宝生流謡曲 大江山

●あらすじ
 この謡曲は能楽では、「切能」もので素謡が35分かかる曲です。頼光の鬼退治で一行は山伏に変装して大江山の山奥で酒呑童子を退治する有名な話です。童子に出会う酒盛りの有様が謡われています。福島県の関係地名について、14頁2行目から「陸奥の安達が原の塚にこそ・・・・・・」の文言があります。                          2005/10/12 小原隆夫記

●宝生流謡本      外十五巻の四  切 能  (太鼓あり)
     季節=夏    場所=丹波国大江山
     素謡(      稽古順=入門  素謡時間=35分
     素謡座席順   ワキヅレ=一人武者
               シテ=前後酒呑童子  
               ワキ=源 頼光  


           (源 頼光関係 五曲)
                                                     小原隆夫 調べ
 コード    曲 目     概       説               場所 習順 季節 謡時間
外10巻4 満   仲  957多田満仲身代ナル家人ノ子 僧ニ諭サレル  兵庫  初奥  不  50分
外15巻5 大 江 山  981源 頼光大江山ノ鬼退治           京都  入門  夏  35分
外04巻2 羅 生 門  990源 頼光家来羅生門の鬼退治       京都  平物  春  22分
内07巻2   鵺    991源 頼光京都御所のぬえ退治       大阪  入門  秋  37分
外14巻2 土   蜘  991源 頼光土蜘蛛退治(多田満仲の子)   京都  平物  夏  23分

●解 説
2003年2月および同年4月、東京・渋谷に所在する国立能楽堂は源頼光の妖怪退治伝説をテーマとするふたつの能、「大江山」と「土蜘蛛」の公演をおこなった。私はその機会に、国立能楽堂の機関誌に源頼光伝説についての解説を依頼され、「酒呑童子の大江山」と「土蜘蛛伝説と源頼光」の2編の論を執筆した。前者は高橋昌明教授の研究に学びながら酒呑童子の本拠と伝える大江山の位置問題を論じたものであって、とりたてて目新しい視点があるわけではない。しかし、添付した地図はいささか役立てることができるのではないかと思う。後者は東京国立博物館蔵『土蜘蛛草紙』の物語を読み説いたもので、従来まったく論じられてこなかった大胆な仮説を提示することになった。ただ、掲載誌がいささか特殊であるため、必ずしも多くの人の目にとまるということはなかった。そこで、ここに再録し、大方の御批判を仰ぐことにしたいと思う。      
(山田邦和)

