宝生流謡曲 禅師曽我

●あらすじ
曽我の十郎・五郎兄弟の従者、団三郎・鬼王は、曽我の里へ帰り、母に兄弟が本懐を遂げたことを報告、形見を渡しました。 母は嘆き悲しみますが、すぐに、越後に居る国上禅師の身の上を案じて二人に文を持たせ出発させました。 国上禅師が別行で護摩を焚いて祈っていました。
 曽我の三男の禅師を養子にし、出家させていた伊東九郎裕宗は、頼朝に召捕って参れと命ぜられ、寺にやって来ました。 裕宗は兄達二人に二十八日の夜井出の館で親の敵を討ち、その身も討たれたことを伝えました。お前を養子にして出家させていたが、頼朝から禅師を捕らえて参れとの命で出て参れと言いました。自分は射手の出身のためなのだと思い、潔く討死してやると、義父の手柄にせんと、墨染の下に鎧、悪魔降伏の剣、三尺の長刀で、打物合せて戦いました。 門前まで進んで戦いましたが、これまでなりと、長刀投げ捨て、護摩の壇上に上り、自決せんとしました。供の兵により、生捕りにされ、鎌倉へ護送されました。

●宝生流謡本   外十六巻の四     四・五番目 (太鼓あり)
      季節=夏   場所=越後国 国上(新潟県)
      素謡(宝生)   稽古順=平物     素謡時間=13分 
      素謡座席順  ツレ=伊東九郎の従者
               シテ=国上禅師    
ワキ=伊東九郎裕宗    
観世流、宝生流(前場は無し)、喜多流の三流派で現行曲  夜討曽我の後日譚 
金剛流にもあったようですが、かなり以前に演目からはずされました。

●謡曲史跡
 雲高山国上寺くがみさんこくじょうじ 新潟県西蒲原郡分水町国上くがみ河津裕泰の三男は幼名を御房丸と言い、生まれてすぐに祖父の弟伊藤九郎裕清の養子に貰われました。裕清戦死の後、養母は平賀義信に再婚し、僧侶になるため、平賀家の所領地にある国上寺に預けられました。律司坊、禅司坊、国上禅師などと呼ばれました。 地名と寺の呼び方が異なります。 謡曲では、ワキが伊東九郎裕宗(叔父裕清?)となっているが、伊東はすでに戦死していたはずなので、作者の思い違いか、脚色と思われます。建久4年6月13日義信(養父茂信と記)に命じて、18才になる御房殿を召しに行ったとされてます。また、頼朝は殺すためにあらず、なぜ自殺しようとしたと問い、涙ぐんで、一門の者皆剛勇、悪びれた者無き、恩をもして召し使いたいと思っていたのに惜しいことしてしまったと後悔しましたと記されています。伊藤九郎裕清が頼朝の心を知らず、説明せずに捕らえてしまったことに、この悲劇が生まれたものと思われます。「切兼曽我」でもそうでしたが、頼朝に諫言する者が居て、このような悲劇となったのでした。「切兼曽我」の場合は裕経であったわけですが、本曲の場合はだれだったのでしょう。裕経の子犬房丸は9才でしたから、直接頼朝に進言出来る身分とは思えないのです。国上寺の案内板によると、裕経の妻子が頼朝に訴えたとあります。仏門に入っていた人まで対象にする必要があったのか疑問はのこります。これは一種の仇討ちですから、恐ろしいです。  禅師は、助かる身では無いので、早く首を刎ねられよと言い、斬首されたと記されています。ただ、一説では御所からはそのまま帰り、翌朝7月2日宿舎の盛長邸の脇にある寺で自害したとされています。   安達盛長邸跡 鎌倉市長谷1−5 甘縄神社境内

