宝生流謡曲 「 融 」 

●あらすじ
東国から上京の旅僧が 六条河原の院の旧跡で、一人の汐汲みに出会う。 海岸でもないのにと不審すると、ここは昔融の大臣(おとど)が塩釜の浦を写したところで、汐汲みがいても不思議ではないと答える。辺りの名所を教え、汐を汲むと見えて消え失せる。  所の人の話に合点した旅僧が弔っていると、融の大臣が在りし世の姿で現れて昔の豪奢風流のさまを見せ夜明けと供に消え去って行く。               

●宝生流謡本   内4巻の5  切能 (太鼓あり)
   季節=秋   場所=京都六条   稽古順=入門  素謡時間45分
   素謡座席順 シテ=前・老翁 後・河原左大臣
            ワキ=旅僧

●解 説  源 融(みなもとのとおる)
第52代 嵯峨天皇の十二皇子で、「源氏物語」のモデルになったとも言われる人です。臣籍に入り、左大臣まで務めますが、そのころ台頭してきた藤原氏との政権争いに負け、六条河原に大邸宅を造営し、余生を風雅のうちに過ごしました。この能でも語られるように、陸奥の塩竃の風景を愛し、これを自宅の庭に模して、毎日難波津から潮水を運ばせ、塩を焼いたと言われています。その死後も、河原院への執着が断ちがたく、幽霊となって現れ、後の所有者である宇多上皇の御息所を悩ませた話が宇治拾遺物語に出てきます。 観阿弥、世阿弥の時代、融の大臣(おとど)は、河原院にとりつく怨霊、鬼のイメージがあったようですが、この能では、風雅を愛した人物像に焦点を当て、月の都に住まう貴人という幻想的な融の姿を創りだしています。 一曲を通して取り立てて変化のある物語はなく、シテは老人から貴人へと役を替えながら、名月の輝く秋の風景のなかで、懐旧の情を帯びつつも、ただひたすら美を紡ぎ出すことへ収斂していきます。それを囃子、謡が盛り上げ、舞曲で風雅を表す様は、能が音楽であり、舞踊であり、詩であり、そのいずれもが重なって創られる美そのものだと感じさせてくれます。

●演能記                 
ウェブ能 浦田家 浦田写真館-融 
演者から一言  前シテの桶の扱いに一工夫したいと思っています。いろんな型があるので上手く潮を汲む工夫に、直前まで悩みそうです。 「十三段之舞」という小書きで、後の舞がとても長くなる(二十五分くらい!)ので前シテの謡は 少しカットします。決してサボッた訳ではありません。
 舞は黄渉調で五段、盤渉調で五段、急之舞で三段の計十三段です。 いかに優雅に面白く舞うかがポイントで、囃子方との技比べの感じです。体力勝負の所もあり、最後まで気の抜けない大曲。
 東国から都へ上って来た僧が、六条河原院の廃墟で休んでいると、田子を担いだ老人が現れる。
僧が声をかけると、「この所の汐汲みだ」と答える。「ここは海辺でもないのに汐汲みとはおかしいのでは?」と尋ねると、「ここは昔、源融が大きな邸宅を造り、その庭に陸奥の塩竈の致景を移し、 日毎に難波の浦から海水を運ばせ、塩を焼かせた所だ」と答える。 そして「今はそれを相続する者もなく、この様に荒れ果ているのだ」と語り、ここから見える名所をについて語り、汀に立ち寄り汐を汲むかと思うと、その老人の姿は見えなくなってしまった。 やがて僧が旅寝をすると、融が在りし日の優美な姿で現れ、名月のもと昔を偲んで舞を舞い、夜明けとともにその姿は月の都へと消えていった。                    
観世流能楽師浦田家のホームページです。

●参 考@ 「源 融は源氏物語のモデル」    
 河原左大臣(百人一首より)源 融(みなもと の とおる、弘仁13年(822年)〜寛平7年8月25日(895年9月21日))は、第52代嵯峨天皇の12男。官位は侍従、右衛門督。大納言などを歴任し、従一位左大臣にいたる。別名河原左大臣。死後正一位を追贈された。嵯峨源氏の初代。紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれる。陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営したといい、世阿弥作の能『融』の元となった。また、別邸の栖霞観の故地は今日の嵯峨釈迦堂清凉寺である。 六条河原院の塩釜を模すための塩は、難波の海(大阪湾)の北(現在の尼崎市)の汐を汲んで運ばれたと伝えられる。そのため、源融が汐を汲んだ故地としての伝承がのこされており、尼崎の琴浦神社の祭神は源融である。 貞観14年(872年)に左大臣にまで昇ったが、貞観18年(876年)下位である右大臣の藤原基経が第57代陽成天皇の摂政に任じられたため、上表を出して自宅に引籠もった(『三代実録』及び『中右記』)。第58代光孝天皇即位後の元慶8年(884年)、政務に復帰。 なお、第57代陽成天皇の譲位で皇位を巡る論争が起きた際、「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らもはべるは」と主張したが、源氏に下った後即位した例はないと基経に退けられたという話が『大鏡』に伝わるが、当時、融は私籠中であり、史実であるかどうかは不明である。 また融の死後、河原院は息子の昇が相続、さらに宇多上皇に献上されており、上皇の滞在中に融の亡霊が現れたという伝説が『今昔物語』『江談抄』等に見える。 現在の平等院の地は、源融が営んだ別荘だったものである。

