百 万(ひゃくまん)

●あえあすじ
能の曲目。四番目物。五流現行曲。狂女物。観阿弥(かんあみ)作と考えられる『嵯峨物狂(さがものぐるい)』を世阿弥(ぜあみ)が改作したもの。実在した百万という曲舞(くせまい)の名手の芸能尽くしに、母子再会のストーリーを重ね合わせた、春の物狂い能。大和(やまと)の男(ワキ)が、西大(さいだい)寺のあたりで拾った少年(子方)を連れて、嵯峨の清凉(せいりょう)寺釈迦(しゃか)堂の大念仏会(え)に出かける。所の者(間(あい)狂言)がおもしろいものを見せようと大念仏を唱えると、百万(シテ)は、リズムのとり方が悪いといいつつ現れ、笹(ささ)を手に音頭をとる。彼女は夫と死別し、ひとり子とは生き別れになったために狂女となっている。百万は、乱れ心ながら子供を恋いつつ身の上を語り、インド、中国、日本と三国伝来の釈迦像の由来を舞い、わが子との再会を祈る。そしてめでたく親子の名のりで終わる。観阿弥は、百万の末流である女曲舞師の乙鶴(おとづる)に学び、その曲舞のリズムを能へ導入した。従来のメロディ本位であった能の音楽に革命をもたらしたことと、謡い、語り、舞うことのできるクセが能の構成の中心に据えられたことの原点として、『百万』は注目される曲目である。
     
Yahoo 百科事典[執筆者:増田正造]より転載

●宝生流謡本     内二十巻の四    四五番目・略脇能  (太鼓あり)
    季節=春     場所=山城国 嵯峨(京都)
    素謡(宝生) : 稽古順=初序   素謡時間=43分
    素謡座席順   子方=百万の子
               シテ=百万
               ワキ=男

●観能記 能「百万」     
2007年 01月 20日国立劇場開場40周年記念国立能楽堂の一月定例公演。
「百万」能・喜多流は、嵯峨野の清涼寺が舞台。後で調べて分かったことだがこの浄土宗の寺には「嵯峨大念仏狂言」と言う年中行事がある。円覚上人が念仏を唱えお釈迦様の法力により生別した母と巡り合うという筋書きのようだ。国宝の本尊は37歳の釈迦を写したインドの仏像を中国・日本とコピーして伝わった(三国伝来)もので内部に絹で作った五臓六腑があるので当時の解剖学的知識が推測できるとか、完成時に仏牙を入れたら血が出たので生きていると言う伝承がある。様式も縄目状の頭髪や同心円状の衣文の形式など、一見して日本の通例の仏像と異なり清涼寺式釈迦像という由。能を観ると勉強になります。はなから脱線したがこの「百万」、13世紀の終わり頃始められた狂言が元になっていると思う。子供と生別して”物狂い”の女・百万(シテ・友枝昭世)が大念仏の日に念仏の音頭をとり舞い踊る。人の世は重い荷物を乗せた車を引くようなものだと嘆き、子を恋焦がれ、一心に阿弥陀仏を念じる。来し方など振り返りながら舞う内に百万の物狂いの様相は激しさをます。子供(子方・金子龍晟)を連れている都の僧(ワキ・宝生欣哉)がその様に哀れを感じ子供を引き合わすというハッピーエンド。後の一杯ならぬ三四十杯会で聞いたら友枝昭世さんを観ることは大変なんだって。前回の茂山忠三郎、観世清和さんもしかり。落語でいうと最初から志ん生、文楽級の芸に接したことのようだ。誠に持つべきものは先達だ。
昨年暮れに映画「王の男」を観た。朝鮮の古い芸人が王のおもちゃにされる映画。いわば曲芸や風刺、幼稚ともいえる直接的な猥雑さ・・日本の芸能もこういう段階から紆余曲折を経てさまざまなジャンルに変化発展して洗練もされて今の能楽、歌舞伎とか落語などになった。年をまたいでその両方を観たのだ。そして洗練された能・狂言にもいつの世にも人間が持っている哀しさを観た。その哀しさは滑稽さでもあることが感じられた。
by saheizi-inokori | 2007-01-20 12:15 | 能・芝居 | Trackback | Comments 


