小原隆夫の所属謠会と謡曲の経歴 2015/2/1 更新
目 次
小原隆夫のホームページ
あさかのユーユークラブ
宝生流謡会のページ
小原隆夫の謡経歴
宝生流教授嘱託会福島県支部
県中方部
不昧会 福良五雲会
りんどう会 祥宝会
薫土謡会 謡曲研究会
鳳雛会 郡山白水会
謡曲180番関係参考資料
宝生能楽堂
宝生流謡曲名寄せ
@宝生流謡曲名寄せ便覧の補助的な細目
A宝生流謡曲名寄せ便覧の補助的な細目
B宝生流謡曲名寄せ便覧の補助的な細目
能 楽
能楽は、日本の代表的舞台芸術の一つで、約七百年の伝統を持つ。日本固有の神楽系の歌舞に、七〜八世紀にアジア大陸からの散楽が混じってできた猿楽と、農耕神事に発する田楽が交流熟成されてできた。
大成させたのは、観阿弥、世阿弥親子。とくに世阿弥は現行曲の大半を自作し、「風姿花伝」をはじめ多くの芸論を残した。能は「幽玄」という言葉で表される優雅で柔和、典麗な美的情緒に彩られた象徴劇。歴史や古典文学に取材した歌(うた)と舞(まい)を中心に構成され、主役である演者が優れた造形美を有する能面をかけて演じる点に特色がある。事件でなく人間の運命を描くことを主題とし、簡素な舞台上で凝縮された様式性の高い演技が展開され、その劇世界は、「井筒」のような夢幻能に典型的に表現されている。
荘重点雅なムードを幽玄、その極致を花という。観世・宝生(ほうしょう)・金剛・金春(こんぱる)・喜多の五流がある。
(福島民友2007/1/4の広告より転載)
小原隆夫「謡の経歴」
年 月 所属謠会
お習いした師匠
昭和25年(1950)11月 真船道場入門
教授嘱託 真船 進先生
昭和26年(1951) 5月
不昧会入会 教授嘱託
真船 進先生
昭和27年(1952) 1月
不昧会 教授嘱託
渡部房三先生
昭和30年(1955)12月 福良五雲会入会
教授嘱託 渡部房三先生
昭和31年(1956) 1月 入門免状
職 分 榎本秀雄先生
昭和32年(1957)11月 初伝免状(序.奥)
職 分 榎本秀雄先生
昭和34年(1959)10月 福良五雲会退会
昭和35年(1960) 4月 福島 当宝会入会
職 分 当山俊道先生
昭和39年(1964) 9月 福島 当宝会退会
職 分 当山俊道先生
昭和53年(1978) 5月 りんどう会入会
教授嘱託 湯浅広平先生
昭和54年(1979)11月 中伝免状(序.奥)
教授嘱託 湯浅広平先生
昭和61年(1986) 2月 奥伝免状(11通) 職
分 高橋徳之先生
昭和61年(1986) 2月 嘱託教授免状 職
分 高橋徳之先生
昭和62年(1987) 2月 宝生流教授嘱託会加入 (会員番号 16-032-00)
昭和63年(1988) 2月 郡山 白水会入会
職 分 三川 泉先生
平成 5年 (1993) 2月 病気のため白水会退会
職 分 三川 泉先生
平成 4年(1992) 4月 りんどう会より祥宝会を設立して入会
平成20年(2008) 4月 祥宝会を解散して退会
昭和63年(1988) 7月 鳳雛会に入会
平成25年(2013) 2月 鳳雛会を退会
昭和57年(1982) 5月 薫土謡会を設立して入会した
平成14年(2002) 1月 謡曲研究会を立ち上げた
平成28年(2016) 4月 薫土謡会と謡曲研究会を合併して土謡会とし現在にいたる
平成29年(2017) 4月 土謡会の中に能(DVD)観賞会を立ち上げ現在にいたる
久留米地域公民館の新年会で祝謡「鶴亀」をうたう。
平成17年1月8日 中野 章氏写す。
◎不昧会
