俊 寛(しゅんかん)

● あらすじ
この曲は平家物語より世阿弥が能に作成したもので、東山鹿ケ谷で平家滅亡を陰謀した俊寛・康頼・成経等が露見して鬼界ヶ島に流された後の俊寛ら三人は、望郷の日々を過ごし、成経と康頼は千本の卒塔婆を作り海に流すことを発心する。やがて、一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着く。 これに心を打たれた平清盛は、高倉天皇の中宮となっている娘の徳子の安産祈願の恩赦を行う。
翌、安元4年1178年に船が鬼界ヶ島にやって来るが成経と康頼のみが赦されており、俊寛は謀議の張本者という理由から赦されず島に一人とり残された。

●宝生流謡本   内十巻の二    四番目   (太鼓なし)
   季節=秋  場所=薩摩国鬼界ヶ島  稽古順=初奥  素謡時間50分 作成者=世阿弥
   素謡座席順    ツレ=成経
               ツレ=康頼
               シテ=俊寛   
               ワキ=赦免使

●俊寛(しゅんかん)の生涯
俊寛の墓(喜界島)にある。俊寛、康治2年(1143年)〜 治承3年3月2日(1179年4月10日))は平安時代後期の真言宗の僧。村上源氏の出身で、木寺(仁和寺院家)の法印寛雅の子。別の呼び名として、僧都と呼ばれる位の名を付け俊寛僧都(しゅんかんそうず)などとも呼ばれる。
後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあった。安元3年(1177年)、藤原成親・西光らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた(ただし、『愚管抄』によれば、信西の子・静賢の山荘で密談が行われたとされている)。だが、密告により陰謀は露見し、俊寛は藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流された。(鹿ケ谷の陰謀)
『源平盛衰記』によると、成親卿は松の前・鶴の前という二人の殿上童を使って、俊寛を鹿ケ谷の陰謀に加担させたという事になっている。松の前は美人だが愛情の足りない女で、鶴の前は不美人だが愛情に溢れた女であった。成親卿がこの二人に俊寛の酒の相手をさせた所、鶴の前に心をよせて女児を生ませた。すっかり鶴の前に心を奪われた俊寛は、謀反に加担する事を同意したのだ、という。    『源平盛衰記』の波巻第三「成親謀叛の事」
『平家物語』によると、鬼界ヶ島に流された後の俊寛ら三人は望郷の日々を過ごし、成経と康頼は千本の卒塔婆を作り海に流すことを発心するが、俊寛はこれに加わらなかった。やがて、一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着く。 これに心を打たれた平清盛は、高倉天皇の中宮となっている娘の徳子の安産祈願の恩赦を行う。 翌安元4年1178年に船が鬼界ヶ島にやって来るが成経と康頼のみが赦されており、俊寛は謀議の張本者という理由から赦されず島に一人とり残された。俊寛は絶望して悲嘆に暮れる。 翌安元5年(1179年)、俊寛の侍童だった有王が鬼界ヶ島を訪れ、変わり果てた姿の俊寛と再会した。有王から娘の手紙を受け取った俊寛は死を決意して、食を断ち自害した。享年37歳、有王は鬼界ヶ島より俊寛の灰骨を京へ持ち帰った。
  『平家物語』巻の二、卒塔婆流し
  『平家物語』巻の三、赦し文
  『平家物語』巻の三、足摺り
  『平家物語』巻の三、有王
  『平家物語』巻の三、僧都死去

●流刑地について
俊寛が流された鬼界ヶ島の場所については、鹿児島県大島郡喜界町の喜界島、鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島、長崎県長崎市の伊王島など諸説ありはっきりしていない。また、ひそかに島を脱出したという説も多く、鹿児島県阿久根市や出水市、佐賀県佐賀市などにも俊寛に関する言い伝えが残っている。

●俊寛にちなんだ作品
世阿弥『俊寛』
近松門左衛門『平家女護島』
倉田百三『俊寛』(1918) 戯曲。
有王から俊寛の家族はみな死に絶えたと聞き、俊寛は岩に頭をぶつけて自殺する。
菊池寛『俊寛』(1921)
俊寛は島の娘と結婚し、健康に暮らしていたという、ロビンソンクルーソーのような話。
芥川龍之介『俊寛』(1922)
俊寛は現地妻と隠遁生活。倉田百三や菊池寛の作を踏まえて書かれている。
本條秀太郎『俚奏楽 俊寛』(1997) 舞踊 俚奏楽。作詞 道葉荻、作曲 本條秀太郎。

●解 説
第13回照の会 「俊寛」によせて                     上田拓司
 鹿の谷にある俊寛僧都の山荘において平家を滅ぼさんとする謀り事が発覚し、俊寛僧都、平判官康頼、丹波少将成経は九州薩摩潟の鬼界ヶ島の流人となりました。又、都では中宮、後の建礼門院の御出産の御祈りの為に大赦が行われる事となり、成経、康頼の二人を赦免する使いが出発します。能「俊寛」はここから始まります。
 成経、康頼の二人は都に在りし頃立願した、三十三度の熊野参詣を続ける思いで、鬼界ヶ島に三熊野を勧請し、九十九所の王子の社も作り神への参詣を続けています。
 俊寛は水を酒と言って二人を迎えにやってきます。最初の言葉が「後の世を待たで鬼界が島守となる身の果の冥きより冥き途にぞ入りにける。」です。俊寛は、後の世を待たないで、つまり死んでもないのに、鬼界ヶ島の島守になってしまった。鬼の住む島に来てしまった。冥土から冥土にそのまま入ってしまった。鬼界が島へ流されても神ヘ歩を運ぶ、成経、康頼の二人とはあまりに違う心です。 酒とは、もとは薬の水であり、頃も長月重陽、九月九日であり、彭祖(菊慈童のシテ)が飲んで七百歳を経たという谷水も同じ心であると、三人は水を飲み、都へ帰りたいと深く思います。
 そこへ赦免状を持った使いが到着します。赦免状に書かれた名は、成経、康らいの二人のみ、赦免の使いの言葉も二人のみです。俊寛は「罪も同じ罪、配所も同じ配所、非常も同じ大赦…ひとり誓いの網に洩れて」と嘆きますが、力及びません。「時を感じては、花も涙を濺ぎ、別れを恨みては、鳥も心を動かせリ。」杜甫の「春望」ですが、俊寛の心を思いやられます。 成経、康頼は都へ船出しますが、俊寛は一人、島に残されます。平家物語巻第三「足摺」には船出する時の様を「僧都綱に取つき、腰になり、脇になり、たけの立つまではひかれて出、たけも及ばず成りければ、船に取つき…」とあります。俊寛僧都は、船のとも綱に取つき、船に引っ張られ、水に入って行き、足が立たなくなると船に取つき…、都からの使いに手を引きのけられ、俊寛は渚に上がり涙に暮れその夜はその場所に明かしたとの事です。子供の頃、絵本で見た「有王」の事などを思い返し、俊寛はどんな人であっただろうと思い巡らしております。        
平成19年11月18日 照の会

(平成25年12月20日 あさかのユーユークラブ 謡曲研究会)