●『曽我物語』のあらすじ
 平安時代の末期、伊豆の武士たちのあいだでは複雑な所領争いが繰り広げられていました。工藤祐経(くどうすけつね)は伊東祐親(いとうすけちか)に謀られて所領を奪われてしまいます。祐経はその報復に、伊東祐親、河津三郎(かわづさぶろう)父子を殺そうと刺客を放ちました。刺客の矢は河津三郎に命中し彼は落命しました。 河津三郎の未亡人はふたりの子どもを連れて相模の曽我祐信(そがすけのぶ)のもとに嫁ぎます。このふたりの子どもが曽我十郎祐成(すけなり)と曽我五郎時致(ときむね)です。父を失ったとき、兄十郎祐成は5歳、弟五郎時致は3歳でした。 さまざまな苦難を経た末、兄弟に父の仇工藤祐経を討つチャンスがめぐってきました。建久4(1193)年、源頼朝は富士の裾野で巻狩りを行いました。巻狩りとは勢子が山の上の方から鹿や猪を追い出し、下の方で待ちかまえた武士たちが獲物を射るものです。単なるレクリエーションではなく、軍事演習を兼ね、有力な家臣その他の御家人たちが大勢参加する政治的デモンストレーションでもありました。兄弟は巻狩り期間中の工藤祐経の宿所を探りあて、警備が手薄な時間をみつけました。5月28日の夜、兄弟は祐経の宿所に忍び入り仇を討ちました。苦節18年目にして本懐を遂げたのです。 やがて周囲の武士たちが兄弟に斬りかかり、十郎祐成は討ち死にしました。五郎時致は剣をかいくぐって頼朝の宿所に突進し、頼朝の側近に捕えられました。翌日尋問が行われ、頼朝は五郎が勇気ある武士だということで許そうとしましたが、祐経の子の嘆願により処刑されました。
宝生流の曽我物語関係謡曲  四曲  
コード 曲 目 概    要 場所 季節 謡時間
外2巻の四 小袖曽我 兄弟母ノ勘当解け仇討行 伊豆 夏 38分
外4巻の四 夜討曽我 仇討ちの家来の忠義 駿河 夏 40分
外11巻の五 調伏曽我 曽我五郎仇討ちヲ祈る 箱根 不 26分
外16巻の四 禅師曽我 曽我弟国上禅師ヲ召捕 新潟 夏 13分

●安積伊東氏は工藤祐経が先祖とされている
初代 安積六郎祐長 祐経ノ二男 建保元年(1213)安積賜る建長6年(1254)没享年62才
二代 薩摩七郎祐能 祐長ノ長男 文永3年(1266)死亡
三代 薩摩四郎祐家 祐能ノ長男
四代 安積新左衛門尉祐宗 祐家ノ嫡男
五代 安積新左衛門尉祐政 祐宗ノ長男
六代 安積摂津守祐朝 祐政ノ養子
七代 安積新左衛門尉祐治 祐朝ノ嫡男 応永13年(1406)6月死亡
八代 安積新左衛門尉祐信 祐治ノ嫡男
九代 安積備前守祐時 祐信ノ長男
十代 安積備前氏祐 祐時ノ嫡男 文明17年(1485)9月死亡
11代 安積摂津宗祐 氏祐ノ嫡男 永正元年(1504)9月死亡
12代 安積新左衛門祐里 宗祐ノ長男 永正 2年(1505)9月討死享年25才
13代 安積紀伊祐重 祐里ノ長男 天文21年(1552) 死亡享年53才
14代 伊東肥前重信 祐重ノ嫡男 天正16年(1588)7月伊達政宗の郡山合戦で打死 享年**才

●14代伊東肥前重信 の碑
14代伊東肥前重信は、13代 安積紀伊祐重ノ嫡男で天正16年(1588)7月伊達政宗の郡山合戦で伊達政宗の身代わりになり戦死、逢瀬川の北側に元禄7年(1694)伊達家の江戸四代綱村が建立させたが、現在郡山市富久山町久保田字山王館19の日吉神社境内に所在する。

あさかのユーユークラブ 謡曲研究会 平成23年7月15日(金)