この会の主宰は、真船 進先生でした。劇作家の真船 豊さんの令兄で、先生が太平洋戦争の最中に、東京から郷里に疎開して以来、後進の指導に専念されていた。先生のお師匠様は、義父にあたる西田白雲庵不昧居士と称された方で、宝生流謡曲を、16代宗家からお習いした元台湾総督府高官と聞いている。
不昧会の会員には村の方々と書家や画家等多彩の皆さんが多く集まって居られ、会津若松市からお客様をお招きして、お稽古の会や、春夏秋冬季節毎に、謠会を開くなど、太平洋戦争終戦後の食べ物の少なかった時代なのに、搗き立てのお餅をご馳走になったりして、和やかな賑やかな会でした。お稽古は厳しいが楽しかった想い出多い会でした。 だが、現在元会員は、私を含めて生存者は、2名のみで他は故人となってしまいました。不昧会の所在地は郡山市湖南町福良字中町(安積郡福良村)の真船家にあった。
私は、今も「不昧会」に昭和26年5月6日付入会した時に渡された辞令を大切に持っています。
註 平成23年12月8日、真船 進先生の長男知三氏が83歳で逝去されて生存する不昧会の元会員は私だけになりました。、
真船 進先生のこと
真船 進先生は、真船禎吾・いと夫妻の長男として明治33年(1900)2月17日に福島県安籍郡福良村大字福良字中町57番地で誕生された。姉一人と弟一人がおられ、弟さんは有名な戯曲作家の真船 豊先生です。
生家は茨城街道(現294国道)の福良宿場の村中にあります。茨城街道とは会津若松から猪苗代湖南岸を通り、勢至堂峠・長沼・白河を経由して江戸に到る旧藩時代からの街道です。家は南向きの二階建土蔵造りの店舗に母屋が続き、奥に土蔵2棟が続いて南北に細長い地所にあり、宿場特有の街道をはさんで両側に細長く土地を配分され村が構成されいる集落のほぼ中央に位置してます。私の父の生家の向かいになります。父が子供の頃は福良村尋常高等小学校の同級生だそうで進先生や弟の豊さんとでよく遊んだと聞いております。
私が先生に始めてお会いしたのは、東京京王線沿線の笹塚にお住まいがあった時父に連れられて遊びに行ったのが始めです。当時私は四谷区信濃町に住んでいて小学4年生の時だと思います。真船 進先生の家族ははハル子夫人の間に三人のお子さんがあり、上のお姉さんに中のお姉さんと末の知三さんです。知三さんにはよく遊んで貰いました。中の行子お姉さんは活発で優しい女学生でした。
戦争が激しくなり東京から田舎に疎開が奨励され、真船 進先生ご一家も、私の家も、両親の生家がある田舎に引越したのです。私は当時旧制中学生で郡山市内の学校に通学できないため喜久田村の伯父伯母の家にお世話になり、郡山市内の学校に汽車通学をして終戦を迎えました。私は戦後に福良村に戻ったとき、就職先を頼んでくれたのは真船 進先生です。
福良村に戻った時から知三さんと毎日の様に両家を行き来して青春を楽しみました。食糧の乏しい時代で村の共同作業や道普請等に一緒に出かけたのは一生忘れる事はないだろう。
真船 進先生は剣道の達人で、若い時赤津村の小学校教師を務めたことがあり、剣術修行者が村の長に勝負を申し込まれ、村長は相手に、真船 進先生を指名されて村人立会いで試合を行なった所向い合い、礼をして立ちあがり、一瞬の内にメンをとり、勝負がきまり、一同驚いた話は今も古老に語り継がれている。早稲田の学生時代、「突き」の真船と言われておったそうです。
疎開当時、真船 進先生は、義父の西田叉二先生宅に毎日通い宝生流謡曲を習い家に戻ると北側の蔵で繰り返し練習をして、理解されないと、何度も西田先生のお宅に伺い納得されるまでお稽古をされていたそうです。故西田叉二先生は郷里の福良村長泉寺に墓所があり、戒名は「白雲庵霊光不昧居士」と墓石に刻まれ現存している。
