放 下
僧 (ほうかぞう)
●あらすじ
下野国の住人牧野左衛門何某は、相模国の利根信俊と口論の末、討ち果たされます。左衛門の子小次郎はこれを無念に思い、出家している兄を訪ね仇討ちを持ちかけます。兄は最初ためらいますが弟の熱意に動かされ同意します。そして二人は当時流行の放下と放下僧(僧形の遊芸人)に扮して故郷に名残を惜しみつつ敵の信俊を狙い求めて旅に出ます。一方利根信俊は、夢見が悪いため瀬戸の三島神社へ参詣を志します。旅中の徒然を慰めようと折りよくここに現れた二人の放下を呼び寄せます。小次郎兄弟は、浮雲・流水と名乗り、信俊の近づきます。そして兄は自分の持つ団扇のいわれを、弟も携えた弓矢のことを面白く説きます。続いて禅問答に興じ、曲舞や鞨鼓、小歌などさまざまな芸を見せます。そしてついに信俊の隙に乗じて斬りかかって首尾よく本望を遂げます。(「宝生の能」平成9年11月号)
●宝生流謡本
外七巻の四 四番目二番目 (太鼓なし)
季節=不定 場所=武蔵国瀬戸 作者=
素謡稽古順稽古順=入門 素謡時間=35分
素謡座席順 ツレ=牧野小次郎
シテ=牧野小次郎の兄
ワキ=戸根信俊
●解 説
下野国の住人牧野左衛門は相模国の利根信俊に打たれました。遺児小次郎は親の敵を討つため、出家している兄を訪ね、兄弟で仇を討つことを勧めます。兄はなかなか承知しないのですが、小次郎は中国の故事などを引き、仇討ちが孝行の道であると兄を説得し、兄もついに同意します。兄弟は敵に近づく方便として、当時流行していた放下に変装して旅立ちます。一方、利根信俊は近頃夢見が悪いというので、瀬戸神社に参詣しまが、このとき2人の放下に出会います。信俊は2人が彼を仇とねらう兄弟とは気づかず禅問答などをして打ち興じます。兄の放下僧は曲舞を舞い、羯鼓を打ち、小歌を唱い舞います。信俊が油断している隙に兄弟は信俊を討ち果たします。 曲の主眼は、仇討ちが題材ですが、作品の重要なねらいは、曲舞、鞨鼓、小歌などの芸尽くしを見せることにあるといわれています。 「望月」との類似性は、 この曲は能「望月」と構成が似ているといわれています。両曲とも以下のような構成になっています。
瀬戸神社は,能「放下僧」の舞台瀬戸神社です。横浜市金沢区にあり、平潟湾に面しています。平潟湾は鎌倉時代に六浦湊といわれ、北条氏が実権を握っていた時期には鎌倉の外港として栄えました。神社は、治承4(1180)年、源頼朝が伊豆三島明神(下の写真)をこの地に勧請したことにはじまり、建久3(1192)年に社殿が造営されました。能「放下僧」では瀬戸の三島と呼ばれています。
伊豆三島明神。瀬戸神社はここから勧請されました。
『吾妻鏡』には、元仁元(1224)年6月6日の条に次のようにあります。「炎旱旬を渉る。仍って今日祈雨せんが為、御祈り霊所七瀬御祓いを行わる。由比浜は国道朝臣、金洗沢池は知輔朝臣、固瀬河は親職、六連は忠業、柚河は泰貞、杜戸は有道、江島龍穴は信賢。この御祓いは関東今度始めなり」また、嘉禎元(1235)年12月27日の条には次のようにあります。「重ねて御祈りの為、鶴岡八幡宮に於いて仁王百講を行わる。また相州・武州別して申請せらるるに依って、御祭等有るべし。属星祭(忠尚奉仕すべし。武州御沙汰)、天地災変祭(宣賢奉仕すべし。相州御沙汰)。次いで霊所祭を行わる。
●能 放下僧(ほうかぞう)
【分類】四番目物 (雑能) 【作者】不明
