高野物狂 (こうやものぐるい)
●あらすじ
常陸の国の平松殿に仕える高師四郎は、主君の遺言を守りその子春満を預って育てていますが、平松殿の一周忌の日に春満が出奔してしまいます。置手紙を読むと、両親を始め祖先の成仏のため出家するという内容です。四郎は、なぜ自分を伴ってくれないのかと悲しみつつ春満の後を慕い当てのない旅に出ます。ここは紀州の高野山です。春満はこの山中に入って修行していましたが、今日は師僧のお供をして三鈷の松に出かけて来ます。一方四郎は若君の文を挟んだ竹を肩に、物狂いの姿で偶然にも同じ場所にやって来ます。僧は、四郎の風体を見て咎めますが、四郎は宗教問答で逆襲して僧を興がらせ、更に様々な舞いをまって見せます。春満はこの物狂いを見ていてこれが四郎であることに気づき、自分は春満であると名乗ります。二人は再会を喜び、四郎も改めて仏に仕える身となります。 (「宝生の能」平成12年4月号より)
●宝生流謡本 内十七巻の四 四番目(太鼓なし)場所=前・常陸国筑波里 後・紀伊国高野山
素謡(宝生)
: 季節=春 稽古順=奥伝 素謡時間=60分
素謡座席順 子方=平松春満
シテ=前後とも高師四郎
ワキ=高野山の僧
●謡蹟めぐり
高野山 三鈷の松
(平2・3高橋春雄氏記)
本年2月、思いきって高野山にのぼり、総本山金剛峯寺に参詣、山中の宿坊に一泊し、「高野物狂」の舞台を訪ねてみた。「三鈷(さんこ)の松」は本曲の中で説明されているとおり、弘法大師が帰国に際して唐土から投げた三鈷が光を発して飛び去り、この松に止まったので、ここを修行の地と定めた、と伝えられている伝説の松である。御影堂の前にある筈と入手した案内図を頼りに歩く。先ず目に入るのが根本大塔である。塔の高さは48メートルもある由で朱塗りの大伽藍に圧倒される。御影堂はこの大塔のすぐ近くにある。もとは弘法大師の住房であったが、後に真如親王筆と伝えられる大師御影が奉安されてから御影堂と呼ばれるようになったとのこと。御影堂の前に格子に囲まれた松があるが、立て札も説明もないので謡曲に興味のない人は見過ごしてしまいそうである。私は近くで車を止めていた僧に聞いて三鈷(さんこ)の松と確認できたので、得意になって家内にそのいわれを説明してやったのだが、「三鈷とはどんなものか」と質問を受けてなかなか明快な返答ができなくて弱った。「坊さんが持っている金具で、三つの爪のようになっていて杖の上のほうにでもつけるのではないか」と、適当に答えたが聞かれてみると全然自信がない。家に戻って調べてみた。「謡曲大観」によると「三叉の金剛杵。金剛杵はもと印度古代の武器で、煩悩を破る菩提心の表象としている。」とある。まだピンとこない。「広辞苑」で「金剛杵」をひいてみる。「もとインドの武器。密教で、煩悩を破砕し、菩提心を表す金属製の法具。修法に用い、細長く手に握れるほどの大きさで、中程がくびれ両端は太く、手杵に似る。両端がとがって分れぬものを独鈷、三叉のものを三鈷、五叉のものを五鈷という。」として絵がついている。また、金剛峯寺で求めた写真集の中にも、この絵と同じようなものが金銅法具として紹介されており、これを見て家内もこんどは納得してくれました。
●高野山
高野山は、およそ1200年前に、弘法大師によって開かれた、真言密教の修行道場であり、全国に広がる高野山真言宗の総本山です。標高およそ900m。山の上の盆地に、壇上伽藍と称する聖地があります。そこには、さまざまなお堂や塔が立ち並び、
