烏帽子折(えぼしおり)

●あらすじ
能の曲目。四番目物。観世、宝生、金剛、喜多四流現行曲。宮増(みやます)の作。金売り吉次一行を襲う熊坂長範ら群盗と戦う牛若丸(子方)を後段に、前段では牛若と源義朝(よしとも)の遺臣の烏帽子屋夫婦との出会いが描かれる。場面が22場に変化する劇的な能で、世阿弥(ぜあみ)の幽玄能の主張の一方に、こうした作品がつくられていたのである。間狂言(あいきょうげん)の盗賊の手下たちもユニークな役どころ。シテは前段では烏帽子屋の亭主となり、後段では大太刀(おおだち)を佩(は)いた熊坂に扮(ふん)する。前後の軸となって活躍する牛若も大役で、子方卒業の曲ともされている。                     
 [ 執筆者:増田正造 ]

●宝生流謡本(参考)     外十五巻の五   四五番目    (太鼓あり)
       季節=秋   場所=前は近江国鏡宿 後は美濃国赤坂(岐阜県)
       素謡(宝生)  :  稽古順=入門   素謡時間48分 
       素謡座席順     ツレ=前・妻 後・若武者
                   シテ=前・烏帽子折 後・熊坂長範
                   子方=牛若丸
                   ワキ=三条吉次 
                   ワキヅレ=弟 吉六

●解 説
能 烏帽子折の祝言性       
小林健二(こばやしけんじ・大谷女子大学教授)
義経物のなかの烏帽子折の位置
「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉があるが、これほど日本人の源義経にたいする好みを端的に言い表した言葉はなかろう。ご存じのように、義経は赤子の折りに平家に敗れた父を失い、少年期に奥州の藤原秀衡を頼って奥州に下り、一人前になって兄頼朝を助けて平家を西国に追討する。その天才的な軍略の程は『平家物語』に語られるところである。しかし、思わぬ讒言から兄と不仲となり、失意のうちに奥州に落ちて、そこで秀衡の子供達に裏切られ若くして最期をとげる。苦難を乗り越え一旦は栄光を勝ち得るが、その後あらぬ疑いから転落の道をたどる悲劇のヒーローなのである。「判官贔屓」という言葉には、そんな薄幸の英雄に対する、人々の同情や哀惜の念が強くあらわれていよう。 そんな人々の興味から、義経の物語は、あるいは長編の読み物として『義経記』八巻にまとめられ、また語り物として幸若舞曲の「笛の巻」「未来記」「烏帽子折」「腰越」「堀川夜討」「四国落」「笈探し」「富樫」「和泉が城」「清重」「高館」という一連の作品となり、能としては《鞍馬天狗》《烏帽子折》《橋弁慶》《正尊》《舟弁慶》《吉野静》《安宅》《錦戸》などの数々の作品となって中世の人々に親しまれて来た。その作品群に描かれる義経の物語は、前半の牛若丸時代と、後半の兄と仲違いして奥州で最期を迎えるまでの物語から成る。つまり、義経の武将としての華々しい活躍は『平家物語』に譲って、描かれないのである。このことからも、人々が義経の物語に何を望んでいたかがよくわかろう。
 さて、一連の義経物の能のなかで《烏帽子折》は、牛若丸から源九郎判官義経への門出を描いた重要な作品と言えよう。この中で、牛若丸は都を捨てて東国へ旅立つが、奥州には義経の後見となる藤原秀衡がいた。奥州は義経の第二のふるさとであった。また、旅の途次ではからずも元服するという、牛若から義経への成人式が語られる。これは義経の生涯にとって大きな転換点になる出来事であった。同様のエピソードは、『義経記』では巻第二「鏡の宿吉次が宿に強盗の入る事」「遮那王殿元服の事」に記され、語り物では幸若舞曲「烏帽子折」として作品化されている。


