宝生流謡曲 定  家

●あらすじ
北国から上って来た旅の僧が、都千本辺りで暮色を眺めているうち、俄かに時雨が降ってきたので、雨宿りをしていると、そこに一人の若い女が現れ、ここは歌人藤原定家が建てた時雨の亭(ちん)だと教えます。女は昔を懐かしむかに見え、定家の歌を詠み、僧を式子内親王の墓に案内します。もと賀茂の斎院だった内親王は、定家と人目を忍ぶ深い契りを結ばれましたが、世間に漏れたため、逢うことが出来ないまま亡くなりました。それ以来定家の執心が、葛となって内親王の墓にまといつき、内親王の魂もまた安まることがなかったと女は物語り、自分こそが式子内親王である、どうかこの苦から救いたまえと言って失せます。その夜、僧が読経して弔うと、内親王の霊が墓の中から現れ、法の力によって成仏したことを喜び、報恩のためと舞を舞います。やがてもとの墓の中に帰り、再び定家葛にまといつかれて姿を消します。 
 (「宝生の能」平成11年10月号より)

●宝生流謡本  内十二巻の三    三番目(太鼓なし)
 素謡 : 季節=冬  場所=京都千本邊  稽古順=奥伝  素謡時間=70分 
 素謡座席順    シテ=前・里 女 後・式子内親王 
             ワキ=旅 僧

●藤原定家                出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ヨリ
藤原 定家(ふじわら の さだいえ)1162年(応保2年)〜1241年9月26日(仁治2年8月20日))享年81歳は、鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と有職読みされることが多い。藤原北家御子左流で藤原俊成の二男。最終官位は正二位権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。法名は明静(みょうじょう)。 平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、御子左家の歌道の家としての地位を不動にした。 代表的な新古今調の歌人であり、その歌は後世に名高い。俊成の「幽玄」をさらに深化させて「有心(うしん)」をとなえ、後世の歌に極めて大きな影響を残した。京都市中京区に藤原定家京極邸址がある。

