で来ている日本人と話をした。息子さんは仕事で5回ぐらいネパールに来ていて東の方で紅茶をつくって日本に送っているそうだ。今回は父と一緒なのでいい所に泊まっているとのこと。とても気のいい人だった。
9:30すぎにレイクサイドの方へ散歩。ボート乗り場で湖をながめていると「ボートのりたいですか?」と聞かれた。「いいえ」というと「じゃあハッパですね」といわれた。

Kオフィスの前にいくとHさんたちがぼくを待っていた。他に30才くらいの女性2人と50才くらいの女性とネパール人男性が1人いた。ぼくと同い年くらいの女性がHさんに頼まれて走ってクッキーを買ってきた。アスタムコットに行くには2通りの道があるのだがぼくとHさんは鳥が通るきつい登りの方へ、あとの人たちはゆるい登りの方へ2台の車に分かれて向かった。ネパールの学校は10時から始まるが10時半になってもだらだらと登校している生徒がたくさんいた。途中牛が目の前で道をふさいでいたがゆっくりとどいた。そしてずいぶんと田んぼだらけの静かーな村の道の途中で車が止まった。Hさんが1つの山、じゃなくて丘をさしてあそこに登るといった。こっちの人は雪がとけるような山は丘というらしい。富士山もこっちでは丘だ。笑い話で6000m級の人類未登頂の山に日本人女性が登ったとき頂上にサンダルが落ちていたという話があるらしい。
道を結婚式に向かうバスが通る。屋根の上まで人がいっぱいでにぎやかな音楽が鳴りひびく。ぼくらは丘に向かうために田んぼをつっきって歩いていく。村の人がなにかさけんでいる。どうやら「どこいくんかい」「登るんかい」「ああそーかい」「おたっしゃでー」というようなことらしい。こっちの人は意味のない会話ばかりといっていた。ここらへんまでは観光客はこないみたいだ。田んぼには稚魚がたくさん泳いでいる。水牛は2匹並んでよく働いている。
そして登りはじめた。いきなり急坂である。急坂は頂上まで続く。上から大きな木をしょったおじさんが降りてくる。見たことのないチョウやバッタを見ながら登っていきふり返ると村が小さく見える。村人はまだこっちに向かって何やらさけんでいた。段々畑がとてもきれいだ。ハヤブサファルコンが空を飛ぶ。上野動物園でしか見たことがない鳥だ。やっぱり大空を向きをかえながら自由に飛ぶ姿はかっこいい。Hさんの一番好きな鳥で「これはさい先がいいぞ」といっていた。ぼくは早くもハァハァいいながら登っていく。汗だらけだ。Hさんが上着をぬぎ短パンになる。きれいな鳥の鳴き声がきこえる。きれいな赤い鳥だ。しばらく登ると木がガサガサゆれだし「キーキー」と鳴き声が聞こえた。ハヌマンラングールというさるの群れが目の前にいる。顔は黒く毛は白くしっぽは長い。その長いしっぽを利用して木を渡っていく。怒らさないようにとヒソヒソ声で静かに歩く。さる達はこっちの様子をうかがっている。そしてどんどん登っていくうちに頂上についた。眼下に見えるのは小さーくなった村、段々畑、川だ。ハゲワシが4匹空をゆっくりせん回している。とても大きな鳥も1匹いる。そこで座ってごまがたくさんのクッキーとピーナッツたくさんのクッキーを食べながらゆっくり休んだ。下から風が吹き上げてきて気持ちがいい。この風にのって鳥が空を飛ぶのだろう。
しばらくして頂上を歩いてアスタムコットを目指す。村がつづく。学校もある。畑の中を歩いていく。働く人がこっちを見ている。牛の上に小さな鳥がのっている。牛はしらん顔している。

