宝生流謡曲 采 女

●あらすじ
僧が春日大社を詣でると女が木を植えているので尋ねると、女は神に捧げるために木を植えるのだと語り、その後僧を猿澤の池に案内し読経を頼む。僧が誰の弔いかと尋ねると女は昔ある采女がこの池に身を投げたと語り、我こそその女の幽霊と名のり池に消える。 その夜僧が弔っていると采女の幽霊が現れ当時の様子を見せ、更なる弔いを頼み消え失せる。

●宝生流謡本        内五巻の三    三番目     (太鼓なし)
   季節=春  場所=大和国奈良   稽古順=初序     素謡時間約=53分 
   素謡座席順    シテ=前・里女  後・采女
               ワキ=旅僧  

●演能記   青山能「采女」
観世流能楽師 柴田稔  [2010年 05月 04日]所要時間2時間5分
私のいままでの演能時間で最長記録です。それまでは「井筒」の1時間45分でした。この長丁場の舞台、私にとっては場面場面ごとにいろんな表現をしているので、手を変え品を変え、結構面白くやっているのですが、それがお客様が面白いと思うかどうかは、これまた別問題なのですね!ここが難しいところです。時間がいっぱいかかっても、時間を忘れさせるような舞台だと成功なのですが、この点は、ご覧になったお客様の判断にゆだねることにしましょう。面は「宝増」。唐織は「紅白段藤棚」この「宝増」の面は、第5回青葉乃会、「相聞」で観世銕之丞師が使われています。その時に「宝増」について書きましたので、再度掲載しておきます。『「相聞」で使われたのは、岡山の林原美術館に所蔵されている『宝増』(たからぞう、または、ほうぞう)の写しです。元は、室町末期の宝来(ほうらい)という面作家の作品で、それを現代の能面作家・中村光江さんが写され、銕仙会が所蔵しています。『増』の面は、どこか神がかり的で、きりっとした強さを持っているのですが、この『宝増』は憂いに満ちた優しい面立ちをしています。』 (2006年 12月 10日柴田稔ブログより)
今回「采女」に使う面(おもて)を、小面(こおもて)にするか、増(ぞう)にするか最後まで迷いました。「采女」は原則として前シテ、後シテには同じ面を使います。簡単に言うと、采女の女の可憐な感じを狙うと「小面」になりますし、帝に捨てられた悲しみを背負った感じを狙うと「増」が良いと思います。銕之丞師は、私の「采女」には「宝増」がよいのではと、提言していただいていました。私が「小面」でやろうかと思っていますということを述べると、どちらでも構わないとの返事をいただいたので、迷いに迷っていましたが、最後には「宝増」を選びました。この「宝増」は、骨格的には「若女」に近く、「若女」と「増」の両方の魅力を持ち合わせた面なので、「采女」にはよく合うと思います。じつは、7月に演じます「半蔀(はじとみ)」は小面と決めていますので、重複を避けたことも理由の一つでした。唐織は藤花の模様の付いたものを条件として選びました。春日神社一帯は昔より藤が有名で、「采女」の詞章にも藤の花のことがたびたび出てきます。装束の持つ明るさが、前場の春ののどかな情景と結びついて、この唐織の選択はよかったと思っています。
後シテは緋の大口と紫の長絹 この姿は女性を主人公にした鬘物の作品の定型です。ありし日の采女が、昔の姿のままで現れたという設定ですので、女官として緋の大口をはき、遊舞のための長絹(ちょうけん)を羽織っているという感じでしょうか。
長絹の模様は枝垂れ桜です。金糸で枝が、桜花は白糸で描かれています。すその部分は市松模様になっています。派手さはないですが、しっとりとした落ち着きが感じられます。「井筒」のときにもこの長絹を使わせていただきました。こういった面・装束は、私の場合には、銕仙会所蔵のものを使用させていただいています。(後略)

