宝生流謡曲 黒 塚

●あらすじ
廻国巡礼の旅に出た熊野那智の山伏・東光坊祐慶(ワキ)とその一行は、陸奥国安達ヶ原で、老媼(前ジテ)の住む粗末な小屋に一夜の宿を借りる。老媼は自らの苦しい身の上を嘆きつつ、求められるまま枠?輪[2]で糸を繰りながら糸尽くしの歌を謡う。やがて夜も更け、老媼は「留守中、決して私の寝所を覗かないでください」と頼み、山伏たちのために薪を取りに出る。しかし、山伏に仕える能力[3](アイ)は、寝所の中が気になって仕方がない。山伏との攻防の末、ついに密かに部屋を脱け出して寝所を覗くが、そこには大量の死体が積み上げられていた。能力からの知らせを受けた山伏は、「黒塚に住むという鬼は彼女であったか」と家から逃げ出すが、正体を知られたと悟った鬼女(後ジテ)が怒りの形相で追ってくる。山伏は数珠を擦って何とか鬼女を調伏し、鬼女は己の姿に恥じ入りながら去っていく。

●宝生流謡本(参考)     内九巻の四   四五番目    (太鼓あり)
       季節=秋  場所=岩代国安達原   稽古順=入門   素謡時間40分 
       素謡座席順 ワキヅレ=同行山伏 
                シテ=前・賤女 後・鬼女
                ワキ=阿闍梨祐慶

●参 考   黒塚 (能)
作者(年代) 未詳、近江能か(室町時代)
形式  鬼女物、太鼓物  能柄<上演時の分類>  五番目物(四・五番目物)
現行上演流派  観世・宝生・金春・金剛・喜多    異称 安達原(観世)
シテ<主人公> 鬼女  その他おもな登場人物 =山伏(祐慶)、同行の山伏
季節  秋(8月)   場所  陸奥国安達原   本説<典拠となる作品>  黒塚伝承

「黒塚」(くろづか)は、能の演目の一つ。観世流では「安達原(あだちがはら)」。四・五番目物、鬼女物、太鼓物に分類される。いわゆる「安達ヶ原の鬼婆」伝説に取材した曲である。作者については不詳。作者付の記述から、近江猿楽所縁の曲であったと見られる。
陸奥の安達の原の黒塚に鬼こもれりといふはまことかという平兼盛の歌が構想の核となっている。
同じく鬼女をシテとする「紅葉狩」と異なり、この曲ではシテは般若の面を着け、その本性は人間であるとされている。事実、自己の運命を慨嘆し、その正体を知られることを恐れる姿は弱々しく、また山伏のために薪を用意しようとするなど女性的な優しさも見せるが、その前場の人間的な言動はあくまで、本性を隠すための「演技」とも見ることが出来る。事実、結末も「葵上」のように成仏するのではなく、法力に屈服して退散するのみである。 
また、「人の心の二面性を描いた能」という解釈もある[5]。そういった意味では、この曲のシテは、いわば誰もが持つ心の奥の秘密を暴かれたのであり、観客はむしろその鬼女に同情さえしてしまう。人間としての側面と鬼としての側面のどちらを強調するかで、曲の趣は変化する。作中では語られないシテの女性の前歴については、都の高貴な女性(馬場あき子)、六条御息所に自己同一化する女性(金関猛)、都の白拍子(松岡心平)などの説[8]、またその造形上のモデルを『源氏物語』の六条御息所とし、この曲のシテは過去世の罪科を悔いる六条御息所の後身であるという説などが提示されている。
作者については『能本作者注文』が「近江能」、『自家伝抄』が「江州へ遣す、世阿弥」、また金春家書上およびそれを参照した『二百十番謡目録』が金春禅竹としている。近江猿楽の犬王は同じ般若物の「葵上」を得意曲としていることなどからも、この曲も近江猿楽所縁と見られる。