●酒呑童子の大江山
日本の鬼といえば、まずは大江山の酒呑童子ということになる。酒呑童子の伝承は、室町時代初期に描かれた香取本<かとりぼん>『大江山絵詞』(逸翁<いつおう>美術館蔵)、室町時代中期の『酒伝童子絵巻』(サントリー美術館蔵)、宮増<みやます>作(伝世阿弥作)の謡曲『大江山』、御伽草子の『酒呑童子』などにより、あまねく知られているからである。また、現代の映画や文学作品にも酒呑童子はしばしば主役として登場している。まさに、酒呑童子こそは日本の鬼の代表格だといってもよいだろう。酒呑童子が本拠地としていた大江山は、一般には丹後国(京都府加佐郡大江町)と丹波国(福知山市)の境界にそびえる標高832.6mの大江山(千丈ヶ嶽)だと信じられている。たとえば、御伽草子の『酒呑童子』では、鬼の岩屋のある大江山は「千丈嶽」と呼ばれている。また、謡曲『大江山』の中で酒呑童子は「天の橋立与謝の海。大山<おほやま>の天狗も。われに親しき友とぞ知ろしめされよ」と語り、さらには「丹後丹波の境なる。鬼が城も程近し」と言っているのである。天橋立は京都府宮津市にある名高い景勝地、与謝の海は丹後地域に面した日本海の古称である。大山は伯耆(鳥取県)の大山<だいせん>か、または酒呑童子が住む千丈ヶ嶽そのものか、どちらかである。さらに、鬼が城とは大江山千丈ヶ嶽の南方約14km、福知山市と大江町の境界にそびえる鬼ヶ城山だと推定できる。つまりこれらの場合のいずれも、酒呑童子の住処である大江山は、丹後丹波国境の大江山千丈ヶ嶽そのものなのである。 しかし奇妙なことに、謡曲『大江山』の中には、酒呑童子の住む大江山を千丈ヶ嶽とは考えにくい記述が散見している。たとえば、ワキ源頼光は「秋風の。音にたぐへて西川や。雲も行くなり。大江山」と謡い、そこへの順路を「まだ夜のうちに有明の」「月の都を立ち出でて。行く末問へば西川や。波風立てて白木綿の。御祓も頼もしや鬼神なりと大君の。恵みに漏るる方あらじ。ただ分け行けや足引の。大江の山に着きにけり」と言っている。ここでいう西川とは平安京西郊を流れる桂川のことであり、これを読む限りでは大江山が桂川から遠く離れている印象は受けないのである。そもそも、これがもし丹後丹波国境の大江山千丈ヶ嶽のことであるとするならば、それと桂川とがセットで語られる理由は何ひとつないはずである。また、酒呑童子自身も自らの経歴を語る中で、比叡山を追い出され全国の霊山を放浪したあげく、「都のあたり程近き この大江の山に籠り居」るようになったと言っている。この場合も、京都から直線距離で80kmも離れた大江山千丈ヶ嶽を指して「都のあたり程近き」というのはいくらなんでも不自然にすぎよう。さらに、酒呑童子は「ここは名を得し大江山。生野の道は猶通し」とも語っている。「生野」が山陰道の要衝である丹波北部の地名(現・京都府福知山市生野)であることは、百人一首にも採られた小式部内侍の「大江山 生野の道の遠ければ まだふみもみず 天の橋立」の歌によってよく知られている。酒呑童子によると大江山から生野へはまだまだ遠く、また小式部内侍によると大江山→生野→天橋立という地理的順序が示されているのであるから、これらは大江山千丈ヶ嶽の表示ではありえない。 つまり、謡曲『大江山』には、京都から遙かに離れた大江山千丈ヶ嶽のことを指していると見られる部分と、そうではなくて都から桂川をへだてて都にすぐ近い山をイメージした部分が奇妙に混在しているということになる。もちろん文学作品に誇張や歪曲があるのは当然であり、それにいちいち目くじらを立てるわけにはいかないのであるが、それにしても地理をよく知る者にとってこの空間認識の歪みは決して気持ちのいいものではない。
それでは、謡曲『大江山』にはなぜこのような矛盾が含まれているのであろうか。実は、平安時代から鎌倉時代の京都の人々にとって「大江山」といえば、丹後丹波国境の大江山千丈ヶ嶽ではなく、山城国と丹波国の国境の大枝山<おおえやま>(京都市西京区)を指すのが常識だったのである。天台座主慈円大僧正の「大江山 かたぶく月の 影さえて 鳥羽田の面に 落つる雁がね(大江山に傾く月の光も冴えて、都の南郊の鳥羽の地の田に降りる雁の姿がくっきりと見える)」(『新古今和歌集』巻第5 503番)という歌は、まさに平安京の西郊の大枝山を詠んだものであった。そして、酒呑童子の伝説も、もともとはこの大枝山を舞台にしたものであった可能性が高い。現在も、大枝山をくぐりぬける老ノ坂<おいのさか>の旧街道ぞいには直径約30メートル、高さ約7メートルの円墳状の塚が残り、そこには酒呑童子の首を埋葬したと伝える「首塚大明神」の社が祀られている。ただ、この大枝山は標高がせいぜい400m程度の低い丘陵にすぎない。そこで、酒呑童子伝説の肥大化とともにその居所である大江山のイメージも深山幽谷へと姿を変え、都からも遠く離れた大江山千丈ヶ嶽へと移動していったのである。しかし、謡曲『大江山』が誕生した室町時代は、酒呑童子の大江山が都近くの大枝山からはるか遠くの大江山千丈ヶ嶽へと移行する転換期にあたっていた。このことにより、謡曲『大江山』は基本的には大江山千丈ヶ嶽を舞台としながらも、もともとの大枝山のイメージの痕跡を完全には払拭しきれずにあちらこちらに残してしまったのである。

