宝生流謡曲 摂 待

●あらすじ
 奥州へ落ち行く義経主従は、主君義経のために討ち死にした佐藤継信・忠信兄弟の生家に、摂待の高札が架かっているところに行き合う。名を隠し、摂待を受ける一行を息子の主君、義経一行と見抜く老尼は、姿、年齢、言葉の訛りから、次々と一行の名を言い当てる。しかし、弁慶はなおも認めず、判官を指してみよとの問いに、継信の子、鶴若は義経に走り寄り、ついに隠し切れずに義経も鶴若を膝に抱き取る。座を改め、弁慶は継信・忠信の最期を詳しく語り聞かせ、継信の今際の言葉を伝える。夜明け方、ついて行くと云う鶴若を宥めすかして、老尼が見送るなかを一行は落ちて行く。   
出典「平家物語」(巻十二「継信最期の事」)「義経記」(巻八「継信兄弟御弔の事」)

●宝生流謡本(参考)   素謡 : 外10巻の3  四番目又は2番目(太鼓なし)
       季節=春   稽古順=奥伝    素謡時間82分 
        場所=陸奥国佐藤の庄  
            シテ=継信の母 ・ワキ=武蔵坊弁慶 ・子方=継信の子鶴若  
            ツレ=鶴若の従者・源 義経     ・立衆=兼房・鷲尾

●観能記 能「摂待」
シテ老尼 浅井文義  ワキ武蔵坊弁慶 殿田謙吉  アイ 小笠原 匡
子方鶴若 大井風矢  ツレ源義経 片山清司 増尾兼房 清水寛二 鷲尾十郎 柴田 稔 
山伏 長山桂三  谷本健吾  坂井音隆   坂井音晴  青木健一  遠藤和久
地頭 浅見真州  武田文志   小早川 修
笛 藤田六郎兵衛 小鼓 林 光壽  大鼓 亀井忠雄
よく出来た劇能(義理能)で、泣かせどころがあり、聞かせどころあり、「安宅」の姉妹編、外国テレビドラマによくあるいわゆるスピンオフ的作品(少し違うけど)だろうか。時間的には、安宅ノ関の後に陸奥に向かい、「摂待」佐藤の館の順となる。「安宅」のシテは弁慶だが、「接待」のシテは佐藤兄弟の母、老尼である。しかし、文献の初出は「摂待」の方が一年ほど前であるらしい。(「銕仙」三浦裕子解説より)老尼が播磨の出身で継母を恨み13歳で都に上った事などを語り、それゆえに、十二人のうちの同じ播磨の人の声を聞き取って、鵯越の時に苗字を賜った鷲尾十郎だと言い当てる。この名当てのシーンはワクワクどきどきの面白さ。
 シテ老尼のほか、ワキ弁慶、ツレ義経、子方、などそれぞれ重要な役どころで、絡み合って劇をなしている。色白で少し小柄な義経役の片山清司さんがぴったりのはまり役に思えた。弁慶もさもありなん雰囲気である。シテも悪くなかったが、一部シテ謡が表面的に流れてしまったような気がした。弁慶もりっぱでよかったが、語りのところがほんの少し物足らない。2年半以上前に片山九郎右衛門の「摂待」を見ていて、その時のワキ(宝生閑)と無意識に比べたのかもしれない。
浅井文義はコンダクター的な求心力のある人で、大抵、舞台全体に適度な緊張感と細やかな手配りが張り巡らされているように思える。第30回観世寿夫法政大学能楽賞を受賞されたそうだ。受賞理由に、個々の舞台と共に統率が取れた地頭が評価されていた。浅井文義の地声は特徴あるものではあるけれど、核として溶け込んだ時は優れた地頭となると思う。動きも少なく語りの多い能で、囃子の分量が少なかった分、囃子を集中して聴くことができた。この舞台に限らず、おそらくいつも、忠雄の大鼓は音ではなくて人の声のように常に何かを語っている。林光寿は関西の方だろうか、独特の雰囲気がある。笛もさりげなくて印象がよかったと思う。子方は初めて見る男の子である。なんでも器用にこなす才気走った子方のタイプではないのかもしれないが、情緒的に優れているのか、劇の仕組みを身体で理解しているように見えた。


