宝生流謡曲 「芦 刈」

●あらすじ
津の国日下(くさか)の里の住人、左衛門は貧乏の末、心ならずも夫婦別れをします。妻は京に上って高貴な人の若君の乳母となり、生活の安定を得ます。そこで従者を伴って難波の浦へ下り、夫の行方を尋ねますがわからず、しばらくこの地に逗留して探すことにします。一方夫は、落ちぶれて芦を刈りそれを売り歩く男になっています。ある日通りがかりの一行に、面白く囃しながら芦を売ります。そして問われるままに、昔仁徳天皇の皇居があった御津の浜の由来を語り、笠尽しの舞を舞うなどし、さて芦を渡す段になって初めてその人が自分の昔の妻と知ります。左衛門は思わず今の身の上を恥じて隠れますが、妻の呼びかけに和歌を詠み交わし、心もうちとけ、再びめでたく結ばれます。装束も改めた左衛門は従者の勧めで爽やかに祝儀の舞を舞い、夫婦うち揃って都へ帰ってゆきます。               
 (「宝生の能」平成10年5月号より)

●宝生流謡本   内十六巻の一  四番目二番目  (太鼓なし)【作者】世阿弥(古能を改作)
   素謡(宝生) : 季節=春  場所=摂津国日下の里  稽古順=入門  素謡時間=54分
   素謡座席順   ツレ=左右衛門の妻
              シテ=日下左右衛門  
              ワキ=従者  
  
■みどころは和歌の徳で夫婦めでたく再縁を果たすのが主題。 零落した夫と妻の出会いが山場であるが、御津の浜の網引きと笠踊りをうまく舞台芸に 取り入れている。シテの物着によって自然と2場に分かれ、前半では物狂いの登場で<カケリ> <名所教え><笠之段>、後半では<男舞>と盛沢山の見せ場で構成されている。

●謡蹟めぐり      
(2004/02/12高橋春雄記による)
御津八幡宮 は大阪のメインストリートのひとつ御堂筋で心斎橋辺りを歩いていると、「御堂筋八幡町」という交差点があり、そこを西に1つ入ると御津八幡宮があります。現在ではここは「アメリカ村」の中心地で、外国人も普通に歩き回るファッションの街のど真ん中にある神社は不思議な雰囲気を持っています。この辺りは昔は海との境で、港になっていたそうです。奈良時代に行われた聖武天皇による東大寺の大仏建立にあたり、宇佐八幡宮の神霊が力添えをするべく平城京へ上るということがあったのですが、その時、この御津の地に上陸して一時安置され、その跡に社殿を建てたのがこの御津八幡宮なんだそうです。 ほかにも大伴家持が「…芦が散る 難波の御津に 大船に 真櫂繁貫き…」と防人の気持ちを詠んだ和歌を残していますし、また真言宗の開祖である弘法大師空海が唐へ渡る際の出航地であったともいいます。この土地こそが、古代の難波津、難波京の「御津」だったわけですね。 また、近くには三津寺という寺もあります。寺伝によると天平16年(744)に聖武天皇の勅願で、行基が開創したとされます。行基といえば初めは政府に弾圧されたものの、後に大僧正に任じられ大仏建立に力を注いだ僧侶です。ですからもしかしたら、この寺も東大寺大仏関連で建立されたものかもしれません。『摂津名所図会』には「三津寺は御津八幡宮の神宮寺との説あり」と書かれているそうですし、この2つの寺社になんらかの関係はありそうです。
交通 ・大阪市営地下鉄御堂筋線「心斎橋」
・大阪市営地下鉄御堂筋線、千日前線、四つ橋線「なんば」
・近鉄奈良線「近鉄難波」 南海本線、高野線「難波」
高津の宮に偲ばれる古の難波江 
 シテ日下左ェ門の出身地、津の国日下の里は何処か、現在では不明である。 尼崎ともいわれ、また石切神社の近くに日下町という町があるが、そこは摂津の国ではなく河内である。曲中に仁徳天皇が宮居した御津の浜が謡われるが、仁徳天皇の難波高津の宮は、現在の大阪城のある上町台地と考えられている。
 近世までこの台地のすぐ西側まで、海が入り込んでいて難波江と呼ばれた。またこそに流れ込む旧淀川の河口を難波の御津といった。仁徳天皇の皇居があったと思われる上町台地の一角に、現在仁徳天皇を祀る高津の宮がある。ここは上町台地の西端になっていて、昔は神社の絵馬堂から大阪市内の難波方面が一望に見渡せたという。現在は高いビルが並び視野がさえぎられて全く見えないが、昔はこの台地から難波江、難波の御津(多分、本曲の御津の浜)がすぐ近くに見えたのであろう。したがって日下の里も多分、この絵馬堂から見える視野の中にあったに違いない。
「芦刈山」について
京都祇園祭の山鉾32基のひとつである「芦刈山」は、応仁の乱以前には四条猪熊と錦小路東洞院の2か所から出ており、当町からは「住吉山」を出していましたが、乱後は当町のみ「芦刈山」を出すようになり、現在に至っています。町名も「芦刈山」を出すことにちなみます。
所在地 京都市下京区綾小路通西洞院西入ル 芦刈山町

