吉野静 (よしのしずか)

●あらすじ
梶原景時の讒言によって兄頼朝の勘気を蒙ってしまった源義経は、大和国吉野山に暫く身を隠していましたが、吉野山の衆徒の心変わりから山を落ち延びることになりました。一人防ぎ矢を仰せつかった佐藤忠信は、山中で偶然に静御前とめぐり会い、二人で吉野山の衆徒を欺いて義経を落ち延びさせようと相談をします。 忠信は都道者(みやこどうしゃ)の姿に化して大講堂での衆徒の詮議の様子を窺い、衆徒の中へ分け入って頼朝・義経の和解の噂や義経の武勇などを語って義経追撃の鉾先を鈍らせます。 そこに静が忠信との打合せ通り舞装束で現れ、法楽の舞を舞い、なお義経の忠心や武勇を語ります。衆徒は、義経の武勇を恐れるとともに静の舞のあまりの面白さに時を移し、ついに一人として義経を追う者はなく、義経は無事に落ち延びることができたのでした。
                           (「宝生の能」平成13年 2月号より)
●宝生流謡本     外二巻の三      三番目  (太鼓なし)
   季節=春  場所=大和国吉野山(奈良県)  作者=
   素謡(宝生)  : 稽古順=平物  素謡時間=22分
   素謡座席順   シテ=静
             ワキ=佐藤忠信

●謡蹟めぐり                奈良県吉野町 勝手神社 (平19・7記)
本曲の舞台は勝手神社である。神社の案内板には次のように記されている。「文治元年(1185)の暮れ、源義経と雪の吉野山で涙ながらに別れた静御前は、従者の雑色男に金銀を奪われ、山中をさ迷っているところを追手に捕えられて、この社殿の前で雅びた姿で法楽の舞をまい、居並ぶ荒法師たちを感嘆させたという話が伝えられています。・・ 」
 社前の庭には静が舞ったところという「義経公静旧蹟・舞塚」の石碑が立っている。また近くには折口信夫先生の歌碑も立っており、「吉野山さくらさく日にもうで来てかなしむ心人しらめやも」と刻まれている。
京都市 静御前関係謡蹟   (平19・7記)
静御前の古蹟も全国に多数あるようであるが、私の訪ねたところのみ順序不同に紹介のこととする。 静御前の供養塔 京都市左京区浄土寺石橋町 白沙村荘内母は磯の禅尼であるが、ここが静御前の出身地と伝えられ、その供養塔が建っている。 静御前の供養塔  京都市 
鎌倉市 鶴岡八幡宮 舞殿、若宮  (平7.12 記) 
義経と別れた静御前は捕らえられて鎌倉に送られ、頼朝、政子の命令で鶴岡八幡宮で舞を舞うこととなる。  「賎や賎しずのおだまきくりかえし 昔を今になすよしもがな」
      「吉野山峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
と歌い舞ったため頼朝の逆鱗に触れた。静が舞ったのは八幡宮の舞殿と言われるが、本当はその後方の若宮に当時あった舞台とも言われている。
前橋市  静の墓   (平7.3 記)
静が義経を慕って奥州へ下る途中、前橋市岩神の観民稲荷のあたりで没した。この近くに静の墓がある。また、同じ前橋市芳町の養行寺にも静の墓がある。 前橋市岩神 観民稲荷近くの養行寺 

郡山市静町  静御前堂    (平12.4記)
静は義経を慕って乳女と小六を供にしてこの地までたどり着いたが、小六には先立たれ、義経はすでに平泉に立ったと聞き、途方にくれついに乳女とともに池に身を投じたと伝えられる。かつぎを捨てた所が「かつぎ沼」、身を投じた池が「美女池」であるという。静御前堂は里人が静の短い命をあわれみ、その霊を祀ったものと言い、近くには「乳女碑」「小六碑」も建てられ、その経緯が刻まれている。         静御前堂 乳女碑・小六碑   美女池  