叉真船 進先生は友人や家に出入りする村人と「不昧会」を結成されました。宝生宗家(17代九郎重英先生)御父子が福良村においでになつた折りに、職分の榎本秀雄先生から教師嘱託の免状を取次がれましたことをお聞きしてます。私は息子の知三さんと一緒に毎晩弟子の方々が帰ってから「橋弁慶」を手始めに謡曲をお習いしました。
昭和27年春川崎市溝口に家を新築して真船 進先生ご一家は移られました。先生ご一家が川崎に移られてから不昧会の謡指導は義兄(進先生の姉様の亭主)の渡部房三先生が続けて戴きました。その間真船 進先生から「わんや書店」が戦後復刊した雑誌「宝生」を第一巻第一号から毎月送っていただき、東京の宝生流謡曲や全国の能楽会の動きに大変参考になり、叉謡曲の勉強に役立ちました。当時の雑誌「宝生」のバックナンバーを揃えて現在も持って居ります。
真船 進先生(俳句の号は白帆)は昭和37年にお亡くなりました。享年63才でした。独特の墨書は素晴らしく暖かさのある字を書いておられましたが現存するものは少ない。
◎福良五雲会
この会は、郡山市湖南町(安積西部五か村)が会津藩領の頃から、会津宝生の謡が盛んでした。士農工商すべての家の主人は、謡を嗜む風があり戊辰戦争後、明治大正時代になっても続いてきた。
大正時代に有志が五雲会を結成し、職分の先生をお招きお稽古をしていたが、戦時中に一時中断した。戦後熱心な方々が村役場の役職者、郵便局長等、村の主だった人々を動かし復活いたしました。私など若輩者は入会の難しい状況であったが、真船 進先生が東京にお帰りになり、不昧会の若者達に、謡指導を福良五雲会の有力メンバーである、進先生の義兄の渡部房三教授嘱託より、お習いした関係から福良五雲会にも入会させて戴いた。
福良五雲会のお稽古は、阿部さんが経営する「新大阪屋旅館」に毎月東京から職分の榎本秀雄先生がお出でになり、会員一人毎に夜遅くまで全員が終るまで、迫力のある謡を、張扇で拍子を打ちながら、鸚鵡返しでお稽古して下さり、仕舞をお習いする方もいて、一晩か二晩泊まって翌日の朝、次のお稽古場所へバスで向かわれた。
福良五雲会の謡会は新大阪屋旅館やお寺の本堂等を会場に開かれました。宝生17代宗家親子を、小池喜代美さんが、お招きして「謡曲仕舞の会」を開いたことがあり、その時のことを、宝生流教授嘱託会会報の記事に、山高 東さんがお書きになっています。その文章を拝見して懐かしかったのを思い出します。
宝生流教授嘱託会会報 (第100号 平成3年7月) 故佐藤芳彦開最高顧問追悼号
東京 山高 東さんの文章より一部抜粋
「真実一路の御生涯」
(平成3年)一月八日、御訃報に接してから、もう四ケ月、今年も早や三分の一が過ぎました。年々歳々花相似云々の思一入深いこの春で、お別かれの名残もなかなかつきません。同じ明治三十八年生れで、私は三月、佐藤芳彦先生は十一月生まれですが、私のことを、いつも小母さんと呼んでおられました、私にとっては親切な兄のような頼もしい生さ辞引的存在でした。 中略…
(昭和26年)福島県福良村行のことです。はなぶさ会員小池喜代美氏が宗家(17代九郎重英先生)御父子を郷里へお招きする催しに、小野信子さんと私が加えていただき、宰領は佐藤芳彦先生で、実に楽しい旅行でした。 この話には後日談もあるのです。六月の末、磐梯山を見上げ猪苗代湖を見下ろす緑に染まりそうな、仏法僧が鳴くという触れ込みの山の中。折から麦秋の畠の真中にポツンとした元活動小屋が会場。映写室が楽屋で見所を見下ろす態。世話方で活躍している村の衆の中に、当時15才の少女が1人居たことを知ったのは後日のこと。成人して東京へ縁づき、家庭も一段落すると、かねての宿願というのが宝生流のおけいこ。福良村の父に相談したところ、お前は東京にいるのだから、自分で道を開け、宗家へお願してみよと云われ、思い切って水道橋へ電話すると、息子の方に話してみよと申されたそうです。
