春日龍神 (かすがりゅうじん)
●あらすじ
明恵上人は仏跡を訪ねるため、唐から天竺へ渡ることを志し、春日の明神へ暇乞いに南都を訪れます。宮守の翁と出会って参詣の趣を告げると、春日の明神も信頼を寄せ、徳を慕うと上人が入唐渡天することは、神慮に背くことであり、釈迦入滅後に仏跡を訪ねても意味のないことであると諭されます。翁は「三笠山に仏跡を遷して、釈迦の誕生から入滅まで全て再現してお見せしましょう」と約束します。そして自分こそ、春日の神が鹿島からこの地に渡られた時、従った中臣時風・秀行であると明かして姿を消します。一面金色に輝く春日野。大地は振動し、春日の神の使いの龍神が眷属を引き連れて出現し、釈迦の説法に連なる様子を見せ、上人が思い止まったことを確かめると、波を蹴立てて猿沢の池に姿を消します。
●宝生流謡本 内十四巻の一 四番目略脇能 (太鼓あり)
素謡(宝生) : 季節=春 稽古順=入門 素謡時間=33分 場所=大和国春日の里
素謡座席順 シテ=前・宮守の翁 後・竜神
ワキ=明恵上人
●鑑 賞
この能を面白く見るために重要なポイントは、ワキである明恵上人を知ることです。時は源平の戦乱の世、明恵は八歳で父母を亡くし、翌年、神護寺に入ります。仏教の教義は頽廃するなか、明恵は釈迦の教えに立ち戻ろうと、ひたすら深い山の中で修行します。釈迦を深く尊敬するあまり、天竺行きを志し、三十一歳の時、春日明神の神託により断念。余りにも純粋で厳しい信仰心の持ち主です。また十九の年より四十年間、著した『夢の記』(夢の記録)があり、明恵にとって夢は、ある時は信仰を深める神秘的な体験だったのです。そんな明恵だからこそね龍神が繰り広げる夢のような奇跡の数々を見ることが出来たのでしょう。
●解 説・能楽あんない 春日に浄土のあること−「春日龍神」の説話的背景 田中 貴子
先生のお話によれば、春日には浄土と地獄があるらしい。というのも、春日の里は補陀落浄土と考えられており、また、春日明神の本地仏が地獄にいるという地蔵菩薩であることから、地獄もあると考えられていたのだという。浄土も地獄も揃っているなんて、便利(?)。さすが、もとのみやこです。それから興味深かったのは、このお能の名は「春日明神」ではなくて「春日龍神」であり、春日明神は出てこないというお話。田中先生は同様の例として「石橋」を挙げられ、「石橋」も獅子だけ出てきて文殊菩薩は出てこないと付け加えられた。うーん、私は「石橋」に文殊菩薩が出てこない訳は、このお能で文殊菩薩に触れられているのはあくまで獅子を出すための方便だからであり、そもそも作者は文殊菩薩を本当に出す気はさらさらなかったのではないかと勝手に想像していた。実は何か共通する約束事があるのだろうか。一方、このお能で「春日明神」ではなく「春日龍神」であることの説明は何となく想像がつきそうだ。というのも、このお能の中では明恵上人の入唐渡天を留めたのは「春日龍神」ということになっているけれども、「春日権現縁起絵巻」では、橘氏の女(むすめ)ということになっているし、明恵上人伝でも親戚の女性ということになっているからだ。この二つのエピソードに共通する点は、明恵上人の熱狂的な信仰者である女性が神託を授かり、明恵上人を留めるという点だ。恐らくお能では女性が留めたという俗っぽさを嫌い、「龍神」の神託になったのでは、という気がする。「変成男子」というめんどくさい制度(?)があり、法華経提婆達多品で竜女が成仏する際、一度男性になって成仏したと信じられていたので、龍神ということになったのではないだろうか。それから、そもそも春日明神は鹿島大社から引っ越してきたのだというのだ。そういえば鹿島大社も鹿が神使だった。それから、江ノ島と、厳島神社もつながっているらしい。 (後略)
●舞台展開
