生田敦盛 (いくたあつもり)

●あらすじ
黒谷の法然上人は、ある時男の捨子を拾いあげて連れ帰り育てます。その子が十歳になった時、父母のないことを不憫に思い、説教の後聴衆に向かってその事を物語りました。すると若い女性が我が子であると名乗り出、子供の父は一ノ谷で討たれた平敦盛であると言います。幼児はそれを聞き、夢で父に会うことを願って加茂の明神へ祈誓をかけます。すると御霊夢の中で、父に会いたく思うのならば生田へ行けとのお告げがあったので従者に伴われて生田の森へ赴きます。日が暮れてある草庵に立ち寄ると、中に若武者が一人いて、我こそが敦盛であると名乗ります。親子の対面を喜びあった後、敦盛は昔の軍物語をしますが、ふいに修羅道の責め苦にさいなまれて苦しむ様子を見せます。しかし夜明けと共に我に返り我が子に早く帰ってあとを弔ってくれと言い残して消え去ります。                   
(「宝生の能」平成10年12月号より)

●宝生流謡本      外十巻の二     二番目    (太鼓なし)
    季節=秋   場所=前・山城国加茂  後・摂津国生田   作者=禅鳳元安
    素謡稽古順=入門   素謡時間=33分 
    素謡座席順   子方=敦盛の子
              シテ=平 敦盛
               ワキ=法然上人の従者

●観能記
【能:生田敦盛】
<< 作成日時 : 2011/09/19 18:55 >>
2011年9月10日(土)、国立能楽堂(千駄ヶ谷)の普及公演として、狂言『墨塗』と能『生田敦盛』を観た。今年の6月に久しぶりに能・狂言を観て、予想以上に面白かったので、どうもやみつきになったようだ。日本の伝統芸能の勉強という域を超えて、純粋に楽しめるようになってきた。対象は何であれ、楽しめるものが増えることは、本当にうれしい。それでは、演目ごとに若干のコメントを記してみよう
シテ/平敦盛       田崎隆三
子方/敦盛の子      鶴田航己
ワキ/法然上人の従者   安田登
◆平家一門の中でも古来からひときわ人気の高い平敦盛に関する話。法然上人が賀茂の下がり松の下で2歳ばかりの幼児を拾う。その子が10歳過ぎになった時、上人が説法の中でこの子の話を語ったところ、1人の女が進み出て、自分こそ母親で、その子は一の谷の合戦で討ち死にした平敦盛の忘れ形見であると明かす。そうした生い立ちの少年は、夢でもいいから父親に会いたいと、賀茂の明神に祈願をし、今日はその満願の日。
◆明神のお告げに従い、その少年は上人の従者とともに生田の森に向かう。すると、森の中の庵から、甲冑姿の敦盛の亡霊が現れ、父子は感動の対面を果たす。閻魔がしばしの間、敦盛を地獄から解放してくれたのだ。父子は、生きて会えない運命を嘆き合い、しみじみと名残を惜しみ、敦盛の霊は舞を舞う。そうこうするうちに、あたりは一転、修羅道の景色に変わる。修羅道とは死んでもなお戦い続けなければならない世界。敦盛は刀を振りかざし戦うほかはない。やがて、修羅道の世界は消え、父子は泣く泣く別れる。というストーリー。
◆私が愛読する平家物語(巻9)にも、敦盛最後のくだりがある。熊谷次郎直実が磯へ馬を進ませていくと、一騎の若武者が沖の助け船を指して馬を泳がせている。呼び止めて戦い、取り押さえて首を掻こうとすると、わが子と同じ16歳ばかりの美少年であった。あまりの痛ましさに助けようとするが、背後には味方の軍勢が迫り、助けることもできず、泣く泣く首を切り落とした。少年の腰には一本の笛が差されてあった。というもので、いわいる名場面の一つだ。

●(平敦盛)
平和な時代であれば、笛の名手の貴公子として何不自由なく暮らすはずの若者が、時代の流れの中で、戦(いくさ)の経験もなく戦場に赴くことになり、若くして命を落とす。いにしえより、人々は、この話にものの哀れを感じ、多くの共感を呼んできたのだろう。だから、敦盛に関する様ざまな伝承が生まれ、その中で人々の想像力が敦盛の忘れ形見としての子供を創り出したことも、なるほどと思える。
◆能「生田敦盛」に一貫して流れるもの、それは、この悲劇の主人公とその子供に対する哀切の感情である。戦いの場面も、実際の戦いではなく、あくまで修羅道での戦いだ。だから、いくら激しくはあっても、観る者に伝わるのは、勇ましさでもなければ荒々しさでもなく、死んでも戦いづづけなければなならない運命の哀しさなのだ。
◆演者並びに笛・太鼓・地謡の面々とも皆すばらしかったが、中でも、特に子方の鶴田航己氏の熱演が光った。役柄と同じ10歳ぐらいだろうか。日本の伝統芸能が次世代にきちんと引き継がれていくことが実感でき、とてもうれしく感じられた。

