松 虫(まつむし)

●あらすじ
 津の国阿倍野あたりの市で酒を売る一人の男が、いつも男たちが連れ立って来 ては酒宴を催して帰るので、不思議に思って、今日は素姓を尋ねようと待っておりま す。やがて男たちがやって来て、主人の振舞う酒に酔い詩句などに興じていますが、一人が松虫の音に友を偲ぶと口走るので、主人がその意味を問うと昔この辺りの松原を二人の仲の良い友が通りかかった時その中の一人が、松虫の音にひかれて草原に入ったまま不審の死を遂げたことを物語り、自分がその時残された友人であると明かし、今もその友を偲んで松虫の音に誘われて来たのだと言って去ります。酒屋の主人がこれを聞いて哀れに思って弔っていると、里人の亡霊が現れて、昔のことを物語ります。明け方の鐘につれて亡霊は姿を消し、あとには虫の音ばかりが寂しく残ります。 
(「宝生の能」平成10年12月号)

●宝生流謡本(参考)    外六巻の四     四五番目   (太鼓なし)
    季節=秋    場所=播磨国阿倍野
    素謡(宝生) :  稽古順=入門    素謡時間=45分
    素謡座席順   ツレ=里人
              シテ=前・里人 後・里人の亡霊 
              ワキ=酒舗の主人

●解 説                     
月見座頭(つきみざとう) 「能楽の淵」
 八月十五夜(といっても旧暦なので秋)の名月の夜、一人の座頭が月を見ることはできなくとも虫の音を楽しもうと言って、野辺に出かけます。すると月見に来た男と出会い、二人は歌を詠みあい、意気投合して酒宴となります。謡い舞って良い気分のまま別れますが、男は途中で立ち戻り、座頭に喧嘩をふっかけ引き倒してしまいます。座頭はさっきの人と違って情のない人もいるものだと言って、独り野辺で泣くのでした。 『月見座頭』はしみじみとした秋の風情を描いた名曲です。狂言はただの喜劇だとか風刺劇などではなくて、人間を描いた劇だといえる例だと思います。
 ちなみに座頭というのは、目が見えない人たちの位のひとつです。『座頭市』という映画もありますよね。中世には目の見えない人たちは平家琵琶語りなどの座を形成していて、上から検校・別当・勾当・座頭という位を設けていたとそうです。もっとも目の見えない人一般を「座頭」と呼ぶ場合もあり、『○○座頭』という曲名でも、実際には1ランク上の勾当が登場する狂言もあります。この『月見座頭』も山本東次郎家では長袴を穿いた「勾当」の姿で演じるそうです。 私が見た『月見座頭』は(二世)善竹忠一郎師のものなのですが、とてもその品の良い装束で、品の良い人物でした。松虫の声を聞いては能『松虫』の話を思い出し、鈴虫の声は優しいと言ったり。しんとした舞台の上から、あたかも虫の音が聞こえてくるかの心地すらした名演でした。 前半は男との心通い合う酒宴ですが、そこで男が詠む古歌や謡は名月に関するものですが、一方、座頭はあくまで虫の音に関するものばかりです。一見、共に楽しんでいるように見せながら、後半、実際には心通い合ってはいなかったことを暗示するのかもしれませんね。
   座頭の古歌  「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしき独りかも寝む」(藤原良経)
   座頭の謡  「ただ松虫の独り音に。友待ち詠をなして。舞ひ奏で遊ばん」(能『松虫』)
 ちなみに和歌はどちらも『百人一首』に載ってます。藤原良経は「後京極摂政前太政大臣」の名前ですが。 古歌の謡に続いて、座頭が酒宴で舞うのは盲目の悲しさを描いた能『弱法師』の舞です。ちょっと自虐的にも思えます。それとも普段から虐げられることに慣れているのでしょうか。物静かな座頭ですが…節々からどこか悲しさを感じさせるんですよね。 引き倒された後の座頭は、さっきまで酒宴を共にした男と引き倒した男は別人だと信じて疑わず、健気です。座頭の悲哀が引き立つ一方、男は目がみえても大切な事は何も見えてないのだなと感じました。
              
(2004/11/01ゆげひ的雑感)