仏像や曼陀羅が参拝者を迎えます。また、うっそうと杉の樹の茂る奥の院には、太閤秀吉から太平洋戦争の英霊まで、さまざまな人々のお墓が立ち並んでいます。平成16年7月7日に高野山は「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。高野山には、今も大勢の信者や、四国八十八カ所の霊場を巡ったお遍路さんたちをはじめ世界から大勢の人々が、参詣に来られます。いつの日も、御仏の慈悲の心をこめて、訪ねる人々をやさしく迎える聖地、それが高野山なのです。
高野山へ電車でアクセスは、関西空港から南海線で難波まで約30分。
南海電鉄.難波駅〜高野山駅の間を特急は1日に4往復、急行は約30分毎に1本の間隔運行し、所要時間は特急で1時間40分、急行で約2時間。 和歌山・奈良方面からは、JR和歌山線橋本駅で南海高野線に乗り換え。
南海高野山駅 TEL 0736-56-2305
高野町役場 〒648-0281 和歌山県伊都郡高野町大字高野山636番地 Tel0736-56-3000(代)
●観能記 「高野物狂」――その爽やかさと清々しさ
今月の金沢定例能で演じられた「高野(こうや)物狂」を見て感激しました。「高野物狂」はこんな物語です。常陸の国の住人、高師四郎(たかしのしろう=シテ)が、主君の命日に寺に参詣していると、亡き主君の遺児・春満(しゅんみつ=子方)からの別れの手紙が届きます。そこには、春満が仏門に入る決意をしたことが、親代わりだった四郎への惜別の和歌と共にしたためられています。四郎は主君から託された春満がいずくとも知れず立ち去ったことを恨み嘆き、その跡を追って当て所も無い旅に出ます(ここまでが前半)。物狂いとなってさすらう四郎は、弘法大師の開いた真言宗の聖地、高野山にたどり着きます。高野山でもとりわけ美しく、仏法の永遠を象徴する「三鈷(さんこ)の松」の下で休んでいると、少年を伴った僧に出会い、さまざま語り合ううちに、高野山が人々に無常を悟らせるのにふさわしい場所であることに霊感を呼び覚まされてか、四郎は美しい舞を舞います。それを見ていた少年が、自分こそ四郎が探し求めていた春満であることを名乗り、二人はついに再会します。 この曲の「主従の愛」という主題自体は、さほど現代人の興味を引くものではありませんし、登場人物もすべて面(おもて)を着けない直面(ひためん)だけに、「高野物狂」は全体的には地味な曲と言えましょう。しかしシテの薮俊彦師の所作と謡の素晴らしさで、この曲の清々しい魅力が充分に引き出されていました。まず、シテが幕から出て橋掛りを通って進み出る歩の運びの何とも言えぬ美しい緊張感。今からの舞台への期待感を膨らませてくれます。また、春満からの手紙を読み上げる謡は凛としてよく通り、見所の胸に響きます。手紙を取り落として萎(しお)る(=手を顔の前に持ってきて泣く形をする)姿の悲しさも胸を打ちます。旅程を表象する「カケリ」と称する型や「中の舞」は、均衡が取れて美しく、しかも滑らかです。能の舞はかくありたし、と思わせる素晴らしさでした。こうした所作と謡の美しさによって、仏法の聖地・高野山の静謐と主従の変わらぬ愛という、この曲の持つ爽やかで清々しい美質が浮かび上がっていたように思いました。 なお、曲が終わってから、一緒に見ていた妻が、「舞台に出ていた立て松は、主従の契りが永遠であることを象徴しているのかな?」と質問してきました。たしかに常緑樹である松は長寿や永遠を象徴しますし、まして高野山の「三鈷の松」は仏法の不滅の象徴です。舞台に置かれた立て松は、「三鈷の松」を表わすとともに、物語の主題である主従の愛の普遍をも表わしているのだ――この能の象徴性の奥深さに気付いた妻をおおいに見直した次第です。
(金沢定例能 H17.5.1より)
●常陸の国筑波の里
