宝生流謡曲 「忠 度」

●あらすじ
藤原俊成に仕えていた家来が俊成没後、旅の僧となり西国行脚の旅に出て、須磨の浦に辿り着いた。そこに一本の桜の木があり、僧が眺めていると、薪を背負った老人が歩いてきた。薪には山で折ったであろう桜の一枝がさしてある。その桜を手に取り、老人は桜の木の下で手向けをする。旅の僧がその老人に一夜の宿を乞うと、この桜の下ほどよい宿は無いと言い、平忠度ゆかりの地であることを説明した。そして僧に忠度の弔いを頼み、自分が忠度の霊であるとほのめかし静かに消えていく。  夜、桜の木の下で寝ていると忠度の霊が武人の姿で現れた。『千載集』に入れられた自分の歌が朝敵として「読み人知らず」とされたことを嘆き、作者名をつけてくれるよう俊成の子、藤原定家に訴えるよう頼むのである。話は一ノ谷の合戦に移り、岡部六弥太と組み合い討ち死にした事などを物語る。最後に僧に自分の回向を頼み消え去っていく。   
(修羅物・複式夢幻能)

●宝生流謡本  (参考)    内八巻の二    二番目  (太鼓なし)
  素謡 : 季節=春   場所=摂津国須磨  稽古順=入門  素謡時間45分
  素謡座席順   シテ=前・老翁 後・忠度
              ワキ=旅僧

●場面解説
 「詠み人しらず」とされてしまった忠度の歌は、「行き暮れて 木の下蔭を宿とせば 花や今宵の 主ならまし」とあり、この場面は、まさにその歌をしたためた短冊を手に、感慨深く詠むところである。地謡が上の句を謡い、またシテが下の句と共に「忠度と書かれたり」と謡い、短冊を見つめる。この能のエッセンスが集約された場面である。一の谷の合戦の有様を勇ましく舞って見せるなど、修羅風をそなえつつも、忠度の歌への思いが曲全体に綴られている点から見れば、武人としての忠度というよりも歌人としての忠度に焦点を当てている。
 この作品は、能舞台での演能の一場面を切り取ったものではない。むしろ忠度という人物に焦点を当てており、また画面左側には花を咲かせた木が描かれ、忠度の歌を視覚的に表現したものとなっている。伸びた花枝の下には、白抜き文字で歌が書かれているることからも、この作品は忠度の「歌」を主眼においた描き方をしているといえよう。

●能史跡のご案内    能・「忠度(ただのり)」
 ○狐川      (八幡市・京阪八幡市駅付近)
   忠度は「心の花か乱菊の狐川より引き返し」とあり、都落ちし藤原俊成のところに引き返す決心をした地です。 都落ちする公達の心の動揺が偲ばれる風情です。
 ○俊成社(京都市・烏丸五条)
   ここは説話伝説の地で、本当は五条京極第(寺町高辻〜寺町五条)か五条第祉(室町五条)の説もあります。
 ○腕塚・胴塚    (神戸市・地下鉄海岸線「駒林駅」西500mで腕塚)
   一の谷合戦に敗れ忠度が退く平家船に乗る時、汀で岡部六弥太と戦い最後となった地です。箭(エビラ)に付けられた短冊に「行き暮れて木の下陰を宿とせば、花や今宵の主ならまし」とあり、文武に優れた公達の最後を敵も味方も惜しんだ地です。敵味方(勝者と敗者)に関係なく、人を惜しむ気持ちが表現されています。
どちらか が優位にあるのでないことを敗者の目で舞(身体性:身体で表現)で表現しています。これはフェミニストの視点で聖書を読むと、聖書は父権制(男性優位)の肯定であり 役割と言う名で女性の従属を強いているのが分かります。

 ○腕塚神社     (明石市・山陽電車「人丸前駅」前)
   一の谷合戦は須磨だけでなく、明石市までに及び西の大将忠度はここ両馬川で岡部六弥太に討たれたとの説です。

●平家物語を題材とした能(観世流)
一ノ谷=「小督」「通盛」「経正」「忠度」「知章」「敦盛」「俊成忠度」 屋 島=.「八島」
            註 平家関係の宝生流謡曲は私の調査によると17曲あります。(小原隆夫調べ)

