砧 (きぬた)

●あらすじ
遠く都へ行ったまま帰らぬ夫を待ちわびて、砧を打ちながらわずかに心をなぐさめる妻。ついに心乱れて死した後、帰国した夫は妻の霊を慰めるが、妻は亡霊となって三途の川から浮かび上がり、地獄の苦患をみせる。 (社団法人 能楽協会より)

●宝生流謡本     外三巻の三   三番目  (太鼓あり)
   季節=秋    場所=筑前国芦屋(福岡県)  作者=世阿弥(室町時代)
   素謡(宝生)  : 稽古順=奥伝  素謡時間=70分
   素謡座席順   ツレ=侍女夕霧
             シテ=前・芦屋某の妻 後・妻の霊
             ワキ=芦屋某

● 砧 (能)                        
(出典: フリー百科事典より)
砧(きぬた)は、世阿弥作といわれる能楽作品。成立は室町時代。『申楽談儀』に曲名が出ており『糺河原勧進猿楽記』には音阿弥による上演記録がある。夫の留守宅を守る妻の悲しみが描かれており、詞章、節づけともに晩秋のものがなしさを表現して、古来人々に好まれてきた能である。 なお、「砧」とは木槌で衣の生地を打ってやわらかくしたり、つやをだしたりする道具のこと。この作品では、女主人公が砧を打つことが情念の表現になっている。
秋の扇とともに、砧という「モノ」は、忘れられた女性の寂しさと、忘れ去った者に対する恨みを表徴する。この作品はその表徴を早い時期にだしてきたもので、後年、箏曲「砧」などに発展してゆく。また俳句の秋の季語としても、「砧」「砧打つ」などがもちいられる。これは直接には砧という道具、あるいは砧を打つ行為であるが、その背後にこの能の情趣が当然に想起されるものとして使用される。 作品構成は、通常「複式夢幻能」では、まずいわくありげな人物が登場し、前段のおわりでそれが亡霊であったことが判明、後段でさきほどの人物が、生前をおもいおこさせるような姿になってでてくる。砧はそれらとは異なり、冒頭の登場時点では生きている女主人公が、前段のおわりで亡くなってしまい、後半で亡霊になってあらわれるという構成をとる。生きた人間のドラマをあつかう「現在能」と、「複式夢幻能」を複合したような形式である。
都にいる芦屋何某が、侍女夕霧をよんで「訴訟のため都にいるが、こちらにきてすでに三年もたってしまった。ずいぶん長い間故郷を留守にしている。この年末には筑前芦屋に帰るから、さきにかえって妻にそのことを伝えてきなさい。」と命じる。夕霧はその命をうけて九州へ旅立つ。筑前の国芦屋の里につき、何某の邸で案内を請うと、橋懸(はしがかり)から、何某の妻が登場する。妻は、夕霧なら人をとおして案内を請う必要はない。こちらへきなさいと招き入れる。そして長年音信のなかった恨みをうったえる。夕霧は帰ってきたかったのだが、宮仕えでひまがなくて心外にも三年間都に滞在したと述べる。妻は、人目も草も枯れ果てた田舎暮らしのつらさを訴え、地謡(コーラス)がその妻の心を「思い出だけが残り、昔のことはあとかたもなく変わってしまったのだ。人の世に偽りというものがなければ、言葉というのは嬉しいものだが、すぐ帰るという夫の言葉を頼りに待つ私の心はおろかな心だ。」と謡う。
 そこに、砧を打つ音がきこえてくる(舞台では鼓での演奏)。妻が「なんの音でしょう」と問うと、夕霧は「里人が砧を打つ音です。」と答える。妻は「昔、中国の蘇武という人が、異民族の国におきざりにされたとき、古里の妻子は夫のいるところの夜の寒さを案じて、高楼にのぼって砧を打ったといいます。万里をはなれてその音が蘇武の耳にとどいたそうです。それは妻子の志がしっかりしていたからです。わたしも、さみしい気持ちを砧に託して心をおちつかせましょう。」と言う。夕霧は「砧などというものは身分の低いものが打つものですが、お心がなぐさむのでしたら、私が用意しましょう。」と、後見がもちだしてきた砧の作り物の前に座り、両人「思ひを述ぶる便りとぞ、恨みの砧、打つとかや」と謡いつつ、砧を打つ。 砧を打つにしたがって、妻の感情がたかまっていき、地謡も参加して詩情深い詞章とともに、妻が舞いはじめる。 「西より来る秋の風の吹き送れと間遠の衣打たうよ (いまは秋、飽きられた女のところから、遠い都に、西風をおくれとばかり、砧をうとう)」 「わが心かよひて人に見ゆるならば、その夢を破るな破れてのちはこの衣、たれかきても問ふべき (私の心が夫のもとに通じて、夫が夢をみるなら、夢よやぶれないでくれ、破れたならこののちは、この衣をだれが着るだろう)」 「夜嵐 悲しみの声、蟲の音、まじりておつる露涙、ほろほろはらはらはらと いづれ砧の音やらん (夜の嵐、悲しみの声、蟲のなく声、それらがまじりあって落ちる涙 ほろほろはらはら どれが涙の音か、砧の音か…)」 舞いながら悲しみが最高潮に達したとき、侍女夕霧が立ち上がり、伝言をきいてきた体(てい)で、「なんといえばよいでしょう。いま都からこの年の暮れにもお帰りにならないと知らせがまいりました。」と伝える。シテは「ああせめて年の暮れにはと、自分の苦しい心をいつわってまっていたのに、あの方はもうほんとうに心変わりしてしまわれた。」といい、病の床にふせって、やがて息たえてしまう。

