宝生流謡曲 「忠 信」

●あらすじ
源義経は、梗概兄頼朝に都を追われ吉野の衆徒を頼り、吉野山中に潜んでいました。しかし、家臣の伊勢三郎義盛から衆徒が変心したという報告を受けると、佐藤忠信一人に防ぎ矢を命じ、義盛らを従えて山を落ち延びて行きます。その夜更けに衆徒達が大挙して押し寄せてきます。すでに覚悟を決めた忠信が高櫓に上り大声で、まず試しにこの矢を受けてみよ、と言って矢を放ち、真っ先に進み出た若武者を一騎射落します。これを見た敵は右往左往するばかりです。機を見て忠信は切腹したと見せかけて、深い谷に落ちます。敵はそこに乱れ入りますが、忠信はかねてから用意しておいた細い道づたいに身を隠しながら逃げます。なおも迫り来る追っ手を切り散らし、遙かな谷を越え、峰を分けて都へと急いで行きます。       
 (「宝生の能」平成13年10月号より)

●宝生流謡本   外八巻の二    切能(太鼓あり)
    季節=冬   場所=大和国吉野山
    素謡(宝生) : 稽古順=平物 素謡時間16分
    素謡座席順  ツレ=法師武者
              シテ=前・後共佐藤忠信・
              ワキ=伊勢三郎義盛・
              ツレ=源義経・ 

●人物の解説
佐藤忠信                :
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐藤 忠信(さとう ただのぶ)応保元年(1161年)? - 文治2年9月22日(1186年11月4日))は、平安時代末期の武将で、源義経の家臣。『源平盛衰記』では義経四天王の1人とされる。佐藤継信の弟。父は、奥州藤原氏に仕えた佐藤基治、もしくは藤原忠継。官位は左兵衛尉従六位下。仮名の四郎と合わせ四郎兵衛尉とも。 治承4年(1180年)奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により兄・継信と共に義経に随行。義経の郎党として平家追討軍に加わった。兄・継信は屋島の戦いで討死している。 元暦2年(1185年)4月15日壇ノ浦の合戦後、義経が許可を得ずに官職を得て頼朝の怒りを買った際、忠信も共に兵衛尉に任官しており、頼朝から「秀衡の郎党が衛府に任ぜられるなど過去に例が無い。身の程を知ったらよかろう。その気になっているのは猫(もしくは狢、狸?)にも落ちる。」と罵られている。 文治元年(1185年)10月17日 義経と頼朝が対立し、京都の義経の屋敷に頼朝からの刺客である土佐坊昌俊が差し向けられ、義経は屋敷に残った僅かな郎党の中で忠信を伴い、自ら門を飛び出して来て応戦している。 文治元年(1185年)11月3日 都を落ちる義経に同行するが、九州へ向かう船が難破し一行は離散。忠信は宇治の辺りで義経と別れ、都に潜伏する。文治2年(1186年)9月22日、人妻であるかつての恋人に手紙を送った事から、鎌倉の御家人・糟屋有季に居所を密告され、潜伏していた中御門東洞院を襲撃される。忠信は奮戦するも、多勢に無勢で郎党2人と共に自害して果てた。(『吾妻鏡』より)
源平盛衰記によると享年は26。(佐藤氏の菩提寺である医王寺 の忠信の石塔には享年34とある)

●佐藤庄司について
「おくのほそ道」で佐藤庄司と書かれた人物は、平泉の藤原秀衡のもと、信夫、伊達、白河あたりまでを支配していた豪族佐藤基治である。 初代清衡のころから、奥州藤原氏は中央の藤原氏の庇護を受けながら、荘園の名目で領地の私有化を進めていた。 基治は、その秀衡の私有地の管理を任され、荘園管理の職名を庄司と称したので「佐藤庄司」と呼ばれ、また、丸山(館山)の大鳥城に居を構え湯野・飯坂を本拠としたため「湯庄司」とも呼ばれた。(基治は継信・忠信兄弟の父)