●謡蹟めぐり        生田敦盛 いくたあつもり      
 宝生流 高橋春雄記
◆黒谷、賀茂の明神、下り松、生田の森 (平12・10記)
黒谷の法然上人が賀茂の明神に参詣の時、下り松で男の子を拾いあげて帰るが、この子10歳のとき、夢の告げにより生田の森に出かけ父に対面するという物語である。「黒谷」とは俗に黒谷さんと呼ばれ親しまれている金戒光明寺で、浄土宗の大本山である。寺伝によれば承安5年(1175)、法然上人が浄土宗の確立のために、比叡山西塔の黒谷にならってこの地に庵を結んだのがこの寺の起りと伝えられる。「敦盛」の項でも紹介したように、境内には熊谷直実と平敦盛の供養塔2基が建てられている。 賀茂明神」とは下鴨神社(賀茂御祖神社)と、上賀茂(賀茂別雷神社)の総称と思われる。詳細は「加茂」の項で触れる予定で、ここでは曲中に「糺の神」の言葉があるので糺の森もある。「下り松」は一般に一乗寺下り松と言われるが、これは黒谷から賀茂明神への通り道ではなく、かなり東北に寄り道しなければならず、今の知恩寺(百萬遍)にあった一条下り松とする説もあるようである。一乗寺下り松は楠正成がここに陣を敷いて足利尊氏の軍勢を迎え討った所といい、また宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘した物語の地として有名である。「生田の森」は今は神戸市にある生田神社の境内となっている。三の宮の繁華街の真ん中によくこれほどの森が残っているものと感心させられる。生田神社も先年の震災で倒壊したが、現在はみごとに復旧されている。

◆法然上人について         
(平12・10記)
法然の名は曲の冒頭に、ワキ(法然上人の従者)の言葉として「是は黒谷法然上人に仕へ申す者にて候」として出ている。法然は浄土宗の開祖で、美作(岡山県)の人。比叡山に入り皇円・叡空に天台宗を学び、43歳の時専修念仏に帰し、迫害と戦って浄土宗の法門を開き、東山吉水(知恩院近くの安養寺が吉水の庵跡という)に草庵を結んだ。本曲に出る「黒谷」(金戒光明寺)も法然が庵を結んだ所という。また大原勝林院(三千院の近く)に南都北嶺の僧徒と会して法門を論じた(大原談義)。親鸞も弟子となり、法然の名声が高まり貴賤を問わず帰依する者が続出する反面、他宗の嫉視や反感も激しくなった。後鳥羽院の女官が法然の弟子に帰依したことで、院の逆鱗に触れ、弟子は死罪になり法然も四国配流となった。許されて京都に帰った法然は大谷の山上の小庵(現在の知恩院勢至堂の地)に入ったが、翌年病いで没した。京都の知恩寺(百万遍)は法然上人が念仏道場とした所で、はじめ今出川にあったが、何回か移転した後今の左京区田中門前町に建立された。境内には法然廟がある。京都嵯峨の二尊院は嵯峨天皇が慈覚大師に勅して建立した華台寺の跡で、荒廃していたのを法然が庵を結び、その弟子湛空が寺を再興したものである。裏山には法然廟が建てられている。

(平成18年3月24日 あさかのユーユークラブ 謡曲研究会)


     生田敦盛   (金春流にては生田といふ)