●解 説
平 忠度  たいら ただのり (1144〜1184)
平氏一門衆。父は平忠盛。正四位下。薩摩守。平忠盛の六男(七男説あり)で、平清盛の末弟。母を藤原為忠の娘とする説があるもののはっきりしない。歌人としても秀でており藤原俊成の弟子となっている。 武将として優れた人物で、平氏の軍事行動には忠度は欠かせない存在であった。
 治承4(1180)年の『富士川合戦』では、駿河の橘遠茂らと合流出来ず源氏軍に大敗北を喫するが、総大将・重衡で治承5(1181)年に行われた『墨俣川合戦』では、見事に勝利を収める。
 寿永2(1183)年、北陸方面で、源(木曽)義仲による反・平氏の軍事行動が活発化すると、平氏軍は4万余の軍勢で鎮圧に向かい加賀国を平定後に二手に分かれて進軍。忠度は知度(清盛の子)と共に志保山へ展開し、源(新宮)行家の部隊と衝突し優勢に戦況を押し進める。しかし維盛が率いる平氏の別部隊を倶利加羅峠で破った義仲が、行家部隊の救援に駆け付けたために敗北。知度は戦死を遂げ忠度は京へ敗走。知度の死は平氏一門最初の戦死者であった。この時に忠度はもはや己の覚悟を決めたのではないだろうか。 同年7月、遂に平氏は西国目指して都落ちすることになるが、忠度は俊成を訪ねてこれまでの御礼を述べ、その上で、戦乱が終わり、平和な世が訪れ俊成の手により勅撰和歌集が選ばれるようなことになれば、自分の歌を選んで欲しいと懇願し俊成に自らの歌集を託した。
 元暦元(1184)年、一ノ谷では源氏軍の攻撃が、最も激しいと予想された西方方面の大将軍を務め、平氏軍陣地の防衛を固めた上で源氏軍を待ち構えていたが、源義経の奇襲攻撃の前に平氏軍の戦線は崩壊。 忠度は源氏軍数百騎に取り囲まれたもののこれらを打ち払いつつ海上の友船を目指したが、源氏軍の武将である岡部六弥太忠純の主従に見つかってしまう。たちまちのうちに忠度の従者も皆討ち取られ忠度は唯一人となるが、それでも忠純に立ち向かい忠純を組み伏せ平氏の武将としての意地を見せたものの、忠純の従者たちにより右腕を切り落とされ、ここに頚を差し出した。
 忠純が名前を尋ねても、決して名乗らず従容として最期を迎えたという。ただ箙に残された紙切れにはこう記されていたという。
    「行き暮れて 木の下蔭を 宿とせば 花や今宵の あるじならまし 忠度」
 平氏一門の栄華の日々が人々の記憶から薄れゆく中で、俊成の手により編纂された勅撰和歌集である『千載和歌集』には、「よみ人知らず」として次の一首が遺された。
    「さざなみや 志賀の都は あれにしを むかしながらの 山ざくらかな」
 俊成は忠度との約束を守り、忠度から託された和歌の中から一首を選び源氏の世の中ゆえに「よみ人知らず」として遺したのである。こうして文武に優れた平忠度の名は彼の歌とともに、永代に日本史の中に刻まれたのである。 なお忠度の他の歌も『群書類従』に『平忠度朝臣集』として現在に伝わる。
  
(平成22年10月15日 謡曲研究会)



◎あらすじ
藤原俊成に仕えていた家来が俊成没後、旅の僧となり西国行脚の旅に出て、須磨の浦に辿り着いた。そこに一本の桜の木があり、僧が眺めていると、薪を背負った老人が歩いてきた。薪には山で折ったであろう桜の一枝がさしてある。その桜を手に取り、老人は桜の木の下で手向けをする。旅の僧がその老人に一夜の宿を乞うと、この桜の下ほどよい宿は無いと言い、平忠度ゆかりの地であることを説明した。そして僧に忠度の弔いを頼み、自分が忠度の霊であるとほのめかし静かに消えていく。  夜、桜の木の下で寝ていると忠度の霊が武人の姿で現れた。『千載集』に入れられた自分の歌が朝敵として「読み人知らず」とされたことを嘆き、作者名をつけてくれるよう俊成の子、藤原定家に訴えるよう頼むのである。話は一ノ谷の合戦に移り、岡部六弥太と組み合い討ち死にした事などを物語る。最後に僧に自分の回向を頼み消え去っていく。