●解説 百 万
       
 平成19年10月31日作成 金剛流横須賀 美賀和会 和田完一記
1.曲の概要
  五流現行曲 四番目狂女物一場曲 作者 世阿弥 観阿弥作「嵯峨物狂」にクセを付加して改作
      出典 嵯峨大念仏縁起 南都坊目遺考(百万)
 都に住む人ワキが、一人の迷子の少年子方を連れて、嵯峨清涼寺の大念仏に参詣しました。都人は、門前の男アイに、なにか面白い物を見せてくれと願望しました。男は、女物狂 百万を呼びましょうと言い、百万を誘い出そうと、男はわざと調子を外した念仏を唱えました。 そこへ、物狂の女 百万シテがやって来て、そんな下手な念仏ではだめと、持っていた笹で男を打ち、自分が音頭を取ると言って声明を始め、狂態を演じた後、我が子に逢わせ給えと仏前に祈るのでした。
 子方はすぐに、物狂いが自分の母親と判り、都人にその旨伝え、それとなく聞いてくれと頼みました。 都人はさっそく聞き、百万という者で、子に生別れしたので、狂乱の状態になったこと、逢えれば嬉しいと申すのでした。 都人は、すぐに子供を引合せることをしないで、信心していればこの群集の中から廻り逢えるでしょうと慰めるのでした。 狂女は、その言葉に感謝し、この寺の本尊 釈迦如来に祈誓をこめて舞い、夫と死別し、子とも別れた悲しみの内に奈良の都を出たこと、京への道中のこと、嵯峨の風景、寺の縁起を述べつつ舞い狂い、祈るのでした。そして、こんなに多い群集の中にも、我が子は居ないのかと、祈りながら捜し求めるのでした。やがて、都人から子供を引合せられると、もっと早く教えてくれれば恥をさらさないで済んだ物をと愚痴を述べましたが、これも法の力のお蔭であると御仏に感謝し、親子うち連れて故郷へ帰るのでした。 本曲は主人公が舞いの名手だけあって、終始舞続けの芸尽くし曲です。

2.史跡
    五台山 清涼寺(嵯峨釈迦堂) 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
    交通:JR山陰本線 嵯峨嵐山駅下車 徒歩15分  京福電鉄 嵐山駅下車 徒歩25分
    市バス 京都駅から 28大覚寺行 
    または四条烏丸から91大覚寺行「嵯峨釈迦堂」下車徒歩1分 

3.補足説明
  百万は、観阿弥以前に、奈良に居て実在した名望の女曲舞の始祖とされる人でした。彼女の墓とされる五輪塔が奈良 紫雲山家康院 西照寺奈良市今辻子町9にあります。隣の百萬ケ辻子町の親子の屋敷跡にあったものが寺へ移設されたものです。 大念仏供養は、各所で行われていたもので、奈良 西大寺でも行われておりました。百万親子は亡き夫父を弔うために西大寺を参詣しました。寺の四王堂の前は大変な人ごみで、親子は離れ離れになってしまったのでした。その場所は四王堂前の放生池端の柳辺りとされてます。 嵯峨清涼寺に向かったのは、大念仏の人出の中に子を見つかるのではとのことでしょう。大念仏法要は、本曲にもあるように、声高に「南無阿弥陀仏」と念仏唱和するもので、現在も本堂(釈迦堂)で4月第1土曜日・日曜日と第2日曜日に行われています。隣の狂言堂では、国重要無形民族文化財の大念仏狂言も行われ、賑わいます。
 清涼寺は、謡曲「融」の主人公、源融が醍醐天皇の仙洞(嵯峨院)の一部を賜り、別荘「棲霞観せいかかん」を建立し、融の死後寛平7年895遺族が御堂(棲霞寺→阿弥陀堂)を建てたのが、始まりです。醍醐天皇の皇子重明しげあきら親王が亡き妃のために、天慶8年945新堂(本堂)を建立しました。その後、東大寺の僧「然上人ちょうねんしょうにんが、寛和元年985インド・中国を経由した釈迦如来立像を桜材で摸刻して持帰り国宝、本堂(釈迦堂)に安置しました。三国伝来の像と言われる由縁です。この像は、お顔に仏牙ぶっがを入れた時、血が流れたので、生身の仏であることを示しました。近年、釈迦如来胎内から、表面に梵字の書かれた五色の絹で作られた五臓六腑の内臓模型が納められていた事が判明しました。

(平成21年8月14日 あさぁのユーユークラブ 謡曲研究会)


