六 浦(むつら)

●あらすじ
都の僧が東国行脚の途中、相模国(神奈川県)六浦の称名寺に立ち寄ると、折りしも山々の木々が今を盛りと紅葉しているのに、この寺の一本の楓だけが少しも紅葉していないので、不審を思ってみていると、ひとりの里の女が現れます。女は、昔、鎌倉中納言為相卿がこの寺に来た時、この木だけが山々に先立って紅葉しているのを見て、和歌を一首詠じたところ、この木は喜び、功成り名を遂げた上は身を退くのが天の道と信じて、それ以来常緑樹のようになったのです、実は私は楓の精であると言って秋草の中に消え失せます。 その夜、僧がここで過ごしていると、楓の精が現れて、草木も成仏できる仏徳を称えて舞をまいますが、明け方になると影の如く消えてしまいました。

●宝生流謡本    外五巻の三   三番目    (太鼓あり)
       季節=秋   場所=相模国六浦
       素謡(宝生) : 稽古順=入門   素謡時間35分 
       素謡座席順   シテ=前・里 女 後・楓の精     
                  ワキ=旅 僧
(参考) 草木の精関係謡曲 = 杜若・東北・西行桜・遊行柳・藤・芭蕉・西王母・六浦 

●観能記         精霊の舞…「六浦」      
2007.09.24 川越能楽堂
地方大都市の駅前はあんまりにも賑やかすぎる。 チラシにあった平面図では右も左もわからない。広場の隅にあった交番へ迷わず飛び込む。ヨドバシカメラの前を通ってセブンイレブンの角を曲がると小さな緑地公園があった。九月とはいえまだまだあたりは蝉しぐれの中。相当に古い鉄筋コンクリート作りの建物の中にこじんまり以上ちいさなちいさな能楽堂があった。
お能だけではなく、他の活動にも使われるとみえて目付柱は半分だけで屋根はなく吹き抜けである。天井からライトが吊り下がっている。照明はごく明るく舞台は低い。橋がかりも短い。見所の小ささは聞いていた以上で正面など五列しかなくシテの面と目の高さが同じ線上だった。品川からノンストップで十五分川越は相模の国。
舞われたのは「六浦」この地ゆかりの曲である。諸国行脚の僧が二人の従僧を連れて登場白州の部分も狭いので目の前でワキが名告りを。相模の国、称名寺に着いた僧は一面の紅葉のなか一本だけ青々としている樹をみて不審に思った。そこへ現れた里の女は「昔、貴人に褒められた楓の木は“功成り名遂げた後は身退かん”とそれからは秋になっても紅くならなかったのです」と語る。
そして、「夜になったら真の姿を現しましょう。どうぞ目を覚ましていてくださいませ」と言って消える。その夜、読経する僧たちの前に楓の精が…。前シテは可愛い里女。小面なのだろうか、あどけない感じがする。沈んだ銀と橙に染め分けられた小袖を着けている。模様はいちめんの秋の草づくし。

● 解 説
この能の曲名「六浦」は横浜市金沢区にある地名です。あまり聞き慣れませんが、当時は都の人も知る地名だったのでしょう。対岸の安房に渡る港があったのでしょうか。都の僧が東国、陸奥行脚の途次、海路で安房の清澄寺へ渡らうと船待ち していますと、あたりに由緒ありげな寺があります。聞くと金沢の称名寺といいます。立ち寄って見物することにします。おりしも晩秋。あたりの山は全山紅葉の真っ盛りです。寺の庭に、ひときは立派な楓の木があります。
不思議にも一葉も紅葉せず青々としています。折りよく里の女が来合わせ僧に、楓の木の不思議の話をします。

