宝生流謡曲 「芭 蕉」
 
●あらすじ
唐土楚国の湘水というところに山居の僧が毎夜読経をしていると、ひとりの女がそっと聴きに来る様子なので、ある夜、僧は女にその素性を尋ねる。すると、女は「私はこの辺りの者で仏縁を結びたいと思って来るのですから、どうか内へ入れて御法を聴聞させてください」と言う。
その志に感じて僧は庵の中に入れて、薬草喩品を読んで聞かせる。それに対して、女は草木さえも成仏できる法華経の功力をたたえ、その後、自分が芭蕉の精であることをほのめかして消え失せた。
その後もなお僧は夜もすがら読経をしていると、芭蕉の精が再び女の姿で現れる。そして非情の草木も無相真如の體であることや、芭蕉葉が人生のはかなさを示していることなどを語り、舞を舞った。秋風が吹きすさむとその姿は消えて、庭の芭蕉の葉だけが破れて残っていた。

●宝生流謡本      内十六巻の三   三番目     (太鼓なし)
    季節=秋    場所=楚国小水   作者=金春善竹。世阿弥の娘婿
    素謡稽古順=中伝奥の分   素謡時間=70分 
    素謡座席順    シテ=前・女  後・芭蕉の精
               ワキ=山里の僧

●解 説@    芭蕉の葉  
子供の頃、先輩に楽屋の壁に貼られた番組の曲名を指さされ「これなんて読む?」と質問されました。間違えて読むと笑われ、正しい読み方を教えてもらいました。なかなか読めなかったのが、『女郎花(おみなめし)』『杜若(かきつばた)』『六浦(むつら)』など、そして『芭蕉(ばしょう)』でした。次第にちゃんと読めるようになりましたが、話のあらすじは全く知らないという不勉強の有り様でした。『芭蕉』? 松尾芭蕉と関係あるのかな…という程度でしたから、それはひどいの一言に尽きます。 喜多流ではクセの「芭蕉葉の脆くも落つる…」のところに習之拍子「もろくも拍子」があります。重量感をもちながら軽やかに踏む一つの足拍子は、芭蕉の葉がどっと落ちる様を表しているようですが、なかなかの至難の型です。芭蕉の茎は大木のように成長しますが辣韮(らっきょう)と同様、剥くと中身がなくなってしまいます。能『葵上』のシテのサシコエには「人間の不定、芭蕉泡沫の世の習ひ…」とあり「人間の命の定めなく儚いことは芭蕉の木を剥くように、芭蕉の葉や水の泡のように空しい」と謡われています。 (中略)
能『芭蕉』は芭蕉の精が「曲見」(しゃくみ)の女姿にて法味を得た報謝の舞(序之舞)を舞うという特異な二時間を越える大曲です。水墨画のような、艶とは懸け隔たれたスケールの大きい金春禅竹の傑作。「阿吽」No.15(平成15年春)の巻頭の「『芭蕉』によせて」は父の意思が温かく書かれた名文と評判でした。今回、「二人の会」(平成16年6月5日)で、その『芭蕉』(シテ香川靖嗣)を、父菊生の地頭で、能夫と共に、私も父の隣で謡いました。取り組むについて『芭蕉』の謡とは…どのように謡うべきものなのか、喜多流らしさとは…その喜多流らしさで『芭蕉』が手に負えるのだろうか…、一体『芭蕉』の主張は何なのか…と考えさせられました。決して荒く、粗野にならずに、しかし上辺の柔らかさや綺麗さだけにとらわれず、芯の堅い、それでいながら堅さを感じさせないように謡えたら……、単に草木の精という枠に収めないで謡う意識が必要ではないだろうかなどと思いました。人間だけではない、万物の儚い定めをテーマにしていると思われる能『芭蕉』が少しずつ、はっきりとは判らないのですが、確実に私の身体の中に入ってきていると感じています。曲が演者に及ぼす力、それが受け止められるようにならなければ、この曲を手がける意味がないのではと思います。それほど、この曲には不思議なエネルギーがあるのです。難しい皮肉な能ですが、まずは地謡という立場からでも、『芭蕉』のエネルギーを吸収、体得したいと思いました。
喜多流能楽師  粟谷明生  

