宝生流謡曲 「橋弁慶」

あらすじ
時の天皇に仕える臣下は、ある日思い立って京都の西山、松尾の明神に参詣する。山の姿や社殿を眺めていると、たまたま一人の男を連れた老人が現れ、ねんごろにいろいろと明神の御神徳を説き聞かせる。そして今日参詣して下さってまことに有難い、是非今宵の夜神楽と拝んでほしいと言って姿を姿を消した。夜になって臣下が待っていると、松尾明神が現れ神舞を舞い千代万代までも幾久しい目出度い御代を寿ぎ、再び姿を消すのである。          (謡本を意訳)

●宝生流謡本      外七巻の一   脇 能    (太鼓あり)
    季節=秋   場所=山城国松尾   作者=不明
    素謡稽古順稽古順=入門    
    素謡座席順   ツレ=男
               シテ=前・老翁 後・松尾明神
              ワキ=臣下

●松尾 まつのお
      松尾大社 京都市西京区嵐山宮ノ前町    (平19・6 高橋春雄記)
 舞台は松尾大社である。この社は賀茂神社と並び京都最古の神社といわれる。現在の松尾大社の後方にある松尾山中頂上近くにある巨岩を信仰の対象とし、一帯の住民の守護神としたのが神社の起源とされているようである。朝鮮から渡来した秦氏がこの地に移住し、農業や林業を興したが、大宝元年(701年)に現在の地に社殿を建立し、一族が社家をつとめたという。中世以降、醸造の神様として、全国の酒造家などから信仰を集めている。これは、天平5年(733年)に社殿背後より泉が湧き出たとき、『この水で酒を醸すとき福が招来し家業繁栄する』との松尾の神の御宣託があったことに由来しているという。社殿には沢山の酒樽が寄進されている。また亀がこの社の神使とされ、松尾山から流れた渓流が「霊亀の滝」となり、霊亀の滝の近くに「亀の井」と名付けられた霊泉がある。酒造家はこの水を持ち帰り、醸造時に混ぜて使うという。また、この水は長寿の水として知られているようで、多くの人がこの水を汲みに訪れているようである。

●歴 史
 当社の背後の松尾山(223m)に古社地があり、山頂に近い大杉谷に磐座とされる巨石がある。5世紀ごろ、渡来人の秦氏が山城国一帯に居住し、松尾山の神(大山咋神)を氏神とした。大山咋神については、『古事記』に「亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と記されており、古事記が編纂されたころには有力な神とされていたことがわかる。 大宝元年(701年)、勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在地に社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕させた。以降、明治初期に神職の世襲が禁止されるまで、秦氏が当社の神職を務めた。秦氏は酒造の技術も日本に伝えたことから、中世以降、松尾神は酒造の神としても信仰されるようになった。 平安遷都により、皇城鎮護の神として崇敬されるようになり、「賀茂の厳神、松尾の猛神」と並び称された。『延喜式神名帳』では「山城国葛野郡 松尾神社二座」として名神大社に列する。また、二十二社上七社の一社ともなった。
近代社格制度のもと、明治4年(1871年)に松尾神社として官幣大社に列格し、戦後は別表神社となった。 昭和25年(1950年)に松尾大社に改称。 本殿は、大宝元年秦忌寸都理が勅命を奉寺じて創建以来、皇室や幕府の手で改築され、現在のものは室町初期の応永四年(一三九七)の建造、天文十一年(一五四二年)大修理を施したものです。 建坪三十五坪余、桁行三間・梁間四間の特殊な両流造りで、松尾造りと称せられています。

●松風苑(三つの庭)
 当代庭園学の第一人者重森三玲氏が心血を注いで造られたもので、明治以後における現代最高の芸術的作品として知られています。 三庭に用いた二百余個の石はすべて徳島県吉野川の青石(緑泥片岩)です。 昭和四九年四月着工、五十年五月完成。 思ったより狭い所で敷地一杯が庭なので全体を写すのは困難でした。
磐座の庭(上古風)
 古代祭祀の場であった松尾山中の神蹟に因む作品唯一大空に向かっている様で開放感があります。
蓬莱の庭(鎌倉風)
 波乱重畳の鎌倉期の特色を今にいかした回遊式庭園。 石と池の存在感と配置の妙をご覧ください。
曲水の庭(平安風)
 当社の最も栄えた王朝の盛事を偲ぶよすがとしての創作。 枯山水かなと思っていたのですが、そ 
 うではなくて、水が流れており、個人的な意見ですが、作者の凝集された強い思い入れと熱意、 
 執念に圧倒され、我々凡人は少し離れた処からホッとして見てみたい気がします。