●謡曲「芦刈」は平安時代の歌物語「大和物語」に基づくといわれています。しかし「大和物語」では乳母として都にあがった妻は貴人の後妻となり、芦刈人足となった夫とつかのまの再会を果たして着物を与えますが、すでに他人の妻の身、男を哀れみながらも都に帰ってしまいます。ほかに芦刈説話を扱った古典もいずれも悲しい結末で、能楽「芦刈」だけがハッピーエンドなのです。 謡曲「芦刈」は一般に男物狂(狂乱物)と呼ばれ、二百番近い能の中で唯一、夫婦の心の触れ合いを賛美した演目で、夫婦の愛情を肯定した異色作です。
 しかし芦刈山の御神体が老翁の姿であるのに対して、謡曲の日下左衛門は「若き男」と書かれています。また謡曲の季節は春ですが、芦刈山の趣向は秋の風情を表していて、「芦刈」は秋の季語であるといった違いもあります。芦刈山の所在地「綾小路通西洞院西入ル」には、応仁の乱前には「住吉山」という山が建っていたという記録があります。「住吉山」がどのような山であったかはまったく分かりませんが、神功皇后に関する航海の神か、和歌の明神を題材にした山であったと思われます。一説によると音阿弥(おんあみ)作の「住吉」という謡曲が室町時代には流行したそうですが、現行曲にはないため確認できません。
 しかし結婚式の謡(うたい)で「高砂やこの浦舟に帆をあげて」で知られる謡曲「高砂」があります。住吉の尉(じょう)と高砂の姥(うば)が、海山千里を隔てて仲むつまじいことをテーマにした曲ですが、ここに登場する住吉の尉は住吉明神の化身です。芦刈山の老翁の顔は、実はこの住吉明神の尉面にとても似ているのです。確証はありませんが、応仁の乱後の山鉾復興に際して、「住吉山」の御神体が「芦刈山」に受け継がれた可能性も否定できません。しかも共に和歌と夫婦仲を称えるというテーマは共通しています。

●「大和物語」第148段「蘆刈」、天暦5年(951)ごろ(謡曲「芦刈」の原典といわれていますが、都に上がった妻は宮仕え先で貴人の妻となってしまい、元の夫と再会後、自分の着物を残して去ってしまいます)
●「拾遺和歌集」巻第9雑歌、寛弘2〜4(1005〜1007)ごろ成立(「大和物語」のダイジェスト)

●「今昔物語集」巻30第5話「身貧しき男の去りたる妻、摂津の守の妻となる話」(男が落ちぶれたのは前世の報いであり、芦を刈る哀れな姿がリアルに表現されています)

●「宝物集」巻第3、八苦の1つ「求不得苦」(求めるものの得られない苦しみ)の一例として引用(「大和物語」のダイジェスト)

あさかのユーユークラブ 謡曲研究会 平成20年12月19日(金)


◎ この能は、世阿弥元清の作で、謡曲にでてくる、「げにや難波津安積山の又浅香山の言の葉は。采女の盃取りあへぬ。」の言葉は、福島県郡山市に現存する「安積山・采女神社」と関係が有るのではないだろうか。

     芦  刈        四番目・二番目(太鼓ナシ)   
 
        ツレ 左衛門の妻
        シテ 草香左衛門                 季 春
        ワキ 臣 下                    所 摂津国草香の里 


