宝生流謡曲  「敦 盛」

●あらすじ
源平の戦いの緒戦に疲れた源氏の武将熊谷次郎直実は、出家して法名蓮生と名乗った。秋八月、蓮生はかつて一ノ谷の戦いで討った平敦盛の菩提を弔うために摂津国須磨の浦へ赴いた際、笛の音が聞え、草刈男らに出会う。蓮生が男らに誰が笛を吹いていたのかと尋ねると、男らの一人が笛にまつわる因縁について語り、十念を授けて欲しいと言う。蓮生が理由を質すと、その男は敦盛の化身である事をほのめかして姿を消す。夜、蓮生が読経していると敦盛の霊が現れて平家一門の栄枯盛衰を語り、平家最後の宴を懐かしんで中之舞を舞い、一ノ谷合戦での討ち死にの模様を再現して見せる。そしてやっと敵である直実に巡り会えたと仇を討とうとするが、すでに出家して蓮生となって弔いにつとめる直実はもはや敵ではないと悟り、極楽浄土では共に同じ蓮に生まれる身になろうと言い残して敦盛の霊は姿を消す。

●宝生流謡本    内十三巻の二  二番目 (太鼓なし)
  素謡 : 季節=秋  稽古順=入門  素謡時間43分  場所=摂津国須磨の浦 
  素謡座席順    ツレ=草刈男            作者=世阿弥
              シテ=前・草刈男 後・平敦盛  
             ワキ=蓮生法師 

●解 説    敦盛 (能)           
『敦盛』(あつもり)は、能の演目のひとつで、二番目物、公達物。 平家物語の「敦盛最期」の章をもとに、世阿弥が編作した。 中之舞(黄鐘早舞・男舞)を舞う優雅な演目である。
平 敦盛(たいら の あつもり)は、平安時代末期の武将。平清盛の弟である平経盛の末子。位階は従五位下。官職にはついておらず、無官大夫と称された。笛の名手であり、祖父平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)[1]という笛を譲り受ける。 平家一門として17歳で一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、平氏側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷次郎直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った[3]。この事から、直実の出家の志が一段と強くなったという発心譚が語られる。「延慶本」や「鎌倉本」では、直実が敦盛の笛(または篳篥)を屋島にいる敦盛の父経盛の元に送り、直実の書状と経盛の返状が交わされる場面が描かれている。淡路島煙島に敦盛の史跡がある。 この『平家物語』の名場面は、のちに能『敦盛』、幸若舞『敦盛』、謡曲『敦盛』、歌舞伎『一谷嫩軍記』などの題材となった。織田信長の好んだ歌『人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか』は幸若舞の『敦盛』の一節である。
作者 世阿弥   形式 複式夢幻能  能柄<上演時の分類> 二番目物 修羅能
現行上演流派   観世・宝生・金春・金剛・喜多

■人物について    平敦盛(たいらのあつもり)
 平清盛の甥で、兄に能『経政』の平経正がいる。一ノ谷合戦で、熊谷直実に討たれる。時に16歳(17歳とも)。五位で官職はなかったので「無官の大夫」と呼ばれていた。おそらく元服直後に都落ちすることになったか。合戦以前の敦盛を語る記録はほとんど存在しない。
 敦盛の享年にちなんだ「十六」という能面が存在し、『敦盛』のほか『経政』『朝長』などに使われる。 ところで敦盛をシテとする曲には他に『生田敦盛』があって、その曲には子方として敦盛の子どもが登場する。…なにぃ? 16歳で死んだくせに、お嫁さんがいたわけで。しかも御伽草子『小敦盛』によると超美人らしい。