しばらく歩くとHさんの仕事場の農場についた。山の斜面にそって畑が作られ様々な野菜が植えられている。人のうんこもためてガスや肥料にしている。大きな農場で畑ができるのに3年くらいかかるそうだ。人が泊まれるように作っているゲストハウスは1年くらいでできるだろうとのことだった。サリーを着た女性も土を運ぶ仕事をしている。こっちの人は働くときも普段通りのかっこうをするらしい。赤ん坊が強い日差しがあたる地面の上にほったらかしにされて寝ている。ぼくとHさんはテラスになる予定の所に足を出して座って景色をながめた。絶景だ。目の前にヒマラヤが見え下からは川の流れる音がきこえる。視界に映るのは遠くまで広がる段々畑。でもほとんど使われていない。こちらの人は作物を町に売りに行くわけではないので自分達が食べる分しか作らないのだそうだ。若者はポカラやカトマンズに出て行ってしまうそうだ。
他の人たちがたどりついたみたいだ。「ここにいていいよ。しばらくしたら裏の農家にお茶飲みにきて」とHさんは建設中のゲストハウスへ。ぼくはしばらくテラスに座っていた。ほんとに天国に来たみたいだ。風も気持ちいいし景色もいいし、でも何よりいいのは村の人々の生活の音だ。右の農家では子供が泣く声がする。下からは牛にのんびりと話しかけているおじさんの声がする。あれでも働いているんだろうか。のんび〜りした空気がただよう。空には鳥が舞う。すーっとここにいたくなった。
しばらくしてからゲストハウスの方へ向かった。働く人が「ナマステー」と上目づかいでこちらを見て高く手を合わせてあいさつしてくれる。「ナマステー」と返す。ゲストハウスの中では建物の出来ぐあいを見てここをこうしたほうがいい、ああしたほうがいいといっている。Hさんが作っているハーブのにおいをかがせてもらったりみつばちをあつめた箱を見せてもらった。ぼくのまわりにはめちゃくちゃみつばちが飛びまわっていてブンブン羽の音がするが何もしなければ大丈夫らしい。みつばちを食べる大きなはちをたたくためのはちたたきが置いてあった。
そして裏の農家のタラさんという女性の家に入らせてもらった。頭をかがめて中に入るとまず目につくのは1つの小さなベッド、かべぞいに食器を置くたなやキッチン、机、上に行くためのはしごがある。ここに家族が4人も5人も暮らしている。ここはいい方だとHさんがいった。タラさんがハーブティーを出してくれた。ミルクものませてくれた。まわりにハエがブンブンとんでいる。タラさんがダルバードを作ってくれている。Hさんはベッドでねてしまった。ぼくはダルバード作りをずっと見ていた。小さなナイフ1つでジャガイモやキャベツなどの野菜を小さく切っていき何かをすりつぶしたりしている。それらをなべに入れていためて水を入れてふたをしてときどき水をたす。その間に使った食器をためてある水で洗う。ゆっくりとした料理だ。家の前でみんなで食べようとテーブルといすを外に出す。テーブルを囲んでぼくと30才くらいの女性2人(K姉妹という)と50才くらいの女性としゃべりながらダルバードを食べる。店で食べたのよりも大ざっぱだが素朴な味がする。とてもおいしい。これが本当のネパールの家庭の味なんだと変に感動してしまった。タラさんがおしんこのようなものもつけてくれた。これもおいしい。豆のスープもおいしい。4人ともきれいに食べてしまった。タラさんに「ダンニャバード」とお礼をいう。K姉妹がタラさんに年令をきくと何だかわからない言葉が返ってきた。ネパール語の数は日本語のように1から10までいったらあとは規則性を持つのではなく1から100まで全部違うそうだ。K姉妹が2人で悩んで考えたすえ35か6だろうということになった。ネパール語を勉強してもなかなか覚えられないらしくネパール人でも数えられない人はけっこういるらしい。K姉妹が「タラさんって美人だよねー」というと通じてるのかわからないがタラさんははずかしそうに笑っている。タラさんは赤いサリーを着てやさしい顔をしている。
K姉妹は様々な材料を使ってオリジナルの料理を作る創作料理をつくっているらしい。ここの開発に前から関わっていてゲストハウスが完成したらここで料理をするそうだ。昨年10月から6月までポカラにずっと住んで完成を待っていたがネパール人の仕事なのでのんびりしていてなかなか完成しそうにないので今は日本にいるらしい。今回は様子を見に来ていて昨日はチトワンに行ったそうだ。Hさんがぼくが絵をかいてることを話したらしくどんな絵をかくのか聞かれてポストカードを見てもらった。まるでぼくからそのまんまスッと出てきたような絵でほのぼのしているといわれた。「自分を表現出来るって素晴らしいなあ」といわれ「うーんそうか絵をたくさん描かないとなー」という気持ちになった。
トイレにいこうとしたがトイレがなく立っしょんをした。うんこまではする勇気がなかった。ゆっくりした時間が流れ(富士宮の時間ににている)さあ明るいうちに帰りましょうとしたら屋根から人が落ちたらしい。幸い骨は折れてないらしかった。帰りはゆるやかな坂の方を降りていった。桜の花が咲いている。ネパールでは冬の前に桜が咲くそうだ。日本から木を持ってきても同じらしい。K姉妹がこっちに観光に来るのと住むのとでは全く違うといっていた。5月になるととんでもない大きさのひょうが次々と降ってきて雨も日本のようにシトシトなんて絶対降らずドバーンと降り続けカミナリはこの世の終わりかと思うほど1晩中鳴り響くそうだ。帰りは坂がゆるい分時間がかかった。学校帰りの子供とすれちがった。そしてなにか奇声が聞こえてきた。前から荷物をつんだ4匹の馬が1人分しか幅のない道を登ってきた。ぼくらは1段降りた所で馬が通り過ぎるのを待った。奇声をあげているのは馬を追う少年だ。馬が通過したと思ったら今度は上からたくさんの落石が。岩を砕いて落とす工事をしているらしい。ネパール人が口笛を吹いてやめさせた。下まで降りると道の両側に店があった。K姉妹が明日カトマンズに帰るための荷物整理用にネパールバッグというのを買いしめた。そして車に乗って宿に向かった。

部屋に戻りがまんしていたうんこをした。ゲリだった。フロに入ってPM7:30頃「たべものや」に行くとまたかわいいネパール女性が出迎えてくれた。中にはHさんと今朝走ってクッキーを買ってきた女性(Mさんという)が仕事の話をしていた。ぼくはヘッセの「知と愛」を読みながらビール(カールスバーグがなくてサンミゲル)飲んでタンとざるそばを食べていた。とてもおいしかった。店の前で栽培しているハーブティーもおいしい。Hさんはむずかしそうな仕事の話を楽しそうに話している。食事が終わって精算しようとカウンターに行くとHさんが「明日ホクシンという村に行くけど行く?」と言った。「行く」と答えた。「ひょっとしたらアスタムより気に入るかもよ」といっていた。Hさんは店のネパール女性もさそった。名前はディピカさんという。今日は魚を釣ったそうだ。お母さんはレストランをやっていてとてもおいしいらしくHさんはよく食べにいくそうだ。ディピカさんは大学なので結局来れないらしい。残念。Hさんは「オレが若ければ奥さんにしたかったな」といって笑っていた。ディピカさんもよく笑う。こっちを向いて笑うたびにぼくのハートはキュンとなった。ディピカさんは20才。けなげでぎこちないがよく働く。「たべものや」をもうやめてしまうらしい。明日の夜もまた来ようと思った。「たべものや」の奥にはマッサージ屋があってとてもうまいらしくHさんはよく利用するらしい。Mさんが「だれかが自分のためにつくったんじゃないの」といっていた。HさんはMさんに「お前明日いっしょにホクシンに行かないか?」とさそった。
そしてぼくは口笛を吹きながら部屋へ。Tシャツとくつ下を洗たくした。いつのまにか「ひなたぼっこ」を口ずさんでいた「あこがれの地へ」を歌いながら日本に帰りたくなくなっていることに気付いた。またくると思いながらいつのまにか寝ていた。

