咸陽宮 かんにょうきゅう

●あらすじ
秦の始皇帝は予て燕の国の地図と、樊於期の首とを賞金をかけて天下に求めました。この機会を利用して始皇帝を討とうと謀った燕国の志士の荊軻と秦舞陽じじは幾山河を越えてはるばると咸陽宮に参着しました。荘厳華麗な御殿の有様に、二人は憶し帰ろうとしますが、気分を奮い立たせて皇帝と対面します。荊軻は先ず樊於期の首を、続いて秦舞陽荊軻は地図の箱を奉ります。この時箱の底に隠されてあった剣の光に気付いた皇帝は、身の危険を感じて逃れようとしますが、捕らえられてしまいます。皇帝はいまは最期の際故、花陽夫人の琴を聞いて死にたいと言います。荊軻はこれを許し、夫人は琴の歌詞に託して帝に脱出を勧めます。この素晴らしい琴の音色に荊軻らも酔えるが如くに聞き入るすきに皇帝は袖を引きちぎって逃れ、この二人は捕らえられ、八つ裂きにされてしまいます。 (「宝生の能」平成12年10月号より)

●宝生流謡本     外六巻の一   四五番目略脇能  (太鼓あり)
        参 考  季節=秋    場所=唐土咸陽宮
        素謡(宝生) : 稽古順=入門    素謡時間=23分 
    素謡座席順   ツレ=花ワ陽夫人
              シテ=前・後始皇帝
               ワキ=荊軻
               ワキヅレ=秦舞陽 
               ワキヅレ=大臣 

● 謡蹟めぐり
  咸陽宮 かんにょうきゅう   書籍、インターネットで探る咸陽宮謡蹟 (平18・12記)
中国の謡蹟は訪ねたことがないので、「邯鄲」と同様書籍やインターネットで調べた概要を報告する。
小倉正久著「謡曲紀行」(白竜社刊)秦咸陽城遺址(狭西省咸陽市郊外)、阿房宮(西安市西郊)、秦の始皇帝稜(西安の東)など。咸陽市郊外では宮殿の復元図も試みられており、「秦咸陽城遺址」の碑も建てられている様子。西安の阿房宮は立派に復元されたようで、その正殿前に立つ始皇帝の像の写真もある。なお、西安から36キロ離れた驪山(りさん)の麓にある始皇帝稜、兵馬俑のことなども紹介されている。

@「中国の古都西安の謡跡探訪      中部電力 中国謡跡探訪団 大坪重遠
これはインターネットからのもの。平成10年9月、中部電力謡曲部の現役、OB12名が6日間の行程で西安市近傍の謡蹟を訪ねた記録の要約である。
「スケジュール」
第1日 名古屋〜上海〜西安(泊) 
第2日 兵馬俑〜始皇帝稜〜華清池〜興慶宮跡〜西の城門(泊)  
第3日 阿房宮跡〜楊貴妃墓〜茂稜〜咸陽宮跡〜(泊)
  第4日 西安〜北京〜八達嶺・萬里の長城〜定陵〜天安門広場(泊)
  第5日 故宮〜空港〜上海〜ガーデンブリッジ〜外灘(泊)
  第6日 上海〜名古屋
「まず皮切りは、有名な兵馬俑を見た帰り道に、楊貴妃と玄宗皇帝とが愛の日々を送った温泉別荘地、華清池に立ち寄った。池の中の亭に通ずる石橋の上で「楊貴妃」の一節を吟じた。
 阿房宮では「天鼓」の一節を謡った。地元のガイドがこの辺り全部が阿房宮跡だと言うので、つとある墳丘の上で謡った。西安市の東西わずかのところで、ただ一面のとうもろこしの畑であった。咸陽宮も場所がはっきりしなかった。昼飯にビールを飲み、車中でうとうと居眠っていたところ、いきなりガイドの起こされ「このあたり一面が咸陽宮だ」と宣言された。ここもまた、ただ海のようにとうもろこし畑が広がっている。あまりに心もとなく、地元の人に聞きまくり、車で相当の距離を行きつ戻りつして、やっと咸陽宮博物館に行き着いた。・・・博物館の前の畑で、「咸陽宮」全曲を謡った。 楊貴妃の墓では、ほとんど訪問者がいないのをこれ幸いと、心静かに「楊貴妃」の後半をじっくりと謡った。墓は西安市から西へ約50キロ、大平原の中に、ようやく丘陵が現れる辺りにある。古くは、お墓の土を顔に塗ると美しくなると言い伝えられ、採る人が絶えなかったという。いまは煉瓦とコンクリートで固めれれている。また、大きな大理石の楊貴妃像が立っていた。阿房宮、咸陽宮のほか陵墓などの「都の周り一万八千三百余里、内裏ハ地より三里高く」式(原文のまま)の記述が、現状とどのように結びつくのか、将来、考古学的な調査が進んで、段々明らかになって来よう。 私が行きたいと願っていた所をこのようにして廻った人もいるのを知りびっくりした。華清池、楊貴妃の墓、始皇帝の陵など是非見たいのもである。ただ阿房宮の跡、咸陽宮の跡と言っても、ただとうもろこしの畑が連なっているだけというのは興ざめである。でも、この記録は8年前のものだから、現在は小倉氏が見たように随分変わっているのかも知れない。