         百  萬 ひゃくまん

         季 春      所 山城国嵯峨
  【分類】四番目物 )
  【作者】世阿弥元清   典拠:不明
  【登場人物】前シテ:狂女、後シテ:百萬 ワキ:男  子方:百萬の子

物語 百萬
大和国・吉野に住む男(ワキ)が、西大寺の辺りで親とはぐれた男子を拾い、嵯峨野・清涼寺へやってきます。春たけなわのこの日、清涼寺では大念仏が行なわれています。群れ集う人の中に一際上手に念仏を唱える者が居りました。この女は百万(シテ)という名で、夫とは死別し、ただ一人の子供とも生き別れてしまい、探し求めていたのです。他念なく信心すれば、きっと子供にめぐり会えると一心に舞を奉納し、祈ります。その心が通じてか、再会を果たし、仏に感謝しつつ奈良の都に帰っていきます。

         詞章                      (胡山文庫)

ワキ  次第上 竹馬にいざやのりの道。竹馬にいざやのりの道。誠の友を尋ねん。
ワキ     詞「これは和州三芳野の者にて候。又これに渡り候ふ幼き人は。
         南都西大寺のあたりにて拾ひ申して候。又此頃は嵯峨の大念仏にて候ふ程に。
         此幼き人をつれ申し。念仏に参らばやと存じ候。
シテ    詞「あら悪の念仏の拍子や候。わらは音頭を取り候。」
シテ    下 南無阿弥陀仏。
地     上 南無阿弥陀仏。
シテ     上 南無阿弥陀仏。
地      上 南無阿弥陀仏。
シテ    上 弥陀頼む。
地     上 人は雨夜の月なれや。雲晴れねども西へゆく。
シテ    上 阿弥陀仏やなまうだと。
地     上 誰かは頼まざる誰か頼まざるべき。

   (小謡 これかや春の カラ  南無阿弥陀仏 マデ )
   (連吟 これかや春の カラ  逢はんためなり マデ )

シテ    上 これかや春の物狂。
地     上 乱心か恋草の。
シテ 
カカル上 力車に七くるま。
地     上 積むとも尽きじ。
シテ    上 重くとも。ひけやえいさらえいさと。
地     上 一度に頼む弥陀の力。頼めやたのめ。南無阿弥陀仏。

   (独吟・仕舞 げにや世々ごとの カラ  逢はんためなり マデ )

地     上 げにや世々ごとの。親子の道にまとはりて。
        親子の道にまとはりて。なほ子の闇を晴れやらぬ。
シテ    下 朧月の薄曇り。
地     上 わづかに住める世になほ三界の首枷かや。
         牛の車のとことはに何くをさして引かるらんえいさらえいさ。
シテ    下 輓けや輓けや此車。
地     上 物見なり物見なり。
シテ    下 げに百萬が姿は。
地     下 本よりながき黒髪を。
シテ    上 荊棘のごとく乱して。
地     上 古りたる烏帽子引きかづき。
シテ    下 又眉根黒き乱墨の。
地     上 うつし心か村烏。
シテ    上 憂かれと人は。訪いもこで。
地     上 思はぬ人を尋ぬれば。
シテ    下 親子のちぎり麻衣。
地     上 肩を結んで裾にさげ。
シテ    上 すそを結びて肩にかくる。
地     上 筵ぎれ。
シテ    上 菅薦(スガゴロモ)の。
地     上 みだれ心ながら南無阿弥陀仏と。信心をいたすも我が子に逢はんためなり。
シテ    下 南無や大聖釈迦如来。我が子に逢はせてたび給え。
子     詞「いかに申すべき事の候。
ワキ    詞「何事にて候ふぞ。
子     詞「これなる物狂いをよく/\見候へば。故郷の母にて御入り候。」
      下 恐れながらよその様にて。問うて給はり候へ。
ワキ    詞「これは思いひもよらぬ事を承り候ふものかな。
         さりながらやがてうて参らせうずるにて候。
         いかにこれなる狂女。おことの国里はいづくの者ぞ。
シテ    詞「これは奈良の都の者にて候。
ワキ    詞「それは何故かやうに狂人とはなりたるぞ。
シテ    詞「夫には死して別れ。只一人ある忘形見のみどり子に生きて離れて候ふ程に。
         思が乱れて候。
ワキ    詞「さて今も子といふ者のあらば嬉しかるべきか。
シテ    詞「これは御言葉とも覚えぬ者かな。それ故にこそ乱髪の。
   