●能「摂待」と「安宅」の比較について
 「安宅」は平家を討伐した義経が兄・頼朝に追われ、陸奥の国、平泉に向かう途中の安宅の関での話でしたが、「摂待」はその後の義経一行が陸奥の国までたどり着き、先の戦で命を落とした家来・佐藤継信、忠信の生家での話です。 「安宅」で登場した義経と弁慶をはじめとする主従12名がそのまま「摂待」にも登場します。 しかも舞台に登場してすぐに謡う次第の謡い、『旅の衣は篠懸(すずかけ)の。旅の衣は篠懸(すずかけ)の。露けき袖やしをるらん。』も全く同じなのです。
この後の道行はかなりの違いがあるのですが、この次第から道行までを実際に演じて能「摂待」と「安宅」を比較してみよう、というのが今日の講座の目的でした。 装束はつけず紋付き・袴姿で、義経と弁慶、それにツレが4人という実際より少ない構成ですが、本番さながらの上演でした。
「安宅」では義経は子方、弁慶はシテ、 「摂待」では義経はツレ(大人)、弁慶はワキという配役に変わります。 それゆえ今日の上演では上記のプログラムにもありますように、弁慶は「安宅」ではシテ方の観世銕之丞師が、「摂待」では脇方の殿田謙吉師が勤めました。いづれも義経を先頭として、次に弁慶、その次にツレの山伏の順に舞台に出てきます。このとき位を作るのは弁慶なのです。 ですから「安宅」はシテ方が、「摂待」はワキ方が舞台での謡いの位を作ることになるのです。
この違いを目の当たりに見れた今日のお客様のは貴重な体験をされたと思います。演じる立場で言うとこの部分の「安宅」と「摂待」の違いは、「摂待」は「安宅」よりしっかり目に歩み、謡うという教えがあります。 余談ですが、今日の義経は鵜沢光さんが演じました。「安宅」では子方、「摂待」では大人の役です。 冗談で、ちゃんと義経役を使い分けた? と聞くと「安宅」では子方のようにかまえを大きく、「摂待」では大人の構えで演じたそうです。さすがですね!細かいところにも神経が行き届いています。この違いを見抜いたお客様は果たして何人いたでしょうか!

●田村神社神社 甲冑堂 
    祭 神  坂上田村麻呂
    所在地  宮城県白石市斎川字坊ノ入54
甲冑堂について
 佐藤継信・忠信兄弟の妻の像を祭る甲冑堂は、福島と宮城の県境と白石市中心部との中間ほどに鎮座する田村神社の境内にあり、御影堂、故将堂などとも呼ばれる。 かつては、神仏が同居し、同敷地に別当寺真言宗遊王山高福寺が建てられていた。 芭蕉と曽良が元禄2年(1689年)5月3日に拝観した甲冑堂は、明治8年(1875年)の6月に放火で神社とともに焼失し、当時の様子を窺い知ることはできないが、寛政7年(1795年)の橘南谿著「東遊記」に、往時の甲冑堂や謂れが次のように記されている。 奥州白石の城下より一里半南に、斎川といふ駅あり。此の斎川の町末に、高福寺といふ寺あり。奥州筋近年の凶作に此の寺も大破に及び、住持となりても食物乏しければ、僧も住まず。あき寺となり、本尊だに何方へ取納めしにや寺には見えず。庭は草深く、誠に狐梟(こきょう)のすみかといふも余りあり。 此の寺に又一つの小堂あり。俗に甲冑堂といふ。堂の書付には故将堂とあり。大きさ僅かに二間四方ばかりの小堂なり。本尊だに右の如くなれば、此の小堂の破損はいふまでもなし。漸うに縁に上り見るに、内に仏とても無く、唯婦人の甲冑して長刀を持ちたる木像二つを安置せり。如何なる人の像にやと尋ぬるに、佐藤継信・忠信の妻なりとかや。(中略) 兄弟二人とも他国の土となりて、形見のみかへりしを、母なる人かなしみ歎きて、無事に帰り来る人を見るにつけて、せめては一人なりとも此人々のごとく帰りなばなど泣沈みぬるを、兄弟の妻女其心根を推量し、我が夫の甲冑を著し、長刀を脇ばさみ、いさましげに出立、唯今兄弟凱陣せしと其俤を学び老母に見せ其心をなぐさめしとぞ。其頃の人も二人の婦人の孝心あはれに思ひしにや、其姿を木像に刻みて残し置しとなり。     