現茨城県の筑波山周辺一帯をさして「筑波の里」と言うのか具体的な場所は不明です。筑波郡(平成の合併で無くなった)あたりではないしょうか?万博を行なった学園都市「つくば市」は筑波山周辺の南部に当たりますが、平松殿や平松春萬・高師の四郎が何処に住んで居たかは判りません。
(平成21年2月20日 謡曲研究会)
ワキ=高野山の僧
●謡蹟めぐり
高野山 三鈷の松 (平2・3高橋春雄氏記)
本年2月、思いきって高野山にのぼり、総本山金剛峯寺に参詣、山中の宿坊に一泊し、「高野物狂」の舞台を訪ねてみた。「三鈷(さんこ)の松」は本曲の中で説明されているとおり、弘法大師が帰国に際して唐土から投げた三鈷が光を発して飛び去り、この松に止まったので、ここを修行の地と定めた、と伝えられている伝説の松である。御影堂の前にある筈と入手した案内図を頼りに歩く。先ず目に入るのが根本大塔である。塔の高さは48メートルもある由で朱塗りの大伽藍に圧倒される。御影堂はこの大塔のすぐ近くにある。もとは弘法大師の住房であったが、後に真如親王筆と伝えられる大師御影が奉安されてから御影堂と呼ばれるようになったとのこと。御影堂の前に格子に囲まれた松があるが、立て札も説明もないので謡曲に興味のない人は見過ごしてしまいそうである。私は近くで車を止めていた僧に聞いて三鈷(さんこ)の松と確認できたので、得意になって家内にそのいわれを説明してやったのだが、「三鈷とはどんなものか」と質問を受けてなかなか明快な返答ができなくて弱った。「坊さんが持っている金具で、三つの爪のようになっていて杖の上のほうにでもつけるのではないか」と、適当に答えたが聞かれてみると全然自信がない。家に戻って調べてみた。「謡曲大観」によると「三叉の金剛杵。金剛杵はもと印度古代の武器で、煩悩を破る菩提心の表象としている。」とある。まだピンとこない。「広辞苑」で「金剛杵」をひいてみる。「もとインドの武器。密教で、煩悩を破砕し、菩提心を表す金属製の法具。修法に用い、細長く手に握れるほどの大きさで、中程がくびれ両端は太く、手杵に似る。両端がとがって分れぬものを独鈷、三叉のものを三鈷、五叉のものを五鈷という。」として絵がついている。また、金剛峯寺で求めた写真集の中にも、この絵と同じようなものが金銅法具として紹介されており、これを見て家内もこんどは納得してくれました。
●高野山
高野山は、およそ1200年前に、弘法大師によって開かれた、真言密教の修行道場であり、全国に広がる高野山真言宗の総本山です。標高およそ900m。山の上の盆地に、壇上伽藍と称する聖地があります。そこには、さまざまなお堂や塔が立ち並び、
仏像や曼陀羅が参拝者を迎えます。また、うっそうと杉の樹の茂る奥の院には、太閤秀吉から太平洋戦争の英霊まで、さまざまな人々のお墓が立ち並んでいます。平成16年7月7日に高野山は「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。高野山には、今も大勢の信者や、四国八十八カ所の霊場を巡ったお遍路さんたちをはじめ世界から大勢の人々が、参詣に来られます。いつの日も、御仏の慈悲の心をこめて、訪ねる人々をやさしく迎える聖地、それが高野山なのです。
高野山へ電車でアクセスは、関西空港から南海線で難波まで約30分。
南海電鉄.難波駅〜高野山駅の間を特急は1日に4往復、急行は約30分毎に1本の間隔運行し、所要時間は特急で1時間40分、急行で約2時間。 和歌山・奈良方面からは、JR和歌山線橋本駅で南海高野線に乗り換え。
南海高野山駅 TEL 0736-56-2305
高野町役場 〒648-0281 和歌山県伊都郡高野町大字高野山636番地 Tel0736-56-3000(代)
●観能記 「高野物狂」――その爽やかさと清々しさ