(平成23年5月20日 あさかのユーユークラブ 謡曲研究会)


◎この謡曲は能楽では、「切能」もので素謡が35分かかる曲です。頼光の鬼退治で一行は山伏に変装して大江山の山奥で酒呑童子を退治する有名な話です。童子に出会う酒盛りの有様が謡われています。
福島県の関係地名について、14頁2行目から「陸奥の安達が原の塚にこそ・・・・・・」文言があります。
                          2005/10/12

   大江山          切 能(太鼓アリ)
 
        ワキヅレ 一人武者
         シテ  酒呑童子       季  夏
         ワキ  源 頼光        所 丹波国大江山
        
ワキ 一セイ 
ワキヅレ 秋風の。音にたぐへて西川や。雲も行くなり。大江山。
立衆 

ワキ   「そもそも是は源の頼光とは我が事なり。さてもこの度丹波の国。
      大江山の鬼神の事。占方の言葉にまかせつつ。頼光保昌に仰せ付けらるる

ワキヅレ
立衆   「頼光保昌申すよう。たとひ大勢在りとても。
      人倫ならぬ化生のもの。何処をさかいにせむべきぞ。

ワキ   「思う仔細の候とて。山伏の姿に出でたちて。

ワキヅレ
立衆   「兜にかわる兜巾を着。

ワキ   「鎧にあらぬ篠懸や

ワキヅレ
立衆   「兵具にたいする笈を負い

ワキ   「さも行体の姿なれども

ワキヅレ
立衆   「其の主々は頼光保昌

ワキ   「貞光 季武 綱 公時

ワキヅレ 「また名を得たる一人武者

ワキヅレ
立衆   「かれこれ以上五十余人

ワキ   「まだ夜のうちに有明の。月の都を立ちい出て

ワキヅレ
立衆   「月の都を立ちい出て

ワキ   「行く末とえば西川や。波風立てて白木綿の。禊ぎ頼もしや鬼神なりと大君の。
      恵みにもるる方あらじ。唯分け行けや足引きの。
      大江の山に着きにけり大江の山に着きにけり
シテ   「童子とよぶはいかなる者ぞ」                       シカシカ
シテ   「何と山伏達の一夜の宿と仰せ候か。恨めしや我桓武天皇に御請け申し。
      比叡山を出でしよりこの方。出家には手をささじと。
      堅く契約申せしなり。中門の脇の廊に留め申し候へ。         シカシカ
シテ   「如何に客僧達。いづくより何方へお通り候へば。
      此の隠れ家へは御出でにて候ぞ」
ワキ   「さんぞうろう是は筑紫彦山の客僧にて候が。麓乃山陰道より道に踏み迷い。
      前後を忘じたたずみ候処に。今夜のお宿何よりもって祝着申し候。
      さて御名を酒呑童子と申す事は。何と申したる謂れにて候ぞ」
シテ   「我が名を酒呑童子と言うことは。明け暮れ酒に好きたる故なり。
      されば是を見かれを聞くにつけても。酒ほど面白き物はなく候。
      客僧たちも一つきこし召され候へ」
ワキ   「仰せにて候程に一つ下され候べし。又此の山をばいつの頃よりの御住所にて候ぞ」
シテ   「我比叡山を重代の住家とし。年月を送りしに。大師坊というえせ人。
      嶺には根本中堂を建て。麓に七社の霊神を斉ひし無念さに。
      一夜に三十余丈の楠となって。奇瑞を見せし所に。
      大師坊一首の歌に」 阿のく多羅三みゃく三菩提の仏たち
      「我が立つ杣に冥加あらせ給えとありしかば。仏たちも大師坊にかたらはされ。
      出でよ出でよと責め給えば。力なきして重代の。比叡乃お山を出でしなり」
ワキ   「さて比叡山を御出であって。そのままここに御座ありけるか
シテ   「いやいづくにとも定めなき。霞に紛れ雲に乗り」
ワキ   「身は久方の天さがる。」鄙の長路や遠田舎
シテ   「御身の故郷と承る。筑紫をも見て候なり」
ワキ   さては残らじ天が下。天さがる経緯に
シテ   「飛行の道に行脚して」
ワキ   「あるいは彦山
シテ      「伯耆の大山
ワキ   「白山立山富士の御嶽