●解 説A        
鵜沢久さんによる「芭蕉」の上演です。ロビーには芭蕉の木が置かれていました。お客様へのサービスですね。能「芭蕉」の舞台では、作物もなく、芭蕉を知る手掛かりがないので、とてもよい試みだと思います。能を見る前に芭蕉の葉が頭の中にインプットされるわけです。初めて芭蕉の葉をご覧になった方もおられるのではないでしょうか。じつはこの芭蕉の木は、鵜沢さんが公演間近になったある日、車を運転しているとき植木屋の車を発見され、車に書いてある電話番号を急いでメモし、連絡して今回レンタルで借りられたそうです。すごい行動力です!余談ですが、芭蕉の木は、なかにはバナナのような実を付けるのもあるようで、英語では、「バナナ・ツリ―」というようです。(今回展示されたものは、鑑賞用で少々小振りでした)現代の私たちは、芭蕉の木に対して特別な思いは持っていないと思います。(私だけかもしれませんが)でも昔の能の作者は、もろくて儚い芭蕉の葉を、人間の人生にたとえ、作品を生み出しています。 能「芭蕉」の最後は言葉は、『花も千草も 散りぢりになれば、芭蕉は破れて残りけり』能を代表する作品・「井筒」では、『明くれば古寺の 松風や芭蕉葉の 夢も破れて覚めにけり』「芭蕉」は金春禅竹の作品、「井筒」は世阿弥の作品です。禅竹にとって世阿弥は義理のお父さん。世阿弥の考えを受け継ぎ、より深く掘り下げていった人物とされています。「芭蕉」の終曲も、「井筒」をかなり意識して作られていることがわかります。どちらの作品にも言えることは、芭蕉の葉が朽ちる様を、人生のはかなさの象徴として受け止め、秋風とともに消えていく。そんな無常感をあらわした作品ではないかと思います。
「芭蕉」はとてもムツカシイ作品です。金春禅竹が持てる英知を全開して創った、とても高度な物語だと思います。解説書を読むと、言葉の端々は、いろんな物語を引用していますし、物語の底辺には、個の人間性を超越して、宇宙観の中から人間を捉えようとする思考が伺えます。私もいつかはこの作品に挑まなくてはなりません。それまで充分に充電しておきます。
観世流能楽師 柴田 稔 

●松尾芭蕉
誕生 1644年??月??日   日本 伊賀国    死没 1694年11月28日 職業 俳諧師
松尾 芭蕉は、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は、江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。
北村季吟門下。蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風[1]を確立し、俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。 芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『おくのほそ道』がある。


             
植物の精霊関係謡曲 6曲
                                     
小原隆夫調べ  
 コード     曲 目     概        説       場 所 季節 素謡  習順
内09巻3  杜  若 在原業平ノ歌ト 杜若ノ精ガ舞う    愛知   夏   48分  入門
内10巻4  西 行 桜 老木ノ花の精ト春夜千金ノ舞ヲ楽ム 京都   春   47分  中序
内16巻3  芭   蕉 唐ノ帝芭蕉ヲ愛シタ 芭蕉ノ精僧ニ語 唐国   秋   70分  中奥
内17巻2  女 郎 花 小野頼風夫婦の塚と女郎花    京都   秋   50分  入門
外01巻3    藤    越中多枯ノ浦ニテ旅僧藤ノ精ニ会う 富山   春   38分  平物
外05巻1  西 王 母 桃ノ精 御代ヲ寿ぐ           唐国   春   22分  平物

平成23年12月16日 あさかのユーユークラブ 謡曲研究会


      芭  蕉

舞台にはまず山居の僧が登場し、日夜法華経を読経する旨を語る。(以下テクストは「半魚文庫」を活用)

ワキ  詞「これは唐土楚国の傍。小水と申す所に山居する僧にて候。
      さても我法華持経の身なれば。日夜朝暮彼の御経を読み奉り候。
      殊更今は秋の半。月の夕すがら怠る事なし。こゝに不思議なる事の候。
      この山中に我ならで。又住む人もなく候に。夜な/\読経の折節。
      庵室のあたりに人の音なひ聞え候。今夜も来りて候はゞ。
      如何なる者ぞと名を尋ねばやとおもひ候。
   サシ「既に夕陽西にうつり。山峡の陰冷ましくして。鳥の声幽に物凄き。
    歌「夕の空もほのぼのと。夕の空もほのぼのと。月になり行く山陰の。
      寂莫とある柴の戸に。此御経を。読誦する此御経を読誦する。

ワキがワキ座に退くと、橋懸から女が登場する。面は増女である。

シテ次第「芭蕉に落ちて松の声。芭蕉に落ちて松の声。あだにや風の破るらん。
   サシ「風破窓を射て灯きえ易く。月疎屋を穿ちて夢なり難き。
      秋の夜すがら所から。物すさましき山陰に。住むとも誰か白露の。ふり行く末ぞ哀なる。
   下歌「あはれ馴るゝも山賊の友こそ。岩木なりけれ。
   上歌「見ぬ色の。深きや法の花心。深きや法の花心。染めずはいかゞ徒に。
      其唐衣の錦にも衣の珠はよも掛けじ。草の袂も露涙移るも過ぐる年月は。 
      廻り廻れどうたかたの。哀れ昔の秋もなし。あはれ昔の秋もなし。