                                   2008/7/1更新
曲の概要
 観世流、宝生流(前場無)、喜多流の現行曲二場曲 夜討曽我の後日譚は金剛流にもあったようですが、かなり以前に演目からはずされました。
 曽我の三男の禅師を養子にし、出家させていた伊東九郎裕宗ワキは、頼朝に召捕って参れと命ざれ、寺にやって来ました。裕宗は兄達二人は二十八日の夜井出の館で親の敵を討ち、その身も討たれたことを口上しました。お前を養子にし、出家させていたが、いかなる者の申しようか、頼朝から弟を捕らえて参れとの命であるので、出て参れと言いました。自分は射手の出身のためなのだと思い、潔く討死してやると、義父の手柄にせんと、墨染の下に鎧、悪魔降伏の剣、三尺の長刀で、打物合せて戦いました。
  門前まで進んで戦いましたが、これまでなりと、長刀投げ捨て、護摩の壇上に上り、自決せんとしました。供の兵により、生捕りにされ、鎌倉へ護送されました。


    
禅師曽我       四・五番目(太鼓なし)  
 
        シテ  国上禅師             季 夏
        ツレ  祐宗の住兵  
        ワキ  伊東九郎祐宗          所 越後国国上
         
シテ 詞「これは国上の禅師にて候。さても我別行のし細候う間。
     百座の護摩を焚かばやと存じ候。いかに誰かある     
シカシカ
シテ 詞「護摩堂の戸を開き候へ                    
シカシカ
ワキ立衆一セイ「藤波の。懸れる木々の梢をば。嵐や寄せて。散らすらん。
ワキ 詞「そもそもこれは伊東の九郎祐宗なり。さても過ぎにし二十八日の夜。
      さても曽我兄弟の者。井手の館に忍び入り。
      敵を討ち其身も即座に討たれて候。其弟に国上の禅師と申して候ふを。
      幼少の時より某養子として出家させ申しふを。いかなる者の申し候ふやらん。
      君聞しめし及ばせ給ひ。急ぎ搦め捕つて参らせよとの御事にて候ふ程に。
      唯今国上の寺に押し寄せ候。いかにこの内へ案内申し候  
シカシカ
      伊東の九郎祐宗が参じて候。其の由申し候。         
シカシカ
      何と祐宗の御出でと申すか                    
シカシカ
      木戸を開いて内え入れ申せ                    
シカシカ
シテ 詞「何と曽我よりの文と候や。やがて開いて見うずるにて候。
      さても去ぬる二十八日の夜。曽我兄弟の人。日頃の本望とげんとて。
      井手の館に忍び入り敵をも討ち。其の身ムも即座に討たれて候。
      さては敵を討ちは某が討ち手よな謀らばやと存じ候。
      いかに祐宗に申し候。曽我よりの文の候。文読まん程御矢をとめて賜り候へ。
ワキ 詞「心得申し候。早かさどつて候よ
シテ 詞「其の身も即座に討たれて候。
シテ 下「叉おことは其の為の出家。忍びたりとも難あるまじ。いかにとも命を全うして。
      兄々が跡をも弔ひ。残り留まり母が身をも。訪ひ尉めてたび給へ。
シテ 詞「今はの時この文を賜る事の有難さは候。いかに祐宗へ申し候。
      正しく御身は某が為には伯父にてはましまさずや。
      情なくも謀り給うものかな。よしよし尋常に討死し。御名を揚げて参らせん。
シテ 上「そもそもこれは。河津の三郎が末の子。国上の禅師墨染の下に。
地  上「悪魔降伏の剣。三尺の長刀指しかざしたり討つべき様こそなかりけれ。
地  上「心得給へ祐宗と。心得給へ祐宗と。養父も親という名あり。捨て刀も危しや。
      五逆の罪も恐ろしや。よしや誰とても。かかる浮世にながらえて。
      何の要害も城郭も。身を惜しむにこそよるべけれとて木戸を開いて切つて出づれば
      手ごろに近づきき過ちすな。射とれや射とれ梓弓。
      疋田の小三郎が進んでかかるを長刀取り延べ法師の切るとて袈裟がけなり。
      南無仏無慙やな。
シテ 下「たとへば沙門の体とて。
地  下「たとへば沙門の体とて思ひゆるすも事にこそよれ唯一命の勝負をせんと。
      狩野の源六其外若武者われも我もと懸りけれども禅師は騒がず打物合はせ。
      こゝやかしこに切り立てられ門前の外まで引き退けば。
シテ 下「今はこれまでなり
地  下「今はこれまでなりとて長刀投げ捨て静々と。
      護摩の壇上に走り上り御本尊に向つて阿毘羅吽欠阿毘羅。
      欠阿につなぬかれ礼盤の上より落ちけるを。生捕にせんとて。
      利剣を奪ひ鎌倉へこそ上せけれ鎌倉へこそは上せけれ。