2000年 11月22日(水) ホクシンへ

AM4:30目が覚める。ゲリはなおった。洗たく物はかわいている。AM6:00になりKオフィスの前に行くが誰もいない。車だけ来ている。ぼくの足は筋肉痛。しばらくするとHさんとMさん。車に乗りK姉妹達を迎えに行きホクシンに向かった。まだうす暗い中、右後方にうっすら見えるヒマラヤ山脈が朝日に照らされていきオレンジ色になった。とても美しい。車の前を数匹の牛がふさいだ。白い犬もいる。ドライバーさんが道を間違えてバックする。白い犬が追いかけてきた。フロントガラスに見えるその光景は映画のワンシーンのようだった。女性達はこっちをジロジロ見ながらもう活動を始めている。そして車は道の悪い坂を下っていった。谷底に朝もやに隠れた村が小さく見える。車は崖をどんどん降りていく。目の前に川がせまってきた。車は川ぞいに走り川を横ぎりやがて川の中を上流に向かって進んでいった。4WDの車で来たのはこういうことだったわけだ。雨期になると川の水が増すため来れないそうだ。
そして谷底の光景はまるで夢の中にいるようだった。周りは広い畑になっている。赤いサリーを着た女性たちがおでこから大きなかごを背負ってこっちを見ながらゆっくり歩いていく姿が霧の中にうつっている。それはまるで絵画の中に入りこんでしまったかのようだった。
そしてまた車は山を登りはじめた。落ちたらひとたまりもない崖を慎重に登っていく。さっきの谷底の村が眼下に見える。少し遠くを見ると山と山の間に霧がかかっていて山が湖に浮ぶ島のようにみえる。水墨画の世界だ。そして朝日に照らされたヒマラヤ山脈が目の前にずらーっと輝いている。車はどんどん登っていきようやくホクシンの村についた。
車を降り村の中を歩いていく。人々が仕事をしながらジロジロと見ている。子供からお年寄りまでよく働くし子供からお年寄りまで美人だ。どんどん進むと道がなくなった。草をかきわけ進んでいき段差を登りまた進みまた段差を登った。体全体を使ってやっと登れるような所は女性たちは後ろからついてきた村の若者に手伝ってもらって登った。
そして頂上についた。何もない草っぱらだ。ポカラの町が1つ山の向こうにある。もっと早ければポカラの町も霧にかかって湖のように見えるらしい。そして目の前にでっかく見えるのは全てがつながったヒマラヤ山脈だ。マチャプチャレも目の前に迫ってくる。K姉妹が「ダンプスよりもなぜか近くに見える。」と言っていた。Hさんは歩いていろんな所を探しまわったがポカラ付近でこの場所が一番景色がいいと言っていた。ここにもなにかつくろうとHさんは考えている。飲み水は村の人が提供してくれるらしいが農業用水は無理だそうだ。
ここから見える朝日に照らされたヒマラヤ山脈、大きな空、湖のような霧、素晴らしい段々畑、崖になるみかんの木やバナナの木、のんびりした牛やカモ、犬、人々、水や草を運ぶやさしい目をした女性達、広い原っぱと元気な子供、川の音や人々の生活の音、声、ここはぼくのあこがれの地だ。
ずっと居たかったがやはり帰らなければならず人家の間を通って山を下りていく。途中たくさんのみかんがなっている所でHさんが村人に「みかん10こちょうだい」というと10こ採ってくれた。「お金いるの?」ときくと「いるよ〜」と笑っていた。手に取っただけでものすごいにおいのするみかんだった。うえを見ると15匹くらいのでっかいくもが巣をはっていた。ぼくの友だちだ。車に戻りみかんを食べながら帰った。皮は崖の下に捨てた。行きと同じ道を通って町に帰った。

部屋に戻り日記を書いているとドアを誰かがたたいている。開けるとくりくりした目のかわいい男の子が入ってきた。しきりにぼくに何か話しているがさっぱりわからない。ママをさがしているのだろうか。しばらくしてどこかにいった。そのままドアを開けて立っていると宿の人が「グッドモーニーン」と声をかける。「グッドモーニーン」と返す。
ごはんを食べにレイクサイドの方に歩いていく。昨日食べたごまクッキーを買って「味のシルクロード」に入る。日本の新聞を見ると「浦和レッズJ1復帰」「ニホンオオカミ発見!?」の記事が目につく。外にいる4、5匹の牛を見ながらしょうが焼き定食を食べる。ごはんも肉もうまい。みそ汁は特にうまい。生野菜には手を出さなかった。店の人にあやまった。デザートも出た。豆腐のようでプリンの味がした。情報ノートは人を中傷するようなことが多く書かれていてつまらなかった。
食べ終わってさらに北へ進む。本屋に入ってもビニールがかけられて中が開けない。出てまた歩く。「レンタサイクル?」という声がよくかかる。牛が木の枝に頭をこすりつけている。このあたりは欧米人が多い。ネパールの音楽がきこえてきた。店に入って「今かかってるのちょうだいな」とバイト2人と自分用にカセットを3つ買った。しばらく歩いても何もなさそうなので引き返す。またネパール音楽が聞こえてきた。そこでも「今かかってるのちょうだいな」とCDを1枚買う。それからさっきの店で買ったカセットの一つをCDにかえてもらってスーパーヘ。おかしや日用品、ノートなどほこりがかぶっている。おみやげのタバコ2つを買ってダムサイドの方に歩いていくと「ヘイ、トモダチ」とラジくん「ハッパ?」とフレンドリーに声をかけてきた。ボールペンとなんかをくれた。ラジくんは計算が苦手そうなので全く使わなかった計算機をあげた。
そしてぼくはアニールモモに入った。焼きおにぎりと紅茶をたのみマンガを読みひまつぶし。ペプシコーラをたのみひまつぶし。7月に日本を出てから中国、パキスタン、インド、ネパールと旅してきた人と話した。1月には日本に帰るそうだ。他にも1人旅行者が入ってきてマンガを読んでいる。
ポカラの町はのんびりすることしかすることがない。デビルズフォールにも興味ない。ここらへんは同じような観光客向けの店が並んでいるだけだ。牛をみているのは楽しい。みてるだけでこっちものんびりしてくる。