         忠  度        二番目(太鼓なし)  

         シテ 前老翁  後忠度 季       春
          ワキ 旅僧                 所 摂津国須磨

ワキ    「花をも憂しと捨つる身の花をも憂しと捨つる身の月にも雲はいとわじ
ワキ 詞  「是は俊成の身内にありし者にて候。さても俊成亡くなりたまいて後。
       かようの姿となりて候。又西国を見ず候程に。この度思いたち西国行脚と志し候。
ワキ    「城南の離宮に赴き都を隔つる山崎や。関戸の宿は名のみして。
      泊りも果てぬ旅のならい。憂き身はいつもまじわりの。塵の浮世のあくた川。
      猪名の小篠を分けすぎて 
      月も宿かる昆陽の池水底清く澄みなして
      芦の葉分けの風の音。芦の葉分けの風の音。聞かじとするに憂きことの。
      捨つる身までも有馬山かくれかねたる世の中の。うきに心はあだ夢の。
      覚むる枕に鐘遠き。難波はあとに鳴尾潟沖浪遠き小船かな沖浪遠き小船かな。
シテ    「げに世を渡るならいとて。かく憂き業にもこりずまの。汲まぬ時だに塩木を運べば。
      ほせどもひまはなれ衣のうらやまかけて須磨の海
      あまの呼び声ひまなきに。しば鳴く千鳥。音ぞおそき。
      抑も此の須磨の浦と申すに。寂しき故に其の名をうる。
      わくらはにとう人あらば須磨の浦に。藻汐たれつつ侘ぶと答へよ。
      げにや漁のあま小舟。藻汐の煙松の風いづれかさしからずということなき。
シテ詞  「又此の須磨の山陰に一木の桜の候。かれはある人の亡き跡のしるしの木なり。
シテ    「殊更時しも春の花。手向のために逆縁ながら。足引き山よりかへる折ごとに。
      薪に」花を折り添えて手向をなして帰らん手向をなして帰らん
ワキ詞  「いかにこれなる老人。おことは山賊にてましますか
シテ詞  「さん候この浦の海士にて候
ワキ    「海士ならばうらにこそ住むべきに。山ある方に通はんをば。山人とこそいふべけれ
シテ詞  「そも海士人の汲む汐をば。やがてそのままおき候べきか
ワキ    「げにげにこれは理りなり。藻汐焚くくなる夕煙 
シテ    「たえ間を遅しと塩木とる
ワキ    「道こそかはれ里ばなれの
シテ    「人音稀に須磨の浦
ワキ    「近きうしろの山里に
シテ    「柴というものの候へば。
地上    「柴ちいうものの候へば。塩木のために通いくる
シテ下   「あまりに愚かなる。お僧の御定かなやな
地上    「げにや須磨の浦余の所にやかわるらん。それ花につらきは峯の嵐や山おろしの。
      音をこそいといしに須磨の若木の桜は。海すこしだにも隔てねば。
      通う浦風に山の桜も散るものを
ワキ詞  「如何に尉殿。はや日の暮れて候えば一夜の宿を御かし候え
シテ詞  「げにお宿がなまいらせ候はん。や。この花の陰ほどのお宿の候べきか
ワキ詞  「げにげにこれは花の宿なれぢもさりながら。誰をあるじと定むべき
シテ詞  「行き暮れて木の下陰を宿とせば。花や今宵のあるじならまあし
シテ上  「眺めし人も此の苔の下痛わしや。我等がかようなる海士だにも。
      我等がやうなる海士だにも。常は立ち寄り弔いもおすに。
      お僧達はなど逆縁なりとも弔い給わぬ。愚かにまします人々かな
ワキ詞  「行き暮れて木の下陰を宿とせば。花や今宵のあるじならましと。
ワキ    「詠めし人は薩摩の守
シテ詞  「忠度と申しし人は。此の一の谷に討たれぬ。ゆかりの人の植えおきたる。
      しるしの木にて候なり
ワキ    「こはそもふしぎの値遇の縁。さしもさばかり俊成の
シテ上   「和歌の友とて浅からぬ
ワキ上   「宿は今宵の
シテ上   「あるじの人
地上    「名も忠度の声聞きて花の臺に座し給え
シテ上   「有難や今よりは。かく弔いの声聞きて仏果を得んぞ嬉しき
地上    「ふしぎや今の老人の。手向の声を身に受けて。
