当 麻 (たえま)
●あらすじ
ある念仏僧が紀州三熊野の帰途、大和の当麻寺に詣でた。そこへ若い女をつれた老尼が来かかる。僧の問いに老尼は、極楽浄土を描いた曼荼羅を作った中将姫について語る。この山に籠もり、毎日経を読誦して本当の弥陀如来を拝みたいと祈り続け、ある夜突然弥陀が老尼姿で現れ、姫は感涙で袖を濡らしたという話をした。実は自分らがその時の中将姫に見えた阿弥陀如来、観世音菩薩なのだと告げると、二人は昇天していった。僧が読経しいると妙音が聞こえ光明がさし、歌舞の菩薩が見えてきた。それは生前、日々経をとなえた中将姫の霊で、弥陀の浄土を賛美し、経の功徳を説き、舞を舞う。
●宝生流謡本
内九巻の五 四五番目又は初番目 (太鼓あり)
季節=春 場所=大和国当麻寺 作者=世阿弥
素謡稽古順=中伝奥之分 素謡時間=60分
素謡座席順 ツレ=女
シテ=前・老尼 後・中将姫
ワキ=旅僧
●能「当麻(たえま)」〜宝生流〜 in
宝生能楽堂
2007年7月14日(土)NHK教育テレビ 15:00〜16:55
前シテ・老尼 後シテ・中将姫 近藤乾之助
ツレ・女 金井雄資
ワキ・旅僧 福王茂十郎
ワキツレ・縦僧 福王和幸 福王知登 アイ・門前の者 野村萬
笛 松田弘之 小鼓 幸清次郎 大鼓 亀井忠雄 太鼓 観世元伯
後見 三川泉 朝倉俊樹 地謡 佐野萌 他
念仏僧が當麻寺に詣でると、信心深げな老尼と腰元らしい若い女が来かかる。僧の尋ねに応じて老尼は當麻曼陀羅の縁起を語り、中将姫が籠もったという二上山に姿を消した。やがて中将姫の精霊が現れ、弥陀浄土を賛嘆して舞を舞う。宝生の能楽堂で、近藤乾之助師の当麻を見た。 それはさておき、あらすじを読むと、なんとベスト小説・折口信夫「死者の書」は、この当麻寺曼荼羅の伝説に想を得て創作されたという。うかつにも全く知らなかった。
「死者の書」の中将姫は、阿弥陀に導かれて、二上山に眠る大津皇子を思って着物を織り上げる。
●當麻寺(当麻寺) 所在地
奈良県葛城市當麻1263
當麻寺(たいまでら、新字体:当麻寺)は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院。法号は「禅林寺」。山号は「二上山」。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっている。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。
西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多くの見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。奈良時代
- 平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られる。
中将姫説話
としては、当麻氏の氏寺として始まった當麻寺は、中世以降は中将姫伝説と当麻曼荼羅の寺として知られるようになる。当麻曼荼羅の原本については、中将姫という女性が蓮の糸を用い、一夜で織り上げたという伝説がある。中将姫については、藤原豊成の娘とされているが、モデルとなった女性の存在は複数想定されている。
●演能記 当麻 喜多流能楽師 粟谷能夫