●観能記
能 烏帽子折 <観世流>          
収録:2004年1月 国立能楽堂 18回NHK能楽鑑賞会
出演者:前シテ(烏帽子屋亭主):関根祥六  後シテ(盗賊・熊坂長範):関根祥人
子方(牛若丸):関根祥丸 ツレ(烏帽子屋の妻):武田尚浩 ワキ(三条吉次):森常好
ワキツレ(弟・吉六):舘田善博  若者頭・熊坂の一味:上田公威  立衆:10名
アイ(小賊):3名  アイ(六波羅の早打):吉住講  アイ(宿の亭主):久保克人
笛、小鼓、大鼓、太鼓:各1   地謡:8名
前場: 商人の三条兄弟。商いの旅に出る様子。奥から子供の声。牛若丸が登場。師匠に勘当された、旅の供をしたいと2人に願い出る。兄弟はその子が牛若丸とは知らない。3人は連れ立って旅することになる。 早打が登場。鞍馬の寺から牛若丸が脱走したと告げる。すぐに見つけ出せと言う。それを陰で聞いた牛若丸は烏帽子を被って東男に成りすまそうと考え、烏帽子屋を訪ねる。鏡の宿。烏帽子屋亭主が揚幕の前で、店を訪れた牛若丸に応対。至急、烏帽子を追って欲しいと頼む。しかも平家の世なのに左折にして欲しいと(左折は源氏を意味する)。亭主はそれを不審に思うが子供の言うことだからと、注文を受ける。早速折った烏帽子を牛若丸の頭に被せる。少年の器量に感心する。お代として腰の小刀を亭主に渡す。烏帽子屋の妻(年増の女面)が登場。橋掛りにて牛若丸のことを話して聞かせる亭主。それを聞いて泣く妻。彼女は鎌田正清(源義朝の家臣)の妹であった。彼女は少年が牛若丸であると直感。2人して少年に会う。正清の妹と知り、牛若丸も涙する。亭主は刀を彼に返す。夫婦が退場。舞台後方に控えていた三条兄弟が再び登場。旅路に向かう。
後場: 赤坂の宿に着く。弟が手配した宿。宿の亭主が言うには、この辺りの悪党が宿に夜討ちを掛けてくるらしい。牛若丸は自分が相手をすると言う。扇子を手に舞う牛若丸。小賊3名が松明を手に登場(皆、長く垂らした口ひげ)。闇夜を順番に宿に押し入るが牛若丸に撃退される。
 盗賊の首領・熊坂長範(悪人の面)が若者頭を初め、立衆10名を引き連れて登場。若者頭は先に宿に押し入った小賊の結果を話して聞かせる。暗闇の中、盗賊らは一人一人と宿に侵入。それを待ち構え、討ち取る牛若丸。盗賊らは闇夜の中、同士討ちまで始める始末。ついに最後に63才の熊坂が5尺3寸の大太刀で牛若丸に襲い掛かる。しかし彼には敵わない。刀では敵わぬとみた熊坂は太刀を捨て、組み合いに持ち込もうとするが、逆に斬り倒されてしまう。


       源氏関係謡曲24曲中義経ものは11曲
                                          
小原隆夫調
 コード   曲 目      概            要          場所  季節  謡時間
内12巻2 鞍馬天狗  1169牛若丸天狗から兵法伝授    11歳  京都   春   35分
外07巻2 橋 弁 慶   1174京ノ五條ノ橋ノ上牛若丸ト弁慶戦う 16歳  京都   夏   20分
外15巻4 烏帽子折  1174元服シ 赤坂ノ宿ニテ熊坂長範ヲ  16歳  滋賀   秋   48分
外02巻2 熊   坂   1174烏帽子折ノ後日物語        16歳  岐阜   秋   38分
内11巻2 八   島  1184源平合戦ノ義経弓流し       26歳 香川   春   55分
外15巻2 正   尊  1185義経土佐坊正尊ヲ捕る(起請文) 27歳  京都   秋   35分
内02巻5 船 弁 慶  1185静と義経の別 知盛幽霊と弁慶  27歳  大阪   秋   44分
外02巻3 吉 野 静   1185義経吉野山ノ衆徒ヲ静ト佐藤忠信ニテ防グ 奈良   春   22分
外08巻2 忠   信   1185義経ハ頼朝ニ追ワレ吉野山ヲ忠信ニテ防戦 奈良   冬   16分
内18巻2 安   宅   1187安宅ノ関ノ勧進帳義経       29歳  石川   春   66分
外10巻3 摂   待   1187奥州下リ継信ノ老母ニ接待サレル  29歳  福島   春   82分
  