● 間狂言 【登場人物】 アイ 芦屋の何某の家来
芦屋何某の家来が登場。口上を述べる。「芦屋の何某殿は、訴訟で都にのぼられ三年になる。故郷のことが心配でも帰ることがおできにならない。そこで夕霧という侍女をつかわし、この年末には必ず帰ると伝えさせたので、奥様もおよろこびになった。待ちかねておられる心を少しでもなぐさめようと、里の女たちが打つ砧を夕霧とふたりで打っておいでであった。そうして元気づけていたのだが、都からこの暮にも帰れなくなったというお知らせがとどき、女心のはかなさ、さては夫は心変わりしたかと、まともでないようなこともおおせられ、ついになくなってしまわれた。それを聞かれて都の殿は、さっそくお帰りになり、お嘆きは大きかったが、返らぬことなので、奥様がいまわの際までうっていた砧をたむけられ、お弔いなさる。みなみなご弔問に参れ。」そういいひろめて、退場する。
芦屋の何某が太刀持とともに登場「ああかわいそうなことだった。三年すぎてしまったことをうらんで、ついに永遠のわかれとなってしまったではないか。梓弓を鳴らして死んだ人の言葉をきこう。」と合掌すると、橋懸から妻の亡霊が登場する。このとき亡霊(後シテ)は、泥眼という面をかけ、白い装束をまとい、杖をもった憔悴した姿である。「三途の川にしずんでしまったはかない身」と謡いだし「邪淫の業がふかいのか、安んじて待つことをしなかった罪で、うてやうてやと報いの砧 と地獄でむちうたれております。ああ、生前の妄執がうらめしい。」と訴える。地謡は「責められて叫んでも声はでず、砧の音もきこえず、呵責の声のみがきこえる。」と因果の妄執のおそろしさを謡う。 妻の亡霊は呵責の声に耳をふさぎ、「恨みは葛の葉の」と舞いはじめる。「執心のさまをおみせするのもはずかしい。愛するあなたと二世をちぎってもなおたりず、千代先までもと願ったのに、それを無になさったそらごと、それが人の心でしょうか。」と夫につめよる。「烏(カラス)などという大うそをつく鳥もこれほどのうそはつかないはず。草木、鳥獣でも心はあるでしょう。蘇武という人は雁に手紙をつけて万里をへだてた古里に送ったそうです。愛する心が深かったからでしょう。あなたはどうでしょう。夜寒の砧をうったのに、うつつにも夢にも、思い出してくれたでしょうか。恨めしいこと。」とさめざめと泣く。夫が合掌すると、妄執がはれ、シテは晴れやかに舞う。地謡によって「法華読誦の力にて、幽霊まさに成仏の道明らかになり(中略)打ちし砧の声のうち、開くる法の華心、菩提の種となりにけり (法華経の力で成仏の道が明らかになった。砧をうつ声のなかで法華経の華が開いたのだ。それが菩提の種となったのだ)」と謡われ、シテが成仏したところで能は終わる。

(平成24年3月16日 あさかのユーユークラブ 謡曲研究会)


                         (きぬた)

         季 秋      所 筑前国蘆屋     素謡時間 70分
  【分類】三番目
  【作者】世阿弥元清   典拠:不明
  【登場人物】前シテ:芦屋某の妻、後シテ:妻の幽霊 ツレ:侍女夕霧 ワキ:芦屋某

         詞 章                  (胡山文庫)