〈次第〉の囃子で明恵上人(ワキ)と従僧(ワキツレ)が登場し、入唐渡天のため春日明神に暇乞いをする由を述べます。〈道行〉では春日の里までの道中の様子を謡っています。
〈一声〉の囃子で尉(前シテ)が登場します。翁烏帽子に薄い縒狩衣という出立で、品の良い宮人です。上人が宮人を呼び止めて、参詣の趣意を話します。すると翁は上人が日本を離れることは神慮に背くことであり、いかに春日の神が上人を慕っているかということや、この春日の山や野を仏跡と思い、崇めるべきであると諭します。そして我こそ、春日の神の随神、時風・秀行が仮の姿であると明かし、奇瑞を約束して姿を消します。(中入)
社人(間狂言)の語りの後、〈早笛〉の囃子で龍神(後シテ)が颯爽と登場します。面は黒髭、赤頭の上に龍台を戴いた姿です。八大龍王や百千の眷属を従えている様子は地謡とシテ謡の掛け合いによって表現されています。一同の釈迦を取り囲んで説法を聴聞する様を表す型・龍神の躍動感を表現する〈舞働〉と続き、上人が仏跡を訪ねないことを確かめて、猿沢の池に消えるところは、飛び返って大きく袖を被きます。
●能 春日竜神(かすがりゅうじん)
【分類】五番目物 (切能)
【主人公】前シテ:宮守の翁、後シテ:竜神
山城国(京都府)、栂尾の明恵上人が中国、インドの地に渡ろうと思い、その暇乞いに春日明神に参詣すべく奈良にやって来ます。春日の里につくと、宮守の老人が現れて、明恵上人が唐、天竺へおもむくと聞いて驚きます。そして、かねてから春日明神は、明恵上人を太郎、笠置の解脱上人を次郎と呼んで、両手両足のように思し召して特別に守護しておられるのに、いま上人が日本を去っては、神慮に背くものであるといいます。上人は、霊地、仏跡を巡拝するためだから、神もおとがめにならないだろうと答えます。しかし、宮守は、釈迦が在世中の時ならば利益もあるが、入滅後の今日では、この春日山が釈迦が説法をされた霊鷲山であり、春日野が釈迦が悟りを開いた鹿野苑、比叡山は天台山、吉野、筑波は五台山を移したものであるからと、入唐渡天が無用であることを説き諭します。さすがに明恵上人も、これをご神託と思い、宮守の名を問います。老人は春日明神の使者、時風秀行と名乗り、上人が入唐渡天を思い止まるならば、誕生から入滅までの釈迦の一代記を見せようと言って消え失せてしまいます。
やがて、春日野は、一面に金色の世界となって、八大竜王が百千の眷属をひきつれて現れ、他の仏達も会座に参会し、御法を聴聞するさまを見せます。上人がこの奇跡を見て、入唐渡天を思い止まると、竜神は姿を大蛇に変えて、猿沢の池の波をけたてて消え失せます。
時に大地震動するは。いかさま下界の竜神の出現かやと。人民一同に。雷同せり。時に大地震動するは。下界の竜神の参会か。すは、八大竜王よ。難陀竜王。跋難陀竜王。娑伽羅竜王。和修吉竜王。徳叉迦竜王。阿那婆達多竜王。百千眷属引き連れ引き連れ。平地に波瀾を立てて。仏の会座に出来して。み法を聴聞する。そのほか妙法緊那羅王。また持法緊那羅王。楽乾闥婆王。楽音乾闥婆王。婆稚阿修羅王。羅ゴ阿修羅王の。恒沙の眷属引き連れ引き連れ。これも同じく座列せり。竜女が立ち舞う波瀾の袖。竜女が立ち舞う波瀾の袖。白妙なれや和田の原の。波浪は白玉。立つはみどりの、空色も映る海原や。沖行くばかりに月のみ舟の。佐保の川面に。浮かみ出ずれば八大竜王。
八大竜王は八つの冠を傾け。所は春日野の月の三笠の雲にのぼり。地に降りて、飛火の野守も出でて見よや。麻耶の誕生、鷲峰の説法、双林の入滅。ことごとく終りてこれまでなりや明恵上人、さて入唐は。留るべし。渡天はいかに。渡るまじ。さて仏跡は。尋ぬまじや。尋ねても尋ねてもこの上嵐の雲に乗りて。竜女は南方に飛び去り行けば。竜神は猿沢の池の青波蹴立て蹴立てて。その丈千尋の大蛇となって。天に群り地にわだかまりて、池水を返して。失せにけり。