                                (平成23年5月20日 あさかのユーユークラブ 謡曲研究会)


        烏帽子折      


    烏帽子折(えぼしおり) 外十五巻の五     五番目    (太鼓あり)
           季節=秋   場所=前・近江国鏡宿 後・美濃国赤坂
           素謡稽古順=入門   素謡時間=四十八分 
    素謡座席順  後ツレ=若武者
           ツレ=妻
           シテ=前・烏帽子折後・熊坂長範 
           子方=牛若丸
            ワキ=三条吉次
            ワキヅレ=弟 吉六

         詞 章                          (胡山文庫)
  次第
ワキワキヅレ上 末も東(あづま)の旅衣(たびごろも)。末も東の旅衣。
         日も遥々(はるばる)と急ぐらん。
       詞「是は三條(さんでう)の吉次信孝(きちじのぶたか)にて候(さふらふ)。
         我れ此程(このほど)數(かず)の寶(たから)を集め。
         弟(おとゝ)にて候ふ吉六(きちろく)を伴なひ。
         唯今(たゞいま)東(あづま)へ下(くだ)り候。
         如何(いか)に吉六。高荷どもを集め東へ下らうずるにて候。
吉六    詞「委細(いさい)心得(こころえ)申(まを)して候。
         軈(やが)て御立(おんた)ち有(あ)らうずるにて候。
牛若     詞「喃々(なうなう)あれなる旅人。
         奥へ御下(おんくだ)り候はゞ御供(おんとも)申(まを)し候はん。 
ワキ     詞「易(やす)き間の御事にて候へども。御姿(おんすがた)を見申(みまを)せば。
         師匠(ししやう)の手を離れ給ひたる人と見え申して候ふ程に。
         思ひも寄らぬ事にて候。
牛若    詞「否(いや)我れには父もなく母もなし。
         師匠の勘當蒙(かんだうかうぶ)りたれば。
         唯(た)だ伴なひて行き給へ。
ワキ     上 此上(このうへ)は辭退(じたい)申すに及ばずして。 
         此の御笠(おんかさ)を参(まゐ)らすれば。
牛若    上「牛若此の笠押取(かさおつと)つて。今日(けふ)ぞ始めて憂(う)き旅に。
地      下 粟田口(あはたぐち)松坂や。
         四の宮(しのみや)河原(がはら)逢坂(あふさか)の。
         關路(せきじ)の駒の跡に立ちて。何時(いつ)しか商人(あきびと)の。
         主従(しうじう)となるぞ悲しき。
        上 藁屋(わらや)の床の古(いにしへ)。藁屋の床の古。