PM5:30部屋のトイレにはよく見るとこまかい虫がたくさんいる。フロに入ってたら突然電気がきれる。真っ暗になり誰か部屋に入ってきたんじゃないかと不安になる。ゆっくりとドアを開けバックをひっぱりマグライトをとり出し身がまえる。誰もいない。横を向くとフルチンでマグライトをかまえる僕の姿が鏡にうつっている。フロントに行き「マイルームライトがつかない」という。すぐきてくれてつけてくれる。ついた。あれ?でも1つしかつかない。これは予備用なのだろう。暗ーい。

PM7:00「たべものや」へ。停電のため足下にろうそくが道沿いに置いてあり入り口まで続いている。星がよくみえる。中に入るとMさんがいた。ろうそくの置かれたテーブルに座ると僕の前に座り一緒に食事をした。カールスバーグビールととすなギモとトンカツ定食を頼んだ。ウェイターさんがカールスバーグビールありませんというのでサンミゲルにした。するとMさんが「そういうときは申しわけありませんというのよ」と指導していた。MさんはHさんに頼まれて1ヶ月ここにいるらしい。「たべものや」自体開店して1ヶ月だそうだ。料理長は日本料理を8年やってるし従業員の輪があるので指導すると言ってもむずかしいと言っていた。とりあえず友だちのように接しているらしい。さっきまで上で仕事していたが停電でコンピュータも使えず仕事にならないのでレストランに降りてきたそうだ。座敷の方にネパール男性と結婚した日本女性の家族が入ってきた。Mさんといろんなことを話した。ネパール人は計算がにがてとかオールドバスパークはこわくてまだ乗れないとか、一番多かったのはHさんのことだった。MさんはHさんと親戚関係だそうだ。Hさんは「僕は何もしてないのに重要な人と自然に出会っちゃうんだよね」と言っていて、知らない人にはあまり自分のことを話さないらしい。突然何をするか分からず考えもつかなかったことを始めるので楽しいと言っていた。
2人で楽しく話して食事を終え、精算しようとカウンターへ。もうここへ来るのは最後なのでウェイターのシュレシュさん、ウェイトレスのディピカさん、あとMさんと同じ会社のプレムさんにサインをもらった。ウワーイ、ディピカさんにサインをもらっちゃったーと喜んだ。Mさんが伝票ももらっていいよと言うのでウワーイ、ディピカさんのかいた伝票ももらっちゃったーと喜んだ。

みなさんと別れウキウキ気分とかなしい気分で部屋に帰るとPM8:30すぎ。停電はなおっていた。昨日と今日行ったアスタムコットやホクシンの景色や人々の生活、空気がネパールでぼくの心を大きく揺さぶった大きな思い出となるだろう。こんなに美しくやさしい村がこの世界にあったのはうれしく、そこにいられないと思うとさみしくなってきた。やさしい人々に囲まれて生きていけたら素晴らしいなと思いながら寝る。

2000年 11月23日(木) またカトマンズへ

AM3:00目が覚める。くもがぼくの足を這っている。天井にくもの巣がある。もう旅も終りの気分。今回出会った人々、もう2度と会うことがないかもしれない人々や風景、生活のことを考えると泣き出したくなった。なかなかねむれない。「忘れる」という機能がなければ頭がどうにかなってしまいそうだ。

AM7:00宿のレストランへ朝食を食べにいく。トースト、クロワッサン、目玉焼き、ミルクティ,パイナップルジュース,バナナを食べる。他に誰もいない。
AM8:00すぎにチェックアウトしてロビーでコパルさんを待つ。ロビーにはオングー・シェルパさんというシェルパ族の人がいて日本語で話しかけてきた。ガイドさんだ。日本人と顔が似ている。いろんな話を聞いた。エベレスト(サガルマタ)に10回登ったバラチリさんという人の話を聞いた。登るスピードも世界一だそうだ。オングーさんは6000m級までは登ったことがあるそうだ。オングーさんも同じ飛行機で今日カトマンズに行く。コパルさんはなかなかこない。フロントに電話がきて僕の乗る飛行機が遅れているそうだ。やがてコパルさんがやってきて車にのりこむ。数日前にあった気のいい日本人が足をケガしている欧米人を連れていた。