私が『当麻』という曲に本当に出会ったのは観世寿夫さんの舞囃子でした。シテの身体より出る圧倒的な力を感じました。それは曲に対する思いや、曲のもっている世界、そしてシテの思想ともいうべきものが綾をなしていたのだと思います。それから数十年経て、私自身の『当麻』を演ずることとなりました(平成十六年春の粟谷能の会)。いつもどおりに謡本の読み込みや資料集めに取り掛かりました。二上山の麓の寺となれば、悲劇の死をむかえ、古墳の闇から復活した大津皇子の魂と藤原郎女(中将姫)との交感を題材とした折口信夫の「死者の書」があり、多くの教示をいただきました。
余談ですが中将姫の父である横佩の右大臣藤原豊成の横佩とは、当時縦にさげて佩(は)く大刀を横だへ(え)て吊る佩き方を考え出したことによるもので、豊成は伊達者であったそうです。そして『当麻』の世界を的確にとらえた小林秀雄の文章です。「中将姫の精魂が現れて舞う。音楽と踊りと歌との最小限度の形式、音楽は叫び声の様なものとなり、踊りは日常の起居の様なものとなり、歌は祈りの連続の様なものになって了っている。そして、そういうものがこれでいいのだ、他に何が必要なのか、と僕に絶えず囁いている様であった。音と形との単純な執拗な流れに、僕は次第に説得され征服されて行く様に思えた。」小林氏は能『当麻』の描く世界を直感し、能の持つ、呪術的な力を感覚的に受け止めています。恍惚とするような歓喜の状態に入り込んだのでしょう。このあたりにこの曲の本質があるのだと私は思います。そして「中将姫のあでやかな姿が、舞台を縦横に動き出す。それは、歴史の泥中から咲き出でた花の様に見えた。人間の生死に関する思想が、これほど単純な純粋な形を取り得るとは。」と言っています。昭和十七年に梅若万三郎の『当麻』を見て「無常という事」に書いたものです。私も『当麻』は浄土経の讃美歌の様な曲で、人間の一生が下敷きになっていると思うのです。
前シテの老尼はツレの侍女「若い女」を伴って現れ、念仏を勧め、中将姫について語ります。そして二人は阿弥陀如来と観世音菩薩の化身である、化尼、化女であると言って中入りとなります。この前シテとツレは、生身の阿弥陀如来と中将姫の化身であるととらえても良いのではないでしょうか。双方とも、人生を悟った人の心と、未だ無垢な少女のような人の心のゆらぎを抱えているように思われます。後シテは中将姫の霊として現れ、法悦の姿を表し「早舞」を舞います。宗教性を高度な音楽性によって表現するような「早舞」と言われますが、私は西方浄土の空気のようなものを舞っているのだと考えています。
先代観世銕之亟さんはこの曲の「早舞」とは曼荼羅を織っているのだとおっしゃっていました。まさにシテの『当麻』に対する思いや考えをタテ糸にし様々な教え等を横糸として織り上げて行くものだと思うのです。 女が織物をする――。この行為は、とても神秘的であり官能的だ。今でもその小説が目に浮かんでくるようだ。絶対、再読しよう。
●梅若家一門による先祖祭。
梅若玄祥(56世梅若六郎改め)の曾祖父初代梅若実没後100年、祖父2代目梅若実没後50年となる。 梅若玄祥は現在、能楽会で人気、実力ともに第一人者として活躍。能楽界のみならず様々な分野、そして海外の芸術家達に常に注目されている。最近では世界のプリマ、マイヤ・プリセツカヤとのコラボレーションなどメタカルチャ−の創造活動にも貢献している。
初代梅若実(52世梅若六郎)は明治維新の混乱期、能楽が衰退する中、能楽堂の建設や自宅の敷舞台での演能、それまで非公開だった能を一般に有料で公開するなどした。明治期の能楽復興の功労者。16世宝生九郎、桜間伴馬とともに明治三名人と謳われる。 2代目梅若実(54世梅若六郎)は初代実の三男。兄万三郎とともに名声富に高く万六銕の黄金時代を築いて時の能楽界を風靡した。今は一般化した薪能、大衆能、劇場能、婦人能など先駆ける。晩年は孫善政(梅若玄祥)の教育に過ごした。