         都の外(ほか)の憂き住ひ。さこそはと今。思ひ粟津の原を打ち過ぎて。
         駒も轟(とゞろ)と踏み鳴らし。
         勢田の長橋(ながはし)打渡(うちわた)り。
         野路(のぢ)の夕露(ゆふつゆ)守山(もろやま)の。下葉色照る日の影も。
         傾(かたぶ)くに向ふ夕月夜(ゆうづくよ)。
        鏡の宿(しゅく)に著(つ)きにけり。鏡の宿に著きにけり。
               狂言
牛若     詞「唯今(ただいま)の早打ちを能々(よくよく)聞き候へば。
         我等が身の上にて候。此の儘(まゝ)にては叶(かな)ふまじ。
         急ぎ髪を切り烏帽子を著(き)。
      下 東男(あづまをとこ)に身を窶(やつ)して下(くだ)らばやと思ひ候。
牛若     詞「如何に此内(このうち)へ案内申し候。
シテ     詞「誰(た)れにて渡り候ぞ。
牛若    詞「烏帽子の所望(しょまう)にて参(まゐ)りて候。
シテ    詞「易き間の事折りて参らせうずるにて候。先ずかう御通り候へ。
         この頃都より地を取り下して候。扨(さて)烏帽子は何番に折り候ふべき。
牛若    詞「三番の左折に折りて賜り候へ。
シテ    詞「暫く、其(そ)れは源家(げんけ)の時にこそあれ。
         今は平家一統の世にて候ふ程に。左折は思ひも寄らぬ事にて候。
牛若    詞「仰せはさる事にて候へども。思ふ仔細の候程に折りて賜り候へ。
シテ    詞「げにげに幼き人にて候程に。折りて参らせうずるにて候。
          此の左折の烏帽子に付いて。嘉例(かれい)目出度(めでた)き物語の候。
         語つて聞かせ申さうずるにて候。扨(さて)も某(それがし)が先祖は。
         三條烏丸(さんでうからすまる)に候ひしよな。
         いで其の頃は八幡太郎義家(はちまんたらうよしいへ)。
         阿部の貞任宗任(さだたふむねたふ)を御追罰(ごつゐばつ)あり。
         程なく都に御上洛(ごしやうらく)あり。急ぎ参内あるべきとて。
         此の左折の烏帽子を折らせられ。君(きみ)に御出仕有りとき。
         帝(みかど)なのめならず思(おぼ)し召し。其の時の御恩賞に。
         奥陸奥(おくむつ)の國を賜はつて候。嘉例目出度き烏帽子折にて候へば。
      上 此の烏帽子を召されて程なく御代(みよ)に。
地     下 出羽の國の守(かみ)か。陸奥の國の守にか成らせ給はん御果報有つて。
         世に出で給はんとき。祝言申(しうげんまを)しゝ烏帽子折と。
         召されて目出度う。引出物たばせ給へや。あはれ何事も。