■ゆげひ的雑感 (2002/11/25)
 この曲は修羅物ではありますが、カケリを舞わず中之舞(もしくは黄鐘早舞、男舞)を舞う優雅な曲です。この曲の元になった『平家物語』敦盛最期のことを簡単に書くと。 先陣を切ったものの名のある大将首を挙げられなかった直実は焦っていた。すると、前方に美々しい鎧兜を身につけた武者が沖の方へ馬を進めていくのが見える。 あれは大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも敵に後ろを見せさせ給ふものかな。返させ給へと直実が呼びかけると、武者は引き返してきた。2人は馬を並べて戦いますが、地に落ちたところで直実が押さえつけて首を落とそうと顔を見ると、息子・小太郎と同じほどの年齢ではないか。 そもそもいかなる人にてましまし候ぞ。名乗らせ給へ。助け参らせん 先に息子が負傷しただけでも千々に乱れた我が心。その際の気持ちを思い出し、そして目の前の公達の父親のことに想いが至り、とても手をかけることはできない直実。しかし若武者は答えます。「ただ疾々頸をとれ」振り返ると味方の軍勢が続いてきた。味方の手前、もはや逃すことはできない。直実は泣く泣く若武者の首を打ち落とします。その際の直実の言葉が、あはれ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかる憂き目をば見るべき。情けなううち奉るものかな 武士たる我が身を恨む言葉でした。この若武者は、腰に身につけていた「小枝」という笛より、大夫平敦盛と分かったといいます。泣く泣く敦盛を討ったことは、直実が前から持っていた無常感を更に強いものとしました。そのため、後に浄土宗の開祖・法然の元で出家して蓮生と名乗るのです。 ところで、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』には、直実の出家について全く違う説が載っています。直実は、幼いころに父を亡くし叔父の久下直光に養われたのですが、直実が都で平知盛に仕えている間に、直光が所領の熊谷郷を横領してしまったのでした。それ以来、直光との所領争いは長く続きます。一ノ谷で直実が危険な先陣を争ってまで求め、また、逃げる敦盛を呼び掛けてまで大将と戦おうとしたのは、ただ名誉だけのためではなく、熊谷郷の所領権を頼朝に認めてもらうためでもありました。 そして建久3年(1192)、所領争いについに将軍頼朝の裁決を仰ぐことになったのですが、直実は武勇はあっても口下手だったらしく、形勢は不利になる一方。ついに頼朝側近の梶原景時に向かって「景時が直光をひいきして将軍に申し上げている。これでは俺に勝ち目はない。こんなものは無用だ」と叫び、証拠の文章を破り捨て席を蹴り、侍所で髻を切って、そのまま出奔してしまったそうなのです。 こう見ると、敦盛の死に世の無常を感じて出家した、というのとは随分イメージが変わってきますが、『吾妻鏡』もまた鎌倉時代後期の編纂物で、説話や伝承の類が多く採られていて完全に信用がおけるものではないそうです。その1つの証拠に、『熊谷家文書』と呼ばれる一群の文書の中に、『吾妻鏡』が出家したとする建久3年の前年に「地頭僧蓮生」と署名されたものが存在します。とすると、出家したのは建久2年(1191)以前に直実は出家したことになります。 直実の出家に関しては、結局はっきりしたことは分かりません。ただ彼が法然の弟子となり、念仏往生を遂げたことは史実のようです。私は、出家の直接の原因は所領争いにあったのかもしれませんが、出家後、法然の弟子となり切に念仏往生を願い遂げたのは、元々敦盛を手にかけたことなどで、合戦の矛盾を感じていたからこそではないだろうか、と思います。敦盛最期の話と所領争いの話とは、熊谷直実という人物の中では決して矛盾することではないのです。 同じ蓮の蓮生法師。敵にてはなかりけり。跡弔ひて賜び給へ 出家した蓮生の弔いを受けて、敦盛の魂もまた敵も味方もない極楽へと往生したに違いない、と私は思います。これはあまりに綺麗事でしょうか。 

(平成23年6月17日 あさかのユーユークラブ 謡曲研究会)


         敦 盛                二番目(太鼓なし)

              季 秋
              所  摂津国須磨の浦  
           ツレ:・・草刈男
           前シテ:草刈男
           後シテ:平敦盛
           ワキ:・・蓮生法師