●謡蹟めぐり
 松虫塚    住所:大阪市阿倍野区松虫通1-11    
2006年05月07日 高橋春雄記
さて、せっかく大阪市内に住むようになったのだからと、大阪市周辺の能や狂言ゆかりの地巡りをしようかと思いました。思ったら即行動。大好きな『船弁慶』にも「今日思ひ立つ旅衣」とありますし。 というわけで、最初に行ってみたのが松虫塚。男同士の愛にも近い友情を描いた能『松虫』の舞台となった場所です。「友」という言葉の繰り返しが20回以上というのは尋常ではありませんが、まあ、この曲に関しては大鼓の稽古を受けた時に書きましたので、重ねては書きません。
 最寄の交通機関は、大阪の路面電車である阪堺電鉄「松虫」駅ですが、大阪の南のターミナルである天王寺からでも十分歩ける距離です。そういうわけで現在はほぼ町中ですが、阿倍野という地名から分かるように、昔はこの周辺は広い野原だったそうです。松虫(鈴虫)の名所だったというのも納得ですね。狂言『月見座頭』は京都近くの野原が舞台ですが、思わずあの狂言で座頭が虫の音を楽しんでいる場面を想像しました。 能『松虫』の元ネタとなったのは『古今和歌集』にある和歌です。二人の男同士の親友が、月の夜に松虫の音を聞きながら歩くうち、うち一人は聞き惚れて草むらに分け入ったまま、草のしとねに伏して死んでしまいます。残った友が泣く泣く彼を埋葬した時に詠んだのが「秋の野に人まつ虫の声すなり。われかとゆきていざ弔はん」というものです。
 しかし、松虫塚には他にも伝説を持ってます。その一つが後鳥羽上皇に使えていた松虫と鈴虫という官女の姉妹が浄土宗の開祖・法然に感銘を受けて出家し、法然が流罪となった後、松虫がこの地に草庵を結んで暮らしたという話。「経よみてその跡訪ふか松虫の塚のほとりにちりりんの声」という和歌が『芦分舟』という本に載っているそうです。もっとも調べてみると『芦分舟』は江戸時代の本だそうで、『古今和歌集』に比べるとかなり新しいですが。 他に、ある女性の琴の名手が、松虫の自然の音に及ばないことを嘆いて詠んだ漢詩なんてものもあるそうです。「虫声そくそく荒野に満つ。恋情を闇にかもして琴瑟を抛つ」 いろいろ伝説のある場所なんですね。

●松虫塚の伝説
 松虫塚には古来数々の伝説がありますが、この地が松虫(いまの鈴虫)の名所であったところから、松虫の音にまつわる風流優雅な詩情あふれる次のような物語が伝承されています。 二人の親友が月の光さやかな夜麗しい松虫の音をめでながら逍遥するうち虫の音に聞きほれた一人が草むらに分け入ったまま草のしとねに伏して死んでいたので、残った友が泣く泣くここに埋葬したという。

●能「松虫」(まつむし)
 宝生流能楽師 水上 輝和 師
 阿倍野の酒屋に、数人の男が連れ立って酒を飲みに来る。中の一人が松虫の音に惹かれて死んだ男の事を物語り、皆より遅れて帰って行く。その夜、失った友を偲んで男の霊が現れ、舞を舞う。異色の友情を描いた曲。 あらすじは、摂津国阿倍野の市で酒を売る男。いつも大勢できて、酒宴をして帰る男達の中で、「松虫の音に友を偲ぶ」と言った男が居たので、その謂われを尋ねる。男は、昔二人の男がこの松原を通りかかったとき、松虫の音に心を引かれて、草むらに分け入り、そのまま帰らぬ人となった・・・もう一人は、泣きながらその死骸を埋めたが、今でも彼を慕ってここに現れる。我こそがその男の幽霊と名乗り消え失せる。 その夜、酒売りの市人が回向をしていると、男の亡霊が現れて、昔を偲び、松虫の音に興じて舞を舞い、名残を惜しみながら夜明けと友に姿を消す。秋の風情と男同士の友情を描いた異色の曲です。

(平成24年9月21日 あさかのユーユークラブ 謡曲研究会)


             松 虫 (まつむし)  (太鼓なし)