ワキ次第「古き都の道なれや。古き都の道なれや。難波の浦を尋ねん
     「かように候者は。都さる御方に仕え申すにて候。又これに御座候御事は。
      頼み連り候人の若子の御乳の人にて御座候。御里は津の国日下の里にて候が。
      今一度御下りありたき由仰せ候程に。この度我等御供申し。
      淀より御船に乗せ申し。唯今難波の里へと急ぎ候」
      淀船や美豆野の原の曙に。美豆野の原の曙に。影も残りて有明の。
      山本かすむ水無瀬川渚の森を余所に見て。
      なほ行く末は渡辺や。大江の岸も移りゆく。波も入江の里つづく。
      難波の浦に着きにけり。難波の浦に着きにけり
     「急ぎ候程に。これははや津の国日下の里に御着きにて候。
      これに暫く御待ち候へ。日下の左右衛門殿を尋ね申そうずるにて候。」
ワキ  「如何に申し候。左右衛門殿を尋ね申して候へば。
     今はこの所には御座なき由申し候」
ツレ  「げにや家貧にしては親知すくなく。賤しき身には限らぬ習いなれども。
      余りに浅ましき有様かな。
      「さりながら様々契り置きし事あり。
      この所に暫く逗留し。彼の人の行方を尋ねばやと思い候」
ワキ  「げにげに仰せ尤もにて候。この所に暫く御逗留候へ。
      猶々御行くへを委しく尋ね申さうずるにて候」
シテ  「足引きに山こそ霞め難波江に。向うは波の淡路潟。
      げにや所から異浦々の景色までも。眺めにつづく難波舟の
      出で浮かみたる朝ぼらけ。心もすめる面白さよ。難波なる。
      みつとはいはじかかる身に
地    「われだに知らぬ。面忘れ
シテ   「立ち舞ふ市の中々に
地    「かくれ所は。あるものを
シテ   「げに受け難き人界を。たまたま受くる身なりせば
地    「栄花の家にはすみもせで。かかる貧家に生るる事。前の世の戒行こそ拙けれ
シテ   「今とてもなす業もなき身の行くへ
地    「昨日と過ぎ今日と暮れ。明日またかくこそありそ海の。濱の真砂の数ならぬ。
      この身命をつがんとて
シテ   「あらたなる露の草の葉に。
地    「芦刈人となりたるなり。
      何とかならん難波江の。浦に出て里に雪の寒き日をも厭わず
      汐垂るる我が身の方はつれなくて。我が身の方はつれなくて。
      異浦見れば夕煙。うらめしや終に身を立てかねてこそ賤しけれあし田鶴の。
      雲居の余所に眺め来し。月の下芦刈り持ちて。
      露をも運ぶ袖の上猶ありがほの心かな猶ありがほの心かな
ワキ   「いかにこれなる人に申すべき事の候。」
シテ   「此方の事にて候か何事にて候ぞ」
ワキ   「身申せば色々の物を売り候中に。難波の芦を御売り候事優しうこそ候へ」
シテ   「さん候此のあたりにては売る者も買う人も。唯何となくもてあつかふ所に。
      都の人とて此の難波の芦を御賞翫こそ。返す返すも優しけれ」
      我も昔は難波津に。名におふ古き都人の。ゆかりの露のおちぶれたる。
      身の枯れ芦の色なくとも。よしとて召され候へ
ワキ   「あら面白や候。さて葦と蘆とは同じ草にて候か」
シテ   「さん候譬へば薄ともいひ。穂に出でぬれば尾花ともいへるが如し」
ワキ   「さては物の名も所はよりて変わるよなふ
シテ   「中々の事この蘆を。伊勢人は濱荻といひ」
ワキ   「難波の人は
シテ   「蘆といふ
地    「むつかしや難波の浦のよしあしも。難波の浦のよしあしも。
      賤しきあまはえぞ知らぬ。唯世を渡るためなれば仮の命つがんとて。
      此の市に出づるあし数に。おあしそへて召されよやおあしそへて召されよ
      露ながら難波の蘆を刈り持ちて。夜は月をも運ぶなりや。
      暇をし夕潮の昼のうちに召されよな昼のうちに召されよな
ワキ   「如何に申し候。さて御津の濱とはいづくにて候ぞ。」
シテ   「忝なくも御津の濱の御在所はあれにて候。」
ワキ   「ふしぎやな御津の濱の事を尋ね申して候へば。忝などと御賞翫候は。
      何と申したる謂れにて候ぞ」
シテ   「あら何とも納屋。さらば何とて御津の濱とは御尋ね候ぞ。
       忝なくも仁徳天皇。此の難波の浦に大宮造りし給うにより。
       御津と書いて御津の濱とは申すなり」
ワキ   「げに面白き謂れかな。皇居なりつる浦なれば。御津の濱とは理りなり。
シテ   「波濤海辺の大宮なれば。漁村にともす篝火までも。禁裏雲居の御火かと見えて。
      上雲上の月郷より。下万民の民間までも。有難かりし恵みぞかし。や。
       あれ御覧ぜよ御津の濱に。網子調ふる網船の。えいやえいやと寄せ来たるぞや
地    「名にしおふ難波津の。名にしおふ難波津の。歌にも大宮の。
      内まで聞こゆ網引すと。網子調ふる。あまの呼び声と詠み置ける。
      古歌をも引く網の。目の前に見えたる有様あれ御覧せよや人々
シテ   「面白や心あらん
地    「面白や心あらん。人に見せばや津の国の。難波わたりの春の景色。
      おぼろ船漕がれ来る沖の鴎磯千鳥。つれだちて友呼ぶや。
      あまの小船なるらん
シテ   「雨に着る
地    「雨に着る。田箕の嶋もあるなれば。露も真菅の笠はなどかなからん
地ロンギ 「難波津の春なれや
シテ   「名にしおふ梅の花か笠
地    「むうちょう鳥の翼には
シテ   「鵲も有明の
地    「月の笠に袖さすは
シテ   「天津乙女の衣笠
地    「それは乙女
シテ   「これはまた
地    「難波女の。難波女の。かづく袖笠ひじ笠の。雨の芦辺も。
      乱るるかたを波あなたへざらりこなたへざらりさらさらざっと。
      風のあげたる。古簾。つれづれもなき心面白や
ツレ   「いかに誰かある」
ワキ   「御前に候」
ツレ   「今の蘆売る人に。その蘆一本持ちて来たれと申し候へ」
ワキ   「畏まって候。いかに申し候。あの輿の中へ。
       その蘆一本持ちて参りあれと仰せ候」
シテ   「さらばこの蘆を参らせられ候へ」
ワキ   「いや唯直に参らせられ候へ。あらふしぎや。今の蘆売る男の。
      御姿を御参らせ。この所へ隠れて候は。何と申したる御事にて候ぞ」
ツレ   「今は何をか包み参らせ候べき。唯今の蘆売る人は。わらはが古へ人にて候」
       これは夢かやあら浅ましや候
ワキ   「言語道断。更に苦しからぬ事にて候。某やがて御供申し候べし。
       御心易く思し召され候へ」
ツレ   「いや暫く。皆々御出であらば。定めて恥じ参らせられ候べし。
      わらは密かに行きかくと申さばやと思い候」
ワキ   「げにこれは尤もにて候。さらば御出であろうずるにて候」
ツレ   「如何に古へ人。わらはこそこれまで参りて候へ。行く末かけし玉の緒の。
      結ぶ契りかひありて。今は世にある様なれば。遙々尋ねまみえたるに。
      何くへ忍ばせ給うらん。とくとく出でさせ給ひ候へ
シテ   「これは唯夢にぞあるらん現ならば。余所の人目もいかならんと。
      思い沈めるばかりなり
ツレ   「かくは思へどもしは又。起き別れにしきぬぎぬの。妻やかさねし難波人
シテ   「蘆火炊く屋は煤たれて。おのが妻衣それならで」
       又は誰にかなれ衣の。君なくてあしかりけりと思うにぞ。
       いとど難波の。浦は住み憂き
ツレ   「あしからじ。よからんとてぞ別れにし。何か難波の。浦は住み憂き
シテ   「
げにや難波津安積山の。道は夫婦の媒なれば
地    「さのみは何をか包み井の。隠れて住める小屋の戸を。押し明けて出でながら。
      面なの我が姿や。三年の過ぎしは夢なれや。現にあふの松原かや。
      木陰にまといて難波の昔語らん
ワキ   「かかるめでたき御事こそ候はね。やがて都へ御供あろうるにて候。
       まづまづ烏帽子直垂を召され候へ」
地    「それ高き山深き海。妹背恋路の跡ながら。殊に難波の海山の。
       所からなる情けとかや
シテ   「あるは男山の昔を思い出でて
地    「女郎花も一時をくねるといへども。いひ慰むる言の葉の。
       露もたわわに秋萩の。もとの契りの消えかへりつれなかりける命かな
シテ   「さればかほどに衰えて
地    「身をはづかしの森なれども。言葉の花こそたよりなれ
地クセ  「難波津に。咲くやこの花冬籠もり。今は春べと咲くや木の花と栄え給ひける。
      仁徳天皇と。聞えさせ給いしは難波の御子の御事。
      