(平成22年5月21日  あさかのユーユークラブ 謡曲研究会)


謡曲は素謡が82分かかる謡180番中でいちばん長い奥伝の曲です。頼朝に追われ山伏に変装して安宅の関を無事通り過ぎた義経主従は佐藤継信・忠信兄弟の故郷奥州佐藤の庄で(福島県飯坂町に居城大鳥跡と墓所は医王寺に現存)老母の接待をうける有様が謡われています。佐藤継信・忠信兄弟の嫁女が遺品の鎧を着て老母を慰めたという木造が宮城県越河の田村神社甲冑堂にある。越河あたりも当時は佐藤の庄に含まれていたと言う。

  摂 待         四番目(太鼓なし)
 
        シテ 継信の母        季  春
         ワキ 武蔵坊弁慶       所 陸奥国佐藤の庄
        ツレ 源 義経
        ツレ 鶴若の従者 菊王
        子方 継信の子  鶴若
        立衆 兼房
        立衆 鷲尾


ツレ  「かように候者は 佐藤の御内に仕へ申す 者にて候
      さてもさる子細候いて 山伏摂待を 御企て候間 今日も山伏達の 
     御通り候はば まかり出でとめ申さばやと 存じ候」
ワキ  旅の衣はすずかけの 旅の衣はすずかけの露けき 袖やしをるらん 
     子に臥し寅に起き馴れて 子に臥し寅に起き馴れて 雲居の月を峰の雪 その松島に参らんと
     東路さして急ぎけり東路さして急ぎけり 「この所に皆々 御休み候へ や これに高札の候
     読まばやと 存じ候 何々佐藤の舘において 山伏摂待 これは一大事の 御事にて候 さて
     何と候べき」
兼房  「摂待は さる事にて候へども 佐藤の舘が いかがにて候」
ワキ  「げにげに佐藤の舘がいかがにて候 さりながら 摂待とある札を見ながら直に 御通り候はば
     人も 怪しめ候べし  唯さらぬ由にて御泊りあれかしと 存じ候」
判官  「とかくも弁慶 計らい侯へ」
ワキ  「かしこまって侯 さあらば 貝を立てうずるにて侯」
ツレ  「貝が鳴り侯 山伏達の御着きにて ありげに侯   まかり出でて内へ 入れ申そう
     や これはけしからず大勢 御着きにて侯 皆々 こう御座あろうずるにて侯」
ワキ  「心得申し侯」
ツレ  「まづまづ山伏達の 御着きの由を 主に 申そうずるにて侯」
子方  「いかに 誰かある」
ツレ  「御前に侯」
子方  「山伏達は幾人御着き ありたるぞ」
ツレ  「さん侯十二人 御着きにて侯」
子方  「まづまづ出でて 対面申そう」
ツレ  「急いで御出で あろうずにて侯」
ワキ  「なうなう幼き人は誰が 御子息にて侯ぞ」
子方  「これは佐藤継信が 子にて侯」
ワキ  「さて継信は 御内に御座侯か」
子方  「判官殿の 御供申し 八島の合戦に 討たれて侯」
ワキ  「さてこの摂待をば誰が 御取り立てにて侯ぞ」
子方  「さん侯判官殿十二人の 作り山伏となり 奥へ御下りと聞え侯程に
     祖母にて侯者この摂待を 始めて侯 見申せば方々こそ十二人 御入り侯へ
     もし判官殿にては 御座なく侯か」
ワキ  「これは粗忽なる事を 仰せ侯 まづまづ内へ 御入り侯へ いかに 申し上げ侯
     我等を始め 皆々子細なき 山伏にて侯へども 何と見申しても御姿 隠れ御座なく侯間
     御座を 引きかへられ侯いて 皆々の中におし紛れて 御座あろうずるにて侯」
シテ  いかに鶴若
子方  何事にて候ぞ
シテ  「山伏たちは幾人御着き ありたるぞ」
子方  十二人御入り候