A西安旅行 − 咸陽市博物館
これもインターネットからのもの。咸陽市のあたりに渭水という川が流れており、しかも私の大好きな漢詩が出ているので抜粋してみた。 「茂陵に別れ西安に戻る途中、咸陽市を通り「咸陽市博物館」に立ち寄った。西安市の西を流れる川が渭水で、川を隔てた対岸が咸陽市である。中国では昔から旅に出る人を送る詩として知られ、わが国では詩吟で吟じられいる、王維の詩「渭城の曲」に出てくる。
渭城の朝雨 軽塵をうるおす
客舎青青 柳色新たなり
君に勧む 更に尽くせ一杯の酒
西のかた 陽関を出ずれば 故人無からん
意味は読んで字の通りで、“渭城に降る雨は軽い埃をしっとりとうるおす。”“旅館の柳は青々と、雨に洗われてひときは鮮やかだ。”“さあ、君、もう一杯空けてくれたまえ。”“西の方、陽関を出てしまえば、もう酒を酌み交わす友人も居ないだろうから。”と、云うことで「渭城」は今の咸陽市、西方に旅する時は西安(長安)からここまで見送る習慣があったと云う。当初、長安は秦の始皇帝が咸陽市北郊の黄土台地に咸陽宮を造営した時に始まる訳だが、今では跡は無く、近郊から豊富に出土する秦・漢時代の遺物がこの博物館に収められている。 

●演能記
宝生能楽堂と咸陽宮   << 作成日時 : 2007/08/31 09:56 >> 能楽師 梅村昌功 梅謡会
8月29日は、宝生能楽堂・宝生夜能「咸陽宮」に出演しました。秦の始皇帝の咸陽宮に荊軻(けいか)と秦舞陽(しんぷよう)の二人が皇帝の望みの品を携えて参内する。二人は皇帝のすきを見て剣をつきつけ殺そうとするが、皇帝の最後の望みで花陽夫人の琴の秘曲を聞くうちに油断し、逆に討たれてしまうというめったに演能されない面白い曲です。 客席には学生さんの姿も多いでした。来月の柏市芸能鑑賞会には、梅謡会のお弟子さんたちがこの咸陽宮の素謡で初めて参加します。柏市能楽協会の観世流の方々とご一緒です。

(平成21年7月17日 あさかのユーユークラブ 謡曲研究会)


       咸陽宮 (かんにょうきゅう)   四五番目 略脇能(太鼓あり)  