今月の金沢定例能で演じられた「高野(こうや)物狂」を見て感激しました。「高野物狂」はこんな物語です。常陸の国の住人、高師四郎(たかしのしろう=シテ)が、主君の命日に寺に参詣していると、亡き主君の遺児・春満(しゅんみつ=子方)からの別れの手紙が届きます。そこには、春満が仏門に入る決意をしたことが、親代わりだった四郎への惜別の和歌と共にしたためられています。四郎は主君から託された春満がいずくとも知れず立ち去ったことを恨み嘆き、その跡を追って当て所も無い旅に出ます(ここまでが前半)。物狂いとなってさすらう四郎は、弘法大師の開いた真言宗の聖地、高野山にたどり着きます。高野山でもとりわけ美しく、仏法の永遠を象徴する「三鈷(さんこ)の松」の下で休んでいると、少年を伴った僧に出会い、さまざま語り合ううちに、高野山が人々に無常を悟らせるのにふさわしい場所であることに霊感を呼び覚まされてか、四郎は美しい舞を舞います。それを見ていた少年が、自分こそ四郎が探し求めていた春満であることを名乗り、二人はついに再会します。 この曲の「主従の愛」という主題自体は、さほど現代人の興味を引くものではありませんし、登場人物もすべて面(おもて)を着けない直面(ひためん)だけに、「高野物狂」は全体的には地味な曲と言えましょう。しかしシテの薮俊彦師の所作と謡の素晴らしさで、この曲の清々しい魅力が充分に引き出されていました。まず、シテが幕から出て橋掛りを通って進み出る歩の運びの何とも言えぬ美しい緊張感。今からの舞台への期待感を膨らませてくれます。また、春満からの手紙を読み上げる謡は凛としてよく通り、見所の胸に響きます。手紙を取り落として萎(しお)る(=手を顔の前に持ってきて泣く形をする)姿の悲しさも胸を打ちます。旅程を表象する「カケリ」と称する型や「中の舞」は、均衡が取れて美しく、しかも滑らかです。能の舞はかくありたし、と思わせる素晴らしさでした。こうした所作と謡の美しさによって、仏法の聖地・高野山の静謐と主従の変わらぬ愛という、この曲の持つ爽やかで清々しい美質が浮かび上がっていたように思いました。 なお、曲が終わってから、一緒に見ていた妻が、「舞台に出ていた立て松は、主従の契りが永遠であることを象徴しているのかな?」と質問してきました。たしかに常緑樹である松は長寿や永遠を象徴しますし、まして高野山の「三鈷の松」は仏法の不滅の象徴です。舞台に置かれた立て松は、「三鈷の松」を表わすとともに、物語の主題である主従の愛の普遍をも表わしているのだ――この能の象徴性の奥深さに気付いた妻をおおいに見直した次第です。
(金沢定例能 H17.5.1より)
●常陸の国筑波の里
現茨城県の筑波山周辺一帯をさして「筑波の里」と言うのか具体的な場所は不明です。筑波郡(平成の合併で無くなった)あたりではないしょうか?万博を行なった学園都市「つくば市」は筑波山周辺の南部に当たりますが、平松殿や平松春萬・高師の四郎が何処に住んで居たかは判りません。
(平成21年2月20日 あさかのユーユークラブ
謡曲研究会)
高野物狂 (こうやものぐるい)
季 春 所 前:常陸国筑波里 後:紀伊国野山 素謡時間 54分
【分類】二番目物 (修羅物)
【作者】世阿弥本清 典拠:
【登場人物】シテ:高師四郎、 ワキ:>高野山の僧 子方:
平松春満
詞章 (胡山文庫)
次第
シテ 上 影頼むばき行く末や/\若木の花をそだてん
シテ 詞「これは常陸の国の住人平松殿に仕へ申す。高師の四郎と申す者にて候。
さても頼み奉る平松殿は。去年の秋空しくならせ給ひて候。
又あたり近き観音寺と申す所に。平松殿の御位牌を立て置き申して候。
今日御命日にて候間。御寺に参り焼香せばやと存じ候