飛行場に着きコズミックエアーのカウンターでチェックインしているとき真黒のグラサンかけたこわいネパール人がそばでずっとこっちを見ていた。コパルさんと別れて手荷物検査を受ける。リュックの中をいろいろ調べられた。カード型の目覚まし時計を手に取って「これはベリーグッド」と言って欲しそうにしていた。出発ロビーには人がたくさんいた。トイレに入りしばらくするとコズミックエアーの人がカトマンズ行きの飛行機が出ますよと呼びにきた。
出発ロビーを出て飛行機に向って歩いているとカウンターでチェックインしている時こっちを見ていたこわそうなネパール人が日本語で声をかけてきた。「あなたはこないだの土曜日にカトマンズの空港にいませんでしたか?」ぼくが来たのは金曜日なので「いいえ」と答えた。今度の飛行機は今までで一番小さく2列しか座席がない。天井が低いので中腰で席につくヒマラヤがよく見える左側の席はすべてうまってしまっていた。ぼくのすぐ後ろにはさっきのネパール人。そして飛行機はぎこちなくガタガタと飛び立った。たくさんの思いの残るポカラの街はすぐに広大な段々畑にかわる。目をこらして地上を見ると米つぶよりも小さい人が今日も活動している。地上はうっすらと雲にかくれていく。遠くをみると山々にかかった雲が広大な海のように見える。左の窓にはくっきりとヒマラヤ山脈が連なっている。ずーっとカトマンズにつくまで連なっていた。後ろのネパール人とたくさん話した。8年ぐらい日本にいて今年カトマンズに帰ってきたらしい。ポカラへは観光で行っていたそうだ。日本のCD、かはらともみやMAX、井上陽水などを持っていてポータブルCDプレイヤーで聞いていた。名前はシチト・パラズリさん。カトマンズについたら家に来なよと住所と電話番号を紙に書いてくれた。顔はこわいけど安全そうだ。飛行機はカトマンズについたはずなのにぐるぐると低い所を回っている。霧がかかっているので着陸できないらしい。すぐ地上にぶつかってしまいそうでこわい。着陸するときボダナートが見えた。

シチトさんと空港を出てプラカスさんを探すがいない。知らないおじさんが日本語で話しかけてきた。客引きかと思ったがすぐにK旅行社のバッチを出してきた。プラカスさんが用事でこれないのでその友達がかわりに来たらしい。シチトさんとタクシーに乗ってまずはシチトさんの家に向った。シチトさんやガイドさんにアスタムやホクシンのことを聞いても知らないようだった。やがてシチトさんの家の近所についた。「あの赤い家の裏がぼくの家だから時間があったら来てね」と去っていった。

そしてぼくは元の宿ムーンライトに向う。にこやかけいびさんがドアを開けてくれ、フロントではぼくのことをぼくちゃん扱いする。親切な人が「おかえりなさい」とかぎをわたしてくれた。ルームNOはまた404。ぎこちなくチェックインをすませて部屋に入る。トイレの電気はきれたままで窓の外の風景もあたり前だが変わっていない。自分の部屋に帰ったみたいだ。
すぐに部屋を出てフロントに行き親切なフロントマンにシチトさんに電話してもらう。出たのがシチトさんのお母さんだったらしく日本語が全く通じない。シチトさんにかわり今から行くと伝えた。

タメルで両替してタクシーの集まっている道へ出た。まず目についたタクシーに声をかけシチトさんの家のあるコテソルまでの値段交渉。200ルピーといってきたので40ルピーにして下さいというと100ルピーになった。なんかこわそうなのでやめた。すると前で手をふる気のいいタクシーがいる。メーターでいくよというのでOK!といって乗りこむ。しかし今まで乗った車で一番のオンボロだ。まずドアが閉まらない。ドライバーさんがむりやり閉めた。そして走ってブレーキをふむたびにエンスト。しかも道がめちゃくちゃ混んでいたために1〜2m進んではエンストしていた。歩いた方が速いだろう。途中映画撮影をしている所があった。しかしあまりに遅い。隣の乗り合いテンプーの客も不機嫌そうだ。遠回りをしてもいいから走れる道を選んでもらった。コテソルはカトマンズ中心部から東南のはずれにある地域だ。ドライバーさんはコテソルは知っていたがこまかい住所がわからないので車を止めては走り回りまた止めては走り回りで汗だくになって人々に聞きまくっていた。おまわりさんにも聞いていた。タクシーに1人でいるぼくを人々がジロジロ見にくる。目の前の空き地の柵の前ではミシンをかけているおじさんがいる。その周りにはひまな大人たちが足をかかえたりしてその作業をボーッとながめている。くだものも売っている。ここはすぐにしぼってジュースにしてくれる。散髪をしている人もいる。ネパールでは路上でこういう風景がよく見られる。
そして結局ドライバーさんがシチトさんの家に電話をかけてくれてタクシーの所までシチトさんが来てくれた。すぐそこだった。さっき来たはずなのに同じような街並ばかりで気付かなかった。タクシーのメーターが途中でこわれてドライバーさんが計算していたが気のいい人なので少し多くあげた。やっぱり計算が苦手そうだった。