●静御前
生没年不詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。白拍子(遊女)。母は白拍子の磯禅師。源義経の愛妾。『吾妻鏡』によれば、源平合戦後、兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちて九州へ向かう際に同行するが、義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻される。吉野で義経と別れ京へ戻るが、途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。静は、「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。 この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は女の子なら助けるが、男の子なら殺すと命じる。閏7月29日、静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師が赤子を取り上げて清恒に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。 9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。静のその後は不明。

●佐藤忠信
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 応保元年(1161年)? 死没 文治2年9月22日(1186年11月4日)
別名 四郎(仮名)、四郎兵衛尉   墓所 福島県福島市飯坂町 医王寺
官位 左兵衛尉、従六位下   主君 藤原秀衡、源義経
氏族 秀郷流佐藤氏   父母 父:佐藤基治または藤原忠継   兄弟 継信、忠信

佐藤 忠信(さとう ただのぶ)は、平安時代末期の武将で、源義経の家臣。『源平盛衰記』では義経四天王の1人。佐藤継信の弟。父は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治、もしくは藤原忠継。 治承4年(1180年)奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により兄・継信と共に義経に随行。義経の郎党として平家追討軍に加わった。兄・継信は屋島の戦いで討死している。
元暦2年(1185年)4月15日壇ノ浦の合戦後、義経が許可を得ずに官職を得て頼朝の怒りを買った際、忠信も共に兵衛尉に任官しており、頼朝から「秀衡の郎党が衛府に任ぜられるなど過去に例が無い。身の程を知ったらよかろう。その気になっているのは猫(もしくは狢、狸?)にも落ちる。」と罵られている。
文治元年(1185年)10月17日 義経と頼朝が対立し、京都の義経の屋敷に頼朝からの刺客である土佐坊昌俊が差し向けられ、義経は屋敷に残った僅かな郎党の中で忠信を伴い、自ら門を飛び出して来て応戦している。
文治元年(1185年)11月3日 都を落ちる義経に同行するが、九州へ向かう船が難破し一行は離散。忠信は宇治の辺りで義経と別れ、都に潜伏する。文治2年(1186年)9月22日、人妻であるかつての恋人に手紙を送った事から、その夫によって鎌倉から派遣されていた御家人の糟屋有季に居所を密告され、潜伏していた中御門東洞院を襲撃される。精兵であった忠信は奮戦するも、多勢に無勢で郎党2人と共に自害して果てた。(『吾妻鏡』より)
『源平盛衰記』によると享年は26。
(佐藤氏の菩提寺である医王寺 の忠信の石塔には享年34とある)

謡曲研究会 平成20年11月21日(金)


宝生流謡曲 「吉野静」

 吉野靜に登場する佐藤忠信は、兄継信と共に源 義経の家臣として忠節を尽くすのですが、両名とも奥州信夫の里(福島県飯坂町)の出身です。佐藤継信・忠信ら佐藤一族の菩提寺は福島県飯坂町医王寺に継信・忠信兄弟のお墓があり、父佐藤基治と母乙和のお墓も現存する。母乙和の墓の脇にある椿の木は兄弟の死を痛み花は咲いても実がならぬと言う。医王寺から父佐藤基治一族等の居城「大鳥城址」が遠望できる。叉兄弟の妻達が母乙和に、息子を失った老母のために嫁達が武将の姿をして慰めたといわれる二人の木像姿が納められている甲冑堂が越河(こすごう)田村神社にある。
 また静(1165年(永万元年) - 1211年(建暦元年))は、平安時代末期・鎌倉時代初期の女性で磯禅師の娘。母の磯禅師は白拍子の祖とされる女性で、静も白拍子となって源義経の愛妾となる。 静は源義経を慕って奥州へ下り安積(郡山市)の地で悲しみのあまり池に身を投じたという伝説がある。
                                               2007/12/10  小原 隆夫記
静御前堂  
奥州落ちした源義経を慕って静がこの地に来ましたが探し会うことができず万策つきてついに「かつぎ」を捨て池に身を投げたと言い伝えられています。「かつぎ」を捨てた所が「かつぎ沼」(大槻町南原地内)、身を投げた池が「美女ケ池」(大槻町太田地内)で現在もこの名の池があります。 静がこの地に没したのを里人があわれに思い、一宇を建てこれを祀りました。なお堂は天明三年(西暦一七八四年)に建てられたもので、釘は一本も使用されておりません。また東下りに際しては、乳母と下僕小六が供をして来ましたが、小六の碑も同所に残っています。小六の碑がある所は、全国静御前堂中でも珍しいと言います。堂の真うしろに古墳時代後期に属する円墳があります。        
(福島県郡山市静町に在る看板の説明書きより抜粋)