  ( 独吟 あはれ何事も ヨリ  不足ともあらじ マデ )

         あはれ何事も。昔なりけり御烏帽子の左折の其の盛り。
         源平兩家の繁昌。花ならば梅と櫻木。四季ならば春秋(はるあき)。
         月雪(つきゆき)の眺め何(いず)れぞと。
         爭ひしにや世の乱れ。保元の其の以後は。平家一統の代と成りぬるぞ悲しき。
         よし其れとても報いあらば。
         折知(をりし)る烏帽子櫻の花。世變り時來(とききた)り。
       咲かん頃を待ち給へ。

  ( 小謡 かやうに祝ひつゝ ヨリ  不足ともあらじ マデ )

シテ    上 かやうに祝ひつゝ。
地     上 程なく烏帽子折り立てゝ。花やかに三色組(みいろぐみ)の。
         烏帽子懸緒(かけ)を取り出だし。氣高(けだか)く結ひ濟(す)まし。
         召されて御覧候へとて。御髪(おぐし)の上に打ち置き。立ち退きて見れば。
         天晴(あっぱれ)御器量や。是れぞ弓矢の大将と。
         申すとも不足ともあらじ。
シテ    詞「日本一烏帽子が似合ひ申して候。
牛若    詞「然らば此の刀を参らせうずるにて候。
シテ    詞「およそ烏帽子の代りは定まりて候ふ程に。賜はるまじく候。
牛若    詞「いや唯だ御取り候へ。
シテ    詞「さあらば賜はらうずるにて候。此の由を妻にて候ふ者に申さばやと存じ候。
         いかに渡り候か。
ツレ    詞「何事にて候ふぞ。
シテ    詞「幼き人に烏帽子を折りて参らせ候へば。
         烏帽子の代りに此の刀を賜はりて候。これこれ御覧候へ。能々見候へ。
         あら不思議や。斯様(かよう)の事をば天の與ふる所とは思しめさで。
         さめざめと落涙候は何と申したる事にて候ふぞ。
ツレ カカル上 恥かしや申さんとすれば言の葉より。先ず先立つは涙なり。
         今は何かを包むべき。是れは野間の内海にて果て給ひし。
         鎌田兵衛正清(かまだひょうゑまさきよ)の妹なり。
         常盤(ときわ)腹(ばら)には三男。牛若子生まれさせ給ひし時。
         頭(かう)の殿より此の御腰の物を。
         御守刀(おんまもりがたな)として参らさせ給ひし。
         其の御使(おんつかい)をば。妾申(わらはまを)して候ふなり。
         あら淺(あさ)ましや候。
シテ    詞「何と鎌田兵衛正清の妹と仰せ候ふか。
ツレ     詞「さん候。
シテ    詞「言語道断。この年月添ひ参らすれども。今ならでは承らず候。
         さてこの御腰の物をしかと見知り申されて候ふか。
ツレ    詞「こんねんだうと申す御腰の物にて候。
シテ     詞「げに/\承り及びたる御腰の物にて候。さては鞍馬の寺に御座候ひし。
         牛若殿にて御座候ふな。さあらば追つつき。この御腰の物を参らせ候ふべし。
         おこともわたり候へ。や。未だこれに御座候ふよ。これに女の候ふが。
         此御腰の物を見知りたる由申し候間。
         まずまず召し上げられうずるにて候。
子方 カカル上 不思議やな行くへも知らぬ田舎人の。われに情の深きぞや。
ツレ    上 人違へならば御許れ。鞍馬の少人牛若君と。見奉りて候ふなり。
子方    上 げに今思ひ出したり。もし正清がゆかりの者か。
ツレ     上 御目のほどのかしこさよ。妾は鎌田が妹に。
子方    上 あこやの前か。
ツレ     上 さん候。
子方    上 げに知るは理われこそは。
地     上 身のなる果の牛若丸。人がひもなき今の身を。語れば主従と。
         知らるゝ事ぞ不思議なる。

  ( 独吟 はやしのゝめも ヨリ  着きにけり マデ )