平成20年8月22日(金)あさかのユーユークラブ
謡曲研究会
春日竜神(かすがりゅうじん)
季 春 所 大和国春日の里
【分類】五番目物 (切能)
【作者】せ阿弥元清 典拠 古今著聞衆、春日権現など験記
【登場人物】前シテ:宮守の翁、後シテ:竜神 ワキ:明恵上人
【あらすじ】(舞囃子の部分は下線部です。仕舞の部分は斜体です。)
山城国(京都府)、栂尾の明恵上人が中国、インドの地に渡ろうと思い、その暇乞いに春日明神に参詣すべく奈良にやって来ます。春日の里につくと、宮守の老人が現れて、明恵上人が唐、天竺へおもむくと聞いて驚きます。そして、かねてから春日明神は、明恵上人を太郎、笠置の解脱上人を次郎と呼んで、両手両足のように思し召して特別に守護しておられるのに、いま上人が日本を去っては、神慮に背くものであるといいます。上人は、霊地、仏跡を巡拝するためだから、神もおとがめにならないだろうと答えます。しかし、宮守は、釈迦が在世中の時ならば利益もあるが、入滅後の今日では、この春日山が釈迦が説法をされた霊鷲山であり、春日野が釈迦が悟りを開いた鹿野苑、比叡山は天台山、吉野、筑波は五台山を移したものであるからと、入唐渡天が無用であることを説き諭します。さすがに明恵上人も、これをご神託と思い、宮守の名を問います。老人は春日明神の使者、時風秀行と名乗り、上人が入唐渡天を思い止まるならば、誕生から入滅までの釈迦の一代記を見せようと言って消え失せてしまいます。
詞章 (胡山文庫)
次第
ワキ 上 月の行くへもそなたぞと。/\。日の入る国を尋ねん
ワキ 詞「是は栂の尾の明恵上人法師にて候。我入唐渡天の志あるにより。
御暇乞いの為に春日の明神に参らばやと思い。
唯今南都に下向仕り候。
道行上 愛宕山
樒が原余所に見て。/\。月にならびの岡の松。
緑の空も長閑なる都の山を跡に見て。これも南の都路や。
奈良坂越えて三笠山。春日の里に着きけり/\
シテ 上 晴れたる空に向かえば。和光の光。あらたなり
それ山は動ざる形を現じて。古今に至る髪道をあらわし。
里は平安の巷を見せて。人間長久の声みてり。
真に御名も久方の。天の児屋根の代よとから
下歌 月に立つ影も鳥居の二柱
(小謡 御社の誓いも カラ 気色かな マデ)
上歌 御社の誓いもさぞな四所の。神の代よりの末うけて。
澄める水屋の御影まで塵に交わる神心。三笠の森の松風も。
枝を鳴らさぬ気色かな/\
ワキ 詞「如何にこれなる御奴に申すべき事の候
シテ 詞「や。是は栂の尾の明恵上人にて御座候ぞや。唯今の御参詣。
さこそ神慮に嬉しく思し召され候らん」
ワキ 詞「さん候唯今参詣申す事余の儀にあらず。
我入唐渡天の志あるにより。御暇乞いの為に唯今参りて候」
シテ 詞「これは仰せにて候へども。さすが上人の御事は。
年始めより四季折々の御参詣の。時節の少しの遅速をだに。
待ちかね給う神慮ぞかし。その上上人をば太郎と名づけ。
笠置の解脱上人をば次郎と頼み。左右の眼両の手の如くにて。
昼夜各参の擁護懇ろなるとこそ承りて候に。
日本を去り入唐渡天し給わんこと。いかで神慮にかなうべき。
只思し召し御止まり候へ
ワキ 詞「げにげに仰せはさることなれども。入唐渡天の志も。
佛跡を拝まん為なれば。何か神慮に背くべき」
シテ 詞「これ又仰せとも覚えぬものかな。佛在世の時ならばこそ。
見聞の益もあるべけれ。今は春日のお山こそ。
則ち霊鷲山なるべけれ。その上上人初参の御時」
カカル上 奈良坂の此の手を合わせて礼拝する。
人間は申すに及ばず心なき
(独吟 三笠の森の カラ おわしませ マデ)
地 上 三笠の森の草木の。/\。風も吹かぬに枝を垂れ。
春日山野辺に朝立つ。鹿までも。皆悉く出で向い。
膝を折り角を傾むけ上人を礼拝する。