下野国(栃木県)の住人、牧野左衛門は、相模国(神奈川県)の利根信俊と口論の末、打ち果たされてしまいます。その子の牧野小次郎は、父の無念を思い、信俊を敵とつけ狙いますが、相手は大勢、こちらは唯一人で思うにまかせません。そこで、幼少から出家している兄に力を求めるべく、禅学修行中の学寮へ訪ねて行きます。そして一緒に仇討に出立しようと促しますが、兄は出家の身を思い、ためらいます。小次郎は、親の敵を打たぬのは不孝であるといい、母を殺した虎をねらって、百日、野に出、虎と見誤って大石を射たが、一心が通じて矢は突き立ち、血が流れた、という中国の故事を物語ります。兄も弟の熱意に動かされ、仇討に同意します。そして二人は談合の末、敵に近寄る方便として、当時流行の放下僧と放下に変装して、故郷に名残りを惜しみつつ出発します。 一方、利根信俊は夢見が悪いため、瀬戸の三島神社への参詣を志します。道中、放下が来るというので、従者が旅の徒然にと呼び寄せます。小次郎兄弟は、浮雲・流水と名乗り、信俊に近づきます。そして、兄は自分の持つ団扇のいわれを、弟も携えた弓矢のことを面白く説きます。つづいて禅問答に興じ、曲舞や鞨鼓、小歌などさまざまな芸を見せていきます。そして、相手の油断を見すまし、兄弟ともども斬りかかって、首尾よく本望をとげます。
仕舞〔小歌〕の部分の抜粋 (能「放下僧」に出てくる芸)
面白の。花の都や筆に書くとも及ばじ。東には。祇園清水落ちくる滝の。
音羽の嵐に地主の桜はちりぢり。西は法輪。嵯峨の御寺廻らば廻れ。
水車の輪のいせき威堰の川波。川柳は。水に揉まるるふくら雀は。
竹に揉まるる野辺のすすきは。風に揉まるる都の牛は。
車に揉まるる茶臼は挽木に揉まるる。げにまこと。
忘れたりとよこきりこは放下に揉まるるこきりこの二つの竹の。
代々を重ねて。うち治めたる御代かな。
●参 考 「放下」とは
「放下」とは南北朝時代から知られる遊芸人、今のことばでいえば大道芸人です。僧形と俗体があり、能「放下僧」では、兄が僧形の放下僧、弟が俗体の放下に扮します。史料上の初見は『看聞御記』の応永27(1420)年2月10日の条にある「放哥」であるとされています。ちなみに、世阿弥の『風姿花伝』の第三までが書かれたのが応永7(1400)年、彼が『三道』を元能に相伝したのが応永30(1423)年です。放下が行った芸は、品玉、輪鼓、手鞠、羯鼓、こきりこ、曲舞などです。品玉は複数の玉を放り投げて曲取りするものです。玉の数は9個という記述もあれば、10個を操っている絵も残っています。輪鼓は、左右の手にもった2本の棒の先に綱がはってあり、その綱で一種のコマをはじきあげ、空中で回し、落ちてくるのをさらにはじきあげるものです。こきりこは、15〜20センチの竹棒を両手に1本ずつもって打ち合わせたり、放り投げて曲取りをしたり、指先で回したりするものです。
●謡 蹟
瀬戸神社は、横浜市金沢区瀬戸に所在し、 本曲の舞台は金沢八景の近くの「瀬戸神社」である。境内には容共史跡保存会の手により駒札が建てられ、このあたりが「仇討ちの場所」であると説明されている。神社は往時、鎌倉と房総を結ぶ交通の要衝だった六浦港(今の平潟湾)の中心にあり、諸国去来の人々で賑わい、牧野兄弟が敵とめぐりあったのもうなづけるとしている。
平成24年11月16日
あさかのユーユークラブ 謡曲研究会
放 下 僧 (ほうかそう)
季 不定 所 武蔵国瀬戸 素謡時間 35分
【分類】四番目・二番目
【作者】近江能とも又宮増作とも言う 典拠:不明
【登場人物】 シテ:禅僧小次郎の兄、 ツレ:牧野小次郎 ワキ:利根信俊
詞 章 (胡山文庫)
ツレ
詞「斯様に候ふ者は。下野の国の住人。牧野の左衛門何某が子に。
小次郎と申す者にて候。扨も親にて候ふ者は。相模の国の住人。
利根の信俊と申す者と口論し。念なう討たれて候。親の敵にて候ふ程に。