●小 書
宝生重英による「黒塚 白頭」。小書がついているため、白の頭を着けている小書(特殊演出)に、「長糸之伝」(観世流)、「糸車」(金剛流)、「替装束」(喜多流)、「白頭」(観世流・宝生流・金春流・金剛流)、「黒頭」(観世流、金剛流)、「赤頭」(金剛流)、「急進之出」(観世流)、「脇留」(観世流)など。前場の糸繰りが長いもの、頭を着けるもの、シテの登場・退場に変化があるものなどがある。
 寛正6年(1465年)2月28日、将軍・足利義政院参の際の観世所演(『親元日記』)が、最古の演能記録である。また下間少進も複数回演じたことが記録にあり、能に熱心であった豊臣秀次は記録に残っているだけで3回もこの曲を披露している。ワキの祈祷による調伏が描かれる曲には、本曲の他「葵上」、「道成寺」がある。この祈祷の場面について、五十四世梅若六郎によると「一番荒いのが安達原、品の良い凄さは葵上で、丁度その間が道成寺」であるとされる。

●伝 説
安達ヶ原近隣の真弓山観世寺の発行による『奥州安達ヶ原黒塚縁起』などによれば、鬼婆の伝説は以下のように伝わっている。 神亀丙寅の年(726年)の頃。紀州の僧・東光坊祐慶が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、岩屋に宿を求めた。岩屋にいた老婆は薪を拾いに行くと言い、奥の間を覗かぬよう祐慶に忠告して岩屋を出た。祐慶が好奇心から奥の間を覗くと、そこには人間の頭蓋骨が山のように散乱していた。祐慶は、安達ヶ原で旅人を殺して血肉を貪り食うという鬼婆の噂を思い出し、あの老婆こそが件の鬼婆だと感づき、岩屋を逃げ出した。 岩屋に戻った鬼婆は祐慶の逃走に気づき、猛烈な速さで追いかけた。祐慶のすぐ後ろまでせまる鬼婆。絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩を取り出して必死に経を唱えた。すると祐慶の菩薩像が空へ舞い上がり、光明を放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆を仕留めた。 鬼婆は命を失ったものの、仏の導きにより成仏した。祐慶は鬼婆を阿武隈川のほとりに葬り、その地は「黒塚」と呼ばれるようになった。鬼婆を得脱(悟り)に導いた観音像は「白真弓観音」と呼ばれ、後に厚い信仰を受けたという。 なお祐慶は平安時代後期に実在した人物であり、『江戸名所図会』などに東光坊阿闍梨宥慶の名で記載されており、1163年(長寛元年)に遷化したとされる。

●鬼婆の由来
石見神楽演目「黒塚」前述の観世寺の近隣には恋衣地蔵という地蔵があるが、これは鬼婆に殺された恋衣という女性を祀ったものとされ、この地蔵の由来として、鬼婆が人間から鬼婆に変じた物語が以下のように伝わっている。 その昔、岩手という女性が京の都の公家屋敷に乳母として奉公していた。だが、彼女の可愛がる姫は生まれながらにして不治の病におかされており、5歳になっても口がきけないほどだった。 姫を溺愛する岩手は何とかして姫を救いたいと考え、妊婦の胎内の胎児の生き胆が病気に効くという易者の言葉を信じ、生まれたばかりの娘を置いて旅に出た。 奥州の安達ヶ原に辿りついた岩手は岩屋を宿とし、標的の妊婦を待った。長い年月が経ったある日、若い夫婦がその岩屋に宿を求めた。女の方は身重である。ちょうど女が産気づき、夫は薬を買いに出かけた。絶好の機会である。岩手は出刃包丁を取り出して女に襲い掛かり、女の腹を裂いて胎児から肝を抜き取った。だが女が身に着けているお守りを目にし、岩手は驚いた。それは自分が京を発つ際、娘に残したものだった。今しがた自分が殺した女は、他ならぬ我が子だったのである。あまりの出来事に岩手は精神に異常を来たし、以来、旅人を襲っては生き血と肝をすすり、人肉を喰らう鬼婆と成り果てたのだという。 なお、岩手が奉公していた「公家」とは武家時代以降に用いられた言葉だが、祐慶が鬼婆に出遭った神亀年間は平安遷都すら行われていない時代のため、岩手が奉公していた時代には、奉公先のはずの京の都自体が存在していないという矛盾がある。また、岩手という名は戯曲の『岩手』で創作された名前であり、実在するはずがない。以上の理由から、この鬼婆の由来に関する伝説は、一種の方便として作られたものと見られている。