●佐藤継信・佐藤忠信兄弟と源義経
 平治の乱の後、源義経は平清盛に捕えられ鞍馬山に入ったが、その後密かに平泉の藤原秀衡のもとに下り保護されていた。治承4年(1180年)になって源頼朝が挙兵した時、義経は平泉から奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつけ、福島からは基治の子、継信(つぐのぶ)と忠信が加わった。 基治は息子2人を白河の関の旗宿まで見送り、別れの時に桜の杖を地面に突き刺して「忠義を尽くして戦うならこの杖は根づくだろう」と言って励まし福島に戻って行った。それ以来、旗宿のこの場所は「庄司戻し」と呼ばれている。 継信と忠信は、父の願い通り平家討伐に偉功を挙げ、剛勇を称えられることとなる。 兄の継信は、屋島の合戦で平家の能登守教経が放った矢から義経を守り身代わりとなって戦死したが、継信の死は源氏方を勝利に導き、後の歴史に大きな足跡を残した。
 弟の忠信は、頼朝と不和になった義経とその一行が吉野山に逃れたとき、危うく僧兵に攻められそうになるところ、らの申し入れで僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させている。後に六條堀川の判官館にいるところを攻められ壮絶な自刃を遂げた。
 その後、無事奥州に下った義経一行は、平泉に向かう途中大鳥城の基治に会って継信、忠信の武勲を伝えるとともに、追悼の法要を営んだと言われる。(謡曲摂待と関係?)

●謡蹟めぐり
佐藤忠信花矢倉、横川覚範の首塚 和歌山県吉野山        
(平18・11 高橋春雄記)
吉野山の水分神社の少し下の方に佐藤忠信花矢倉の跡がある。またそのすぐ下には忠信に討たれた横川覚範の供養塔、首塚がある。説明板には次のように記されている。 この下の横川覚範の首塚で見てきたように、源義経の身代りとなって主従を落ちのびさせるために、佐藤忠信が一人ふみとどまり、追いすがる敵を切り防いだ古戦場で、ここが佐藤四郎兵衛忠信の花矢倉です。忠信は小高いこの丘に上って、攻め寄せる僧兵、なかでも妙覚院の豪僧、横川の覚範に向って、矢を雨のようにあびせかけ、深い雪で血刀をふるって戦った、その昔のいくさの様子が、そぞろ思い起こされます。忠信は、奥州信夫(福島市)の庄司、佐藤元治の子で、源義経が金売り吉次に伴われて、平泉(岩手県)の藤原秀衡のもとに身を寄せたときに兄継信とともに、義経の家来になった侍で、弁慶とならんで義経の片腕として、おおいに活躍したのでした。忠信はここで攻め来る敵を追い散らした後、命ながらえて京都へ潜入し、身を隠していたところを襲われ、自殺して果てました。
享年わずか28歳だったと、「義経記」は伝えています。

●観能記   能「忠信」 シテ:山本章弘        
ナビゲーター講談師:旭堂南青記
楽しみにしていた山本能楽堂での「忠信三変化」に行って来た。源義経の家臣・佐藤忠信を主題にした能、文楽、落語を一度に味わう公演。講談によるナビゲートも楽しい。 頼朝に京を追われて吉野山にしのんでいた義経だが、僧兵たちの心変わりで夜討ちをかけられることがわかる。義経は、それを防ぐように佐藤忠信に命じて吉野山を落ちのびるというお話。今回は、義経や伊勢三郎は登場せずに、斬り合いの場面がメインだったので、半能になるのでしょうか?シテの忠信が、橋懸かりに並ぶ僧兵2人討手2人に向けて、矢をはなつ場面、すごくドキドキ。うまく決まった。あっという間に終わってしまって、通しで観たい?と、欲求不満。
静御前の護衛につけたのは、実は忠信に化けたキツネの子だったというお話。文楽を生で見るのは30年ぶりで、とても新鮮。最後、忠信が狐に変身する瞬間、びっくり。一瞬のことで、全くわからなかった。

(平成21年11月20日 あさかのユーユークラブ 謡曲研究会)


 ◎この能は、12世紀寿永・文治年間の史実である物語から作成されたと思います。佐藤忠信は、文治2年(1186)9月21日義経の吉野脱走を助けて、京都で戦死享年26才となっている。お墓は兄の継信と共に福島県に現存する。(所在地=福島市飯坂町平野 医王寺)     小原隆夫記

       忠 信             切能(太鼓なし)

          シテ 佐藤忠信 季             冬
          ワキ 伊勢三郎義盛            所 大和国吉野山
          ツレ 源 義経  後ツレ 法師武者