討たばやとは存じ候へども。敵は猛勢我等は唯一人にて候ふ間。
思ふにかひなく月日を送り候。又兄にて候ふ者は。幼少より出家仕り。
あたり近き会下に候。余りに便もなく候ふ間。
立ち越え此事を談合せばやと存じ候。いかに案内申し候。小次郎が参りて候
シテ 詞「小次郎殿とはあら珍しや。まづ此方へ御入り候へ。さて唯今は何の為の御出でにて候ぞ。
ツレ
詞「さん候唯今参ること余の儀にあらず。われらが親の敵のこと。
討たばやとは存じ候へども。彼は猛勢我等は唯一人なれば。
思ふにかひなく月日を送り候。あはれ諸共に思し召し御立ち候へかし。
このこと申さん為に参りて候。
シテ 詞「仰せはさる事にて候へども。まず時節を御待ち候へ。
ツレ 詞「いや親の敵を討たぬ者は不幸の由もうし候。。
シテ 詞「そも親の敵を討つて。孝に供えたる謂われの候か。
ツレ 詞「さん候語つて聞かせ申し候ばし。
(独吟 唐土の事にや ヨリ 御立ち候へ マデ )
唐土の事にやありけん。母を悪虎にとられ。
其敵をとらんとて。百日虎伏す野辺に出でてねらふ。ある夕暮の事なりしに。
尾上の松の木かげに。虎に似たりし大石のありしを。敵虎と思ひ。
番へる矢なればよつぴいて放つ。此矢すなはち巌に立ち。忽ち血流れけるとなり。
これも孝の心深きによつて。堅き石にも矢の立つと申す謂われの候へば。
唯思し召し御立ち候へ。
シテ 詞「唐土の事まで引いて承り候程に。此上は思ひ立たうずるにて候。
扨かの者には何として近づき候ふべき。
ツレ 詞「某がし存知じ候は。この頃人の玩び候は放下にて候ふ程に。
御身は放下僧に御なり候へ。ことに彼の者禅法に好きたる由申し候ふ間。
禅法を仰せられうずるにて候。
又人の多く集まり候は瀬戸の三島へ御出であろうずるにて候
シテ カカル上 いざ/\さらばと思ひ立たんと。行脚の姿に身をやつせば。
ツレ 上 われも嬉しく思ひつゝ。放下の姿に出で立ちて。
シテ 上 さもすご/\と。
シテツレ二人上 立ち出づる。
地 上 古里の。名残もさぞな有明の。/\。つれなきながら存ふる。
命ぞ限兄弟は我が心をや頼むらん我が心をや頼むらん。
中入
ワキ 次第上 歩を運ぶ神垣や。/\。隔てぬ誓頼まん。
詞「かように候は相模の国の住人。利根の信俊と申す者にて候。
われ此間うち続き夢見あしく候ふ程に。瀬戸の三島へ参らばやと存じ候。
後シテサシ一声 面白の我等が有様やな。僧俗二つの道を離れ。姿詞も人に似ぬ。
後ツレ 上 そのふるまひを隠れがと。思ひ捨つれば安き身を。
シテ 上 知らでなどかは迷ふらん。
シテツレ一声上 落花一陽の春を知らず。白雲青山に蔽ふとか。
ツレ 上 流水山上の秋にして。
シテツレ二人上 紅葉を争ふ。いはれあり。
地 上 朝の嵐夕の雨。/\。けふまた明日の昔ぞと。
夕の露の村時雨さだめなき世にふる川の。水の泡沫我いかに。
人をあだにや思ふらん/\。
シテ 詞「是は放下にて候
狂言シカ%\
シテ 詞「風雲流水と申し候
狂言シカ%\
ツレ 詞「風雲流水と申し候
狂言シカ%\
シテ 詞「我等を風雲。彼をば流水と申し候にて候。
又あれなる御方の。御名字をば何と申し候ぞ。
狂言シカ%\
シテ 詞「いやいや苦しからぬ事。いかようにも御申しあつて。
御前へ召し出されて給わり候へ。
狂言シカ%\
(連吟 いかに面々に ヨリ をかしの人の心や マデ )
ワキ 詞「いかに面々に尋ね申したきことの候。およそ沙門の形と云つぱ。
十力の数珠を手に纏ひ。忍辱二諦の衣を着。
罪障懺悔の袈裟を掛けてこそ僧とは申すべけれ。
異形のいでたち心得がたく候。又見申せば柱杖に団扇を添へて持たれたり。