(平成23年10月8日 あさかのユーユークラブ 謡曲研究会)


◎この謡曲は、那智東光坊の祐慶等が安達ケ原に住むという鬼女を折伏する有名な陸奥岩代の国安達ヶ原に伝わる黒塚伝説を能謡に作られたものです。私の住んでいる福島県が舞台に使われている数少ない名曲の部類です。

         黒 塚 
    
四五番目(太鼓あり)  
        シテ 前賎女 後鬼女       季 秋   
        ワキ 阿闍梨祐慶         所 岩代安達原
        ワキツレ 同行山伏

ワキ  「旅の衣はすず掛けの
     「旅の衣はすずかけの露けき 袖やしをるらん
ワキ  「これは那智の東光坊の阿闍梨 祐慶とは我が事なり  
ワキツレ  「それ捨身とそおの行体は 山伏修行のたよりなり
ワキ  「熊野の巡礼廻国は 皆釈門の習いなり
     然るに祐慶この間 心に立てる願あって
     廻国行脚に赴かんと 我が本山を立ち出でて
ワキツレ  「我が本山を立ち出でて
ワキ  「分け行く末は紀の路潟塩崎の浦をさし過ぎて
     錦の浜の折々は猶しおり行く旅衣 日も重なれば程もなく
     名にのみ聞きし陸奥の 安達が原に着きにけり
     安達が原に着きにけり
ワキ  「急ぎ候程に これは早陸奥安達が原に つきて候
     あら笑止や 日の暮れて候 このあたりには人里も なく候
     あれに火の光の 見えて候程に
     立ち寄り宿を借らばやと 存じ候」
シテ  「げに侘び人の習い程 悲しきものはよもあらじ
     かかる浮き世に秋のきて 朝げの風は身にしめども
     胸を休むる事もなく 昨日もむなしく暮れぬれば
ワキ   「いかにこの屋のうちへ 案内申し候」
シテ   「誰にて 渡り候ぞ」
ワキ  「これは廻国の 聖にて候 一夜の宿を 御貸し候へ」
シテ  「余りに 見苦しく候程に お宿は 叶い候まじ」
ワキツレ 「いかにや主聞きたまへ 我ら始めて陸奥の
     安達が原に行き暮れて 宿をかるべき便もなし
     願はくは我らをあわれみて 一夜の宿を貸したまへ
シテ  「人里遠きこの野辺の 松風寒き柴の庵に
     いかでお宿を参らすべき
ワキ  「よしや旅寝の草枕 今宵ばかりの仮寝せん
     誰々宿をかしたまへ       
シテ  「住み馴れる我だにも憂きこの庵に    
ワキ  「誰とまらんと柴の戸を       
シテ  「さすが思へば痛はしさに
地   「さらば留まりたまへとて とぼそを開き立ち出づる
      異草もまじる茅むしろ
     異草もまじる茅むしろ うたでや今宵敷きなまし
     しひても宿をかり衣かたしく袖の露深し
     草の庵のせはしなき 旅寝の床ぞ物憂き
     旅寝の床ぞ物憂き
ワキ  「今宵のお宿返す返すも 有り難うこそ候へ
     又あれなる物は見なれ申さぬ 物にて候ぞ」
シテ  「さん候あれは わくかせ輪とて  
     我らごとき賎の女の営む 業にて候」
ワキ   「あら面白やさらば夜もすがらいとなうで 御見せ候」
シテ  「げにはづかしや旅人の 見る目もはぢずいつとなき
     賎が業こそものうけれ
ワキ  「今宵とどまるこの宿の 主の情深き夜の
シテ  「月もさしいる
ワキ  「ねやのうちに
地   「麻草の糸を繰り返し 麻草の糸を繰り返し昔を今になさばや
シテ  「賎が績麻のよるまでも
地   「世渡る業こそ 物うけれ
シテ  「あさましや人界に生を受けながら かかる浮き世に明け暮らし
     身を苦しむる悲しさよ
ワキ  「はかなの人の言の葉や 先づ生身を助けてこそ
     仏身を願う便りあれ
地   「かかる浮き世にながらへて 明け暮れひまなき身なりとも
     心だに真の道にかなひなば 祈らずとても終になど