湯島で住居を尋ねられて世田谷と答えると、英雄先生が紹介なさったのが私であったというのです。私が免状をいただいたホヤホヤの頃で、感激し、初対面の日に福良村の話になり、合縁奇縁に興奮しました。この弟子がある年の「真葉会」の帰途,仲間といっしょに喫茶店で佐藤芳彦先生とごいっしょになつた時、「しののめ会」の話になり、自分達の師匠を先生が誉めて下さったと大喜びでした。 後略…
註1 福島県福良村は現在郡山市湖南町福良 元活動小屋とは福良公会堂が会場であった
註2 仏法僧が鳴く山の中とは会津布引山の馬入峠を登った所に小池喜代美氏の別荘があった
◎福島の当宝会
昭和35年春、私の職場と住所が福島市に移り、福良五雲会のお稽古に行けなくなりました。榎本先生は、福島市内なら私のお弟子さんも居りお稽古も出来ますよと、お誘いして戴きましたが、仕事が忙しくて、お習いする機会がなく困っていました。
偶然仕事の関係で知り合いになった、銀行にお勤めの橘さんに、職分の当山俊道先生のお弟子さん達の会を、紹介されて参加させて戴きました。幸い家の近くにある小野寺さん宅や、お寺さんの座敷が、稽古場所で、お習いに行くのに、便利で大変助かりました。でもお稽古の時間に、仕事の都合で、お休みすることが多く、先生やお世話する皆様に、ご迷惑を掛けしましたが、いろいろ勉強が出来ました事を感謝して居ります。
ある年の夏、宝生英雄先生が、ご出演された謡会で、涼やかに汗も見せずに謡って居られたのを拝見しましたが、終ったとたんに、汗が流れるように噴出したのには驚きました。お謡も見事でしたが、福島市の蒸し暑い日に、汗ひとつ見せず、謡って居られた宗家に、敬服致しました。
昭和39年秋に、郡山市に転勤になりまして、この会を退会いたしました。
◎りんどう会
りんどう会は、湯浅広平先生の同門会の中核的な会です。先生とご縁がありましたのは、私が郡山に転勤して暫らくたってから郡山市中央公民館の市民学校の謡曲教室で湯浅広平先生のご指導をうけた時からです。「りんどう会」の名称は湯浅先生の家紋が、竜胆の花であるところからとお聞きしました。湯浅先生から中傳の免状をお取次ぎ戴きました。その後、職分の高橋徳之先生をご紹介して頂き、湯浅広平先生の「喜寿祝い能」の時から、高橋先生に、ご指導を戴き、奥伝の免状と教授嘱託を戴きました。両先生とも今はお亡くなり残念です。
湯浅広平先生がお亡くなった翌春、先生にお習いしてる者36名で毎秋開かれる「宝生流謡曲と囃子仕舞大会」に参加するため「「りんどう会」と別に祥宝会」を立上げました。 現在のりんどう会は、湯浅広平先生の奥様が、大勢のお弟子さんをご指導なされて居りましたが、奥様がご高齢のため休会されて居ります。
◎祥宝会
この謡会は湯浅広平先生に謡や仕舞をお習いしてた方々が、平成三年秋に湯浅先生がお亡くなりなった後、先生の会である「りんどう会」と別に郡山宝生流連合会が主催する、謡曲大会に参加するのを目的として、平成4年春に結成された会です。設立時は男子会員13名女子会員13名計26名の会員が居り、湯浅達治先生の指導を随時うけて、毎年春に謡曲仕舞大会と秋に郡山宝生流連合会