又浅香山の言の葉は。采女の盃取りあへぬ。恨みをのべし故とかや。
      この二歌は今までの。歌の父母なる故に。世々に普き花色の。
      言の葉草の種とりて。我等如きの手習ふ初めなるべし。
      然れば目に見えぬ鬼神をも和らげ。武士の心慰むる。
      夫婦の情け知ることも今身の上に知られたり
シテ   「津の国の難波の春は夢なれや
地    「蘆の枯葉に風渡る。波の立ち居の暇とても浅かるべしやわだづみの。
      濱の真砂はよみつくしつくすとも。此の道は尽きせめや。
      唯もてあそべ名にし負う。難波の恨み打ち忘れて。
      ありし契りに帰り逢う。縁こそ嬉しかりけれ
シテ   「今は恨みも波の上
地    「立ち舞う袖のかざしかな
ワキ  ○「如何に左右衛門殿。めでたき折りなれば一指し御舞候へ」○
地    ○「立ち舞う袖の。かざしかな」○                      (男舞)
地キリ   「浮寝忘るる難波江の。浮寝忘るる難波江の。
       蘆の若葉を越ゆる白波の。月も残り。花も盛りに津の国の。
       こやの住居の冬籠もり。今は春べと都の空に。伴い行くや大伴の。
       御津の浦和のみつつを契りに。帰る事こそ。嬉しけれ



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