●解説  今春禅竹『定家』        www.geocities.co.jp/Colosseum/5704/20021008_004.htmヨリ
恋の永劫回帰
定家と式子内親王の忍ぶ恋。死しても式子の情念は雨となり、定家の妄執は葛となって式子の墓にからみつく。成仏して解放を選ぶか、永劫抱きすくめられる地獄の恋を選ぶか。 花や草木の精を劇の主人公にするという世界的に珍しい戯曲のパイオニアは、「西行桜」を書いた世阿弥だが、「西行桜」では老桜とはいうもののあくまで花の美しさがテーマであり、また、この種の能は世阿弥の能のほんの一部分にすぎない。 ところが、世阿弥の娘婿の金春禅竹の場合、その代表作といえる「芭蕉」「定家」では二つながら花の美しさとは無縁の植物そのものがテーマとなっている。 「芭蕉」は夏に丈高く繁茂し、冬はあとかたもなく枯れ消えてしまう芭蕉葉の不思議な生命を見つめるところから発想された曲である。 「定家」は式子内親王の墓に死後も式子を愛してやまない藤原定家の執心が、定家葛となってからみつくという能である。
重要な「雨」のイメージ
「山より出ずる北時雨、山より出ずる北時雨、行方や定めなかるらん」というワキ僧の謡(うたい)で始まる『定家』にあって、「雨」は全曲を貫くキー・イメージである。 その雨は、定家蔓をはびこらせる生命力の源であると同時に、この曲に冷え冷えとした触感をもたらし、さらには恋の仕掛けを暗示しもする。 ワキ僧が都を訪れ、冬枯れの梢に紅葉が残る夕暮れの景色を嘆賞しているところへ、にわかに時雨が降りかかる。僧がかつて藤原定家が建てた「時雨亭」に雨宿りすると、時雨を追うようにして、式氏内親王の化身(前シテ)があらわれる。 時雨とは、どうやら式氏内親王の精魂のようなのだ。 夕暮れ時の雨には、中世の人々がこれこそ「幽玄」の極致と考え、思い浮かべる共通のイメージがある。
中国の故事
 四川省の高唐という揚子江沿いの名勝地に遊んだ楚の懐王が昼寝をしていると、夢の中に一人の婦人があらわれ、契りを交わした。婦人は巫山(ふざん)の神女(しんにょ)と名のり、「せめて形見だけでも残していってくれ」と頼む王に、「巫山の南、高丘の崖にあって、朝(あした)には雲となり、夕べには雨となって王の前にあらわれましょう」と約束して、夢の中から消えた。次代の襄王(じょうおう)が高唐に来て、巫山に独特の雲気が刻々と変化する様に感心しなにかあるのか臣下の宋玉(そうぎょく)に聞いたところ、宋玉は、先代の懐王と神女の夢の中の話を語った。
 楚王が夢中で契った優艶な美女が、高丘の崖に「朝の雲」となってあらわれ、「夕べの雨」となって降るという、『文選』(6世紀前半成立)「高唐賦」の話である。 「朝の雲」「夕べの雨」は、じつは『定家』では、後シテ式氏内親王の出の場面に直接引かれている。 幕におおわれた作り物の墓の中で、後シテの式氏内親王は、「夢かとよ、闇のうつつの宇津の山、月にも辿る、蔦の細道」と、亡魂が冥途の闇から現世の光の中へ戻ってくる様を自ら謡う。墓の中で、仮死状態から覚醒した式氏の亡魂がまず思うことは、藤原定家との様々な恋愛シーンであり、様々な情事である。しかし、やがて二人ともこの世から姿を消す。美しい愛の世界や肉体の世界は消えてしまい、その果てに「朝の雲」があらわれ「夕べの雨」が降る。 後シテ式氏内親王は、特にこの「夕べの雨」を内にこめた強い息で長く引いて謡うことで定家との忍ぶ恋の思い出に身を浸しながら、夕べの雨に自らを一体化させていくのだ。 そのような式氏内親王の精魂が、前場冒頭のシーンでは夕時雨となって、定家の「時雨亭」に降りこめていたのである。
まといつく蔓の両義性
逆に、藤原定家の執心は、定家蔓となって式氏の墓に幾重にもまといついていた。このように、式氏内親王と定家が水や植物によって触れ合い、粘着し、「互いの苦しみ離れやらず、共に邪淫の妄執」に悩むのが、能「定家」の永劫回帰的な深く暗い恋の世界であった。定家蔓が式氏内親王の墓石に幾重にもまとわりつく、という発想の源には、「秋こそあれ人は尋ねぬ松の戸を幾重も閉じよ蔦のもみじ葉」(秋にはなったけれども人は尋ねてくるのだわ。幽閉されたような私の家ですけれど、さらに何重にも閉じておくれ、蔦のもみじ葉よ)  (『新勅撰和歌集』=1235年成立=345番)といった、式氏内親王の歌があるだろう。 しかし、金春禅竹の鋭敏な感性は、この歌の核心をしっかりと聴き分けていた。閉じこめられることにマゾヒスティックな喜びさえ感じる倒錯のかすかな響きをそこに聴き取っていたのである。その響きは、能において拡大され、『定家』の重要なテーマを構成する。 つまり、禅竹の『定家』にあって定家蔓とは、愛の喜びと苦しみの両義性の象徴なのである。定家蔓に身を閉じられて身動きもとれない苦しみ、それは、死後も定家にずっと抱きすくめられている女の官能の喜びと裏腹のものだ。 そうでなければ、どうして式氏が、最後の場面で、蔦にからみつかれつつ墓に帰り、墓に埋もれていくことがあろうか。
 後場、ワキ僧の読誦(どくじゅ)する『法華経』「薬草喩品(やくそうゆぼん)」の「一味の雨」により、まつわりついていた定家蔓は解け広がり、式氏内親王はいったん、墓から出ることができた。そして式氏は僧に感謝して舞を舞うのだけれど、舞が終わると、その美しい容貌は次第に衰え、崩れ、ついには葛城の神のような醜悪な姿に変じてしまう。『法華経』による業苦からの開放は、一方で、愛のエネルギーの欠乏による容貌の崩壊を式氏にもたらしたのである。
 『法華経』による開放をとるか、それとも、地獄の業苦を永劫に受けながらも、蔦となった定家に抱きすくめられて美しい容貌でいられる墓の中をとるか。 式氏は墓を選びとって、その中に自ら再び埋もれていくのである。
(松岡心平) (参考図書)「世阿弥・禅竹」岩波書店、日本思想大系、1995年

(平成22年6月5日 あさかのユーユークラブ 薫土謡会)


       定  家     三番目(太鼓なし)  