が主催する謡曲大会等を行いました。 平成13年4月には「祥宝会設立十周年記念祝賀平成12年度総会並びに春期謡曲仕舞大会」を福島県磐梯熱海町「松柏」で開催されました。平成14年以降の大会行事は次の通りです。 平成18年4月に「祥宝会設立十五周年記念祝賀会」を二本松市岳温泉松渓苑で行ないました。
春の謡曲仕舞大会
平成13年春季謡曲仕舞大会 平成13年4月14日 郡山市磐梯熱海町松柏
平成14年春季謡曲仕舞大会 平成14年4月13日 郡山市民交流プラザー
平成15年春季謡曲仕舞大会 平成15年4月11日 三菱
あさか野会館
平成16年春季謡曲仕舞大会 平成16年4月18日 郡山ラフィーネ会館
平成17年春季謡曲仕舞大会 平成17年4月15日 三菱
あさか野会館
平成18年春季謡曲仕舞大会 平成18年4月13日 二本松市岳温泉松渓苑
平成19年春季謡曲仕舞大会 平成19年4月16日 三菱
あさか野会館
平成20年春季謡曲仕舞大会 平成20年4月15日 三菱
あさか野会館
秋の謡曲仕舞大会
平成13年秋の連合会大会の曲目 男子素謠 「弱法師」 女子素謠 「小 督」
平成14年秋の連合会大会の曲目 男子素謠 「天 鼓
」 女子素謠 「黒 塚」
平成15年秋の連合会大会の曲目 男子素謠 「通小町」 女子素謠 「蝉 丸」
平成16年秋の連合会大会の曲目 男子素謠 「紅葉狩」 女子素謠 「杜 若」
平成17年秋の連合会大会の曲目 男子素謠 「八 嶋」
女子素謠 「葛 城」
平成18年秋の連合会大会の曲目 男子素謠 「花 月」
女子素謠 「井 筒」
平成19年秋の連合会大会の曲目 男子素謠 「田 村」
女子素謠 「熊 野」
永年続いた祥宝会は平成20年4月15日の通常総会席上で祥宝会の解散することになり、解散時の会員数は、男子会員8名女子会員5名計13名と高齢化やご病気で退会され発足時の半数以下になりました。
祥宝会の解散総会と謡会記録
日 時 平成20年4月15日(火) 曇 Pm1:30〜6:30
場 所 郡山市栄町 三菱あさかの会館和室
行 事 平成19年度総会並びに春季謡曲仕舞大会
春季謡曲仕舞大会の終了後、休憩して午后3時半から平成19年度総会を行う。
佐藤 栄会長の挨拶があり引き続き議長となって議事を進める。
議案第1号 平成19年度事業経過報告並びに収支決算報告について
議案第2号 平成20年度事業経計画案並びに収支予算案について
この二つの議案については原案通り可決決定したが、議案第3号任期満了による役員改選については、会員皆さんが高年齢(平均年齢80才)になり、役員となって会の運営する事が難しい方が多ので種々協議した結果、永年続いた祥宝会の解散の動議が出て、出席者全員で祥宝会の解散を決定した。
今後は現役員が清算に当たる事になった。 午後5時から恒例の懇親会に移る。今日の郡山は満開の桜が咲いて絶好の花見宴会日和ですが、湿っぽい会合でした。
◎鳳雛会
この会は郡山の伝統ある謠会であります。古い歴史は私はよく存じませんが、鳳雛会の名称は職分の高橋コ之先生が命名されたそうで、以来毎月の定例会は原則として第二火曜日の午後六時から、三菱電機株式会社 郡山製作所内あさか野会館で謠会が開催されていました。
現在の会員数は10名で、代表幹事は中西吉煕氏、庶務幹事は古宮章二氏です。謠会を終ってからの懇親会が和やかでした。 平成21年5月末をもって鳳雛会創立以来謡会々場として利用させて戴いた「三菱
あさか野会館」が閉店され、新らしい謡会場さがしに苦労しており、現在は「郡山市男女共同参画センター(愛称:さんかくプラザ)」と駅前の「郡山市ビックアイ」の7階和室を利用しています。
例会日 毎月 第二火曜日の午後六時からとなっております。
平成25年(2013)2月末をもって退会いたしました。