ワキ    詞 「これは九州芦屋の何某にて候。われ自訴の事あるにより在京仕りて候。
         かりそめの在京と存じ候へども。当年三とせになりて候。
         余りに故郷の事心もとなく候ふ程に。召使ひ候ふ夕霧と申す女を下さばやと思ひ候。
         いかに夕霧。余りに古里心もとなく候ふ程に。おことを下し候ふべし。
         今年の暮には必ず下るべき由心得て申し候へ。
ツレ    詞 「さらばやがて下り候ふべし。必ず今年の暮には御下りあらうずるにて候。
    道行上 此程の 旅の衣の日も添ひて。/\。幾夕暮の宿ならん夢も数そふ仮枕。
         明し暮して程もなく。芦屋の里に着きにけり。/\。
      詞 「あら憂いや急ぎ候ふ程に。芦屋の里に着きて候。まずまず案内を申さうずるにて候。
         いかに誰か御入り候。都より夕霧が参りたるよしそれそれ御申し候へ。
シテ  サシ上 それ鴛鴦の衾の下には。立ち去る思を悲しみ。比目の枕の上には波を隔つる愁あり。
         ましてや深き妹脊の中。同じ世をだに忍ぶ草。われは忘れぬ音を泣きて。
         袖に余れる涙の雨の。晴間稀なる心かな。
ツレ     詞 「いかに申し候。夕霧が参りて候。
シテ    詞 「何夕霧と申すか。恨めしながらめづらしや、人こそかわり果て給うとも。
         風の行方の便にも。などや音信なかりけるぞ。
ツレ    上 さん候とくにも参りたくは候ひつれども。御宮づかひの隙もなくて。
         心より外に三年まで。都にこそは候ひしか。
シテ    上 何都住まひを心の外とや。思ひやれげには都の花盛。
         慰多きをり/\にだに。憂きは心の習ぞかし。
地     下 鄙の住まひに秋の暮。人目も草も枯れ%\の。
         契も絶えはてぬ何を頼まん身のゆくへ。

   ( 小謡 三とせの秋の ヨリ  頼のみかな マデ )

      上 三とせの秋の夢ならば。/\。憂きはそのまゝ覚めもせで。
         おもひでは身に残り昔は変り跡もなし。げにや偽の。
         なき世なりせばいかばかり。人の言の葉嬉しからん。
         愚の心やな愚なりける頼のみかな。
シテ    詞 「あら不思議や。あなたに当つて物音の聞え候。あれは何にて候ふぞ。
ツレ     詞 「さん候あれは里人の砧打つ音にて候。
シテ    詞 「げにや我が身の憂きまゝに。たとうまじき事まで思ひ出でられ候ふぞや。
         唐土に蘇武といひし者。胡国とやらんに移されしに。
         古里に留め置きし妻や子の。高楼に登つて砧をうつ。志の末通りけるか。
         万里の外なる蘇武が旅寝に。古里の砧聞えしとなり。
      下 わらはも思や慰むと。とても寂しき呉服あやの衣を砧にうちて。
     下二 心を慰まばやと思ひ候。
ツレ    詞 「仰せはさる事なれども。砧などと申すものは。
         賎しき者の業にてこそ候へさりながら。御心慰めんためにて候はゞ。
         砧を用意して参らせ候ふべし。
シテ カカル上 いざ/\砧うたんとて。馴れて臥ゐの床の上。
ツレ    上 涙かたしくさむろうに。
シテ    上 思をのぶる便ぞと。
ツレ    上 夕霧立ちより主従ともに。
シテ    上 怨の砧うつとかや。
地   次第上 衣に落つる松の声。衣に落ちて松の声夜寒を風や知らすらん。
シテ     上 音信の。稀なる中の秋風に。
地      上 憂きを知らする。夕かな。
シテ     上 遠里人も眺むらん。
地      上 誰が世と月は。よも問はじ。
シテ  サシ上 面白のをりからや。頃しも秋の夕つ方。
シテツレ  上 牡鹿の声も心凄く。見ぬ山里を送り来て。梢はいづれ一葉散る。
         空すまじき月影の軒の忍にうつろひて。露の玉簾かゝる身の。
         思をのぶる。夜すがらかな。

   ( 囃子 宮漏高く立ちて ヨリ  砧の音やらん マデ )

シテ    上 宮漏高く立ちて。風北にめぐり。隣砧緩く。急にして。月西に流る。

   ( 独吟 蘇武が旅寝は ヨリ  砧の音やらん マデ )