       シテ=前・里 女 後・式子内親王              季節  冬
       ワキ=旅 僧                          場所  京都千本邊

ワキ   「山より出づる北時雨、山より出づる北時雨、行ゑや定めなかるらん。
ワキ   「是は北國より出たる僧にて候、我未だ都を見ず候程に、此度思ひ立都に上り候。
ワキ   「冬立つや、旅の衣の朝まだき、旅の衣の朝まだき、雲も行違遠近の、山又山
      を越過て、紅葉に殘る眺めまで、花の都に着にけり、花の都に着にけり。
ワキ   「急ぎ候程に、是ははや都千本あたりにて有げに候、暫く此あたりに休らはばやと思ひ候。
      面白や比は神無月十日あまり、木々の梢も冬枯れて、枝に殘りの紅葉の色、
      所々の有樣までも、都の氣色は一入の、眺め殊なる夕かな、荒笑止や、
      俄に時雨が降り來りて候、是に由有げなる宿りの候、立寄り時雨を晴らさばやと思候。
シテ   「なふなふ御僧、其宿りへは何とて立ち寄り給ひ候ぞ
ワキ   「唯今の時雨を晴らさむために立寄りてこそ候へ、扨ここをばいづくと申候ぞ
シテ   「それは時雨の亭とて由ある所なり、
      其心をも知ろしめして立寄らせ給ふかと思へばかやうに申なり。
ワキ   「げにげに是なる額を見れば、時雨の亭と書かれたり、折から面白うこそ候へ、
      是はいかなる人の立置かれたる所にて候ぞ。
シテ   「是は藤原の定家卿の建て置き給へる所なり、都のうちとは申ながら、心凄く、
      時雨物哀なればとて、此亭を建て置き、時雨の比の年々は、
      爰にて歌をも詠じ給ひしとなり、
シテ   「古跡といひ折からといひ、
      其心をも知ろしめして、逆縁の法をも説き給ひ、彼御菩提を御とぶらひあれと、
      勧め參らせん其ために、これまで顯れ來りたり
ワキ   「扨は藤原の定家卿の建て置き給へる所かや、扨々時雨を留むる宿の、
      歌は何れの言の葉やらん
シテ   「いや何れとも定めなき、時雨の比の年々なれば、
      分きてそれとは申がたし去ながら、時雨時を知るといふ心を、
      偽のなき世なりけり神無月、誰がまことより時雨れ初めけん、
      此言書に私の家にてと書かれたれば、若此歌をや申べき
ワキ   「實にあはれなる言の葉かな、さしも時雨は偽の、なき世に殘る跡ながら
シテ   「人は徒なる古事を、語れば今も假の世に
ワキ    「他生の縁は朽ちもせぬ、是ぞ一樹の陰の宿り
シテ    「一河の流を汲みてだに
ワキ    「心を知れと
シテ   「折からに
地     「今降るも、宿は昔の時雨にて、宿は昔の時雨にて、心すみにし其人の、
      哀を知るも夢の世の、實定めなや定家の、軒端の夕時雨、古きに歸る涙かな、
      庭も籬もそれとなく、荒れのみ増さる草むらの、露の宿りも枯れ/\に、
      物凄き夕べ成りけり、物凄き夕べ成りけり。
シテ   「今日は心ざす日にて候ほどに、墓所へ參り候、御參候へかし。
ワキ   「それこそ出家の望にて候へ、頓而參らふずるにて候。
シテ   「なふなふ是なる石塔御覧候へ
ワキ    「不思議やな是なる石塔を見れば、星霜古りたるに蔦葛這ひ纏ひ、
      形も見えず候、是は如何なる人のしるしにて候ぞ
シテ   「是は式子内親王の御墓にて候、又此葛をば定家葛と申候
ワキ   「荒面白や定家葛とは、いかやうなる謂れにて候ぞ御物語候へ
シテ   「式子内親王始めは賀茂の齋の宮にそなはり給ひしが、
      程なく下り居させ給しを、定家卿忍び/\御契り淺からず、
      其後式子内親王ほどなく空しく成給ひしに、定家の執心葛となつて御墓に這ひ纏ひ、
      互ひの苦しび離れやらず、共に邪婬の妄執を、
      御經を読み弔ひ給はば、猶々語り參らせ候はん。
地     「忘れぬものをいにしへの、心の奥の信夫山、忍びて通ふ道芝の、露の世語由ぞなき。