シチトさんの家の近くでは子供たちがめずらしそうにジロジロ見ていた。観光客はさすがにここにはこないようだ。シチトさんの家は大きい3階建てでシチトさんの部屋にはクツをぬいであがる。部屋の中はまるで日本の家のようだ。テレビ、ビデオ、CD、MDなんでもある。金魚も飼っている。シチトさんの奥さんが好きなシヴァ神の子供の頃の絵がアイドルのポスターのように壁にはってあり、なぜか日本の赤ちゃんのポスターもはってある。シチトさんの奥さんはコズミックエアーの人なので次にネパールに来た時は安くできるといっていた。あと一泊1000円で食事付きで家に泊めてくれるらしい。ナガルコットやパタンなどにも自家用車で連れていってくれるそうだ。シチトさんに写真のアルバムを見せてもらった。奥さんとポカラにデートに行った時の写真が多い。とても美人の奥さんだ。結婚して7ヶ月だという。なぜかダチョウ倶楽部と一緒にとった写真もある。部屋には空手チャンピオンと一緒に撮った写真もある。映画「ロッキー」に出た人だそうだ。CDのコレクションを見せてもらうと日本のアイドルばかり。安室とか広末とかグローブとか内田由紀とかサザンやチャゲ&飛鳥や長渕、ビートルズもある。
チャイを飲みながらいろいろ話した。カトマンズの飛行場は元々シチトさんの家の土地だったそうで昔、国に2000ルピーで売ったそうだ。当時2000ルピーは同じくらい大きな家が3軒建つぐらいだったそうでこの家はその時建てた家だそうだ。ネパールの政治の悪さについてすごく真剣に話した。ゴミ、空気、交通,職の問題、すべて今の政府はほったらかしで庶民の意見を聞かずに5日に1回の停電とかガソリンの値段を2倍にしたりとか勝手に決めてしまうらしい。すべて前の政府の方がよかったといっていた。なにしろ首相は自分の国の飛行機を使わないでタイ航空を使っているそうだ。あと人間として本当の幸せはお金をたくさん持って大きな建物をたてて車を持つことでは得られない。必要な分だけのお米を作り心にゆとりを持った生活をおくることが本当の幸せだという話をした。今カトマンズは農村から出てきた若者がたくさんいる。街にはナイフを持った人も多くなってきたという。反対にここでは本当の幸せはこないと村に帰る若者もいるそうだ。
他にもたくさんはなした。シチトさんはクマリを見たことがないそうだ。しばらくして屋上にあがり日本で買ったという双眼鏡でカトマンズの街を見せてくれた。目の前には飛行場があり飛行機が次々と降りてきて飛び立っていく。北西の方を見ればスワヤンブナートが見える。山の向こうにはヒマラヤ山脈が顔を出している。シチトさんが「春を愛する人は心清き人〜」と歌い出した。日本の昔のそういう歌が好きだそうだ。ぼくは「翼をください」とか「見上げてごらん夜の星を」とか歌った。テレサテンも好きだそうだ。しばらく屋上でそうやってすごし部屋に入ろうとするとカギがかかっていて入れない。子供がいたずらしているみたいだ。中に入るとネパール料理のメンのやつが出てきた。メンはインスタントっぽい。おいしいけど辛い。「ネパール人はこれくらいは辛くない」といいながらシチトさんは「これけっこう辛いね」といっている。シチトさんがお母さんを連れてきてカメラを渡してシャッターを押してくれと頼んでいる。お母さんははずかしそうに笑いながらパチリとしていた。妹さんの子供が学校から帰ってきて「ナマステ」とはずかしそうに笑って去っていく。

お父さんお母さんにダンニャバードと言ってPM4:00頃ちょっとお茶してから帰ろうとバイクで近所のふるぼけた駄菓子屋のような店までいった。そこにあったコーラのビンのプラスチックの入れ物に座っていると近所の店からシチトさんがチャイを持ってきてくれた。飲みながら辺りを見わたす。そこには貧しい子供たちの光景があった。3才くらいの女の子が砂で真白になった頭、顔、スカート、はだしの足でよたよた歩いて遊んでいる。他の子もみんなはだしだ。上からぼくの頭になにか落ちた。鳥のフンかと思ったが、見なれない人間がいるので子供が上からピーナッツのからを投げたらしい。
あたりがうす暗くなってきてシチトさんの友人のガラの悪そうな連中が集まってきた。ネパールには娯楽が少ないから夕方になるとこういう所に集まってチャイを飲んでそれから帰るそうだ。

シチトさんが日本とどういうふうに違うのか観光地だけじゃなくていろんな所を見て知ってほしいと日本でいうキャバクラのような所に連れていってくれた。そこは古ぼけた建物が並ぶすみっこの3階にあり、建物のわきから入りうす暗い階段をあがる。中は1部屋1部屋2m四方くらいでベニヤ板でしきられベニヤ板にはマジックで番号がなぐり書きしてある。屋根はプラスチックのなみのやつで隙間からは夜空が見えた。ネパールの男女はこういう所で飲んでいるのを知り合いに見つかるとその一族全体の地位が下がるそうだ。親の前ではタバコはやらず親が死ぬと1年間酒タバコはしてはいけないそうだ。その時いた友人の中にも3ヶ月前に父親が亡くなって何も飲まない人がいた。ぼく達の席にはぼくとシチトさんとその友人とシールーさんというサリーを着たかわいいインド美人の女性がいた。シールーさんはこの店で一番若い20さいで1ヶ月目だそうだ。サンミゲル、ジャガイモ料理、骨つきヤギの肉を食べながらシチトさんを通して話した。シチトさんの友人は映画館で働いていて酒タバコハッパ全てやらない。いつか日本で働きたいといっている。シールーさんはとなりでチラッとにらみジャガイモを食べ、チラッとにらみヤギの肉を食べていた。目がとても強い。仕事になれておらず純粋ではずかしがりな人のようだ。ぼくとシチトさんが日本語でしゃべっているのが気になるといっていた。「私を日本に連れていって下さい」とはずかしそうに笑っていた。
シチトさんが空港に奥さんを迎えに行くと出ていった。その間ネパール語会話集を見ながら3人で話した。2人がぼくにもう1本とビールを頼んだ。ぼくが「マイレ ヨ マゲコ ティエナ(これは注文していません)というとすごく笑っていた。あとフライドモモを頼んだ。シチトさんの友人がカラシのようなものをたっぷりつけ1口で食べたのをマネして食べると中身が熱くて口の中が火事になった。お皿をさしだしてくれたがぼくも一応日本の男の子なので負けるもんかと飲みこんだ。とてもおもしろかった。なぜか他の従業員もぞろぞろのぞきに来た。しまいには店のボスがきてぼくにあいさつをしてきた。外人が来る店ではないらしい。やがてシチトさんが「外は寒い」と帰ってきた。
店で一番セクシーだという女性が来た。ネパールでは手に毛がはえてる毛ぶかい人がセクシーだという。シチトさんがシールーさんとどっちが好きかとぼくに聞いてきた。2人いるのに答えられないといった。セクシー女性がいなくなったすきにシールーさんというとベニヤ板の隙からセクシー女性が顔を出しにらまれた。シチトさんはシールーさんに慣れる前にこういう仕事をやめるように言っていた。ぼくが「そろそろ行きましょう」というとシールーさんが「今帰りましょうといったでしょ」とシチトさんを通して伝えてきた。食事代は全てシチトさんが払ってくれた。300ルピーほどだった。チップをあげるものなのかとシチトさんに聞くと「あげなくていい。あげても20ルピーぐらい、100ルピーあげたらいい方だ」といっていた。50ルピー渡した。帰りぎわにシールーさんがシチトさんにこそこそとなにか聞いている。「マタ キテ クダサイ」「アリガトウ ゴザイマシタ」とぎこちない日本語をはずかしそうに言った。ぼくの手をつかんで下を向いてはなさないのでどうしていいのかわからずオロオロしてしまった。店の外に出て手をふりバイクの置いてある駄菓子屋へ歩いていった。