シテ   「上の空なる月に行き」
ワキ   「雲の通い路帰り来て
シテ   「猶も輪廻に心ひく」
ワキ   「都のあたり程近き
シテ   「此の大江の山に籠り居て。客僧達に見あらはされ」
      通力を失うばかりなり
ワキ   「御心安く思し召せ。人にあらはす事あるまじ
シテ   「おう嬉しし嬉しし一筋に。頼み申すぞ一樹の陰」
ワキ   「一河の流れを汲みて知る。心はもとより慈悲の行
シテ   「人を助くる御姿
ワキ   「我はもとより出家の形
シテ   「童子もさすが山育ちの
ワキ   「さも童形の御身なれば
シテ      「憐れみ給え
シテワキ「神がにも
地    一稚児二山王とたて給うは神をさくるよしぞかし。
      御身は客僧我は童形の身なればなどか憐れみ給はざらん。
      かまいて余所にて物語せさせ給うな
地    「陸奥の安達ヶ原の塚にこそ。陸奥の安達ヶ原の塚にこそ。
      鬼籠もれりと聞きしものを。誠なり誠なりここは名をえし大江山。
      生野の道は猶遠し。天の橋立與謝の海。大山の天狗も。
      我にしたしき友ぞと知ろし召されよ。
      いざいざ酒を飲もうよいざいざ酒を飲もうよ
      さておさかなは何々ぞ。
      頃しも秋の山草 桔梗 刈萱 われもこう 紫苑というは何やらん。
      鬼のしこくさとは誰がつけし名なるぞ。
シテ   「げにまこと
地       げにまこと。丹後丹波の境なる。鬼ヶ城も程近し。
      頼もしたのもしや。飲む酒は数そいぬ。面も色づくか。
      赤きは酒の科ぞ。鬼とな思しそよ。恐れ給はで我に馴れ馴れ給はば。
      興がる友と思しめせ。我もそなたの御姿。打ち見には。
      打ちみには。恐ろしげなれど。馴れてつぼいは山伏。猶々廻る盃の。
      度重れば有明の。天も花に酔へりや。足もとはよろよろと。
      ただようか いざようか。雲折り敷きてそのまま。
      目に見えぬ鬼の間に入り。荒海の障子押しあけて。
      夜の臥所に入りにけり夜の臥所に入りにけり  (中入り)      シカシカ
ワキ   「既にこの夜も更け方の。空なお暗き鬼の城。鐵の扉を押し開き。
      見れば不思議や今までは。人の形と見えつるが。
地        「其の丈二丈ばかりなる。鬼神の粧い眠れるだにもいきおいの。
      あたりを払う気色かな。かねて期したる事なれば。
      とても命は君のため。又は神国氏社。
      南無や八幡 山王権現 我らに力をそえ給えと。
      頼光 保昌 綱 公時 貞光 季武 一人武者。
      心を一つにして。まどろみ臥したる鬼の上に。
      剣を飛ばする光の影。稲妻振動おびたたし。
後シテ    「情けなしとよ客僧達。偽りあらじといひつるに。鬼神に横道なきものを」
ワキヅレ 「何鬼神に横道なしとや」
シテ    「中々の事」
ワキヅレ 「あら空言やなどさらば。王地に住んで人をとり。
      世の妨げとはなりけるにぞ。我をば音にも聞きつらん。
      保昌が館に一人武者。鬼神なりとも逃すまじ。ましてやこれは勅なれば」
      土も木も。我が大君の国なれば。いづくか鬼の。宿りなるらん
地     「余すなもらすな攻めよや攻めよ人々とて。切っ先を揃えて切ってかかる
地     「山河草木振動して。山河草木振動して。光みちくる鬼の眼。
      唯日月の天の星。照りかがやきてさながらに面を向くべきようぞなき。
ワキ    「頼光 保昌もとよりも。
地     「鬼神なりともさすが頼光が手なみいかでもらすべきと。
      走りかかって。はったと打つ手にむんずと組んで。
      えいやえいやと組むとぞ見えしが頼光下に組み伏せられて。
      鬼一口に喰わんとするを。刺し通しさしとおし刀を力にえいやとかえし。
      いかれる鬼の首打ち落とし。大江の山をまた踏み分けて。
      都えとてこそ。帰りけれ