シテ  「かしましかしまし」 旧里を出でし鶴乃子の 松に帰らぬ さびしさよ
      げにやはばかりある身として 御前に参りてさむらえば 且つはなき人の名をも朽ちだし
      又は子供の古への恥をも あらわすにてはさむらえども 余りに余りに御なつかしき心ばかりにて
     御前に参りて さむろうなり これは故佐藤庄司が後家 継信忠信が母にて候
     げにや親子恩愛の別れの余りにはつつしむべき人目をも知らず 又は憂き身の恥をも
     表すにてはさむらへどもさりながら この摂待と申すに 現世の祈りの為にもあらず
      後生善処とも思わず 嫡子継信は八島にて討たれ 弟忠信は都にて失せけるとばかりにて
      詳しき事をも知らずして ひとり悲しむ身を知る雨の 晴れぬ思いや尉さむと この摂待を始めて候
     札を立ててよりこの方 一日五人三人 ないし一人二人絶える事はもしまさねども
     十二人はこれが始めにて候 いづれが我が君ぞ いづれがそにてもしますぞ
     夜も更けたり人の知るべきことにもあらず この姥が耳にぞと御教へ候はば
     この摂待の利生にて 空しくなりし継信を再び見ると思うべし 地 親子よりも主従は
     親子よりも主従は 深き契りの中なれば さこそは我が君も哀れと思し召すらめ
     ことさら御為に 命を捨てし郎等の 一人り母一人りは子なり などや弔いの
     御言葉をも出されぬ かほど数ならぬ 身には恨みのなかれかし
     あら怨めしの憂き世やあら怨めしの憂き世や
シテ  「なうなう何とて皆々物をば 仰せられ候はぬぞ 余りな 御心強くこう」
ワキ  「これは思いもよらぬ事を 承り候ものかな 我らごときの 山伏の 一人二人ないし
     五人三人 行き連れ行きつれ 通り候が 今夜この摂待に十二人 泊まり合わせたればとて
     判官殿とはかかる粗忽なる事を 承り候ものかな いや所詮まこと継信の母にて 渡り候はば
     定めて判官殿の身内のひとをば 知ろし召されぬ事は候まじ そなたより名をさいて 承り候べき」 
シテ  「何とこなたより名をさいて申せと 仰せられ候か」
ワキ  「なかなかの事」
シテ  「げにげに子供の 在りし時は 常は皆々 御尋ね候ひし程に 名をさいて申すともさのみは
     違い候まじ まづあれに渡り候 山伏は この御供の中にては一の宿老にて渡り候な
     いでこの御供の中に一の宿老は誰そ や げに思い 出したり 判官殿の 御めのと親
     増尾の十郎権の頭兼房 山伏ごさめれ あらけしからずの 御風情や候 又あれにまします
     客僧は どこ山伏にて 渡り候ぞ」
鷲尾  「これは出羽の羽黒山より出でたる 客僧にて候」
シテ  「や 是は 播磨の人の 声にて候 それを いかにと申すに この姥はもとは
     播磨の者 十三の年継母を恨み 都に上り 故庄司殿と契り 継信 忠信をもうけ
     今かく憂きめを身候へば 誰怨めしう候へ
     「されば我が国の人の 声なれば などかは 聞き知らで候べき
     いでこの御供のなかに播磨の人は誰そ これも思い 出したり 判官殿鵯越とやらんを
     通り給いし時 狩人の姿にて 来たりあい そのまま 名字賜り 今までも 御供と聞えし
     鷲の尾の十郎山伏にてましますよな」
ワキ  「さてかよように物申す 山伏をば どこ山伏と 知ろし召されて候ぞ」
シテ  「この御声こそ 京の人の 声かと思えば 又近江の人の 声にも似たり