●参 考 采女:
采女(うねめ)とは、日本の朝廷において、天皇や皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官のこと。平安時代以降は廃れ、特別な行事の時のみの官職となった。『日本書紀』によると、既に飛鳥時代には地方の豪族がその娘を天皇家に献上する習慣があった。一種の人質であり、豪族が服属したことを示したものと考える説が有力である。しかし、延喜17年(917年)の太政官符に、出雲国造が「神宮采女」と称して妾を蓄えることを禁止しつつも神道祭祀に必要な場合には1名に限り認める内容のものがあることを根拠に、地方の祭祀を天皇家が吸収統合していく過程で成立した制度で、祭祀においては妾と同一視され後述のとおり子供が出来る行為を伴ったと推測した説[1]など、神職である巫女との関連性を采女の起源に求める説も存在する。主に天皇の食事の際の配膳が主な業務とされているが、天皇の側に仕える事や諸国から容姿に優れた者が献上されていたため、妻妾としての役割を果たす事も多く、その子供を産む者もいたが、当時は母親の身分も重視する時代であったため、地方豪族である郡司層出身の采女出生の子供は中央豪族や皇族出生の子供に比べて低い立場に置かれることがほとんどであった。
大宝律令の後宮職員令によって制度化される。その内容は以下の通りである。 中務省が発する牒により、諸国に定員を割り振って募集されるが、名目は「献上」という形を取った。 募集条件は 13歳以上30歳以下であること。(采女献上が一旦廃止された後に復活した嵯峨天皇の代の規定では16歳以上20歳以下) 出身は郡少領以上の姉妹か娘であること。 容姿を厳選すること。 宮内省の配下にある「采女司」が彼女たちの人事等を管理しているが、実際に所属するのは後宮十二司のうち「水司」に6名、「膳司(かしわでのつかさ)」に60名となっている。定員は計66名であるが、大宝律令の軍防令によると全国の郡の三分の一から采女を募集することとなっており、そこから推測される采女の貢進数はそれを大きく上回っている。この事から、女嬬の代わりとして他の部署に配置される者や職制の定員外にいる者[2]、あるいは皇子女付きの者等も存在すると見られている[3]。また飯高諸高のように、より上位の役職(典侍、掌侍、掌膳、典掃)に昇格した者もあり、これらの例も上記の采女の定員外となる。 こうした律令制に組み込まれた時代の采女は、天皇の妻妾という性格が薄れて後宮での下級職員としての性格が強くなっていく。

●采女伝説  福島県郡山市
 約千三百年前、陸奥の国安積の里(現・郡山市)は冷害が続き朝廷への貢物ができないほどだった。このため奈良の都から巡察使葛城王が訪れた。 里人たちは窮状を訴え貢物の免除をお願いした。しかし、その願いは聞いてくれなかったという。 その夜、王をもてなす宴が開かれ、王は里長の娘、春姫を見そめた。春姫は心から王をもてなし、「安積山影さえ見ゆる山の井の 浅き心を我が思わなくに」私たちが王をお慕いしている気持ちはとても深いものです。どうかご機嫌を直して下さい。 王は大変喜び、春姫を帝の采女として献上することを条件に、貢物を三年間免除することになった。春姫には、次郎という相思相愛の許嫁がおり、悲しみをこらえて別れた。 都での春姫は、帝の御蘢愛を受けていたが、仲秋の名月の日、次郎恋しさに猿沢の池畔の柳に衣をかけ、入水したように見せ、愛する次郎の待つ安積へ向かった。  里へたどりついた春姫は、次郎の死を知り、雪の降る夜、あとを追って次郎と同じ山の井の清水に身を投じた。やがてみちのく安積の里にも春が訪れ、山の井の清水のまわり一面に名も知れぬ薄紫の美しい可憐な花が咲き乱れていた。  だれ言うともなく、二人の永遠の愛が地下で結ばれ、この花になったのだと噂をした。「安積の花かつみ(学名ヒメシャガ)」とは、この花のことです。この采女物語は今、郡山の夏の夜を彩どる、うねめまつりとして受けつがれております。

(平成25年2月15日 謡曲研究会)


この能は、聖武天皇時代采女と葛城王の話ですが、福島県郡山市の「采女祭り」にある采女、春姫の物語とは少し違う筋書きです、陸奥の 忍ぶ文字摺り 誰も皆」と言う文言があり、福島県に関係があると思います。 作者は世阿弥元清・典拠は大和物語と言う。

[采女(うねめ)]
采女というのは、奈良朝の昔、地方の小領以上の家族の中から特に美貌端整な子女を選りすぐって宮中に仕えさせた、その後宮の女官の役名です。本曲は聖武天皇の古え、君の寵愛をうけた一人の采女が、のちに忘れられたことを嘆いて、興福寺南大門前の猿沢の池に身を投げたという伝説に基づいてつくられた能で、特に際立った筋もなく、ひたすら弥生三月半ばのうららかな春のたたずまいの中に、たちのぼる陽炎のようなはかない情緒をたよりに、薄倖の女人の心理をきめ細かく描いた幽玄能の傑作です。舞台は猿沢の池のほとり。ここを訪れた旅僧の前に出現した若い女が、後半に采女の姿になって、しずかにたおやかに思い出の舞(序の舞)を舞い幽玄世界に誘い込みます。     
(藤城繼夫さんの解説より)