 

     吉野静

       三番目(太鼓なし)  外二巻の三 
       シテ 静御前       季 春
        ワキ 佐藤忠信     所 大和国吉野山



ワキ  定めなき世の中々に。定めなき世の中々に憂き事や頼みなるらん。
ワキ  「是は佐藤 忠信にて候。さても我が君 判官殿は。この山に 篭り給ひ候所に。
     叉衆徒の心変り候由 聞し召され。今夜この山を 御開き候間。某に止り防矢仕れとの 
     御事にて。一人この山に止り候。さる間 大講堂において。衆徒の詮議の有る由 承り候程に。
     静御前と 契約し。都道者の 姿となり。詮議を聞かやばやと 存じ候」       
シカシカ
ワキ  「是は都 道者にて候。衆會の御座処とも存ぜず候 御免あらうずるにて候」    
シカシカ
ワキ  「上は 御一体なれば。終には御仲直らせ給ふべき由 申し候」            
シカシカ
ワキ  「十二騎とこそ 承って候へ」                                 
シカシカ
ワキ  「暫く。十二騎と 申すとも。余の勢百騎二百騎にも むかふべし。
     かように申すは 都の者。当山を信じ 参る上は。
     いかにも御寺も 宿坊も。難なく おはしませかしと。
     思へばかやうに 申すなり」    この上はともかくも
地    御はからひの吉野山。御はからひの吉野山。
     よしなき申し事。もれ聞えなば判官も。後の咎めも恐ろしや。お暇申し候はんお暇申し候はん
シテ  さても靜は忠信が。その契約をたがへじと。舞の装束ふき繕い。忠信遅しと待ち居たり。
ワキ  「是は都 道者にて候。静御前の 勝手の御前にて。 新法楽の舞の由 承り。下向道を 忘れて候。
     今少し舞を 御早め候へ」
シテ  何なう都の人と聞けばなつかしや。判官御道狭き事。
     世上の聞こえいかなるぞ。都の人こそ知るべけれ。
ワキ  「終には上は 御一体と。聞くよる都は 先非を悔い」
    皆々恐れ申すなり
シテ  さては嬉しや我が君を。委しく知るか都人
ワキ  「余りに事延び 時移りぬ」
    急がせたまへ舞の袖。
シテ  [げになう言葉多き者は品すくなし。かやうに我等理り過ぎば。
     中々人も怪しめて。もしもそれとか三吉野の。勝手しらすな靜かにはやせや。靜が舞
地   衆徒も憤りを。忘れけり。
シテ  神もや納受ましますらん。
地   げにこの御代も。静が舞
シテ  然るに彼の判官は。神道を重んじ朝家を敬い
地   頗る忠勤を抽んでて私の顧みさらになし
シテ  人讒し申すとも
地   神は正直の頭に宿り給ふなれば
シテ  靜が舞の袂に
地   暫くうつりおわしまし。義経を守り給えと。祈るぞ哀れなりけり
 