                                 季 秋
                                 所 唐土咸陽宮   【作者】不詳
        【登場人物】

   ツレ    花陽夫人
   シテ    秦始皇帝
   ワキ    荊 軻
   ワキツレ 秦舞陽
   ワキツレ 大臣


シテ    「抑も此の咸陽宮と申すは。都の廻り一萬八千三百余里。
ワキヅレ 「内裏は地より三里高く。雲を凌ぎて築き上げて。鉄の築地方四十里。
シテ    「又は高さも百余丈。雲路を渡るかりがねも。雁門なくては過ぎがたし。
ワキヅレ 「帝の御殿は阿房宮。銅の柱三十六丈。
シテ    「東西九丁
ワキ    「南北五丁
シテ    「五丈の幡鉾
ワキヅレ 「龍車の雲居
シテ    「さながら天に翻り
地     「登れば玉の階乃。登れば玉の階の金銀を磨きて輝けり。
       唯日月の影をふみ蒼天を渡る心地して。各肝を消すとかや各肝を消すとかや
ワキツレ 「思い立つ。朝の雲の旅衣。落葉重なる。嵐かな
ワキ    「山遠うしては雲行客の跡をうずみ
ワキツレ 「松高うしては風旅人の夢を破る
ワキ    「たとひえん門は高くとも
ワキツレ 「思いの末は
ワキ    「石に立つ
ワキツレ 「やたけの心顕れて。やたけの心顕れて。遠山の雲に日をかさね。
       ようよう行けば名も高き咸陽宮に着きけり咸陽宮に着きけり
ワキ  詞「急ぎ候程に。咸陽宮に着きて候。まづまづそうもん申さうずるにて候。
       いかにそうもん申し候。燕の国の傍らに。荊軻秦舞陽と申す両人の者。
       高札の表にまかせ。燕の指図の箱。並びに樊於期が頭を持ちて。これまで参内申して候。
ワキツレ詞「急ぎ庭上まで参内させ候え
ワキ    「荊軻ははい剣を解いて威儀をなし。節会の儀式にしたがって。雲上遙かに見渡せば。
ワキツレ 「金銀珠玉の御橋を踏み。三里が間を登り行けば
ワキ    「薄氷を踏む心地して。荊軻は既に登れども
ワキツレ詞「跡に立ちたる秦舞陽。身体わななき手をおして。登りかねてぞやすらいける。
ワキ   詞「ああ不覚なりとよ秦舞陽。燕の賤しき住居に倣って。玉殿を踏む恐ろしさに。
       臆して上りかねけるか
ワキツレ詞「それをなさのみ諫め給いそ。そのせきれきに習って。玉渕を窺はざるは。
       りりょおの蟠り所を知らず
地     「げに理りとて典獄は。さしも厳しき禁中にえん門を解いて許しけり
ワキヅレ 「帝はこれをきこし召し。臨時の節会を執り行い。燕使の参内を待ち給う
ワキ    「舞陽荊軻は大床の。こしょおに参着申しけり
ワキツレ詞「まづ秦舞陽進み寄って。樊於期が頭を皇帝の。
       上覧に供え立ち退けば
ワキヅレ 「帝は笑める御気色。御心も解けて見え給う
ワキ  詞「その時荊軻進み寄って。燕の指図の箱を開き。
       上覧に供え立ち退けば
シテ  詞「不思議やな箱の底に剣のかげ。氷の如く見えければ。
       既に立ち去り給わんとす
地     「荊軻ハ期したる事なれば。御衣の袖にむんずと縋って。剱を御胸にさし当て奉りけり
ツレ    「浅ましや聖人人にまみえずとハ。今この時にてありけるぞや。あら浅ましの御事やな
シテ  詞「いかに荊軻。秦舞陽も確かに聞け。我三千人の妃を持つ。
       その中に花陽夫人とて琴の上手あり。されば毎日怠る事なし。
       然れども今日ハ汝が参内に依り。未だ琴の音を聞かず。
       殊更今ハ最期なれば。片時の暇をくれよ。かの琴の音を聞いて。
       黄泉の道をも免れうずると思はハ如何に
ワキ  詞「さて秦舞陽何とあるべきぞ
ワキツレ詞「これ程まで手込め申す上は。片時の御暇ならば参らせられ候え
ワキ  詞「さらば片時の御暇を参らせうずるにて候
シテ  詞「いかに花陽夫人。急ぎ秘曲を奏し給え
ツレ    「さらば秘曲を奏すべし。もとより妙なる琴の音に。飛ぶ鳥も地に落ち武士も。
       和らぐほどの秘曲なれば。ましたや今はの玉の緒琴。さこそは御手もつくされけめ
地    「花の春の琴曲は花風楽に柳花苑柳の鶯は同じ曲を囀り。
      月の前の調めは夜寒を告げる 秋風。雲居に渡れるかりがね琴柱に落つる。
      声々も涙の露の玉章。たまさかにたまさかに。人はよもしら糸の。
      調めを改めて。君聞けや君聞けや。七尺の屏風は。躍らば越えつべし。
      羅穀の袂をも引かばなどかきれざらん。謀臣は有無に酔えり群臣は。
      聖人の御助けと。押し返し押し返し。
      二三遍の琴の音を君はきこし召さるれども荊軻ハ聞き知らで唯緩々と。
      侵されて。眼れるが如くなり。時移り時移ると秘曲度々重なれば
シテ   「荊軻が控えたる
地    「御衣の袖を引き切って。屏風を踊り越え。
       電光の激しるよそおい霰の白玉盤に落ちて欄干を走る心地して。
       銅の御柱に立ちかくれ給えしかば
ワキ   「荊軻は怒りをなして
地    「剣を帝に投げ連れば剣は柱にとどまりけり
シテ   「帝また剣を抜いて
地    「帝また剣を抜いて。荊軻をも秦舞陽をも。八ゆざきにさき給ひ忽ちに失いおわしまし。
       その後燕丹太子をも。程なく亡し秦の御代万歳を保ち給う事唯これ后の琴の秘曲。
       ありがたかりけるためしかな

(以下略)

■小 謡
(上歌)『登れば玉の階の。登れば玉の階の金銀を磨きて輝けり。ただ日月の影を踏み蒼天を渡る心地して。おのおの肝を消すとかやおのおの肝を消すとかや』


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