         采 女    

       三番目(太鼓なし)    
                   世阿弥元清 作  
        シテ 前・里女 後・采女           季  春
        ワキ 旅 僧                    所  大和国 奈良

ワキ  「是は諸国一見の 僧にて候。 我この程は 都に候いて。 洛陽の寺社残りなく 拝み廻りて候。
     又これより南都に参らばやと 思い候。」
     頃は弥生の十日余り 花の都を旅立ちて まだ夜をこめて東雲の 影ともに我も都を下り月
     我も都を下り月 残るあしたの朝霞 深草山の末つづく木幡の関をけさ越えて
     宇治の中宿井手の里 過ぐればこれぞ奈良坂や春日の里に着きにけり春日の里に着きにけり
シテ  宮路正しき春日野の宮路正しき春日野の寺にもいざやまいらん
     更闌け夜静かに四所明神の宝前に 耿々たる燈も 世を背けたる影かとて 共に憐む深夜の月
     朧々と杉の木の間を洩りくれば 神の御心にもしく物なくやおぼすらん
     月に散る花の陰ゆく宮めぐり 運ぶ歩みの数よりも 運ぶ歩みの数よりも
     積る桜の雪の庭また色添えて紫の 花を垂れたる藤の門
     あくるを春の景色かなあくるを春の景色かな
ワキ  「いかにこれなる女性に尋ね申すべき 事の候。」
シテ  「此方の事にて候か 何事にて候ぞ。」
ワキ  「ふしぎやなこれ程茂りたる 森林に。重ねて木を植え給ふ事 不審にこそ候へ。」
シテ  「さては当社始めて御参詣の人にて 御入り候か。」
ワキ  「さん候始めてこの所に 参りて候。 当社の謂れ詳しく 御物語り候へ。」
シテ  「そもそも 当社と申すは。神後景雲二年に 河内の国 ひら岡より。
     この春日山本宮の峯に影向 ならせ給ふ。さればこの山もとは端山の 陰あさく。
    木陰一つも なかりしを。 陰頼まんと 藤原や。」
シテ  「 氏人よりて 植えし木の。 程なくかように 深山となる。 しかれば当社の 御誓いにも。
     人の参詣は 嬉しけれども。木の葉一葉も裳裾につきてや 去りぬべきと。
    惜しみ給うも 何故ぞ。 人の煩い しげき木の。陰深かれと 今も皆。 諸願成就を 植え置くなり。」
    されば慈悲万行の日の影は 三笠の山に長閑にて 五重誰識の月の光は 春日の里に隈もなし
地   影頼みおはそませ 唯かりそめに植うるとも 草木国土成佛の
    神木と思し召しあだにな思い給いそ あらかねのその始め
    あらかねのその始め 治まる国は久方の 
    雨ははこぎの緑より 花開け香残りて仏法流布の種久し
    昔は霊鷲山にして 妙法華経を説き給う
    今は衆生を度せんとて大明神とあらはれこの山に住み給へば
    鷲の高嶺とも 三笠の山を御覧ぜよ
    さて菩提樹の木陰とも 盛りなる藤咲きて松にも花を春日山
    長閑き陰は霊山の浄土の春に劣らめや浄土の春に劣らめや
シテ  「いかに申し候。この所に猿沢の池とて隠れなき名池の候 御覧ぜられて候か。」
ワキ  「承り及びたる名池にて候 御教へ候へ。」
シテ  「こなたへ 御入り候へ。 これこそ猿沢の 池にて候へ。
    又思う 子細の候へば。 この池の 辺にて。
    御経をよみ仏事をなして 給はり候へ。」
ワキ  「易き間の事仏事をば なし申し候べし。 さて誰と志して回向 申し候べき。」
シテ  「昔采女と 申しし人 この池に身を投げ空しく なりしなり。 されば天の帝の 御歌に。」
    わきもこが寝ぐたれ髪を猿沢の
    「池の玉藻と 見るぞ悲しきと。詠める歌の心をば 知ろし召され候はずや。」
ワキ  「げにげにこの歌は承り 及びたるように候。 詳しく 御物語り候へ。」
シテ  「昔天の帝の 御時に。 一人の 采女ありしが。