クセ そもそも景時が。その讒言のみなかみを。思へば渡辺や。流れる水に満ち潮の。
     逆櫓立てんと浮舟の。梶原が申し事。よも順義にては候はじ。されば義経は。
     直ぐに治めし三吉野の。神の誓いのまことあらば。頼朝も聞し召しなほされ義経。
     しっせきの勅をうけ。洛陽の西南はこれ分国となるべし。
     さあらば当山の衆徒悉く参洛し。帰依渇仰の御袖に。
    恵みをいただき給うべしあなかしこ不忠なし給ふな。御科は候はじ。
シテ  ただし衆徒中に。
地   猶憤り深うして。進みて追っかけ給うとも。その名きこゆる人々を。討ちとどめ申さんは。
     片岡増尾鷲の尾さて。忠信はならびなき。精兵ぞよ人々に。防矢射られ給ふなと。
     語ればげには衆徒中に。進む人こそなかりけれ。賎やしづ。       
中ノ舞
シテ  賎やしづ。賎の苧環。繰り返し。
地   昔を今に。なすよしもがな。
地   大方舞の面白さに。時刻を移して進まぬもありけり。
     叉は判官の武勇に恐れてよし義経をば落し申せと。詮議を加ふる衆徒もありけり。
     さるほどに。時うつって。静も今は忠信が。賢きはかりことに難なく君を落し申しつ。
     心しづかに願成就して都へとてこそ。帰りけれ。


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宝生流謡曲 「吉野静」

 吉野靜に登場する佐藤忠信は、兄継信と共に源 義経の家臣として忠節を尽くすのですが、両名とも奥州信夫の里(福島県飯坂町)の出身です。佐藤継信・忠信ら佐藤一族の菩提寺は福島県飯坂町医王寺に継信・忠信兄弟のお墓があり、父佐藤基治と母乙和のお墓も現存する。母乙和の墓の脇にある椿の木は兄弟の死を痛み花は咲いても実がならぬと言う。医王寺から父佐藤基治一族等の居城「大鳥城址」が遠望できる。叉兄弟の妻達が母乙和に、息子を失った老母のために嫁達が武将の姿をして慰めたといわれる二人の木像姿が納められている甲冑堂が越河(こすごう)田村神社にある。
 また静(1165年(永万元年) - 1211年(建暦元年))は、平安時代末期・鎌倉時代初期の女性で磯禅師の娘。母の磯禅師は白拍子の祖とされる女性で、静も白拍子となって源義経の愛妾となる。 静は源義経を慕って奥州へ下り安積(郡山市)の地で悲しみのあまり池に身を投じたという伝説がある。
                                               2007/12/10  小原 隆夫記
静御前堂  
奥州落ちした源義経を慕って静がこの地に来ましたが探し会うことができず万策つきてついに「かつぎ」を捨て池に身を投げたと言い伝えられています。「かつぎ」を捨てた所が「かつぎ沼」(大槻町南原地内)、身を投げた池が「美女ケ池」(大槻町太田地内)で現在もこの名の池があります。 静がこの地に没したのを里人があわれに思い、一宇を建てこれを祀りました。なお堂は天明三年(西暦一七八四年)に建てられたもので、釘は一本も使用されておりません。また東下りに際しては、乳母と下僕小六が供をして来ましたが、小六の碑も同所に残っています。小六の碑がある所は、全国静御前堂中でも珍しいと言います。堂の真うしろに古墳時代後期に属する円墳があります。        ((福島県郡山市静町に在る看板の説明書きより抜粋)

 