カカル上 遠近人に面をさらすも。もしも我が子に廻りや逢ふと。
        車に法の声立てゝ。我が子に逢はんと祈るなり。
ワキ 
カカル上 げに痛はしき御事かな。
         誠信心私なくはかほど群衆の其中になどかは廻り逢はざらん。
シテ    詞「うれしき人の仰せかな。唯頼み申すも此の御本尊。
       下 忝くも此のお佛も。羅?為長子(ラゴイチョウシ)と説き給へば。
地     上 我が子に鸚鵡の袖なれや。親子鸚鵡の袖なれや。百萬が舞を見給へ。
シテ    上 百や万の舞の袖。我が子の行方。祈るなり。
シテ  
クリ上 げにやおもんみれば。いづくとても住めば宿。
地     上 住まぬ時には故郷もなし。此世はそも何くの程ぞや。

   (囃子 牛羊径街にかへり カラ  百萬が舞を見給へ マデ )

シテ  
サシ上 牛羊径街にかへり。鳥雀枝の深きに集まる。
地     上 げに世の中はあだ浪の。よるべは何く雲水の。
         身の果いかに楢の葉の梢の露の故郷に。
シテ    上 憂き年月を送りしに。
地     上 さしも二世とかけし中の。契の末は花かづら。
         結びもとめぬあだ夢の永き別れとなり果てて。
シテ    上 比目の枕。敷波の。
地     下 あはれはかなき。契かな。
    クセ下 奈良坂の。児の手柏の二面。兎にも角にも侫け人の。なき跡の涙越す。
         袖の柵隙なきに。思い重なる年波の。流るゝ月の影惜しき。
         西の大寺の柳蔭みどり子のゆくへ白露の。
         起き別れていづちとも知らず失せにけり。一方ならぬ思草。
         葉末の露も青によし。奈良の都を立ち出でて。かへり三笠山。
         佐保の川をうち渡りて。山城に井出の里玉水は名のみして。
         影うつす面影浅ましき姿なりけり。かくて月日を送る身の。
         羊の歩み隙の駒。足にまかせて行く程に。都の西と聞えつる。
         嵯峨野の寺に参りつゝ。四方の景色を眺むれば。
シテ    上 花の浮木の亀山や。
地     上 雲に流るゝ大井河。誠に浮世の嵯峨なれや。盛過ぎ行く山桜嵐の風。
         松の尾小倉の里の夕霞。立ちこそ続け小忌の袖。かざしぞ多き花衣。
         貴賎群衆する此寺の法ぞ尊き。かれよりもこれよりも。唯此寺ぞ有難き。
         忝なくもかゝる身に。申すは恐なれども。二仏の中間我等ごときの迷ある。
         道明らめんあるじとて。
         毘首羯磨(ビシュカツマ)が作りし赤栴檀の。尊容やがて神力を現じて。
         天竺震旦我が朝三国に渡り。有難くも此寺に現じ給へり。
シテ    上 安居の御法と申すも。
地     上 御母摩耶夫人の。孝養の御為なれば。仏も御母を。かなしび給ふ道ぞかし。
         況んや人間の身としてなどかは母を悲しまぬと。子を恨み身をかこち。
         感歎してぞ祈りける親子鸚鵡の袖慣れや百萬が舞を見給へ。
シテ    上 あら我が子。
地     上 恋しや。
シテ    下 これほど多き人の中に。などや我が子の無きやらん。あら。
   
カカル下 我が子恋しや。我が子給べなう
地     下 南無釈迦牟尼仏と。狂人ながらも子にもや逢ふと。
         信心はなきを。南無阿弥陀仏。南無釈迦牟尼仏南無阿弥陀仏と。
         心ならずも逆縁ながら。誓に逢はせて。たび給へ。
ワキ 
カカル上 余りに見るもいたはしや。これこそおことの尋ぬる子よ。
         よく/\寄りて見給へとよ。
シテ    上 恨めしやとくにも名乗り給ふならば。かやうに恥をばさらさじものを。
         あら恨めし。とは思へども。
地     下 たま/\逢ふは優曇華の。花待ち得たり夢か現か幻か。
    キリ下 よく/\物を案ずるに。よく/\物を案ずるに。
         かの御本尊はもとよりも。衆生のための父なれば。
         母もろともに廻り逢ふ。法の力ぞ有難き。願も三つの車路を。
         都に帰る嬉しさよ。都に帰る嬉しさよ。


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