●松尾大社(まつのおたいしゃ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
 京都市西京区嵐山(あらしやま)宮町に鎮座。祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)、中津島姫命(なかつしまひめのみこと)(市杵島(いちきしま)姫命)の二柱を祀(まつ)る。大山咋神は『古事記』に「葛野(かどの)の松尾に坐(いま)す鳴鏑(なりかぶら)に成りませる神」とある。本社の創祀(そうし)は文武(もんむ)天皇701年(大宝1)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が社殿を初めて造営したというが、秦氏以前からこの地に奉斎神があったようである。秦氏は養蚕や機織(はたおり)の技術に優れ、山城(やましろ)(京都府)地域の開発に貢献した氏族である。『延喜式(えんぎしき)』の名神(みょうじん)大社で、臨時祭の祈雨の奉幣にあずかり、二十二社奉幣の上七社に加えられている。一条(いちじょう)天皇以後、行幸啓も多く、866年(貞観8)には正一位に累進し、賀茂が東の厳神(げんしん)というのに対して、松尾は西の猛霊(もうれい)とよばれて尊崇された。貞観(じょうがん)年間(859〜877)から始まったといわれる松尾祭(まつおさい)には、山城国司、葛野郡司らも参候した。江戸時代には、累代の徳川将軍家から九百余石の朱印を安堵(あんど)され、社運が隆盛となった。1871年(明治4)官幣大社に列した。本社は酒造の神としての信仰が厚く11月上卯(かみのう)日には醸造の平安を祈る上卯祭、4月中酉(なかのとり)日にはその完了を感謝する中酉祭が行われる。社の背後の雷峰(いかずちみね)、松尾山を含む約12万坪(3960アール)が境内で、その全域が風致地区に指定されている。現今の例祭は4月2日で、4月20日以後の第2日曜には神輿(みこし)の出御祭、そののち21日目に還御祭がある。松尾七社とよばれる大宮社、四大神社、衣手(ころもで)社、三宮(さんのみや)社、宗像(むなかた)社、櫟谷(いちだに)社、月読(つきよみ)社の各社の神輿(月読社は唐櫃(からびつ))の還御には葵(あおい)の蔓(つる)で飾るところから葵祭ともよばれている。
本殿(国重要文化財)は正面三間、側面四間の身舎と、さらに正面三間の向拝よりなる両流(りょうながれ)造で、1397年(応永4)造営、1550年(天文19)の再建と伝えられている。宝物の男神坐像(ざぞう)二体、女神坐像一体は、いずれも平安時代の作で、国重要文化財に指定されている。重森三玲(しげもりみれい)作(1975)の昭和の新庭園「松風苑(しょうふうえん)」は有名である。 京の洛西地区の総氏神そして醸造の祖神。 阪急・嵐山線「松尾」駅舎を出たすぐ前に赤い大きな鳥居が見え、酒の神様を奉っている神社らしく、大きな徳利が鳥居の横にある。木立に覆われた参道を進むと榊が吊り下げられている二の鳥居。正面の楼門をくぐると、そこには一ノ井川が流れていて、4月中旬頃は川添いをはじめ境内には八重や一重やシロヤマブキなど約3000株のヤマブキが咲きみだれることで知られている。

平成24年11月16日 あさかのユーユークラブ謡曲研究会 


 私が宝生流の謡を初めて習ったのが昭和25年(1950)橋弁慶です。それは小学唱歌「京の5条の橋の上大の男の弁慶は長いなぎなた振り上げて牛若めがけて切りかかる」で習った歌を覚えていたからです。能楽や芸事を習うのに子供の6歳の6月6日から始めるのが習慣と聞いておりますが私の場合は19歳でした。 この謡はシテが弁慶ですがワキがいませんツレは従者で子方が牛若丸(源 義経)です。ワキが不在の曲(翁・橋弁慶)は少ない。宝生流では橋弁慶のツレは従者となった居りますが従者をトモと扱う流派もあります。        小原隆夫

 
     橋弁慶          四五番目略二番目(太鼓なし)  