僧侶が女に素性を尋ねると、女はこのあたりに住むものだが、読経の声に誘われて毎夜訪ねてくるのだとこたえる。そして結縁によって宿を貸して欲しいという。

ワキ  詞「さても我読誦の声怠らず。夢現とも分からざるに。女人の月に見え給ふは。
      如何なる人にてましますぞ。
シテ   「これは此あたりに住む者なるが。さも逢ひ難き御法を得。花を捧げ礼をなし。
      結縁をなすばかりなり。とても姿を見え参らすれば。何をか今は憚の。
      言の葉草の庵の内を。露の間なりと法の為は。結縁に貸させ給へよと。
ワキ  詞「実に/\法の結縁は。誠に妙なる御事なれどもさりながら。
      なべてならざる女人の御身に。いかで御宿を参らすべき。
シテ  詞「其御心得はさる事なれども。よそ人ならず我もまた。住家はこゝぞ小水の。
ワキ    「同じ流を汲むとだに。知らぬ他生の縁による。
シテ   「一樹の陰の。
ワキ    「庵の内は。
地   歌「惜まじな。月も仮寝の宿。月も仮寝の宿。軒も垣ほも古寺の。愁は。
      崖寺のふるに破れ。魂は山行の。深きに痛ましむ月の影も凄ましや。
      誰かいひし。蘭省の花の時。錦帳の下とは。廬山の雨の夜草庵の中ぞ思はるゝ。

僧侶は結縁のためとはいえ女人に宿を貸すわけにはいかないと、いったんは断るが、女の熱心さに負けて、庵の中に招き入れる。

ワキ  詞「余りに御志深ければ。御経読誦の程内へ御入り候へ。
シテ   「さらば内へ参り候ふべし。あら有難や此御経を聴聞申せば。我等如きの女人。
      非情草木の類までも頼もしうこそ候へ。
ワキ   「実によく御聴聞候ふものかな。たゞ一念随喜の信心なれば。
      一切の非情草木の類までも。何の疑の候ふべき。
シテ   「さては殊更有難や。さて/\草木成仏の。謂晴をなほも示し給へ。
ワキ   「薬草喩品現れて。草木国土有情非情も。皆これ諸法実相の。
シテ   「峰の嵐や。
ワキ   「谷の水音。
   二人「仏事をなすや寺井の底の。心も澄めるをりからに。
地   歌「灯を背けて向ふ月の下。背けて向ふ月の下。共に憐む深き夜の。
      心を知るも法の人の。教のまゝなる心こそ。思の家ながら。火宅を出づる道なれや。
      されば柳は緑。花は紅と知る事も。唯其まゝの色香の草木も。
      成仏の国土ぞ成仏の国土なるべし。

シテの女は居グセの形をとって、僧侶の読経に聞き入るが、そのうち読経の功徳によって成仏の準備ができ、自分は実は「芭蕉の偽れる姿」なのだと言い残して、消えていく。

地 ロンギ「不思議やさても愚なる。女人と見るにかくばかり。法の理白糸の解くばかりなる心かな。
シテ   「なか/\に。何疑か有明の。末に闇路をはるけずは。今逢ひ難き法を得る身とはいかゞ思はん。
地    「実に逢ひ難き法に逢ひ。受け難き身の人界を。
シテ   「受くる身ぞとやおほすらん。
地    「恥かしや帰るさの。道さやかにも照る月の。影はさながら庭の面の雪の中の芭蕉の。
      いつはれる姿の真を見えば如何ならんと。思へば鐘の声。諸行無常となりにけり。
      諸行無常となりにけり。

(中入間)
中入では間狂言が出てきて、芭蕉の精について語る。この日は野村万作が、和泉流に伝わる「蕉鹿の段」を語った。漁師が夢の中で殺生を戒められる話である。
間狂言が終わると、ワキは芭蕉の精について納得した様子で、待謡を謡いつつ、シテの登場を待つ。


ワキ  詞「さては雪の中の芭蕉の。偽れる姿と聞こえしは。疑もなき芭蕉の女と。
      現れけるこそ不思議なれ。
 歌待謡「たゞこれ法の奇特ぞと。たゞこれ法の奇特ぞと。思へばいとゞ夜もすがら。
      月も妙なる法の場。風の芭蕉や。つたふらん風の芭蕉や伝ふらん。
後シテ一声「あら物すごの庭の面やな。物すごの庭の面やな。有難や妙なる法の教には。
      逢ふ事まれなる優曇華の。花待ち得たる芭蕉葉の。御法の雨も豊かなる。
      露の恵を受くる身の。人衣の姿。御覧ぜよ。かばかりは。うつり来ぬれど花もなき。
地     「芭蕉の露の。旧りまさる。