サシ上 昔在霊山名法華。今在西方名阿弥陀。娑婆示現観世音。三世利益同一体。
げに有難き。悲願かな。
地 上 慈眼視衆生悉く。/\。誓普き日の影の。曇りなき世の御恵み。
後の世かけて。頼むなり後の世かけて頼むなり。
シテ 詞 あら思ひ寄らずや。まづ/\御文を見うずるにて候。
サシ上 夫れ受けがたき人身を受け。逢ひがたき如来の教法に逢ふ事。
闇夜の燈川水の渡に。船を得たる心地して。我と覚めん夢の世に。
今を捨てずは徒らに。又三途にも帰らん事歎きてもなほ余りあり。
此生に此身を浮かずは。いつの時をか。おもん見ん。
然るに一子出家すれば。七世の父母成仏するなれば。
此身を捨てゝ無為に入らば。別れし父母の御事のみか。生々の親を助けん事。
執心の大慶これに如かじと。思ひ切りつゝ家を出で。修行の道に赴くなり。
父母に別れし其後は。唯お事をこそひたすらに。父とも母とも頼みつれ。
かくとも申さで別るゝ事。乳房を出でし父母に。二度別るゝ心地して。
おん名残こそ惜しう候へ。かまひて尋ね給ふなよ。三年が内には必ず/\。
身の行方をも知らせ申さん。唯名残こそ惜しう候へ。
墨衣思ひ立てどもさすが世を。出づる名残の袖はぬれけりと。
地 下 書き残されし言の葉の。若木の花を先立てゝ身の為る果は如何ならん。
上 恨めしの御事や。/\。たとひ世を捨て給ふとも。三世の契なるものを。
いづくまでも御供になどや伴ひ給はぬぞ。今は散りゆく花守の。
頼む木蔭も嵐吹く。行方やいづく雲水の。
跡を慕ひて何ことも知らぬ道にぞ出でにける知らぬ道にぞ出でにける。
中入り
ワキ 次第上 昨日重ねし花の袖。/\。今日墨染めの袂かな。
ワキ 詞「これは高野山の住僧にて候。又これに御座候幼き人は。
いづくとも知らず愚僧を御頼み候間。師弟のの契約をなし申して候。
又今日は三鈷の松に御共申し。慰め申さばやと存じ候。
後シテ一声 上 薄墨に書く玉章と見ゆるかな。霞める空に帰る雁の。
詞
「翅に附けしは蘇武が文。それは故郷の旅衣。君を忘れぬ忠勤の心。
君辺に帰りし雁札ぞかし。
サシ カカル上 我も主君の御行方。うはの空なる御跡を。尋ねや逢ふと遥々の。
陸奥紙に書き送る。文こそ君の形見なれ。あら覚束なの御身の行方やな。
呼子鳥。
カケリ上 誘はれし。花の行方を尋ねつゝ。
地 上 風狂じたる。心かな。
シテ 上 肌身に添ふる此文を。
地 上 懐紙と。人や見ん。
地 上 朝もよい紀の関越えて名に聞きし。/\。これや高野の山深み。
茂みの木蔭分け行けば。こゝも筑波の山やらんと我が方を思ひ出の。
昔ゆかしき心にも。
なほわが主君恋しやと夕山松のはり道をいざや狂ひ上らんいざいざ狂ひ上らん。
シテ 下 立ちのぼる雲路の。
地 下 立ちのぼる雲路の。こゝはいづく高野山に。来て見れば尊やな。
或は念仏称名の声々或は鳧鐘鈴の声。耳に染み心すみて。
物狂の狂ひさむる心や。
シテ 上 いつかさて。
地 上 いつかさて。尋ぬる人を道の辺の便の桜をりあらば。
などか主君に逢はざらんと。懇に祈念して。三鈷の松の下に。
立ち寄りて休まん。風立ち寄りて休まん。
ワキ 詞「不思議やな姿を見れば異形なる有様。そも御身はいづくより来るひとぞ
シテ 詞「げによく御覧ぜられて候。歌を謡ひ放らっしたる物狂いにて候。
ワキ 詞「さようの物狂いならば。人に咎められぬ先にとう/\出で候へ。
シテ 詞「これは御利益ともなき仰かな。人を尋ねて此山に来るを。
たゞ帰れとは御情なや。
シテ カカル上 人をも尋ね一つは又。かかる結界清浄の地に。入り定まれる高野の山を。
帰り出でよの御説教。心得ずこそ候へとよ。
ワキ 詞「きょうがる事を申す者かな。高野の山とは。言中の響耳にとまれり。