会場 国立能楽堂 2009年7月3日(金) (〒151-0051 東京都渋谷区千駄ヶ谷4-18-1)
(たけうちあきこ 東京大学大学院 比較文学)
(平成23年10月8日 あさかのユーユークラブ
謡曲研究会)
当 麻 (たえま)
季 春 所 大和国当麻寺 素謡時間 60分
【分類】四五番目又は初番目
(太鼓あり)
【作者】 典拠:
【登場人物】前シテ:老尼、後シテ:中将姫 ツレ:女 ワキ:旅僧
詞 章 (胡山文庫)
ワキ
次第上 教うれしき法の門。/\。ひらくる道に出でうよ。
ワキ 詞
「これは念仏の行者にて候。我此度三熊野に参り。今は下向道ならば。
これより大和路にかゝり。当麻の御寺に参らばやと思ひ候。
道行上 程もなく帰り紀の路の関越えて。/\。こや三熊野の岩田川。
波も散るなり朝日影夜昼わかぬ心地して。雲も其方に遠かりし。
二上山の麓なる。当麻の寺に着きにけり/\。
シテサシ一声上 一念弥陀仏即滅無量罪とも説かれたり。
ツレ 上 八万諸聖教皆是阿弥陀ともありげに候。
シテ 上 釈迦は遣り。
ツレ 上 弥陀は導く一筋に。
シテツレ二人下 心ゆるすな南無阿弥陀仏と。
シテ
一セイ上 唱ふれば、仏も我もなかりけり。
ツレ 下 南無阿弥陀仏の。声ばかり。
シテ 下 すゞしき。道は。
シテツレ二人下 たのもしや。
シテツレ次第上 濁にしまぬ蓮の糸。/\の。五色にいかで染みぬらん。
シテ
サシ上 ありがたや諸仏の誓様々なれども。わきて超世の悲願とて。迷の中にも殊になほ。
二人上 五つの雲は晴れやらぬ。雨夜の月の影をだに。
知らぬ心の行方をや西へとばかり頼むらん。げにや頼めば近き道を。
何遥々と思ふらん。
下歌 すゑの世に迷ふ我等が為なれや。
上歌 説き遺す御法はこれぞ一声の。
ツレ 上 遺す御法はこれぞ一声の。弥陀の教を頼まずは。
末の法万年々ふるまでに余経の法はよもあらじ。たま/\此生に浮まずは。
又いつの世を松の戸の。明くれば出でて暮るゝまで法の場に交るなり御法の。
場に交るなり。
ワキ 詞「いかにこれなる方々に尋ね申すべき事の候。
シテ 詞 「何事にて候ふぞ。
ワキ 詞
「これは当麻の御寺にて候ふか。
シテ 詞
「さん候当麻の御寺とも申し。又当麻寺とも申しなり。
ツレ カカル上 又是なる池は蓮の糸を。すゝぎて清めし其故に。染殿の井とも申すとかや。
シテ 上 あれは当麻寺。
ツレ 上 これは染寺。
シテ 上 又此池は染殿の。
シテツレ二人上 色々様々所所の。法の見仏聞法ありとも。それをもいさやしら糸の。
唯一筋ぞ一心不乱に南無阿弥陀仏。
ワキ サシ上 げに有難き人の言葉。即ちこれこそ弥陀一教なれ。
詞「さて又これなる花桜。常の色にはかはりつゝ。これも故ある宝樹と見えたり。
ツレ
カカル上 掛けて乾されし桜木の。花も心のある故に。蓮の色に咲くとも云へり。
ワキ 上 なか/\なるべし本よりも。草木国土成仏の。色香に染める花心の。
シテ 上 法の潤種添へて。
ワキ 上 濁にしまね蓮の糸を。
シテ 上 すゝぎて清めし人の心の。
ワキ 上 迷を乾すは。
シテ 上 緋桜の。
地 上 色はえて。掛けし蓮の糸桜。/\。花の錦の経緯に。
雲の絶間に晴れ曇る雪も緑も紅も。
唯一声の誘はんや西吹く秋の。風ならん西吹く風の秋ならん。
ワキ 詞
「なほ/\当麻の曼陀羅の謂委しく御物語り候へ。