     吉野静              三番目(太鼓なし)  外二巻の三 
                         素謡時間約二十二分

       シテ 静御前       季 春
        ワキ 佐藤忠信     所 大和国吉野山


ワキ  定めなき世の中々に。定めなき世の中々に憂き事や頼みなるらん。
ワキ  「是は佐藤 忠信にて候。さても我が君 判官殿は。この山に 篭り給ひ候所に。
     叉衆徒の心変り候由 聞し召され。今夜この山を 御開き候間。某に止り防矢仕れとの 
     御事にて。一人この山に止り候。さる間 大講堂において。衆徒の詮議の有る由 承り候程に。
     静御前と 契約し。都道者の 姿となり。詮議を聞かやばやと 存じ候」       
シカシカ
ワキ  「是は都 道者にて候。衆會の御座処とも存ぜず候 御免あらうずるにて候」    
シカシカ
ワキ  「上は 御一体なれば。終には御仲直らせ給ふべき由 申し候」            
シカシカ
ワキ  「十二騎とこそ 承って候へ」                                 
シカシカ
ワキ  「暫く。十二騎と 申すとも。余の勢百騎二百騎にも むかふべし。
     かように申すは 都の者。当山を信じ 参る上は。
     いかにも御寺も 宿坊も。難なく おはしませかしと。
     思へばかやうに 申すなり」    この上はともかくも
地   御はからひの吉野山。御はからひの吉野山。
    よしなき申し事。もれ聞えなば判官も。後の咎めも恐ろしや。お暇申し候はんお暇申し候はん
シテ  さても靜は忠信が。その契約をたがへじと。舞の装束ふき繕い。忠信遅しと待ち居たり。
ワキ  「是は都 道者にて候。静御前の 勝手の御前にて。 新法楽の舞の由 承り。下向道を 忘れて候。
     今少し舞を 御早め候へ」
シテ  何なう都の人と聞けばなつかしや。判官御道狭き事。
     世上の聞こえいかなるぞ。都の人こそ知るべけれ。
ワキ  「終には上は 御一体と。聞くよる都は 先非を悔い」
    皆々恐れ申すなり
シテ  さては嬉しや我が君を。委しく知るか都人
ワキ  「余りに事延び 時移りぬ」
    急がせたまへ舞の袖。
シテ げになう言葉多き者は品すくなし。かやうに我等理り過ぎば。
    中々人も怪しめて。もしもそれとか三吉野の。勝手しらすな靜かにはやせや。靜が舞
地   衆徒も憤りを。忘れけり。
シテ  神もや納受ましますらん。
地   げにこの御代も。静が舞
シテ  然るに彼の判官は。神道を重んじ朝家を敬い
地   頗る忠勤を抽んでて私の顧みさらになし
シテ  人讒し申すとも
地   神は正直の頭に宿り給ふなれば
シテ  靜が舞の袂に
地   暫くうつりおわしまし。義経を守り給えと。祈るぞ哀れなりけり
 
クセ そもそも景時が。その讒言のみなかみを。思へば渡辺や。流れる水に満ち潮の。
    逆櫓立てんと浮舟の。梶原が申し事。よも順義にては候はじ。されば義経は。
    直ぐに治めし三吉野の。神の誓いのまことあらば。頼朝も聞し召しなほされ義経。
    しっせきの勅をうけ。洛陽の西南はこれ分国となるべし。
    さあらば当山の衆徒悉く参洛し。帰依渇仰の御袖に。
    恵みをいただき給うべしあなかしこ不忠なし給ふな。御科は候はじ。
シテ  ただし衆徒中に。
地   猶憤り深うして。進みて追っかけ給うとも。その名きこゆる人々を。討ちとどめ申さんは。
    片岡増尾鷲の尾さて。忠信はならびなき。精兵ぞよ人々に。防矢射られ給ふなと。
    語ればげには衆徒中に。進む人こそなかりけれ。賎やしづ。       
中ノ舞
シテ  賎やしづ。賎の苧環。繰り返し。
地   昔を今に。なすよしもがな。
地   大方舞の面白さに。時刻を移して進まぬもありけり。
    叉は判官の武勇に恐れてよし義経をば落し申せと。詮議を加ふる衆徒もありけり。
    さるほどに。時うつって。静も今は忠信が。賢きはかりことに難なく君を落し申しつ。
    心しづかに願成就して都へとてこそ。帰りけれ。



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