     仏果の縁とならざらん
     誰これ地水火風の 仮にしばらくもまとはりて
     生死に輪廻し 五道六道に廻る事 誰一心の迷いなり
      およそ人間の
     あだなる事を案ずるに 人更に若き事なし 終には老となるものを
     かほどはかなき夢の世を などやいとはざる 我ながら
     あだなる心こそ 恨みてもかひなかりけれ
     さてそも五条あたりにて 夕顔の宿を尋ねしは
シテ  「日陰の糸の冠着し それは名高き人やらん
地   「加茂のみあれにかざりしは
シテ  「糸毛の車とこそ聞け
地   「糸桜色も盛りに咲く頃は
シテ  「来る人多き春の暮れ
地   「穂に出づる秋の糸薄
シテ  「月によるをやまちぬらん
地   「今はた賎が繰る糸の
シテ  「長き命のつれなきを
地   「ながき命のつれなさ
     思いあかしの浦千鳥音をのみひとり鳴きあかす
     音をのみひとり鳴きあかす
シテ  「いかに 客僧達 余りに 夜寒に候程に
    上の山にあがり 木を採りて
     焚火をして あて申さうずるて候
     暫く 御待ち候へ」
ワキ  「御志しは 有り難う候へども
     夜陰と申しことに女性の 御身として
     思いも よらず候」
シテ  「いやわらはいつも通い馴れたる山路なれば 苦しからず候」
ワキ  「さらばやがて 御帰り候へ」
シテ  「なうなう わらはが 帰らんまで
      この閨の内ばし 御覧じ候な」
ワキ  「さように人の閨などを見る客僧にては なく候」
シテ  「こなたの客僧も 御覧じ候な」
ワキツレ 「心得申し候」
ワキ  「不思議や主の閨のうちを 物の隙よりよく見れば
     人の死骸は数知らず 軒と等しく積み置きたり
     膿血たちまち融滴し 臭穢はみちて膨脹し
     膚腑ことごとく爛壊せり これは音に聞く
     安達が原の黒塚に 篭もれる鬼の 住みかなり
ワキツレ 「恐ろしや かかる憂き目を陸奥の 安達が原の黒塚に
     鬼こもれりと詠じけん 歌の心もかくやらんと
ワキ  「心も惑い肝を消し
      心も惑い肝を消し 行くべき片は知らねども
      足に任せて逃げて行く足に任せて逃げて行く
シテ  「いかに客僧 とまれとこそ
      さるにても隠し置きたる 閨の内を
      あさまになされ 申しつる 恨みの為に 来たりたり」
     胸を焦がす炎は 感陽宮の煙 ふんぷんたり
地   「野風山風吹き落ちて
シテ  「鳴る神稲妻天地に満ちて
地   「空かき曇る雨の夜の
シテ  「鬼一口に喰はんとて
地   「歩みよる足音
シテ  「振り上ぐる鉄杖のいきおい
地   「あたりを払っておそろしや
ワキ  「東方に降三世明王
ワキツレ 「南方に軍陀利夜又明王
ワキ  「西方に大威徳明王
ワキツレ 「北方に金剛夜又明王
ワキ  「中央に大日大聖不動明王 オンコロコロセンダリマトオギ
     オンナビラウンケンソワカ
     ウンタラタカンマン
地   「見我身者発菩提心 見我身者発菩提心
     聞我名者断悪修善 聴我説者得大智恵
     智我身者即身成仏 即身成仏と明王の
     繋縛にかけて 責めかけ 責めかけ
     祈りふせにけり さてこりよ
シテ  「今まではさしもげに
地   「今まではさしもげに 怒りをなしつる鬼女なるが
     忽ちに弱り果てて 天地に身をつづめ眼くらみて
     足もとはよろよろと ただよいめぐる安達が原の
     黒塚にかくれ住みしも
     あさましや 恥かしの我が姿やと
     いう声はなお物すさまじく 
     いう声はなお物すさまじき 夜嵐の音に立ち紛れうせにけり 
     音に立ち紛れうせにけり