後シテは芭蕉の精で、男体ではあるが、面は前シテと同じく増女のままである。

シテ    「庭のもせ山陰のみぞ。
ワキ    「寝られねば枕ともなき松が根の。現れ出づる姿を見れば。
       ありつる女人の顔ばせなり。さもあれ御身はいかなる人ぞ。
シテ  詞「いや人とは恥かしや。誠は我は非情の精。芭蕉の女と現れたり。
ワキ   「そもや芭蕉の女ぞとは。何の縁にかかかる女体の。身をば受けさせ給ふらん。
シテ  詞「その御不審は御あやまり。何か定は荒金の。
ワキ   「土も草木も天より下る。
シテ   「雨露の恵を受けながら。
ワキ   「我とは知らぬ有情非情も。
シテ   「おのづからなる姿となりて。
ワキ   「さも愚かなる。
シテ   「女とて。
地   歌「さなきだに。あだなるに芭蕉の。女の衣は薄色の。花染ならぬに袖の。
      ほころびも恥かしや。

クセの部分では、シテは立ったままゆるやかに舞い、袖を反す仕草をまじえる。

地  クリ「それ非情草木といつぱ誠は無相真如の体。一塵法界の心地の上に。雨露霜雪の形を見ず。
シテサシ「然るに一枝の花を捧げ。
地    「御法の色をあらはすや。一花開けて四万の春。長閑けき空の日影を得て揚梅桃李数々の。
シテ   「色香に染める。心まで。
地    「諸法実相。隔もなし。
   クセ「水に近き楼台は。まづ月を得るなり陽に向へる花木は又。春に逢ふ事易きなる。
      其理も様々の。実に目の前に面白やな。春過ぎ夏たけ秋来る風の音信は。
      庭の荻原先そよぎそよかゝる秋と知らすなり。身は古寺の軒の草。忍とすれど古も。
      花は嵐の音にのみ。芭蕉葉の。もろくも落つる露の身は。置き所なき虫の音の。
      蓬がもとの心の。秋とてもなどか変らん。
シテ   「よしや思へば定なき。
地    「世は芭蕉葉の夢の中に。牡鹿の鳴く音は聞きながら。驚きあへぬ人心。
      思ひいるさの山はあれど。唯月ひとり伴なひ馴ぬる秋の風の音。起き臥し茂き小笹原。
      しのに物思ひ立ち舞ふ袖。暫しいざやかへさん。
シテ   「今宵は月も。白妙の。
地     「氷の衣。霜の袴。

(序ノ舞)
ここでゆったりとした序ノ舞が10分以上かけて演じられる

シテワカ「霜の経。露の緯こそ。弱からし。
地    「草の。袂も。
シテ   「久方の。
地    「久方の。天つ少女の羽衣なれや。
シテ   「これも芭蕉の羽袖をかへし。
地    「かへす袂も芭蕉の扇の。風茫々と物すごき古寺の。庭の浅茅生。女郎花刈萓。
      面影うつろふ露の間に。山おろし松の風。吹き払ひ吹き払ひ。花も千草もちりぢりに。
      花も千草もちりぢりになれば。芭蕉は破れて残りけり。



この日みた舞台は、ほぼ2時間をかけてゆったりと進行し、曲の雰囲気がよく伝わったといえる。だがそれだけに、初心者は退屈したかもしれない。金春の謡いは、宝生のそれと同様、こうした静かな雰囲気の能にマッチしているように感じた。



能「芭蕉」:金春善竹の草木成仏譚(壺 齋 閑 話)
能「芭蕉」は芭蕉の精を主人公にし、その成仏を主題にした珍しい作品である。能にはほかに、梅、藤、桜(西行桜)、柳(遊行柳)など草木の精を主人公にした作品があり、かつては人間以外のものを取り上げていることから5番目に分類されていた時期もあったが、現在ではいづれも3番目に数えられている。作者は金春善竹。世阿弥の娘婿であるが、その作風は能の幽玄美をいっそう追求したもので、物語性よりも思想的な内容を重視した。良く知られた作品としては、雨月、小督、千手などがある。仏教的な思想性を作品の中にとりこんでいるのが特徴である。この作品にも、金春善竹の仏教観が草木の成仏という形で現れている。有情の人間ではなく、非情の草木について成仏を論ずることは一見奇異に思われるが、善竹は法華経の薬草喩品を取り上げながら、仏の慈悲は有情非情をとわずあまねくいきわたっているのだと主張している。作品は劇的な変化に乏しく、初心者には面白く感じられないかもしれぬが、謡曲としては優れたものがあり、また芭蕉の精が舞う序の舞は非情に優雅なものである。劇の舞台は中国の唐土楚国の傍に設定されている。草木が主題であるから、日本である必要がなかったからだろう。


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