シテ 詞「入り定まるとは入定よなう。忝くも野のうちにて。入り定まれると申す事は。
げにもげにも憚多き言葉やらんさりながら。かく世を遁れ身を捨てゝ。
山に入るは順義ならずや。
ワキ 詞「さてはお事は人をば尋ねず。我と其身を捨人か。
シテ 詞「いや尋ぬる主君も捨人なれば。出家の御供申さんため。我も憂身を捨人なり。
ワキ 詞「さやうの出家の望ならば。何とて様をば変へざるぞ。
シテ
詞「いや姿を改めぬこそ発心初縁の形なれ。
ワキ
詞「発心初縁の形ならば。人仏不二の道は知れりや。
シテ 詞「事新しき仰かな。忝くも大師の御身は。内心三昧目前なり。
これぞ正しく人仏不二。
ワキ 詞「あう殊勝なりげにも大師は。
上 生有りながら生死涅槃に。
シテ 上 入り定まれる高野の奥。
ワキ 上 今此山にまのあたり。
シテワキ 上 昔薩た(サアタ)の印明を授かり。慈氏の下生を待ち給ふ事。人仏不二の妙体なり。
地 上 大師の待ち給ふは。慈尊三会の暁。我は三世の。
主君を尋ねて此高野山に参りたり。
地 クリ上 抑此高野山と申すは。帝都を去つて二百里。旧里を離れて。無人声。
シテ サシ上 然るに末世の隠処として。結界清浄の道場たり。
地 下 中にも此三鈷の松は。大同二年の御帰朝以前に。我が法成就円満の地の。
印に残り留まれとて。三鈷を投げさせ給ひしに。光とともに飛び来り。
此松の梢に留まれる。
シテ 下 然れば諸木の中に分きて。
地 下 松に留まる其ためし。千代万代の末かけて。久かれとの御方便。
委しく旧記に。あらわしたもう。
クセ下 さればにや。真如平等の松風は八葉の峰を。静かに
吹き渡り。法性随縁の月の影は八つの谷に曇らずして。
誠に三会の暁を待つ心なり。
然れば即身成仏の相をあらはし入定の地を示しつゝ。深々たる奥の院。
深山烏の声さびて。飛花落葉の嵐風まで。
無常観念の装いこれとても又常住の。皆令仏道円覚の由をあかすなり。
シテ 上 然れば時うつり頃去りて。
地 上 四季をり/\のおのづから。光陰惜むべし。時人を待たざるに。
貴賎群集の雲霞かゝる高野の山深み。谷嶺の風常楽の夢さめ。
法の称名妙音の。心耳に残り満ち/\て。唱へ行ふ聞法の。
声は高野にて静かなる霊地なりけり。
地 上 尋ね来し。 中ノ舞
シテ 上 霞の奥の。高野山。
地 下 時しも春の。
シテ ノル下 花壇場。
地 下 花壇上月伝法院。紅葉三宝院よりもなほ深く。雪は奥の院。
かれよりもこれよりも。いつも常磐の三鈷の松蔭に立ち寄る春の。
風狂じたる物狂ひ/\。あら忘れや。
シテ 下 高野の内にては。
地 下 高野の内にては。謡ひ狂はぬ御制戒を。
忘れて狂ひたりゆるさせ給へ御聖/\。
子方 詞「いかに御聖に申すべき事の候
ワキ 詞「何事にて候ぞ
子方 詞「これなる物狂いをよくよく見候へば。故郷に留め置きし乳人にて候。
シテ 詞「不思議やなあれにましますは主君春満殿候か。
御跡を遥々尋ね参りてこそ候へ。
何とて御共には召し具せらてれ候はれぬぞ御情なや候
ワキ カカル上 これはふしぎの機縁かな。さてさておことの国はいずくぞ
シテ 上 常陸の国筑波の里
ワキ 上 父の名字は
子方 上 平松の何某
ワキ 上 おことの名をば
シテ 上 高師の四郎
ワキ 上 いづれも真か
シテ子方 上 さん候
地 上 三世の契り朽ちせねば。これまで尋ね紀の国や。
高野の山の陰頼む主君に逢うぞ嬉しき。
もとより真の狂気ならず。主君の為なれば。
元結おし切りて。濃き墨染めに身をやつし。
主君と同じ捨て人の。
御供申す志げに主従の道とかやげに主従の道とかや
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