(参考資料)@
  宝生流の曽我物語関係曲は四曲あります。

「小袖曽我」 外 二巻四   入門 夏  素謡三十八分 四人
「夜討曽我」 外 四巻四   入門 夏  素謡四十分   五人
「調伏曽我」 外十一巻五  入門 不  素謡二十六分 五人
「禅師曽我」 外十六巻四  入門 夏  素謡十三分   二人


(参考資料)A
  宝生流の現行四曲以外に曽我物語関係曲は次の曲があるさうです。

「元服曽我」 (喜多流の参考曲)
 曽我十郎祐成は父の敵祐経を討とうと思っているが、自分一人では心許無いので、弟箱王を連れ出すために箱根へ向かう。箱根別当は、曽我兄弟の母の仰せで預かっているのだし、やがて出家させて自分跡を継がせたいからと受け入れなかった。しかし兄弟の敵討ちへの熱意に負けて、箱王を送り出す。
 祐成は、このまま母の許へ立ち寄っても箱王の元服は許されないだろうと考え、途中の宿で元服の儀式を行う。そこへ別当は箱王の髪を生やしてやろうと追い掛けてやって来るが、既に兄によって髪が生やされて見事な男と成った箱王を見る。一同は元服を祝い酒宴を開き舞を舞い、本望を遂げようと勢い付く。

「切兼曽我」 (廃曲)
 [前]源頼朝は一萬(曽我十郎祐成の幼名)と箱王(曽我五郎時致の幼名)の曽我兄弟が将来敵と成る事を心配し、兄弟を召し連れる為に梶原景季を曽我の里へ遣わす。兄弟の母は親子の別れを嘆き泣く泣く見送るので、景季は命だけは助けようと誓って連れ帰る。
 [後]鎌倉へ着いて景季は頼朝へ兄弟の命乞いをするが、工藤祐経の反対意見もあり、頼朝に兄弟を討つ様に命じられる。死をも恐れぬ兄弟の潔い最期の様を目の当たりにし、景季は討つ事が出来ず、太刀を投げ捨てて泣き伏してしまう。そこへ畠山重忠の取り成しによる赦し状が届き、兄弟は重忠に預け置かれる事と成る。一同は悦びの酒宴を開き舞を舞い、やがて故郷へ帰って行く。

「十番斬」 (廃曲)
 [前]曽我兄弟に心を通じる宮使いの女である二ノ宮は、夜に入って兄弟を祐経の仮屋へと案内する。兄弟が祐経を討ち遂げると宿直の兵達が慌て騒いで現れるので、兄弟は武勇の名を残そうと更に御所の兵に戦いを挑む。時致は新開忠氏と戦いながら御所へと追って入って行く。
 [後]一方、祐成は戦い疲れたところを仁田忠綱に打ち伏せられて、やがて首を打ち落とされてしまう。

「伏木曽我」 (廃曲)
 [前]生前の祐成と妹背の契りを結んでいた虎御前は、兄弟が果てた跡を尋ねようと富士の裾野にやって来た。そこへ狩人が二人現れ曽我兄弟の旧跡を案内し、当時の有様を物語っているうちに、祐成の墓所に立ち寄るようにして姿を消してしまう。
 [後]虎御前は墓前で故人を偲んでいると夢に祐成が現れ、富士の裾野での有様を語る。七日間の狩の最終日に念願の敵祐経と出合って、弓を引いて射ようとした瞬間、伏木に馬の足を取られ転げ落ちてしまい機会を逃してしまった。その夜半に館に忍び入って敵を討ち、そのまま土中の屍となり裾野の草に埋もれてしまったが、高く名を挙げた事が救いであると物語るうちに夜が明け、虎御前の夢は覚めるのであった。


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