ワキ  「是は判官殿に 仕え申す。伊勢の三郎 義盛にて候。
     さても頼朝義経御仲不和に ならせ給ふにより。我が君は都に御足を とめ給はで。
     この三吉野に 御忍び候処に。当山の衆徒 心変わり仕り。今夜夜討ちに寄すべき由 承り候間。
     この由を我が君へ申し上げばやと 存じ候。いかに 申し上げ候。唯今人の 申し候は。
     当山の者 心変わり仕り。今夜夜討ちに寄すべき由 承り候間。この由申し上げん為に 参じて候。」
判官  「何と当山の者心変わり したるとや。口惜しや我幾ばくの 難を逃れ。
    命を 重んずる事も 朝敵虚名を 晴らさん為なり それみこの山の衆徒心変わり せし事を。
    今義経に 告げ知らする條。偏に天の 御加護なり。我は夜に入りこの山を開くべし さりながら。
     防ぎ矢射ずしして 落ち行かん事。後代の名こそ 口押しけれ。誰か一人留まり 防ぎ矢射。
     その後命を 全うして。路次にて追っ付くきし 者やある。義盛計らいて 申し候へ。」
ワキ  「御じょう畏つて承り候 さりながら。これはゆゆしき 御大事にて候間。
     誰か一人 召し出だされ候いtr。直に仰せ付けられよかしと 存じ候」
判官  「さては義経が思う 所なり。佐藤忠信を 召して来たり候へ」
ワキ  「畏まって候。いかに忠信の 御入る候か」
シテ  「誰にて 渡り候ぞ」
ワキ  「君よりの御使いに義盛が 参じて候。いぞぎ御まえりあれとの 御事にて候」
シテ  「畏まって候」
ワキ  「忠信を召して まえりて候」
判官  「いかに忠信。さても当山の者ども 心変わりし。今夜夜討ちに寄すべきとの 事なれば。
     我は夜に入りこの山を 開くべし。汝は一人留り 防矢射。その後命を まっとうして。
     路次にて 追つき候へ」
シテ  「仰せ畏つて 承り候。某の事はいづくまでも御供とこそ 存じ候ところに。
     御留まり防矢 仕れとの御じょう。弓矢取っての面目なり さりながら。心に任せぬは 軍の習い。
     我奥州を 出でしよりも。まえらせたりし 一命の。この時や 期し候らん。
     唯返す返すも我が君を 始めたてまつり。」
     皆人々に御名残こそ惜しう候へと
地   「涙を抑えてお前を立つ。皆哀れにぞ覚ゆる
     かくては時刻移るとて我が君を始めたてまつり門前を出でて間道より。密かに忍び出で給えば。
シテ  「忠信は唯一人
地   「御跡遥かに見送りて敵をこそは待ちいたれ 敵をこそは待ちいたれ
ツレ  「吉野川。水のまにまに騒ぎ来て。浪打ち寄する。あらしかな。
     「いかにこの坊中へ 案内申し候」
シテ  「ふしぎやな今は夜もふけ 人静まるに。案内とは いかなる者ぞ」
ツレ  「わりなくも頼朝よりの 仰せに従い。当山の者ども 判官殿の御むかいに 参じたり。
     とうとう 御出で候えとよ」
シテ  「何我が君の 御むかえとや。」
ツレ  「中なかのこと」
シテ  「あらはかばかしや かじけなくも。我が君に思い かかれんとや。先ず軍の こころみに」
     この矢一筋うけてみよ
地   「高櫓に立ちあがり 高櫓に立ちあがり。中ざしとって打ちつがい。よっぴいてはなつ矢に。
     真っ先かけたる若武者一騎。射落しければ喚き叫んで乱れ入る。
シテ  「今は忠信これまでなり
地   「今は忠信これまでなりと。空腹切って遥かの谷に落ちければ。敵の兵乱れいるを。
     かねて用意の細道伝い。谷かげ草木をわけつくぐつつ隠れゆくを。
     寄せ手は怪しめあれはいかにと呼なわりかくれば地に伏し倒れ。暗きを便りに忍びけるを。
     逃がすまじとて走りかかるを払うとみえしが真っ向割られて二つになれば。
     続く兵太刀さしかざし。打ってかかるをひらりと飛んで。諸膝かけて切りおとし。
     今はかうよと遥かなる。谷を飛び越え峰を分けて都をさしてぞ。急ぎける


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