楊 貴 妃 (ようきひ)

●あらすじ
 亡くなった楊貴妃の魂魄の在りかを探すよう玄宗皇帝に命じられた方士(仙術を行う者。ワキ)は、常世の国の蓬莱宮へとやって来る。蓬莱宮の者(アイ)に楊貴妃の居場所を聞いた方士が太真殿へ向かうと、悲しみに沈む楊貴妃(シテ)がいた。方士は悲嘆にくれる玄宗皇帝の様子を伝え、面会した証拠となる品を頂戴したいと言う。楊貴妃は玉の釵を方士に与え、かつて皇帝と交わした言葉を伝える。帰ろうとする方士を引き留めた楊貴妃は、天上界の仙女だった自分が人間界に生まれて皇帝と契りを結ぶに至った経緯を物語り、皇帝が月宮で見た天女の舞を楊貴妃に教えたという霓裳羽衣の曲を舞う。玉の釵を手に帰って行く方士を見送りながら、楊貴妃は涙に沈む。
 白楽天の『長恨歌』で知られる、玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を素材とする三番目物。
〔'94/5/21 第4回 響の会 パンフレット掲載〕文・清水寛二/西村高夫

●宝生流謡本      内八巻の三     三番目    (太鼓なし)
    季節=秋    場所=蓬莱宮    作者=金春禅竹作 
    素謡稽古順=初奥   素謡時間=55分 
    素謡座席順   シテ=楊貴妃
               ワキ=方士

●能 楊貴妃        楊貴妃:演目のご紹介:ようこそ能の世界へ|白翔會
唐の玄宗皇帝は、こよなく愛する楊貴妃を失い、悲しみの余り、魂の在り処を探させます。命を受けた方士(仙界の術を身につけた者)は、天上界はもとより黄泉の国まで訪ね歩き、ついに蓬莱の島で、楊貴妃の魂と出会います。その姿は在りし日と変わることもなく、たとえようもない美しさでした。確かに出会えたしるしにと、かんざしを差し出す楊貴妃に、方士は玄宗皇帝と誓い合った言葉を聞かせて欲しいと頼むのでした。
  −天に在らば願わくは比翼の鳥とならん  地に在らば願わくは連理の枝とならん
それは、七夕の夜に変わることのない愛を誓い合った言葉でした。
もともと天上界の仙女であつた楊貴妃は、仮に人間の世界に生まれ、皇帝に見出されますが、誓いの言葉もむなしく、会者定離のさだめのまま、死後はこの蓬莱の島に住む身の上となります。昔を懐かしみつつ舞う楊貴妃。都に帰っていく方士をいつまでも見送り、また悲しみに沈むのでした。
 舞台展開は、まず囃子方が着座すると、後見が「引廻し」という布で覆われた作物を、舞台正面の奥(大小前)に据えます。これは蓬莱国の太真殿といって楊貴妃の魂の住まいを表しています。
〈次第〉の囃子で方士(ワキ)が登場し、勅命によって楊貴妃の魂を訪ねて、蓬莱国に向かう由を述べます。 やがて到着した方士は、蓬莱国の者(間狂言)に太真殿に教えられます。
作物の中から、昔を懐かしむ楊貴妃(シテ)の声が聞こえ、方士は勅命によって来たことを告げると、地謡の内に、後見が引廻を静かに下ろします。シテは天冠を戴き、唐織を壺織に着て、緋色の大口(袴)姿にと、方士に手渡します。かんざしは他にもあるもの。楊貴妃と皇帝しか知らない秘密の誓いの言葉を教えます。都に帰ろうとする方士を引き止めて、再びかんざしを付けて昔を懐かしみつつ舞う楊貴妃。やがて別れの時が来て、またかんざしを携えて方士は帰って行きます。楊貴妃は見送り、作物の中へ入り、悲しみに沈む様子で静かに座り、シオリ(泣く型)をします。
能では幽霊が仮の姿で、又は在りし日の姿で現世に現れるという曲が多い中で、蓬莱国(常世の国)に魂を訪ねて行くというところが、不思議な雰囲気を醸しだしている曲です。大切な人が亡くなってしまうと、残された人は、誰しも魂が何処かに存在し続けていると願って生きているものです。また永遠に変わることのないものへの憧れ。この曲にはそのような心情がこめられた趣き深い曲です。