□この能のシテは、楓の精を擬人化した若い女性です。人間の愛憎、 心の葛藤を離れた、観る人の心の負担のない清澄な曲です。 この能を観ながら、時には舞台の流れを離れて、今まで旅先などで見た山や川や湖、草や木のありさまを思い出し、更に空想の中に遊ぶのもいいでしょう。能は場面を限定、固定せず自由です。この能には観る人の空想をかき立てるもう一つの要因があります。この類の曲のシテは、華やかな装束をつけて舞うのが常ですが、この曲は紅葉しない楓の精で、後場に「更け行く月の夜遊をなし、色なき袖を返さまし」と舞の「かかり」にあるように、無紅(いろなし、赤い色を控えたの意)の装束をつけて舞います。若い女性に無紅の装束が興味をひきます。時を重ね、代を重ねて磨かれた審美眼、センスの所産の装束、これもみどころの一つです。草木の精は人間の自然に対する想いの凝縮、人の心のやさしさの発露でしょうから時には俗世を離れ、もとの人間に立ち帰る「時」を持つことも大切かもしれません。

□ 本曲の出典とされる「いかにしてこの一本に時雨けん山に先だつ庭のもみじ葉」の歌の詠み人、藤原為相は藤原定家の孫で、俊成は曾祖父です。母は「十六夜日記」の作者、阿仏尼という類希な家に生まれました。為相の領地相続訴訟のため母、阿仏尼が鎌倉に下った時母をしたって鎌倉に下り、鎌倉の歌壇を指導するなど主に鎌倉で活躍しました。家集に「藤谷集」があり「いかにしてこの一本に時雨けん」の歌がおさめられています。この歌は、題しらずとなっているので、称名寺の楓を詠んだ歌ではないということです。「藤谷」とは鎌倉の異称だそうです。為相はのちに冷泉家の祖となり冷泉為相と呼ばれました。

□ 本曲の舞台、称名寺は横浜市金沢区にある眞言律宗の寺で、 一二六七年北条時実の建立です。
鎌倉幕府以降足利氏、小田原北条氏の庇護を受け江戸時代には百石の朱印寺として栄えたといいます。現在でも国宝数点、重文三十数点を持つ名刹です。境内には、これも北条時実が創設した「金沢文庫」があります。時実以降四代にわたって収集された仏典、国書、漢籍は数万巻に及び当時の僧侶、武士に利用された私設公開図書館だったといいます。「徒然草」の吉田兼好も京から遊学したと伝えられています。その後、上杉憲実、豊臣秀吉、徳川家康らに持ち出され、散逸しましたが昭和期に入り序々に集められ、和漢の珍書、二万三千、古文書四千通に及ぶそうです。

□ このあたりは古くからの景勝の地で、現在でも「金沢八景」の名が残っています。この名は明の僧、心越禅師が能見堂からの景観を詠んだ「武州能見堂八景詩」からの命名だといいます。安藤広重の「武州金沢八景」で更にその名は広がりました。八景の中に称名寺の名鐘「称名寺の晩鐘」があります。金沢八景とは「内川の暮雪、小泉の夜雨、瀬戸の秋月、州崎の春嵐(晴れた日の霞)平潟の落雁、野島の夕照、乙艫の帰帆、称名の晩鐘」。現在は開発が進み、ことに首都圏とて規模も大きく、往時の景色をしのぶべくもありません。

□ 二条派の歌人、尭恵(じょうえ)法印が文明十七年(一四八六年)から翌年にかけて、美濃の群上から越中、越後、草津、佐野を経て鎌倉に至る紀行「北国紀行」に「金沢に至りて称名寺といえる律の寺(眞言律宗)あり。昔、為相の卿、「いかにして此一本に時雨れけん山に先立つ庭のもみじ葉」と侍りしより後は、此木 青葉にて玄冬まで侍る由聞ゆる楓樹、朽ち残りて仏殿の軒に侍り。
「先立たばこの一本も残らじとかたみの時雨青葉にぞ降る。」とあります。尭恵が為相を偲んで歌を詠んだことは本曲のワキとよく似た話です。文明十八年の早春のことであったようです。落葉樹の楓の葉、時雨は、常人に非ざる歌人なればとすべきでしょうか。 

□能「六浦」ゆかりの地といえば、横浜市金沢区の称名寺です。京浜急行の金沢文庫駅から歩いて10分強のところにあります。付近に六浦という地名があり、現在では「むつうら」と読みます。

平成16年7月16日 あさかのユーユークラブ 謡曲研究会


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