       喜ぶ気色見えたるは何の故にてあるやらん
シテ上   「お僧に訪はれ申さんちて。これまで来れりと
地上    「夕べの花の陰に寝て。夢の告げをも待ち給え。
       都え言伝て申さんとて花の陰にやどり木の行く方知らずなりにけり
      行く方知らずなりにけり
ワキ詞  「まづまづ都にかえりつつ
ワキ    「定家にこのこと申さんと
ワキ待謡 「夕月早くかげろうの。夕月早くかげろうの。おのが友呼ぶむら千鳥の。
      跡見えぬ磯山の夜の花に旅寝して。浦風までも心して。
      春に聞けばや音すごき。須磨の関屋の旅寝かな須磨の関屋の旅寝かな
後シテ上 「恥ずかしや亡き跡に。姿をかえす夢のうち。さむる心は古へに。
      迷う雨夜の物語。申さんために魂魄にうつりかはりて来たりたり。さなきだに。
      妄執多き娑婆なるに。何なかなかの千載集の。歌の品には入りたれども。
      勅勘の身の悲しさは。詠み人知らずと書かれし事。妄執の中の第一なり。
      されだもそれを選じ給いし。俊成さえ空しくなり給う。
      御身はみうちにありし人なれば。今の定家君に申し。
      しかるべくは作者をつけてたび給えと。夢物語申すに須磨の浦風も心せよ
地上    「げにや和歌の家に生まれ。其の道をたしなみ。
       敷島のかげによつしこと人倫においてもつぱらなり
ワキ    「中にもかの忠度は。文武二道をうけ給いて、世上に眼高し。
地下    「そもそも後白河の院の御宇に。千載集をえらわる。五条の三位俊成の卿。
        うけたまわってこれを撰ず、年は寿永の秋の頃。都をいでし時なれば。
地上    「さもいそがわし、かりし身の。さもいそがわしかりし身の。心の花か蘭菊の。
      狐川よりひき返し。俊成の家にゆき、歌の望みをなげきしに。望みたりぬれば。
      また弓箭にたづさわりて。西海の波の上。しばしと頼む須磨の浦。源氏のすみ所。
      平家の為はよしなしと。知らざりけるぞはかなき。
地上    「さる程に一の谷の合戦、今はこうよと見えし時。皆皆舟にとり乗って海上にうかむ。
シテ詞  「われも舟にのらんとて。汀の方に打ち出でしに後ろを見たれば。武蔵の国の住人に。
      岡部の六弥太と名乗って。六七騎が間追っかけたり。これこそ望むところよと思い。
      駒の手綱をひっかえせば。六弥太やがてむずと組み。両馬が間にどうど落つ。
      かの六弥太をとって押さえ。腰の刀に手をかけしに。
地上   「六弥太が郎等、御後より立ち廻り。上にまします忠度の。右の腕をうち落とせば。
      左の御手にて、六弥太とって投げのけ、今は叶わじと思し召して。
      そこを退き給え人人よ、西拝まんと宣いて。
      光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨と宣いしに。
      御声の下よりも。痛わしやあえなくも、六弥太たちを抜き持ち遂に御首を。打ち落す。
シテ   「六弥太心に思うよう。
地下   「痛わしやかの人の御死骸を見奉れば。その年もまだしき。長月頃の薄曇り。
      降りみ降らずみ定めなき。時雨ぞ通う村紅葉の。錦の直垂はただ世の常によもあらじ。
      いか様これは公達の。御中にこそあるらめと御名ゆかしき所に。
      箙をみればふしぎやな。
      短尺をつけられたり。見れば旅宿の題をすえ。行き暮れて。
シテ上  「木の下陰を。宿とせば。花や今宵の。主ならまし。−忠度と書かれたり、
地上   「さては疑い嵐の音に、聞こえし薩摩の守にてますぞ痛わしき。
地キリ  「御身この花の、陰に立ち寄り給いしを、かく物語申さんとて、日を暮らしとどめしなり。   
      今は疑いよもあらじ。花は根に帰るなり、わが跡といてたび給え、
      木陰を旅の宿とせば。花こそあるじなりけれ


このページのトップに戻る
謡曲名寄せに戻る
indexページに戻る