             
三婦人関係謡曲
                                       
小原隆夫調べ
 コード    曲 目      概       説           場 所 季節  素謡 習順
内12巻3  定  家  藤原定家ト式子内親王ノ恋        京都  冬   70分 奥伝
内07巻3  大原御幸 壇ノ浦デ助ラレタ安徳天皇ノ母ヲ見舞ウ  京都  春   70分 奥伝
内08巻3  楊 貴 妃  玄宗皇帝ノ愛妃ノ魂パクヲ探す      唐国  秋   55分 初奥

●参 考   楊貴妃(ようきひ)
(719―756)中国、唐第6代皇帝玄宗の寵妃(ちょうひ)。蒲州(ほしゅう)永楽(山西省城(ぜいじょう)県)出身の父楊玄(げんえん)が、蜀(しょく)州(四川(しせん)省崇慶(すうけい)県)司戸参軍として任地にあるとき生まれる。幼名を玉環(ぎょくかん)という。早く父に死別、叔父の河南府士曹(しそう)参軍楊玄(げんきょう)の養女となったとされるが、玄の実子とする説もある。才知あり歌舞に巧みな豊満な美女で、735年玄宗の第18皇子寿王李瑁(りまい)の妃(きさき)となったが、ちょうど寵妃武恵妃と死別した玄宗はこれを愛し、740年寿王邸から出して女冠(じょかん)(女道士)とし、太真(たいしん)の名を与え、744年宮中に召した。翌年27歳で正式に貴妃に冊立、政務に飽きた玄宗の心を完全にとらえ、娘子(じょうし)とよばれて皇后に等しい待遇を受けた。3人の姉は韓国(かんこく)、国(かくこく)、秦国(しんこく)夫人の称号を賜り、族兄楊(ようしょう)は国忠の名を賜り、一族みな高官に列し皇族と通婚し、官僚たちはみなこれに取り入ろうと競った。貴妃の好む南方産のレイシ(茘枝)が早馬で届けられた話は有名。毎冬帝とともに華清宮温泉に遊び、宦官(かんがん)高力士、安禄山(あんろくざん)らも寵を競い、李白(りはく)らの宮廷詩人たちに囲まれ豪奢(ごうしゃ)な生活を送った。しかし楊国忠と対立した安禄山がついに反乱し(安史の乱)、756年長安に迫るや、楊国忠の勧めで玄宗は蜀(四川)へ逃亡しようとし、貴妃および楊氏一族と少数の廷臣を引き連れ長安を脱出した。しかし西方数十キロメートルの馬嵬(ばかい)駅(陝西(せんせい)省興平県)で警固の兵士たちが反乱を起こし、国難を招いた責任者として国忠を殺し、さらに玄宗に迫って貴妃を駅の仏堂で縊殺(いさつ)せしめた。38歳であった。兵士はようやく鎮まって帝を守って成都へ向かった。長安奪回後、都へ戻った玄宗は馬嵬に埋められていた屍(しかばね)を棺に収めて改葬させたが、余生は貴妃の画像に朝夕涙を流すのみであったという。貴妃と玄宗の情愛と悲劇は同時代から文学作品の題材とされ、白居易(はくきょい)(白楽天(はくらくてん))の『長恨歌(ちょうごんか)』をはじめ、後世まで多くの詩、戯曲、小説を生んだ。   [ 日本大百科全書(小学館)] . Yahoo!百科事典[ 執筆者:菊池英夫 ]

●遣唐使(けんとうし)
 遣唐使とは、当時の日本(倭国)が唐に派遣した使節である。 日本側の史料では(607年)聖徳太子が派遣していた遣隋使を、中国で619年に隋が滅び唐が建ったので、第34代舒明天皇2年(630年)第1次遣唐使の派遣 犬上君三田鋤から再会した。寛平6年(894年)第20次遣唐使で菅原道真の建議により停止された。 遣唐使船はジャンク船に似た構造で帆を用いていた。耐波性はあるものの、気象条件などにより無事往来出来る可能性は8割程度と低いものであった。4隻編成で航行され、1隻に100人程度が乗船した。 後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、中には遭難する船もある命懸けの航海であった。、遣唐使は朝貢使という性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航し(元日朝賀に出席するには12月までに唐の都へ入京する必要がある)気象条件の良くない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している。第18次遣唐使が延歴23年(804)最澄・空海が同行渡海している。

(平成22年10月15日 あさかのユーユークラブ 曲研究会)