地  ロンギ上 はやしのゝめも明け行けば。/\。
         月も名残の影うつる鏡の宿を立ち出づる。
シテツレ二人上 痛はしの御事や。さしも名高き御身の。商人と伴ひて。
         旅を飾磨の徒歩はだし。目もあてられぬ御風情。
子方    上 時代に変る習とて。世のため身をば捨衣怨と更に思はじ。
シテツレ二人上 東路のおはなむけと思し召され候へとて。
地     上 この御腰の物を。強ひて参らせ上げければ。力なしとて請け取り。
          我もしも世に出づならば。思ひ知るべしさらばとて商人と伴ひ憂き旅に。
    てたる美濃の国赤坂の宿に着きにけり/\。。
中入 狂言シカ%\
子方   詞「皆々は何事を仰せ候ふぞ。
ワキ    詞「さん候我等此宿に着き候を。此辺りの悪党ども聞き付け。
          夜討に討たうずるよし申し候ふ程に。左様の談合仕り候。
子方    詞「たとひ大勢ありとても。表に進む兵を。五十騎ばかり斬り伏すならば。
         やはか退かぬ事は候ふまじ。やはか引かぬ事は候まじ。
ワキ     詞「これは頼もしき事を仰せ候ふ物かな。悉皆たのみ候。
子方    詞「面々は武具して待ち給へ。
       上 我は大手に向ふべしと。
地     上 夕も過ぎて鞍馬山。/\。年月習ひし兵法の術を今こそは。
         現し衣の妻戸を。開きて沖つ白波の打ち入るを遅しと待ち居たり/\。
              早鼓 一セイ
後シテ 大勢上 寄せかけて。打つ白波の音高く。鬨を作つて。騒ぎけり。
後シテ   詞「如何に若者ども。
後ツレ    詞「御前に候。
シテ    詞 「大手がくわつと開けたるは。内の風ばし早いか。
ツレ     詞 「さん候内の風早くして。或は討たれ。又は重手負ひたると申し候。
シテ    詞 「不思議やな内には吉次兄弟ならではあるまじきが。さて何者かある。
ツレ     詞 「さん候投げ松明の影より見れば。十六七の小男の。
         小太刀を以て切つて廻り候ふは。さながら蝶鳥の如くなる由申し候。
シテ    詞 「さて摺鉢太郎兄弟は。
ツレ     詞「それは火振の親方として。一番に斬つて入りしを。
         例の小男追つとり合ひ。兄弟の者の細首を。
         唯一討に打ち落したるよし申し候。
シテ    詞「えい/\何と/\。かの者兄弟は。
         余の者五十騎百騎にはまさうずるが。
          あゝ斬つたり/\。彼奴は曲者かな。
ツレ    詞 「高瀬の四郎はこれを見て。今夜の夜討の者の様。
         悪しかりなんとや思ひけん。手勢七十騎にて退いて帰りたると申し候。
シテ 詞 「しやつはは今に始めぬ大臆病の奴よ。さて松明の占手はいかに。
ツレ    詞 「さん候一の松明は踏み消し。二の松明は斬つて落し。
         三は取つて投げ返して候ふが。三つが三つながら消えて候。
シテ    詞「それこそ大事よな。それ松明の占手といつぱ。一の松明は軍神。
         二の松明は時の運。三はわれらが命なるに。三つが三つながら消えなば。
         今夜の夜討はさてよな。
ツレ    詞「御諚の如く。此分にては鬼神もたまりつべうもなく候。
         唯退いて御帰り候へ。
シテ    詞「げに/\盗も命のありてこそ。いざ退いて帰らう。
ツレ     詞「唯御帰り候へ。
シテ    詞「よくよく物を案ずるに。さすが東海道に隠れなき熊坂の長範が。
         今宵の夜討を仕損じて。いづくに面を向くべきぞ。
       上 唯攻め入れや若武者どもと。大音声にて呼ばはりつつ。
地     上 鬨を作つて斬つて入りけり。
地     上 あら。物々しや己等よ。/\。先に手並は知りつらん。
        それにも懲りず打ち入るか。
        八幡も御知見あれ一人も助けてやらじものをと小口に立つてぞ待ちかけたる。
              カケリ
地    上「熊坂の長範六十三。/\。今宵最後の夜討せんとて。
        鉄屐を踏ん脱ぎ捨て五尺三寸の大太刀を。するりと抜いてうちかたげ。
        をどり歩みにゆらり/\と歩み出でたる有様は。
        いかなる天魔鬼神も面を向くべきやうぞなき。
      上 あらはかばかしや盗人よ。/\。
        めだれ顔なる夜討はするともわれには適はじものをとて。
        隙間あらせず斬つてかゝる。熊坂も大太刀遣の曲者なれば。
        さそくを踏んで十方切。八方払や腰車。破圦の返し風まくり。
        剣降らしや獅子の歯がみ。紅葉重ね花重ね。三つ頭より火を出して。
        しのぎを削つて戦ひしが。
        秘術を尽す大太刀も御曹司の小太刀に斬り立てられ。
        請太刀となつてぞ見えたりける。
      上 打物業にて適ふまじ。/\。組んで力の勝負せんとて太刀投げ捨てゝ。
        大手を広げて飛んでかゝるを。背けて諸膝薙ぎ給へば。
        斬られてかつぱと転びけるが。つゝ立つ所を真向よりも割りつけられて。
        一人と見えつる熊坂の長範も二つになつてぞ失せにける。


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