 〔次第〕
ワキ   「旅泊に憂きは入相の旅泊に憂きは入相の鐘こそとまりなりけれ。
 〔名乗リ〕
ワキ詞  「これは武蔵の国の住人。熊谷の次郎直実出家し。蓮生と申す法師にて候。
       さても敦盛を手に掛け申しし事。余りに御傷わしく候ほどに。
       かようの姿となりて候。またこれより一ノ谷に下り。
       敦盛の御菩提を弔い申さばやと思い候
 〔道行〕
ワキ   「九重の雲居を出でて行く月の。雲居を出でて行く月の。
       南にめぐる小車の淀山崎をうち過ぎて。昆陽の池水生田川波ここもとや須磨の浦。
       一ノ谷にも。着きにけり一ノ谷にも着きにけり
                          (前シテ・前ツレの登場)
シテ・ツレ「草刈笛の声添えて。草刈笛の声添えて吹くこそ野風なりけれ
 〔サシ〕
シテ   「かの岡に草刈る男子野を分けて。帰るさになる夕まぐれ
シテ・ツレ「家路もさぞな須磨の海。少しが程の通い路に。山に入り浦に出ずる。
       憂き身の業こそもの憂けれ
 〔下歌〕
シテ・ツレ「向わばこそ独り侘ぶとも答えまし
 〔上歌〕
シテ・ツレ「須磨の浦藻塩誰とも知られなば。
ツレ    「藻塩誰とも知られなば。
シテ・ツレ「我にも友のあるべきに。余りになれば侘び人の親しきだにも疎くして。
       住めばとばかり思うにぞ。憂きに任せて過ごすなり憂きに任せて過ごすなり
ワキ詞  「いかにこれなる草刈たちに尋ね申すべきことの候
シテ詞  「こなたのことにて候か。何事にて候ぞ
ワキ詞  「ただいまの笛はかたがたの中に吹き給いて候か
シテ詞  「さん候我らが中に吹きて候
ワキ詞  「あら優しや。その身にも応ぜぬ業。返すがえすも優しうこそ候へ
シテ詞  「その身にも応ぜぬ業と承れども。それ勝るをも羨まざれ。
       劣るをも賤しむなとこそ見えて候へ。
ツレ    「その上樵歌牧笛とて
シテ・ツレ「草刈の笛木樵の歌は。歌人の詠にも作り置かれて。世に聞こえたる笛竹の。
       不審な為させ給いそとよ
ワキ   「げにげにこれは理なり。さてさて樵歌牧笛とは
シテ   「草刈の笛木こりの歌の
ワキ   「憂き世を渡る一節を
シテ   「謡うも
ワキ   「舞うも
シテ   「吹くも
シテ・ワキ「遊ぶも
 〔上歌〕
地謡   「身の業の好ける心に寄り竹の。好ける心に寄り竹の。小枝蝉折様々に。
       笛の名は多けれども。草刈の吹く笛ならばこれも名は青葉の笛と思し召せ。
       住吉の汀ならば高麗笛にやあるべき。
       これは須磨の塩木の海士の焼き残しと思し召せ。海士の焼き残しと思し召せ
ワキ詞  「不思議やな余の草刈たちは皆々帰り給うに。御身一人留まり給うこと。
       何の故にてあるやらん
シテ詞  「何の故とか夕波の。声を力に来たりたり。十念授けおわしませ
ワキ詞  「易きこと十念をば授け申すべし。それにつけてもおことは誰そ
シテ詞  「まことは我は敦盛の。所縁の者にて候なり
ワキ    「所縁と聞けば懐かしやと。掌を合わせて南無阿弥陀仏
シテ・ワキ「若我成仏十方世界。念仏衆生摂取不捨
 〔下歌〕
地    「捨てさせ給うなよ。一声だにも足りぬべきに。毎日毎夜のお弔い。
       あらありがたや我が名をば。申さずとても明け暮れに。向かいて回向し給える。
       その名は我と言い捨てて姿も見えず失せにけり。姿も見えず失せにけり
                           (シテの中入り)
 〔待謡〕
ワキ   「これにつけても弔いの。これにつけても弔いの。法事をなして夜もすがら。
       念仏申し敦盛の。菩提をなおも。弔わん菩提をなおも弔わん
                           (シテの登場)