すっかり夜になっていた。うさんくさい髪型の駄菓子屋の兄ちゃんにあいさつしてシチトさんのバイクでタメルに向った。夜なのでさすがに寒かった。道には警官がたくさんいる。イギリスのエリザベス女王の息子というのが到着するというので「バイクや車は早く行け」と言っている。なんだか騒々しい中タメルについた。「友達がネパールに来るときは家を紹介して下さい」とシチトさんが言い、お礼をいって別れた。
夜のタメルは「ハッパ?」軍団でいっぱいだ。宿に戻りシャワーをあびていると電話がなった?PM9:00すぎねる。

2000年 11月24日(金) 日本へ

腹をこわして夜中に2回起きる。昨夜とても清潔とは言えない店で食べた物が悪かったのだろう。
AM6:00に起きる。もう本当に日本に帰らなければならないんだと思うと何もできずにAM8:00までネパールに来てからのことを思い出した。初日はおじけづきそうになったのに今はここにいたいと思っている。たった数日の間にいろんなことがおきた。日本では気付かなかった世の中との一体感を感じた。

朝食を食べにレストランに行くとウェイターさんがフロントに行ってクーポン券をもらうように言ってるような気がした。フロントの親切な人からあこがれのピンクのクーポン券を手に入れた。最終日にしてやっとシステムがわかった。コンチネンタルブレックファーストを食べパイナップルジュースを堂堂と飲み部屋に帰るとそうじのおばちゃん軍団が「ナマステー」とドアを開ける。しょうがないので急いで支度してフロントでチェックアウトした。
昨日プラカスさんの替え玉がAM11:00にロビーでと言っていたので本を読んで待っていたがこないのでフロントの女性に旅行会社に電話してもらった。ちなみにこの女性もぼくのことをぼくちゃん扱いしているようだ。電話には日本人が出た。AM11:00というのは間違いでPM1:00だったらしい。
時間があるので「ふる里」に行ってミックスチャーハンを頼んだ。これはとてもうまかった。
やがて1人の女性がぼくの前の席に座った。ホリオさんというネワール語の勉強をしている学生だ。日本大使館の近所に住んでいるそうだ。中野に住んでいた頃ブロードウェイの4Fにある本屋さん(タコシェ)でネパールに興味を持ったそうだ。ネワール語を選んだのはネワール族というのは日本人とにている所が多くお月見もするし七五三のような行事もあるそうだ。言葉もにているらしく「やめて」も「ヤメテ」というらしい。他にネパールダンスを習っていてぼくが初日に行った「ボジャングリハ」という店のコーディネイトしている人が先生だそうだ。ポカラに行くとき助けてくれたアジュさんのことを知っていた。ギャーテーズのことを話したら興味を持っていた。日本に帰ってもやることがないというのであまねさんの連絡先を勝手に教えてしまった。ホリオさんは「ふる里」の常連らしく店の人とネワール語でしゃべっていた。店の人が試作品のおしんこを出してくれた。おいしかった。とても気さくな人だった。120ルピー払ってホリオさんと別れて宿に戻った。

宿の外のテーブルで本を読んでいたらウェイターさんがやってきて「なにか持ってきましょうか?」というのでミルクティーをもらった。この人もぼくちゃん扱いしている感じがする。しばらくすると杉岡さんが「兄貴ー」と声をかけてきた。杉岡さん達はお金をたくさん使ってポカラやらルンビニやらを飛びまわったそうだ。杉岡さん達のガイドのラムさんにHさんにアスタムコットやホクシンに連れてってもらったことを話すとにこやかに「それはよかった」と言った。ラムさんは疲れているようだった。
しばらくするとプラカスさんが来た。杉岡さん達は先に空港に向ったがぼくのタクシーが来ない。PM1:00を回っても来ないのでプラカスさんのバイクで空港に向った。ノーヘルでカトマンズの砂ぼこりをかぶっているので目が開けられない。パシュパティナートに向って大勢の人が歩いている。そういえばシールーさんもお寺のろうそくに火をつけに行くと言っていた。
カトマンズ空港に着いたころ僕の目は真っ赤になっていた。ほこりが目に入ったため目が開けられず涙が止まらない。K旅行社カトマンズ支店の人だろうと思われる日本人女性に「すごい真っ赤だけど大丈夫?」とぼくちゃん扱いされた。