シテ   「今は玉の緒よ、絶えなば絶えねながらへば
地    「忍ぶることの弱るなる、心の秋の花薄、穂に出初めし契りとて、
      また離れ/\の中となりて
シテ   「昔は物を思はざりし
地    「後の心ぞ、果てしもなき。
地クセ  「あはれ知れ、霜より霜に朽果てて、世々に古りにし山藍の、袖の涙の身の昔、
      憂き戀せじと禊せし、賀茂の齋院にしも、そなはり給ふ身なれ共、
      神や受けずも成にけん、人の契りの、色に出けるぞ悲しき、包むとすれど徒し世の、
      徒なる中の名は洩れて、外の聞えは大方の、空恐ろしき日の光、
      雲の通路絶え果てて、乙女の姿留め得ぬ、心ぞ辛きもろともに
シテ   「實や歎く共、戀ふ共逢はむ道やなき
地     「君葛城の峰の雲と、詠じけん心まで、思へばかかる執心の、
      定家葛と身は成て、此御跡にいつとなく、離れもやらで蔦紅葉の、色焦がれ纏はり、
      荊の髪も結ぼほれ、露霜に消えかへる、妄執を助け給へや。
地     古りにし事を聞からに、今日もほどなく呉織、あやしや御身誰やらむ
シテ   「誰とても、亡き身の果ては淺茅生の、霜に朽にし名ばかりは、殘りても猶由ぞなき
地     「よしや草場の忍ぶ共、色には出でよ其名をも
シテ   「今は包まじ
地     「この上は、われこそ式子内親王、是まで見え來れ共、
      まことの姿はかげろうふの、石に殘す形だに、それ共見えず蔦葛、
      苦しびを助け給へと、言ふかと見えて失せにけり、言ふかと見えて失せにけり
                             中入
ワキ待謡「夕も過ぐる月影に、夕も過ぐる月影に、松風吹て物凄き、
      草の陰なる露の身を、念ひの玉の數々に、とぶらふ縁は有難や、とぶらふ縁は有難や。
後シテ  「夢かとよ、闇のうつつの宇津の山、月にも辿る蔦の細道。
シテ上  「昔は松風蘿月に詞を交はし、翠帳紅閨に枕を並べ。
地     「樣々なりし情の末。
シテ   「花も紅葉も散々に。
地     「朝の雲。
シテ   「夕の雨と。
地     「古言も今の身も、夢も現も幻も、共に無常の、世となりて跡も殘らず、
      なに中々の草の陰、さらば葎の宿ならで、そとはつれなき定家葛、是見給へや御僧。
ワキ    「荒痛はしの御有樣やあらいたはしや、佛平等説如一味雨 随衆生性所受不同
シテ   「御覽ぜよ身は徒波の立ち居だに、亡き跡までも苦びの、定家葛に身を閉ぢられて、
      かかる苦しび隙なき所に、有難や。
シテ    「唯今讀誦給ふは薬草喩品よなふ。
ワキ    「中々なれや此妙典に、洩るる草木のあらざれば、
      執心の葛をかけ離れて、佛道ならせ給ふべし
シテ   「荒有難や、げにもげにも、是ぞ妙なる法の教へ
ワキ    「普き露の惠みを受けて
シテ   「二つもなく
ワキ    「三つもなき。
地     「一味の御法の雨の滴り、皆潤ひて草木国土、悉皆成佛の機を得ぬれば、
      定家葛もかかる涙も、ほろ/\と解け広ごれば、よろ/\と足弱車の、
      火宅を出でたる有難さよ。この報恩にいざさらば、ありし雲井の花の袖、
      昔を今に返すなる、其舞姫の小忌衣。
シテ   「面無の舞の
地     「あり樣やな。
シテ   「面無の舞の有樣やな。
地     「面無や面映ゆの、有樣やな
シテ   「本より此身は
地     「月の顏はせも
シテ   「曇りがちに
地     「桂の黛も
シテ   「おちぶるる涙の
地     「露と消えても、つたなや蔦の葉の、葛城の神姿、恥づかしやよしなや、
      夜の契りの、夢のうちにと、有つる所に、歸るは葛の葉の、もとのごとく、
      這ひ纏はるるや、定家葛、這ひ纏はるるや、定家葛の、
      はかなくも、形は埋もれて、失せにけり。


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