 




黒塚伝説概要
 その昔、岩手という女性が京都の公家屋敷に乳母として奉公していた。だが、彼女の可愛がる姫は生まれながらにして不治の病におかされており、5歳になっても口がきけないほどだった。姫を溺愛する岩手は何とかして姫を救いたいと考え、妊婦の胎内の胎児の生き胆が病気に効くというと易者の言葉を信じ、生まれたばかりの娘を置いて旅に出た。奥州の安達ヶ原に辿りついた岩手は岩屋を宿とし、標的の妊婦を待った。長い年月が経ったある日、若い夫婦がその岩屋に宿を求めた。女の方は身重である。ちょうど女が産気づき、夫に薬を買いに出かけた。絶好の機会である。
 岩手は出刃包丁を取り出して女に襲い掛かり、女の腹を裂いて胎児から肝を抜き取った。だが女が身に着けているお守りを目にし、岩手は驚いた。それは自分が京を発つ際、娘に残したものだった。今しがた自分が殺した女は、他ならぬ我が子だったのである。
 あまりの出来事に岩手は精神に異常を来たし、以来、旅人を襲っては生き血と肝をすすり、人肉を喰らう鬼婆と成り果てた。それから数年後。紀州の僧・東光坊祐慶が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、岩屋に宿を求めた。岩屋にいた鬼婆は薪を拾いに行くと言い、奥の間を覗かぬよう祐慶に忠告して岩屋を出た。祐慶が好奇心から奥の間を覗くと、そこには人間の頭蓋骨、手足、内臓などが散乱していた。鬼婆の正体に感づいた祐慶は岩屋を逃げ出した。
 岩屋に戻った鬼婆は祐慶の逃走に気づき、猛烈な速さで追いかけた。祐慶のすぐ後ろまでせまる鬼婆。絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩を取り出して必死に経を唱えた。すると雷鳴が轟き、鬼婆は雷に打たれて絶命した。祐慶は鬼婆を阿武隈川のほとりに葬り、その地は「黒塚」と呼ばれるようになった。
 安達ヶ原と同様の鬼婆の伝承は埼玉県大宮市にも「黒塚の鬼婆」として伝わっており、寛政時代の雑書『諸国里人談』によればこちらが本家とされる。しかし実際には、類似の鬼婆の伝承は日本各地に伝わっている[3]。また別説では鬼婆は落雷で退治されたのではなく、高僧に改心させられて仏教へ帰依したともいう。

 史 跡
黒塚の近くには祐慶が観音を祀るために寺を建てたといわれ、これが現在でも二本松市にある真弓山観世寺とされる。同寺の敷地内には鬼婆像の他、鬼婆の墓や、鬼婆の住んでいた岩屋、血で染まった包丁を洗ったという池が残されており、観光客も多い[2][5]。伝説は時を経てなお人々の心に恐怖と哀しみを与え続けているといわれ、俳人・正岡子規もこの寺を訪れ「涼しさや聞けばむかしは鬼の塚」と詠んでいる[1]。
また二本松市内の観光施設「安達ヶ原ふるさと村」では、この鬼婆伝説を再現した「黒塚劇場」が開催される他、本来の伝説のおどろおどろしさを払拭すべく、鬼婆の姿を二頭身にディフォルメした「バッピーちゃん」をイメージキャラクターとする他、様々な工夫がなされている[6][7][8]。
宮城県の東光院には、この鬼婆のものとされる頭蓋骨が保存されているが、現在は公開されていない。
 
        出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




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