かほどの奇特を見ながらも真の浄土はいづくぞと。
問うは武蔵野のはてしなの心や。只返す返す我が頼む。
神のまにまにとどまりて。神慮をあがめおわしませ/\
ワキ サシ上 然るに入唐渡天といつぱ。佛法流布の名をとめし
地 上 古跡を尋ねんためぞかし。天台山を拝むべくは。
比叡山に参るべし。五台山の望みあらば。吉野筑波を拝すべし
シテ 下 昔は霊鷲山
地 下 今は衆生を度せんとて。大明神と示現し此の山に宮居し給えば
シテ 下 即ち鷲の御山とも
地 下 春日のお山を。拝むべし
(独吟 我を知れ カラ 長閑かりけれ マデ)
クセ下 我を知れ。釈迦牟尼佛世に出でて。さやけき月の。
世を照らすとはの御神託もあらたなり。然れば誓いある。
慈悲萬行の神徳の。迷いを照らす故なれや。小機の衆生の益なきを。
悲しみ給う御姿。よおらくさいなんの衣を脱ぎそへいの。
散衣を着しつつ。四たいの御法を説き給いし。鹿野苑もここなれや。
春日野に起き臥すは鹿の園ならずや
シテ 上 その外当社の有様の
地 上 山は三笠に影さすや。春日すなたにあらわれて誓いを四方に春日野の。
宮路も末ありや曇なき西の大寺月澄みて。光ぞまさる七大寺。
御法の花も八重桜の。都とて春日野の春こそ長閑かりけれ
ワキ 詞「げに有難き御事かな。即ちこれを御神託と思い定めて。
この度の入唐をば思いとどまるべし。さてさて御身はいかなる人ぞ。
御名をなのり給うべし」
シテ 詞「入唐渡天をとどまり給はば。三笠の山に五天竺をうつし。
摩耶の誕生伽耶の成道。」
カカル上 鷲峯の説法
地 上 雙林の入滅までことごとく見せ奉るべし暫くここに待ち給えと。
木棉四手の神の告げ。
我は時風秀行ぞとて
かき消すように失せにけり/\
≪中入≫
やがて、春日野は、一面に金色の世界となって、八大竜王が百千の眷属をひきつれて現れ、他の仏達も会座に参会し、御法を聴聞するさまを見せます。上人がこの奇跡を見て、入唐渡天を思い止まると、竜神は姿を大蛇に変えて、猿沢の池の波をけたてて消え失せます。
(囃子 神託まさに カラ 失せにけり マデ)
ワキ 待謡上 神託まさにあらたなる。/\。声の内より光さし。
春日の野山金色の。世界となりて草も木も佛体となるぞふしぎなる
地 上 時に大地震震動するは。下界の龍神の参会か
後シテ 上 すは八大竜王よ。
地 上 難陀竜王。
シテ 上 跋難陀竜王
地 上 娑伽羅竜王
シテ 上 和修吉竜王
地 上 徳叉迦竜王。
シテ 上 阿那婆達多竜王
地 上 百千眷属引き連れ引き連れ。平地に波瀾を立てて。佛の界会座に出来して。
御法を聴聞する
シテ 上 そのほか妙法緊那羅王
地 上 また持法緊那羅王
シテ 上 楽乾闥婆王
地 上 楽音乾闥婆王
シテ 上 婆稚阿修羅王
地 下 羅喉阿修羅王の。恒沙の眷属引き連れ引き連れこれも同じく座列せり
地 上 龍女が立ち舞う波瀾の袖。/\。白妙なれや和田の原の。
払うは白玉立は緑の。空色もうつる海原や。
沖行くばかりに月の御船の佐保の川面に。浮かみ出づれば八大竜王。
(仕舞 八大竜王は カラ 失せにけり マデ)
シテ 下 八大竜王は。八つの冠を傾け
地 上 所は春日野の月の三笠の雲に上り。
地に下りて飛ぶ火の野守も出でて見よや。
摩耶の誕生鷲峯の説法雙林の入滅悉く終わりてこれまでなりや。
明恵上人さて入唐は
ワキ 上 とまるまじ
地 上 渡天は如何に
ワキ 上 渡るまじ
地 上 偖佛跡は
ワキ 上 尋ねまじき
地 上 尋ねても/\この上あらしの雲にのりて龍女南方に飛び去り行けば。
龍神は猿沢の池に青波蹴立て/\てその丈千尋の大蛇となって。
天に群がり地に蟠りて池水をかえして。失せにけり。
あさかのユーユークラブindexページに戻る
郡山の宝生流謡会のページに戻る
このページのトップに戻る
謡曲名寄せに戻る