◎郡山白水会
郡山白水会には昭和63年(1988)
2月、先輩の宗像重勝氏に誘われて、職分の三川 泉先生に謡曲をお習いしたのがはじめです。当時、郡山白水会の幹事役、三菱電気OBの野口さんから、毎月一回お稽古の時間割により赤木町の鳥海さん宅を稽古場に決められた時間に通いました。三川 泉先生はご承知の通り、能楽の人間国宝に推奨された方で、鸚鵡返しに25分間十分に汗をながしました。謡はこう有るべきとお話があり、本当に入会して良かったと私なりに励んで居りましたが、平成5年(1993)1月に脳梗塞で倒れ、
お稽古が続けられなくなり退会しました。
◎薫土謡会
薫土謡会は、最初湯浅広平先生にお習いしてる有志が、謠の始めから終わりまで、一番を通して謡う、練習をしてみたいと言うやり方で、有志宅を会場に、毎月一回、日時と曲目を決めて練習会を昭和57年5月から開いたのが始まりです。
その後、会場を久留米公民館に移したが、当時は久留米公民館の前の道路は舗装されてなく、ひきりなく通る自動車の騒音に悩まされ、十分な練習が出来ないので、新築された現在の薫地域公民館に会場を変更し、原則として、毎月一回第一土曜日(平成14年4月より金曜日に変更)の午後二時から、素謡二番を始めから終わりまでづつけて練習しています。
現在の会員数は10名で年々高齢化が進み参加者が少なくなって行くのが悩みです。
謡の曲目は年間計画によって定め、謡の役割は毎回抽選で出席者から決めております。今年で36年間続いております。
◎あさかのユーユークラブ 謡曲研究会
この会は、平成14年1月から郡山市駅前に建設された24階建ビックアイビルの7F和室を会場に、定例会を開いている謡会です。
この会は、能や謡曲を愛好する方なら何方でも来場歓迎です。
謡曲研究会の開催要領(H22/1/15)
1 日時=毎月1回 原則として第3金曜日午前10:00開始
2 場所=ビックアイ7階 市民交流プラザ 和室
3 曲目=毎月5番本(内・外)の中から男女ごとに各50分位の範囲で2曲を選定します
4 会費=出席者1名 200円
5 参加=参加は謡曲を愛好する方なら何方でも限定しません
6 世話人=前回迄の方々にお願いします
7 その他=原則として当日出席者が謡う場所と役を抽選等で決める
◎宝生流教授嘱託会福島県支部
宝生流教授嘱託会福島県支部は次の5の方部で構成している。
現在の福島県支部長は、会津方部長 玉川おくに氏が務めている。
会津方部長 玉川おくに氏
県中方部長 大久保 進氏
県南方部長 大竹 光司氏
県北方部長 坂内 喬氏
浜通方部長 矢部 透氏
◎宝生流教授嘱託会福島県支部県中方部
県中方部は福島県郡山市及び周辺一帯に住んで居られる宝生流教授嘱託の方々が所属している。
現在の県北方部長は大久保 進氏があたれて居り、福島県支部の役員を兼務されている。
◎宝生流教授嘱託会本部
東京都文京区本郷1-5-9 Tal 03-3814-3353
Email kyoju-shokutakukai@mx3.alpha-web.ne.jp
宝生流謠曲180番
宝生流謠の曲目は、180余曲ありますのでが、詳しくは謡曲名寄せをご覧下さい。
宝生流謠曲の曲目内容を、私の独断的な考えで纏めた概況説明と、似たような謡・同じような種類の謡を、私の好みで纏めてみた同種類的謡と、舞の曲をご覧下さい。 福島県に関係のある謡曲も数曲あります。
郡山の宝生流謡会のページに戻る
あさかのユーユークラブindexページに戻る
このページのトップに戻る
Email
: obara.takao@opal,plala.or.jp