大江山         出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この項目では旧丹波・丹後両国国境の大江山について記述しています。旧丹波・山城両国国境の大江山については大枝山をご覧ください。
大江山(おおえやま)は京都府丹後半島の付け根に位置し与謝野町、福知山市、宮津市にまたがる連山である。標高833m。別称、与謝大山。酒呑童子伝説で知られる。また、雲海の名所としても知られている。2007年8月3日には丹後天橋立大江山国定公園として国定公園にも指定されている。

鬼退治伝説
大江山には3つの鬼退治伝説が残されている。一つは、古事記に記された、崇神天皇の弟 日子坐王(ひこいますのみこ)が土蜘蛛 陸耳御笠(くぐみみのみかさ)を退治したという話。二つめは聖徳太子の弟 麻呂子親王が英胡、軽足、土熊を討ったという話、三つめが有名な酒呑童子伝説である。 これは能の演目、大江山(五番目物の鬼退治物)にもなっている。 これらの伝説にちなみ、大江山の山麓にあった廃坑となった銅鉱山跡に1993年日本の鬼の交流博物館が作られた。
 なお、酒呑童子の本拠とした「大江山」は、この丹後の大江山であったという説のほかに、京都市西京区にある山城国と丹波国の境、山陰道に面した大枝山(おおえやま)という説もある。

鬼退治伝説の意味
大江山の位置する丹後地方は古くから大陸との交流が深く、渡来人は高度な金属精錬技術により大江山で金工に従事、多くの富を蓄積していた、これに目を付けた都の勢力は兵を派遣、富を収奪し支配下に置いた。多分このような出来事が元になり自分達を正当化、美化しようとの思いから土蜘蛛退治や鬼退治伝説が生まれたのではないかとする説と同時に 、渡来人が寄り集まって山賊化して非道な行いをしたので鬼と呼ばれたという説もある。

鉱山としての大江山(大江山ニッケル鉱山と河守鉱山)
 大江山ニッケル鉱山跡地質学的には地球の深部から隆起した地層で超塩基性の岩盤を持つ。金属鉱脈が豊富で周辺には金屋など金属にまつわる地名が多く見られる。1917年に鉱床が発見され、1933年から太平洋戦争末期にかけて兵器に不可欠なニッケルを確保するため大江山から採鉱。日本海に面した岩滝町の精錬場まで専用鉄道(加悦鉄道)で輸送し、精製した。この鉱山には中華民国・朝鮮から多くの人が徴用された。中国人労働者16人が過酷な労働を強制されたとして損害賠償訴訟を1998年8月に京都地裁へ提訴[1]。2004年9月29日、日本冶金工業(東京都)が和解金として計2100万円を支払い、大阪高裁で一部和解が成立。しかしながら、2007年5月12日の上告審判決で、最高裁(田原睦夫裁判長)は、国への損害賠償請求を完全に退ける決定をした[2]。未だに戦争の影を今日に至るまで引きずっている。


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