           子方>敦盛遺子
           シテ>平敦盛
           ワキ>法然上人の従者

ワキ  詞「これは黒谷法然上人に仕へ申す者にて候。又これにわたり候ふ人は。
      或る時上人賀茂へ御参詣御下向の時。
      さがり松の下に二歳ばかりなる男子の美しきを。
      手箱の蓋に入れ尋常に拵へ捨ておきて候ふを。
      上人不便に思しめされ抱かせ御帰候ひて。色々育て給ひ候ふ程に。
      はや十歳に御余り候。父母のなき事を嘆き給ひ候ふ程に。
      説法の後此事を御物語り候へば。聴衆の内より若き女性の走り出で。
      我が子にて候ふ由仰せ候ふを。密に御尋ね候へば。
      一年一の谷にて討たれ給ひし敦盛の御子にておはしまし候。
      此事を聞き給ひて。夢になりとも父の姿を見せて賜はり候へと。
      賀茂の明神へ祈誓有るべき由仰せられ候ひて。一七日詣で給ひ。
      今日は早満参にて候ふ程に。同道申し賀茂の明神へ。参詣申し候。
      これは早賀茂の明神にて御座候。よく/\御祈誓候らへ。
子方 サシ「ありがたや処からなる御社の。あけの玉垣神さびて。
      心も澄める御手洗の。ふかき恵を頼むなり。
   下歌「夢になりともたらちねの其面影を見せ給へ。かくばかり。
      祈る心の末遂げば。/\。恵になどか洩るべきと。誓糺の神ともに。
      願ひ適へおはしませ/\。
子方  詞「あら不思議や。少し・睡眠{すゐめん}のうちに。あらたに御霊夢を蒙りて候。
ワキ   「あらめでたやな御霊夢のやうを御物語り候へ。
子方   「あの御宝殿のうちよりも。あらたなる御声にて。
      汝夢になりとも父を見んと思はゞ。これより津の国生田の森へ下れと。
      あらたに霊夢を蒙りて候。
ワキ   「是は不思議なる事にて候ふものかな。黒谷へ御帰あるまでもなく候。
      これより生田の森へ御供申し候ふべし。軈て思しめし立ち候へ。
   道行「山陰の。賀茂の宮居を立ちいでて。/\。急ぐ行方は山崎や。
      霧立ち渡る水無瀬川。風も身にしむ旅衣。秋は来にけりきのふだに。
      訪はんと思ひし津の国の。生田の森に着きにけり/\。
ワキ  詞「御急ぎ候ふ程に。これは早津の国生田の森にて候。森の気色川の流。
      都にて承り及びたるにもいや勝りて面白き名所にて候。
      あれに見えたる野辺は生田の小野にてもや候ふらん。
      立ち寄り眺めばやと思ひ候。こゝかしこを眺め候ふ程に。
      はや日の暮れて候ふはいかに。
      あれに灯火の影の見えて候ふは人家にてありげに候。
      立ち寄り宿を借らばやと思ひ候。
シテ サシ「五薀もとよりこれ皆空。何によつて平生此身を愛せん。
      躯を守る幽魂は夜月に飛び。屍を失ふぐ魄は秋風に嘯く。
      あら心すごのをりからやな。
ワキ   「不思議やなこれなる草の庵の内に。さも花やかなる若武者の。
      甲冑を帯し見え給ふぞや。これはいかなる事やらん。
シテ   「愚の人の心やな。詞「面々これまで来り給ふも。われに対面のためならずや。
      恥かしながら古の。敦盛が幽霊来りたり。
子方   「なう敦盛とは我が父かと。身にも覚えず走りより。
地    「袂にすがりたえこがれ。/\。なく音に立つる鴬の。逢ふ事の嬉しさも。
      憂き身にあまるばかりなり。かくは思へど頼まれぬ。
      夢の契を。現に返すよしもがな。
シテ サシ「無慙やな忘れ形見の撫子の。花やかなるべき身なれども。
      衰へはつる墨染の。袂を見るこそ哀なれ。さても御身孝行の心深き故。
      賀茂の明神に歩を運び。夢になりとも我が父の。
      姿を見せてたび給へと祈誓申す。明神憐みおはしまし。
      閻王に仰せつかはさる。閻王仰を承り。暫の暇を賜はるなり。
      親子の契も今を限なるべし。
地    「更け行く月の夜もすがら昔をいざや語らん。
   クセ「然るに平家の。栄花を極めしその始。花鳥風月の戯詩歌管絃の様々に。
      春秋を送り迎へしに。いかなるをりか来りけん。
      木曽のかけはし懸けてだに。思はぬ。敵に落されて。
      主上を始め奉り一門の人も悉く。花の都を立ち出で西海の空に赴きぬ。
      習はぬ旅の道すがら。山を越え海を渡り。暫は天ざかる。
      鄙の住まひの身なりしに。又立ち帰る浦波の。須磨の山路や一の谷。
      生田の森に着きしかば。こゝは都も程近しと。
      一門の人々も喜をなしゝをりふしに。
シテ   「範頼義経のその勢。
地    「雲や霞の如くにて。しばらく戦ふといへども平家は運も槻弓の。
      弥猛心も弱々と。皆散々になりはてて。哀も深き生田川の。
      身を捨てし物語。語るぞよしなかりける。
シテ   「嬉しやな夢の契の仮初ながら。親子鸚鵡の袖ふれて。
地    「名残つきせぬ心かな。     中ノ舞
シテ  詞「あれに見えたるはいかなる者ぞ。なに閻王よりの御使とや。
      片時の暇とありつるに。今までの遅参心得ずと。閻王怒らせ給ふぞと。
地    「言ふかと見れば不思議やな。/\。黒雲俄に立ち来り。・
      猛火{みやうか}を放ち。剣を降して。其数知らざる修羅の敵。
      天地を響かし満ち/\たり。
シテ   「物物しあけくれに。
地    「馴れつる修羅の。敵ぞかしと。太刀真向に。さしかざし。
      ここやかしこに走り廻り。火花を散して戦ひしが。暫くありて黒雲も。
      次第に立ち去り修羅の敵も忽ち消え失せて。
      月澄み渡りて明々たる暁の空とぞなりたりける。
シテ   「恥かしや子ながらも。
地    「かく苦をみる事よ。急ぎ帰りてなき跡をねんごろに弔ひてたび給へと。
      泣く/\袂を引き別れ。立ち去る姿はかげろふの。
      小野の浅茅の露霜と形は消えて失せにけり/\。


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