      いでこの御供のうちに近江の人は誰そ や さればこそ初めより 器量骨柄 人にすぐれ
     物体せられ候も何とやらん物々しう 見え給いて候 天晴これは 弁慶山伏ごさめれ
     それならばもとは 近江の人 三塔一の悪僧 今はまた 我が君の 一人當千の武士よなう 
地    武士も物の哀れは知るものを などされば余りに御心強くましますと
     袂にすがり諸共に人目も知らず泣きいたり 袂にすがり諸共に人目も知らず泣きいたり
子方  「いかに祖母御前 かほど心なき 人々に さのみ言葉を つくし給はんより 今は早内へ 御入り候」
判官  「これなる童はこざかしき事を 申すものかな まこと継信が子ならば
     主君判官と思しき者を えって出し候へ」
子方  承りて候とて 十二人の山伏の 皆御顔を見渡して 「これこそそにて おはしませ」
判官  「そもそにてあるべき 謂れはいかに」
子方  いやいかに包ませ給うとも 人に変れる御粧ひ 疑いもなき我が君よ
地   父たべなうとて走り寄れば 岩木をむすばぬ義経成れば泣く泣く膝に抱きとる げにや梅檀は
     二葉よりこそ匂うなれ 誠に継信が子なりけりと 余所の見る目まで皆涙をぞ流しける 
ワキ  「言語道断 早鶴若殿の 御覧じ知りて候程に 今は何をか包み申すべき 我が君にて御座候
     この上は御座を かへ申そうずるにて候 いかに 申し上げ候 かう 御座あろうずるにて候
     尼公も近う 御来りあって 我が君を拝み申され候へ」
シテ  「あら有難や候 今は我が君を拝みたてまつり 猶々子供の事こそ思い 出でられて候」
ワキ  「げにげに仰せ もっともにて候」
シテ  「この所はこの姥が はからいにて候程に 御心安くいつまでも 御座あろうずるにて候」
ワキ  「心得申し候」
シテ  「いかに我が君に 申し上げ候  我が子の継信八島にての 最後の有様 剛なるとも申し
     また不覚なりとも申す いづれ真にて候やらん 承り度う候」
判官  「いかに弁慶」
ワキ  「御前に候」
判官  「継信八島にての最後の様 詳しく語って尼公に 聞かせ候へ」
ワキ  「かしこまって候 御意と申し 御所望といひ 夜もすがら語って 聞かせ申し候べし
     近こう寄って 御聞き候へ さても八島の合戦今はこうよと 身えし時
     門脇殿の次男能登の守 教経と名のって 小船に取り乗り 磯間近く漕ぎ寄せ
     いかに源氏の大将源九郎 義経に 矢一条参らせん  受けて見給へと罵る
     かう申す 各々を 始めとして 皆御矢面に 立たんとせしが 何とやらん心 おくれたりしに
     継信は心まさりの 剛の武者にて お馬の前に 駆け塞がり
     義経これありやとてにっこと笑って 控え給う さてその時に 教経は引き設けたる 弓なれば
     矢坪をさして ひょうど放つ あやまたず 継信が 着たりける 鎧の胸板 押しつけ揚巻
     かけずたまらずつっつと射通す 後ろに 控え給う 我が君の
     御着背長の草摺りに  はったと射とむ さてその時に 継信は
     馬の上にて乗りなおらん 乗りなおらんと せしかども 大事の手なれば こらへずして
     馬より下にどうと落つ   やがて我が君 お馬を寄せ 継信を陣の 後ろにかかせ
     いかに継信 いかにいかにと 宣へども たんだ 弱りに弱り 終に 空しくなる
     なんぼう面目もなき 物語りにて候」
シテ  「のうその時に弟の忠信は 候はざりけるか」