地     下 蘇武が旅寝は北の国。これは東の空なれば。西より来る秋の風の。
         吹き送れとどほの。衣うたうよ。

   ( 仕舞 古里の 軒端の松も ヨリ  砧の音やらん マデ )

      上 古里の 軒端の松も心せよ。/\。おのが枝々に。嵐の音を残すなよ。
         今の砧の声添へて君がそなたに。吹けや風。余りに吹きて松風よ。
         我が心通ひて人に見ゆならば。
         その夢を破るな破れて後は此衣たれか来ても訪ふべき。
         来て訪ふならばいつまでも。衣は裁ちもかへなん夏衣。薄き契はいまはしや。
         君が命は長き夜の。月にはとても寝られぬにいざいざ。衣うたうよ。

   ( 仕舞 彼の七夕の ヨリ  砧の音やらん マデ )

         彼の七夕の契には。一夜ばかりの狩衣。天の河波立ち隔て。
         逢瀬かひなき浮舟の。梶の葉もろき露涙。二つの袖やしをるらん。
         水蔭草ならば。波うち寄せようたかた。
シテ    上 文月七日の暁や。
地     上 八月九月。げに正に長き夜。千声万声の憂きを人に知らせばや。
         月の色。風の気色。影に置く霜までも。心凄きをりふしに。
         砧の音。夜嵐悲の声虫の音。交りて落つる露涙。ほろ/\はら/\はらと。
         いづれ砧の音やらん。
ツレ    詞「いかに申し候。都より人の参りて候ふが。此年の暮にも御下あるまじきにて候。
シテ    下 怨めしやせめては年の暮をこそ。偽ながらも待ちつるに。
         さては早真に変り果て給ふぞや。
地     下 思はじと思ふ心も弱るかな。
       上 声も枯野の虫の音の。乱るゝ草の花心。風狂じたる心地して。
         病の床に伏し沈み。遂に空しくなりにけり/\。
                 中入
ワキ    詞「無慙やなさしも契り詞つまごとの。引きわかれにし妻琴の。
        つひの別れとなりけるぞや。

   ( 囃子 先立たぬ悔の ヨリ  種となりにけり マデ )

    待謡上 先立たぬ悔の八千度百夜草。悔の八千度百夜草の。
         蔭よりも二度帰りくる道と聞くからに。梓の弓のうら弭に。
         ことばをかはすあはれさよ/\。
後シテ 出端下 三瀬川沈み。果てにし。うたかたの。哀はかなき身の行くへかな。
       上 標梅花の光を並べ。娑婆の春をあらはし。跡のしるべの燈火は真如の秋の。
         月を見する。さりながらわれは邪婬の業深き。思の煙の立居だに。
         やすからざりし報の罪の。乱るゝ心のいとせめて。獄卒阿防羅刹の。
         笞の数の隙もなく。うてや/\と。報の砧。怨めしかりける。因果の妄執。
地     下 因果の妄執の思の涙。砧にかゝれば。涙はかへつて。火焔となつて。
         胸の煙の焔にむせべば。叫べど声が出でばこそ。砧も音なく。
         松風も聞えず。呵責の声のみ。恐ろしや。

   ( 独吟・仕舞 羊のあゆみ隙の駒 ヨリ  種となりにけり マデ )

      上 羊のあゆみ隙の駒。/\。うつりゆくなる六つの道。
         因果の小車の火宅の門を出でざれば。
         廻り廻れども生死の海は離るまじやあぢきなの憂世や。
シテ    下 怨は葛の葉の。
地     下 怨は葛の葉の。かへりかねて。執心の面影の。はづかしや思ひ夫の。
         二世と契りてもなほ。末の松山千代までと。かけし頼はあだ波の。
         あらよしなや空言やそもかゝる人の心か。
       上 烏てふ。おほをそ鳥も心して。うつし人とは誰かいふ。草木も時を知り。
         鳥獣も心あるや。げにまことたとへつる蘇武は旅雁に文をつけ。
         万里の南国に至りしも。契の深き志。浅からざりしゆゑぞかし。
         君いかなれば旅枕夜寒の衣うつゝとも。夢ともせめてなど思ひ知らずや怨めしや。
    キリ下 法華読誦の力にて。/\。幽霊まさに成仏の。道明かになりにけり。
         これも思へばかりそめに。うちし砧の声のうち。
         開くる法の華心。菩提の種となりにけり/\。


あさかのユーユークラブindexページに戻る

郡山の宝生流謡会のページに戻る

このページのトップに戻る

謡曲名寄せに戻る