         季 秋      所 摂津国阿倍野  素謡時間 45分
  【分類】四五番目 (    )
  【作者】世阿弥元清   典拠:
  【登場人物】前シテ:里人、後シテ:里人の亡霊 ワキ:酒保の主人 ツレ里人

         詞 章                  (胡山文庫)

ワキ    詞 「これは津の国阿部野のあたりに住居する者にて候。
         われ此阿部野の市に出でて酒を売り候ふ所に。
         いづくとも知らず若き男の数多来り酒を飲み。帰るさには酒宴をなして帰り候。
         何とやらん不審に候ふ間。今日も来りて候はゞ。
         いかなる者ぞと名を尋ねばやと存じ候。
シテツレ次第上 もとの秋をも松虫の。/\。音にもや友をしのぶらん。
シテ  サシ上 秋の風更けゆくまゝに長月の。有明寒き朝風に。
シテツレ  上 袖ふれつゞく市人の。伴なひ出づる道のべの。草葉の露も深緑。
         立ちつれ行くやいろ/\の。草場の露も深緑。
         立ちつれ行くや色々の簔代衣日も出て。阿部の市路に出づるなり。
      下歌 遠里ながら程近きこや住の江の裏伝ひ。
      上歌 汐風も。吹くや岸野の秋の草。/\。
ツレ     上 汐風も。吹くや岸野の秋の草。
シテツレ  上 松も響きて沖つ浪の。聞えて声々友さそふ此市人の数々に。
         我も行き人も行く。阿部野の原は面白や。/\。
ワキ カカル上 伝へ聞く白楽天が酒功賛を作りし琴詩酒の友。今も知られて市屋形に。
         樽をすゑ盃を並べて。寄り来る人を待ち居たり。
       詞 「いかに人々酒めされ候へ。
シテ カカル上 我が宿は菊売る市にあらねども。四方の門べに人さわぐと。
       詞 「よみしも古人の心なるべし。いかに人々面々に。霊酒を酌みてもてなし給へ。
ワキ    上 又彼の人の来れるぞや。けふはいつより酒を湛へ。遊楽遊舞の和歌を詠じ。
         人の心を慰め給へ。早くな帰り給ひそとよ。
シテ    詞「何我を早くな帰りそとよ。
ワキ    上 なか/\の事暮過ぐるとも。月をも見捨て給ふなよ。
シテ    詞「仰までもなし何とてか。この酒友をば見捨つべき。古き詠にも花のもとに。
ワキ カカル上 帰らん事を忘るゝは。
シテ カカル上 美景に因ると作りたり。
シテワキ  上 樽の前に醉を勧めては。これ春の風とも云へり。
地     下 今は秋の風。暖め酒の身を知れば。薬と菊の花のもとに。
         帰らん事を忘れいざや。御酒を愛せん。
      上 たとひ暮るゝとも。/\。夜遊の友に馴衣の。袂に受けたる月影の。
         移ろふ花の顔ばせの。盃に向へば色も猶まさりぐさ。千年の秋をも限らじや。
         松虫の音も盡きじ。いつまで草のいつまでも。
         変らぬ友こそは買ひ得たる市の宝なれ/\。
ワキ    詞 「いかに申し候。唯今の詞の末に。松虫の音に友を偲ぶと承り候ふは。
         いかなる謂れにて候ふぞ。
シテ    詞「さん候それに付いて物語の候語つて聞かせ申し候ふべし。
ワキ    詞「さらば御物語り候へ。
シテ    語「昔此阿部野の松原を。ある人二人連れて通りしに。
         をりふし松虫の声おもしろく聞えしかば。一人の友人。
         彼の虫の音を慕へ行きしに。今一人の友人。やゝ久しく待てども帰らざりし程に。
         心もとなく思ひ尋ね行き見れば。かのもの草露に臥して空しくなる。
   カカル下 死なば一所とこそ思ひしに。こはそも何といひたる事ぞとて、
         泣き悲めどかひぞなき。
地     下 其まゝ土中に埋木の人知れぬとこそ思ひしに。朽ちもせで松虫の。
         音に友をしのぶ名の世にもれけるぞ悲しき。
地     上 今も其。友をしのびて松虫の。/\。音に誘はれて市人の。