ワキ  「おら愚かや 忠信は 日の下に措いて 隠れましまさず  能登殿の童菊王丸と いっし者
     継信が 首を目がけ 渚の方に 走り廻りしを 忠信ひいて 放つ矢に 
     菊王が真ん中射通し かっぱとまろべば 教経舟より 飛んで下り 菊王が わだ髪つかんで
     遥かの船に 投げ入れ給へば 程なく舟にて 空しくなる 眼前 兄の敵をば
     弟の忠信こそ 取って候いしよ」
シテ  さては平家も大将に つかえ申しし御童
ワキ  経信はまた我が君の 秘蔵におぼせし身内の人
シテ  彼は平家の舟のうち
ワキ  こなたは源氏の陸の陣
シテ  彼も主従
ワキ  これも主従
シテ  想いは同じおもいなれば
ワキ  よその嘆きを思いあはせて 御慰みも候へとよ
シテ  それは仰せまでもさむらはず 御身代に立ち参らする事 今世後世の面目なり
     さりながら命長らえ御供申し 御笈をも肩にかけ このお座敷にあるならば 
地   十二人の山伏の十三人もつらなりて 誰今見ると思はばいかがはうれしかるべき
     その時義経 老尼に語り給うよう 八島にて継信今はかうよと見えし時
      思う事あらば 詳しくいひ置けとくれぐれ尋ね問ひし時 継信その時に 息の下より申すよう
      弓矢取る身の 御身代に立つ事二世の願いや三世の御恩をすこし報謝する
     命の軽き身は 露塵何かおしからん さりながら故郷に 八旬に及ぶ母と十に余る童
     これらが事の不便さぞ 少し心にかかる雲の 月に覆いて光りも暗くなる如く
     そのまま くれくれと 終に空しくなりにけり 
判官  かように郎等を討たせつつ
地    みづから手を砕き 忠勤まこと曇らずは終に治まる世に出でて
     継信忠信が 子孫を尋ね出して 命の恩を報ぜんと 思いし事も空しく我さえかかる姿にて
     その名をだにも名のり得ぬ憂き身の果てぞ悲しき
シテ  母は思いに堪えかねて 更くるも知らず有明の 月の盃取り出しお酌にこそまいりけれ 
判官  げにや心をくみて知る 人の情けの盃を涙と共にうけて持つ
子方  鶴若酌に立ちかはり 別れし父の御前にて
地    給仕すると思いなして十二人の山伏の 終夜の酌を取りまはり
     座敷にもなおらで進み勇める有り様を 父に見せばやとぞ思う さる程に夜もほのぼのと明け行けば     夜もほのぼのと明け行けば 暇申してさらばと早この宿を立ち出づる 

子方  いかに菊王 馬に鞍置き弓靭参らせよ 君の御供申そうずるに
シテ  「そも御供とは 何事ぞ」
子方  「君の御供 申してこそ 親の敵にも 逢うべけれ」
シテ  「それは弓矢の 御供なり これは修行の 山伏道に 何の敵に 逢うべきぞ」
子方  さあらば思い出したり 小さき兜巾すずかけを とく拵らえてたび給へ 山伏道の御供せん
ワキ  「弁慶涙を 押さえつつ いかに申さん 鶴若殿 まこと御供 ありたくは
     今日は道具を 拵らえ給え明日は迎えに 参るべし」
子方  まことぞうか
ワキ  なかなかに
立衆  我も迎えに参るべし
ワキ  我も迎えに参らんと
地   面々声声にすかされて いとけなき身の悲しさはまことぞと心得て
     すこし言葉の弱りたる折りを得て客僧は 泣く泣く宿を出でければ
シテ  老尼は鶴若を抱き入れ
地   行くは慰む方もあり 留るや涙なるらんとまるや涙なるらん


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