プラカスさんと入り口で別れて空港内へ入る。中はめちゃくちゃ人が並んでいる。杉岡さん達はすごい荷物である。持ってきた100万円すべて使ってしまったのだろうか。杉岡さんは「めっちゃ使うた」とあきれ顔をしていた。
空港使用税1100ルピーを払うとあずける荷物のない僕はたくさんの人を追いこしてすぐにチェックインをすませ2階に上がり無愛想な人に出国カードを渡しパスポートにハンコをもらいロビーで座って待った。
やがて関空行きJALチャーター便に乗る人が呼ばれ手荷物検査の列に並ぶ。X線の機械が1台故障しているため男も女も同じ列に並ぶ。横におかれた寄付ボックスにあまったルピーを入れて手荷物検査へ。リュックを開けられ「ナイフはないかナイフはないかライターはないかマッチはないか」と何回も聞かれた。そして出発ロビーに座って待つ。
ロビー内はどこからわきでてきたのかというほどの日本人団体客でいっぱいだった。「山はきれいだった」とか「やっと日本に帰れる」とかワイワイガヤガヤまるで日本にいるようだ。となりのおばさんが「あなた1人で来たの、どうだった?」と聞くので「とてもよかった」というと「あらそういう人もいるのね」と言っていた。横に立っていた警備員に航空券をとられて「オオサカ?カンサイ?」とかいってるので「そうです」というと「ハーン」と言っていた。

そして飛行機に乗り込んだ。席は非常口の横の前が開いている所なので足がのばせます。離着陸のたびにタイのスチュワーデスさんが向かい合って座るので緊張してしまった。左の窓にはヒマラヤ山脈、サガルマタもはっきり見える。山脈はず〜っと続く。右の窓には青や赤や黄やオレンジの幻想的なイリュージョンがくり広げられていた。空から夕日を見ると雲にうつってこんなふうに見えるんだなあ。ホクシンの村へ向う時に見た赤いサリーを着た女性が働く姿がキリの中に映っていた光景は美しかったなあ。
機内食を食べねむれない飛行機の中を過した。となりの男性も1人らしくインドに行ったこともあるそうだ。海外では体調をくずさないことはないらしく機内食も苦しそうに食べていた。
やがて飛行機はタイのバンコクについた。そうじと乗務員の交替でまた飛ぶのに2時間30分あるので会社と姉2人にタイのマカデミアナッツを買った。ハワイのマカデミアナッツもあったが一応アジアなのでタイの方にした。タイの店員達は明るく片言の日本語でぼくをぼくちゃん扱いしてからかって遊んでいた。
そして出発ロビー25に行きトイレに入ると赤いものが。これはもしかして赤痢なのか?それともゲリに寄るぢなのか?やがて飛行機は飛び関空についた。

2000年 11月25日(土) 家へ

こういう手続きになれてしまった僕はさっさと羽田行きの飛行機のチェックインをすませ飛行機にのり羽田に着き東京モノレールに乗った。一番前に座って車掌気分を味わいJRに乗りかえ山手線で西日暮里に向う。ここまで来るともう元の日常に戻ってしまっている。西日暮里の改さつでは定期と間違えて恐山の交通安全のお守りを入れてしまい駅員さんを困らせた。
そして地元駅についてローソンによりお茶などを買い家に到着した。どんな顔でどんなセリフでドアを開けようと考えてもしょうがない。なぜならドアが開かない。カギもない。さてどうしようとテラオーダの所で(姉の)みいちゃんちに電話する。そしてみいちゃんちに向うため再び駅へ。駅ではキップ販売機の前でおばあちゃんがオロオロしていた。キップが買えないというので教えてあげた。こういうことをパッと出来るようになってうれしい。そして電車に乗る。
駅前の本屋の中でみいちゃんを待っている時どうもぼくの体はくさいようだ。本屋の外で待った。
みいちゃんが(姪の)あいりとあおばをつれて自転車でやってきた。カギがみつからないそうだ。みいちゃんちで待たせてもらうことになった。ふとんをしき横になってハローページで友達の電話番号をさがす。あった。みいちゃんがサンクスでサンドイッチとチャーハンとお茶を買ってきてくれた。二階堂くんの家に電話すると家で待っててもいいよと言ってくれた。するとみいちゃんちで家のカギがみつかった。
駅に向うのに方向音痴なぼくは迷ってしまった。途中少女が「くまが来る」と指さした。親は名にもいわず少女といっしょに家に消えた。ああネパールに行きたい。
なんとか駅につき家にたどり着いた。フロに入るとケツがいたい。「きれぢ」のようだ。久美ちゃんにお礼の電話を入れる。電話帳がなくなてしまいあまねさんちとかに電話ができない。
つかれたのでPM4:00すぎにねた。

2000年 11月26日(日) 次の日

AM9:00起きる。17時間も寝たらしい。父が町会の防災くんれんで大島やが火事になってチビッコ広場に逃げるらしい。TV局もくるらしいといっていた。母は電話一つぐらいよこせといっていた。

今回ぼくは1人でネパールに行ったがネパールではたくさんの人と話し行動して助けてもらった。人は1人では何もできない生きているものみんなつながっているこれが宇宙との一体感だとはずかしくて人には言えないフレーズが自然に出てくる。
すべての人にありがとうと飢えていたディランやどんとを聞きながら。

その後

お腹の調子が悪くなりゲリというより水が出てくる。医者に行きめん棒をケツにつっこまれて検査する。数日おかゆを食べ菌を殺すくすりを飲んだ。アメーバかもしれないと他の薬も飲んだが検査の結果赤痢菌でもコレラでもなくただ食べ物が合わなかったということだった。
ネパールに行ったのにマカデミアナッツを買ってきたため会社で責められた。

自分のみやげ(物質)

ネパール紙幣、コイン
横ブエ
小さなタンカ
バクタプル通行許可
航空券
空港使用税支払の紙
両替証明書
ネパール国内線で耳につめたわた
ラジくんにもらったボールペン
いろんな人にもらったサイン
宿の石けん、マッチ

など