地 クリ上 そも/\此当麻の曼陀羅と申すは。人皇四十七代の帝。廃帝天皇の御宇かとよ。
横佩の右大臣豊成と申しゝ人。
シテ サシ上 その御息女中将姫。此山にこもり給ひつゝ。
地 上 称讃浄土経。毎日読誦し給ひしが。心中に誓ひ給ふやう。
願はくは生身の弥陀来迎あつて。我に拝まれおはしませと。一心不乱に観念しふ。
シテ 下 然らずは畢命を期として。
地 下 此草庵を出でじと誓つて。一向に念仏三昧の定に入り給ふ。
クセ下 所は山陰の。松吹く風も涼しくて。さながら夏を忘れ水の。
音も絶々に心耳を澄ます夜もすがら。称名。観念の床の上。
座禅円月の窓の内。寥々とある折節に。一人の老尼の。忽然と来りたゝずめり。
これは如何なる人やらんと。尋ねさせ給ひしに。老尼答へて宣はく。
誰とはなどや愚なり。呼べばこそ来りたれと。仰せられける程に。中将姫はあきれつゝ。
シテ 上 我は誰をか呼子鳥。
地 上 たづきも知らぬ山中に。声立つる事とては。
南無阿弥陀仏の称ならでまた他事もなきものをと。答へさせ給ひしに。
それそ我が名なれ声をしるべに来れりと。宣へば姫君もさては此願成就して。
生身の弥陀如来。実に来迎の時節よと。感涙肝に銘じつゝ。綺羅衣の御袖も。
しをるばかりに見え給ふ。
地
ロンギ上 げにや貴き物語。即ち弥陀の教ぞと思ふにつけてありがたや。
シテツレ二人上 今宵しも二月中の五日にて。しかも時正の時節なり。
法事をなさん為今此寺に来りたり。
地 上 法事のために来るとは。そもや如何なる御事ぞ。
シテツレ二人上 今は何をか包むべき。其古の化尼化女の。
地 上 夢中に現じ来れりと。
シテツレ二人上 言ひもあへねば。
地 上 光さして。花降り異香薫じ。音楽の声すなり。恥かしや旅人よ暇申して帰る山の。
二上の嶽とは二上の山とこそ人はいへど。真は此尼が上りし山なる故に。
尼上の嶽とは申すなり老の坂を登り登る雲に乗りて。上りけり紫雲に乗りて上りけり。
中入り
ワキ 詞
「かく有難き御事なれば。重ねて奇特を拝まんと。
待謡上
いひもあへねば不思議やな。/\。妙音聞え光さし。歌舞の菩薩の目のあたり。
現れ給ふ。不思議さよ現れ給ふ不思議さよ。
後シテ 出端上 たゞ今夢中に現れたるは。中将姫の精魂なり。我娑婆に在りし時。
称讃浄土経。朝々時々に怠らず。信心誠なりし故に。微妙安楽の結界の衆となり。
本覚真如の円月に坐せり。然れども。こゝを去る事遠からずして。
法身却来の法味をなせり。
地 上 ありがたや。尽虚空界の荘厳は。眼は雲路にかゝやき。
シテ 上 転妙法輪の音声は。聴宝刹の耳に充てり。
地 上 蕭然とある暁の心。
シテ 上 真に涼しき。道に引かるゝ光陰の心。
地 上 惜むべしやな/\。時は人をも。待たざるものをすなはちこゝぞ。唯心の浄土経。
いたゞきまつれや/\。摂取不捨。
シテ 上 為一切世間。説此難信。
地 上 之法。是為。甚難。
シテ 上 げにも此法甚だしければ。地「信ずる事も難かるべしとや。
シテ 上 唯頼め。
地 上 頼めや頼め。
シテ 上 慈悲加祐。
地 上 令心不乱。
シテ 上 乱るなよ。
地 上 乱るなよ。
シテ 上 十声も。
地 上 一声ぞ有難や。
早舞
シテ 下 後夜の鐘の音。
地 下 後夜の鐘の音鳧鐘の響。称名の妙音の見仏聞法の色色の法事。
げにも普ねき光明遍照十方の衆生を唯西方に。迎へ行く。御法の舟の。
水馴棹。御法の舟のさを投ぐる間の。夢の。夜はほの%\とぞ。なりにける。
あさかのユーユークラブindexページに戻る
郡山の宝生流謡会のページに戻る
このページのトップに戻る
謡曲名寄せに戻る