団扇の一句承りたう候。
シテ
詞「それ団扇と申すは物は。動く時には清風を出し。静かなる時は明月を見す。
詞「明月清風唯同性の中にして。諸法を心が所作として。
カカル上 真実修行の便にて。われらが持つは道理なり。とがめ給ふぞ愚なる。
ワキ 詞「団扇の一句面白う候。今一人は弓矢を帯し給ふ。弓も御僧の道具ざふか。
ツレ 上 それ弓と申すは本末に。烏兎の姿を象り。
詞「日月をこゝに表し。浄穢不二の秘法を表す。されば愛染明王も。
神通の弓を張り。方便の矢をつまよつて。四魔の軍を破り給ふ。
地 上 さればわれらもこれを持ち。さればわれらもこれを持ちて。引かぬ弓。
はなさぬ矢にて射る時は。当らずしかも。外さゞりけりと。
かようによむ歌もあり知らずな物な宣ひそ/\。
ワキ 詞「いかに申し候。放下僧は何れの祖師禅法を御伝え候ふぞ。面々の宗体が承りたく候。
シテ 詞「われらが宗体と申すは。教外別伝にしていふもいはれず説くもとかれず。
言句に出せば教に落ち。文字を立つれば宗体に背く。
カカル上 たゞ一葉の翻る。風の行方を。御覧ぜよ。
ワキ 詞「げに/\面白う候。扨座禅の公案何と心得候ふべき。
ツレ 上 入つては幽玄の底に動じ。出でては三昧の門に遊ぶ。
ワキ 詞「自心自仏はさていかに。
シテ 詞「白雲深き処金龍躍る。
ワキ 詞「生死に住せば。
シテ 詞「輪廻の苦。
ワキ 詞「生死を離れば。
シテ 詞「断見の科。
ワキ 詞「さて向上の一路はいかに。
ツレ 詞「切つて三断と為す。
シテ
詞「暫く。切つて三断となすとは。禅法の詞なるを。
カカル上 お騒あるこそ愚なれ。
地 上 何と唯なか/\にいはでの山の岩躑躅。色には出でじ。南無三宝。をかしの人の心や。
狂言シカ%\ 物着
(囃子 されば大小のヨリ 御代かな マデ )
シテ 上 されば大小の根機を嫌はず。持戒破戒を撰ばず。
地 上 有無の二偏に落つる事なく。皆成仏するためしあり。
かるが故に草木も法身の姿を現せり。柳は緑花は紅なる。其色々を現せり。
(独吟:仕舞 青陽の春の ヨリ 心を悟り給へや マデ )
地 クセ下 青陽の春の朝には。谷の戸出づる鴬の。凍れる涙とけそめて。
雪解の水の泡沫に。相宿する蛙の声。聞けば心のある物を。
目に見ぬ秋を風に聞き荻の葉そよぐ古里の。田面に落つる雁鳴きて。
稲葉の雲の夕時雨。妻恋ひかぬる小牡鹿の。たゝずむ月を山に見て。
指を忘るゝおもひあり。
シテ 上 うらの湊の釣舟は。
地 上 魚を得て筌を捨つ。これを見れかれを聞く時は。嶺の嵐や谷の声。
夕の煙朝がすみ。皆三界唯心の。ことわりなりと思しめし。心を悟り給へや。
シテ 上 月のためには浮雲の。
地 上 種と心や。なりぬらん。
羯鼓 小唄
(独吟:仕舞 面白の ヨリ 御代かな マデ )
シテ 下 面白の
地 下 花の都や。筆に書くとも及ばじ。東には祇園清水落ちくる瀧の。音羽の嵐に。
地主の桜は散り%\。西は法輪。嵯峨の御寺廻らば廻れ。水車の輪の。
臨川堰の川波。川柳は。水に揉まるゝふくら雀は。風に揉まるゝふくら雀は。
竹に揉まるゝ。都の牛は。車に揉まるゝ茶臼は挽木に揉まるゝ。げにまこと。
忘れたりとよ。こきりこは放下に揉まるゝ。こきりこの二つの竹の。
代々を重ねて。打ち治まりたる御代かな。
シテツレ二人上 兄弟ともに抜きつれて。
地 上 此年月の怨の末。今こそ通れ。願のまゝに。敵をぞ討つたりける。
キリ下 かくて兄弟念力の。/\。其期のありて忽ちに。親の敵を討つ事も。
孝行深き故により。名を末代に留めけり/\。
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