     シテ  武蔵坊弁慶(前後共)          季 秋
     ツレ  従 者
     子方  牛 若                   所 京都


シテ 詞「これは西塔の傍に住む武蔵坊弁慶にて候。われ宿願の子細あつて。五条の天神へ。
     丑の時詣を仕り候。今日満参にて候ふ程に。唯今参らばやと存じ候。いかに誰かある。
ツレ  「御前に候。
シテ  「五条の天神へ参らうずるにてあるぞ。その分心得候へ。
ツレ  「畏つて候。又申すべき事の候。昨日五条の橋を通り候ふ所に。
     十二三ばかりなる幼き者。小太刀にて斬つて廻り候ふは。
     さながら蝶鳥{てふとり}の如くなる由申し候。先々今夜の御物詣は。
     思し召し御止まりあれかしと存じ候。
シテ  「言語道断の事を申す者かな。たとへば天魔鬼神なりとも。大勢には適ふまじ。
     おつとり込めて討たざりけるぞ。
ツレ  「おつとりこむれば不思議にはづれ。敵{かたき}を手元に寄せ付けず候。
シテ  「たとい敵をよせつけずとも。隙間あらさず切つてかからば。終には討たでかのうまじ。
ツレ  「おつとりこむれば地にちがい。
シテ  「おつとりこむれば。
ツレ  「おつ払う。
シテ   間近く寄れば。
ツレ   目にも。
シテツレ 見えず。
地   「神変{じんべん}奇特不思議なる。神変奇特不思議なる。化生{けしやう}の者に寄せ合はせ。
     かしこう御身討たすらん。都広しと申せども。これ程の者あらじ。げに奇特なる者かな。
シテ 詞「さあらば今夜は思ひ止まらうずるにてあるぞ。
ツレ  「もっともにて候。
シテ 詞「いや弁慶ほどの者の。聞き遁げしてはかほうまじ。今夜夜更けば橋に行き。
     化生の者を平らげんと。
地  歌「夕程なく暮方の。夕程なく暮方の。雲の気色も引きかへて。風すさまじく更くる夜を。
     遅しとこそは待ち居たれ。遅しとこそは待ち居たれ。   (中入早鼓間)
子方  「さても牛若は母の仰の重ければ。
     詞「明けなぱ寺へのぼるべし。今宵ばかりの名残ぞと。川波添へて立ち待ちに。
     月の光を待つべしと。
地  歌「夕波の。行方はいずく夜嵐の。声澄み渡る秋の暮れ。
地  歌「面白の気色やな。面白の気色やな。そゞろ浮き立つわが心。波も玉散る白露の。
     夕顔の花の色。五条の橋の橋板を。とゞろとゞろと踏み鳴らし。風すさまじく更くる夜に。
     通る人をぞ待ち居たる。通る人をぞ待ち居たる。
後シテ詞「すでに夜を待つ時も来て。山塔の鐘もすぎまの月の。着たる鎧は黒革の。
     をどしにをどせる大鎧。草摺長に着なしつゝ。もとより好む大薙刀。
     真中{まんなか}取つて打ちかつぎ。ゆらり/\と出でたる有様。
シテ   いかなる天魔鬼神なりとも。面{おもて}を向くべきやうあらじと。
     我が身ながらも物頼もしうて。手に立つ敵の恋しさよ。
子方  「川風もはや更け過ぐる橋の面に。通る人もなきぞとて。心すごげにやすらへば。
シテ  「弁慶かくとも白波の。立ちより渡る橋板を。さも荒らかに踏み鳴らせば。
子方  「牛若彼を見るよりも。すはやうれしや人来るぞと。
      薄衣{うすぎぬ}なほも引き被き。傍に寄り添ひ佇めば。
シテ  「弁慶彼を見付けつゝ。     (立廻り)
シテ  「詞をかけんと思へども。見れば女の姿なり。われは出家の事なれば。
     思ひ煩ひ過ぎて行く。
子方  「牛若彼をなぶつて見んと。行き違ひざまに薙刀の。柄元をはつしと蹴上ぐれば。
シテ   「すは。しれ者よもの見せんと。
地    「薙刀やがて取り直し。薙刀やがて取り直し。いでもの見せん手なみの程と。
      斬つてかゝれば牛若は。少しも騒がず突つ立ち直つて。薄衣引き除けつゝ。
      しづしづと太刀抜き放つて。つつ支へたる薙刀の。切先に太刀打ち合はせ。
      つめつ開いつ戦ひしが。何とかしたりけん。
      手許に牛若寄るとぞ見えしがたゝみ重ねて打つ太刀に。さしもの弁慶合はせ兼ねて。
      橋桁を二三間しさつて。肝をぞ消したりける。あら物々しあれ程の。あら物々しあれ程の。
      小姓一人を斬ればとて。手並にいかで洩らすべきと。薙刀柄長くおつ取りのべて。
      走りかゝつてちやうと切れば。そむけて右に。飛びちがふ取り直して裾を。
      薙ぎ払へば。跳りあがつて足もためず。宙を払へば頭{かうべ}を地に付け。
      千々に戦ふ大薙刀。打ち落されて力なく。組まんと寄れば切り払ふ。
      すがらんとするも便なし。せん方なくて弁慶は。
      希代なる少人{せうじん}かなとて呆れはててぞ立つたりける。
ロンギ 「不思議や御身誰なれば。まだ稚{いとけな}き姿にて。
      かほどけなげにましますぞ。委しく名乗りおはしませ。
子方  「今は何をか包むべき。我は源牛若。
地    「義朝の御子か。
子方   「さて汝は。
地    「西塔の武蔵。弁慶なり。互に名告り合ひ。互に名告り合ひ。
      降参申さん御免あれ少人の御事。われは出家。位も氏もけなげさも。
      よき主{しう}なれば頼むなり。粗忽にや思しめすらんさりながら。 
      これ又三世の奇縁の始。今より後は。主従{しうじう}ぞ。
      契約堅く申しつゝ。薄衣被{かづ}かせ奉り弁慶も薙刀打ちかついで。
      九条の御所へぞ参りける。


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