 〔一セイ〕
シテ   「淡路潟通う千鳥の声聞けば。寝覚めも須磨の。関守は誰そ
シテ   「いかに蓮生。敦盛こそ参りて候え
ワキ   「不思議やな鳬鐘を鳴らし法事をなして。まどろむ隙もなきところに。
       敦盛の来たり給うぞや。さては夢にてあるやらん
シテ詞  「何しに夢にてあるべきぞ。現の因果を晴らさんために。これまで現れ来たりたり
ワキ   「うたてやな一念弥陀仏即滅無量の。罪障を晴らさん称名の。
       法事を絶えせず弔う功力に。何の因果は荒磯海の
シテ   「深き罪をも弔い浮かめ
ワキ   「身は成仏の得脱の縁
シテ   「これまた他生の功力なれば
ワキ   「日ごろは敵
シテ   「今はまた
ワキ   「まことに法の
シテ   「友なりけり
地謡   「これかや。悪人の友を振り捨てて善人の。敵を招けとは。
       御身のことかありがたし。とても懺悔の物語夜すがらいざや申さん。
       夜すがらいざや申さん
 〔クリ〕
地謡   「それ春の花の樹頭に上るは。上水菩提の機を勧め。秋の月の水底に沈むは。
       下化衆生の。相を見す
 〔サシ〕
シテ   「然るに一門門を竝べ。
地謡   「累葉枝を連ねしよそおい。まことに槿花一日の栄に同じ。
       善きを勧むる教えには。遇うこと難き石の火の。
       光の間ぞと思わざりし身の習わしこそはかなけれ
シテ   「上にあっては。下を悩まし
地謡   「富んでは驕りを。知らざるなり
 〔クセ〕
地謡   「然るに平家。世を取って二十余年。まことに一昔の。過ぐるは夢の中なれや。
       寿永の秋の葉の。四方の嵐に誘われ散り散りになる一葉の。
       舟に浮き波に臥して夢にだにも帰らず。籠鳥の雲を恋い。帰雁列を乱るなる。
       空さだめなき旅衣。日も重なりて年月の。立ち帰る春の頃。
       この一ノ谷に籠りて暫しはここに須磨の浦
シテ   「後ろの山風吹き落ちて
地謡   「野も冴えかえる海際に。船の夜となく昼となき。千鳥の声も我が袖も。
       波に萎るる磯枕。海士の苫屋に共寝して。須磨人にのみ磯馴松の。
       立つるや夕煙柴と云ふもの折り敷きて。思いを須磨の山里に。
       かかる所に住まいして。須磨人になり果つる一門の果てぞ悲しき
シテ詞  「さても如月六日の世になりしかば。親にて候経盛我らを集め。
       今様を謡い舞い遊びしに
ワキ   「さてはその夜の御遊びなりけり。城の内にさも面白き笛の音の。
       寄手の陣まで聞こえしは
シテ詞  「それこそさしも敦盛が。最期まで持ちし笛竹の
ワキ   「音も一節を謡い遊ぶ
シテ   「今様朗詠
ワキ   「声ごえに
地謡   「拍子を揃え声を上げ
                             (中之舞)
シテ   「さる程に。御船を始めて
地謡   「一門皆々船に浮かめば乗り遅れじと。汀に打ち寄れば。
       御座船も兵船も遥かに延び給う
シテ   「せん方波に駒を控え。呆れ果てたる。有様なり。かかりけるところに
地謡   「後ろより。熊谷の次郎直実。遁さじと追っ駈けたり敦盛も。馬引き返し。
       波の打ち物抜いて。二打ち三打ちは打つとぞ見えしが馬の上にて。
       引っ組んで。波打際に落ち重なってついに。討たれて失せし身の。
       因果はめぐり逢いたり敵はこれぞと討たんとするに。仇をば恩にて。
       法事の念仏して弔わるれば。終には共に。生まるべき同じ蓮の蓮生法師。
       敵にてはなかりけり。跡弔いて。賜び給え。跡弔いて賜び給え


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