         身を変へてなき跡の亡霊こゝに来りたり。恥かしやこれまでなり。
         立ちすがりたる市人の。人影に隠れて阿部野のかたに帰りけり/\。
   ロンギ上 不思議やさては此世にも。亡き影すこし残しつゝ。
         此ほどの友人の名残を暫しとめ給へ。
シテ    上 をりふし秋の暮。松虫も鳴くものを我をや待つ声ならん。
地     上 そも心なき虫の音の。われを待つ声ぞとは真しかならぬ詞かな。
シテ    下 虫の音も。/\。しのぶ友をば待てばこそ言の葉にもかゝらるめ。
地     上 われかと行きて。いざ弔はんと思しめすか人々ありがたや是ぞ真の友を。
         しのぶぞよ松虫の音に。伴ひて帰りけり虫の音につれて帰りける。
               中入り
ワキ  待謡上 松風寒き此原の。/\。草の假寝のことはに御法をなして夜もすがら。
          彼の跡とふぞありがたき/\。
後シテサシ一声 あらありがたの御弔やな。秋霜にかるゝ虫の音聞けば。閻浮の秋に帰る心。
         猶郊原に朽ち残る。魂霊これまで来りたり。嬉しく弔ひ給ふものかな。
ワキ カカル上 はや夕陰も深緑。草の花色露深き。其方を見れば人影の。
         幽に見ゆるはありつる人か。
シテ    詞「なか/\なれやもとよりの。昔の友を猶しのぶ。虫の音ともに現れて。
          手向を受くる草衣の。
ワキ    上 浦は難波の里も近き。
シテ    上 阿部の市人馴れ/\て。
ワキ    上 とむらふ人も。
シテ    上 訪はるゝわれも。
ワキ    上 いにしへ今こそ。
シテ    上 変れども。
地     上 古里に住みしは同じ難波人。住みしは同じ難波人。蘆火焼く屋も市屋形も。
         変わらぬ契を。しのぶぐさの忘れえぬ友ぞかしあら。なつかしの心や。
     クリ上 忘れて年を経しものを。また古に帰るなみの。
         難波のことのよしあしもけに隔なき友とかや。
シテ  サシ上 あしたに落花を踏んで相伴うつて出づ。
地     上 夕べには。飛鳥に従つて一時に帰る。
シテ    下 然らば花鳥遊楽の瓊莚。
地     下 風月の友に誘はれて。春の山べや秋の野の草葉にすだく虫までも。
         聞けば心の。友ならずや。
    クセ下 一樹の蔭の宿も他生の緑を聞くものを。一河の流汲みて知るその心浅からめや。
         奥山の深谷のしたの菊の水。汲めども。汲めどもよも盡きじ。
         流水の盃は手先づ遮れる心なり。されば廬山の古虎渓を去らぬ室の戸の。
         その戒をやぶりしも。志を浅からぬ。思の露の玉水のけいせきを出でし道とかや。
シテ    上 それは賢きいにしへの。
地     上 世もたけ心さえて。道ある友人のかずかず積善の余慶家々に普く広き道とかや。
         今は濁世の人間ことに拙なきわれらにて。心もうつろふや菊をたゝへ竹葉の。
         世は皆醉へりさらばわれひとり醒めもせで。萬木みな紅葉せり。唯松虫の独音に。
         友を待ち詠をなして。舞ひかなで遊ばん。
シテ    下 盃の。
地     下 雪を廻らす花のそで。
                中の舞〓鐘早舞
ワキ  ワカ上 おもしろや。千草にすだく。虫の音の。
地     下 機織るおとは。
シテ    下 きりはたりちやう。
地     下 きりはたりちやう。つゞり刺せてふ蛬蜩。いろ/\の色音のなかに。
         わきて我がしのぶ松虫の声。りんりん/\/\として。夜の声冥々たり。
地     上 すはや難波の鐘の明方の。あさまにもなりぬべしさらばよ友人なごりの袖を。
         招く尾花のほのかに見えし。跡絶えて。草茫茫たるあしたの原に。/\。
         虫の音ばかりや。残るらん虫の音ばかりや残るらん。
 


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