    初めは叡慮 浅からざりしに。 程なく御心 変わりしを。
    及ばずながら君を恨み 参らせて。 この猿沢に身を投げ空しく なりしなり。」
ワキ  げにげに我も聞き及びしは 帝哀れと思し召し この猿沢に御幸なつて
シテ  「采女が死骸を叡覧あれば 」
ワキ  さしもさばかり美しかりし
シテ  翡翆の簪嬋娟の鬢
ワキ  桂の眉墨
シテ  丹花の唇
ワキ  柔和の姿引きかへて
シテ  池の藻屑に乱れ浮くを 君もあわれと思し召して
地   吾妹子が寝ぐたれ髪を猿沢の 寝ぐたれ髪を猿沢の 池の玉藻と
    見るぞ悲しきと叡慮にかけし御情 かたじけなや下として 君を恨みしはかなさは
    たとへば及びなき水の月とる猿沢の
    いける身とおぼすなよ我は采女の幽霊とて池水に入りにけり 池水の底に入りにけり   (中入)
ワキ  池の波夜の汀に座をなして 夜の汀に座をなして 仮に見えつるまぼろしの
    采女の衣の色々に 弔ふ法ぞ誠なる弔ふ法ぞ誠なる
シテ  有難や妙なる法を得るなるも 心の水と聞くものを
    さわがしくとも教へあらば 浮かむ心の猿沢の
    池の蓮の台に座せん よくよく弔ひ給へとよ
ワキ  不思議やな池の汀に顕れ給ふは 采女と聞きつる人やらん
シテ  「恥かしながら 古への。 采女が姿を あらはすなり。」
    佛果を得しめおはしませ
ワキ  もとよりも人々同じ佛性なり 何疑いも波の上
シテ  水の底なるうろくづや
ワキ  ないし草木国土まで
シテ  しっかい皆成佛
ワキ  疑いなし
地   ましてや人間においてをや 龍女が如く我もはや
    変成男子なり采女とな思い給いそ しかも所は補陀洛の 
     南の岸に至りたり
    これぞ南方無垢世界生れん事も頼もしや生れん事も頼もしや
    げにや古への奈良の都の代々を経て
    神と君との道すぐに国家を守る誓いとかや
シテ 然れば君に仕へ人 その品々の多き中に
地   わきて采女の花衣の うら紫の心を砕き 君辺に仕へ連る
シテ されば世上にその名を広め陸
地   情うちにこもり言葉外にあらはるるためし
    世もつて類ひ多かりけり
    葛城の大君 勅に従ひ
陸奥の 忍ぶ文字摺り誰も皆 こともおろそかなりとて設けなどしたりけれど
    なほしもなどやらん大君の心解けざりしに 采女なりける女の土器取りし言の葉の
    露の情に心とけ叡感もつて甚し
    されば浅香山 影さへ見ゆる山の井のあさくは人を思うかの 心の花開け
    風も治まり雲静かに 安全をなすとかや
シテ  然れば采女の戯れの
地   色音にうつる花鳥の とぶさに及ぶ雲の袖
    影も廻るや盃の 御遊の御酒の折々は采女の衣の色そへて
    大宮人の小忌衣 桜をかざすあしたより
    今日もくれはどり声の綾をなす舞歌の曲
    拍子を揃え袂をひるがへして
    遊楽快然たる采女の衣ぞ妙なる
    取り分き忘れめや曲水の宴のありし時
    御土器たびたび廻り 有明の月更けて山郭公
    誘い顔なるに叡慮を受けて遊楽の
    月に泣け    (序の舞)
シテ  月になけ 同じ雲居のほととぎす
地   天つそらねの万代までに
シテ  万代と 限らじものを 天衣 なづともつきぬ  巌ならなん 松の葉の
地   松の葉の散り失せずして 正木のかづらながく伝はり
     鳥の跡絶えず 天地おだやかに 国土安穏に 四海浪静かなり
シテ  猿沢の池の面
地   猿沢の池の面に 水滔々どして浪また
    悠々たりとかや 石根に雲起つて雨はそうようを打なり
    遊楽の夜すがらこれ 采女の戯れと思すなよ
    讃佛乗の 因縁なるものを
    よく弔はせ給へやとて又波に 入りにけり又波の底に入りにけり



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