●参 考A  「源 融は嵯峨源氏の流祖」
嵯峨源氏において子孫を長く伝えたのは源 融の流れを汲み、地方に下り武家となった融流嵯峨源氏である。 その代表が摂津(大阪)の渡辺氏であり、祖の源 綱は源 融の孫の源 仕の孫に当たり、母方の摂津国渡辺に住み、渡辺氏は大内守護(天皇警護)の滝口武者の一族に、また瀬戸内の水軍の棟梁氏族となる。 渡辺 綱の子あるいは孫の渡辺 久は肥前国松浦郡の宇野御厨の荘官となり松浦 久と名のり、松浦郡の地頭の松浦氏は、肥前国の水軍松浦党の棟梁氏族となる。 筑後(福岡県柳川)の蒲池氏も源 融の子孫であり、源 融の孫の源 是茂(源仕の弟)の孫の源 貞清の孫の源 満末が肥前国神埼郡の鳥羽院領神埼庄の荘官として下り、次子(あるいは孫)の源 久直が筑後国三潴郡の地頭として三潴郡蒲池に住み蒲池久直と名のる。 蒲池氏の末裔でもある西国郡代の窪田鎮勝(蒲池鎮克)の子で二千石の旗本の窪田鎮章が、幕将として幕末の鳥羽伏見の戦いで討ち死にした際、大坂の太融寺で葬儀が行われた。この太融寺もまた、源 融ゆかりの寺である。 また尾張(愛知県西部)大介職にあった中島宣長も源 融13代目の子孫とされており、承久の乱に朝廷方として参加し、乱後の領地交渉の模様が吾妻鏡に記されている。なお宣長の孫の中島城主中島蔵人の子滅宗によって妙興寺等数寺が創建された。

●参 考B  「清和源氏とは」
清和源氏は第56代清和天皇を祖とする皇胤が源姓を賜り成立した一族。源 頼朝以来、武家政権の主催者の血族として栄えてきた。中級貴族であった経基の子源 満仲(多田満仲)が藤原北家による摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成する。 そして、彼の子である頼光、頼親、頼信らも父と同様に藤原摂関家に仕え武門としての勢力を拡大し、後に主流となった頼信の嫡流が東国の武士団を支配下に置いて武門の棟梁としての地位を固め、源 頼朝の代に鎌倉幕府を開き武家政権を確立した。
清和源氏を称している近世大名の多くは、その事実が歴史学的に証明されたわけではない。ちなみに武家の棟梁である征夷大将軍には清和源氏の者しかなれないという説がある。しかし、坂上田村麻呂や大伴弟麻呂や藤原頼経といった先例が存在し、織田信長も征夷大将軍に就任する可能性があった(三職推任問題)。そのため、現在ではこの説は俗説とされている。

(あさかのユーユークラブ 謡曲研究会 平成22年2月19日)


                                                      (小原 隆夫)
                切能 (太鼓あり)   

        シテ 前=老翁 後=河原左大臣       季 春
        ワキ 旅 僧                    所 京都六条

ワキ詞  「これは東国方より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候程に。
      此度思ひ立ち都に上り候。
   下歌「おもひ立つ心ぞしるべ雲を分け。舟路をわたり山を越え。
      千里も同じ一足に。千里も同じ一足に。
   上歌「夕を重ね朝毎の。宿の名残も重なりて。都に早く。着きにけり都に早く着きにけり。  
ワキ詞  「急ぎ候ふ程に。これは早都に着きて候。
シテ   「月も早。出汐になりて塩釜の。うらさび渡る。気色かな。
   サシ「陸奥はいづくはあれど塩釜の。うらみて渡る老が身の。よるべもいさや定なき。
      心も澄める水の面に。照る月並を数ふれば。今宵ぞ秋の最中なる。
      実にや移せば塩釜の。月も都の最中かな。
   下歌「秋は半身は既に。老いかさなりてもろ白髪。
   上歌「雪とのみ。積りぞ来ぬる年月の。積りぞ来ぬる年月の。春を迎へ秋を添へ。
      時雨るゝ松の。風までも我が身の上と汲みて知る。汐馴衣袖寒き。
      浦わの秋の夕かな浦わの。秋の夕かな。
ワキ詞  「如何にこれなる尉殿。御身は此あたりの人か。
シテ詞  「さん候この処の汐汲にて候。
ワキ   「不思議やこゝは海辺にてもなきに。汐汲とは誤りたるか尉殿。
シテ   「あら何ともなや。さてこゝをば何処としろし召されて候ふぞ。
ワキ   「この処をば六条河原の院とこそ承りて候へ。
シテ   「河原の院こそ塩釜の浦候ふよ。融の大臣陸奥の千賀の塩釜を。
      都の内に移されたる海辺なれば。
      名に流れたる河原の院の。河水をも汲め池水をも汲め。
       こゝ塩釜の浦人なれば。汐汲となどおぼさぬぞや。 
ワキ詞  「実に実に陸奥の千賀の塩釜を。都の内に移されたる事承りおよびて候。
      さてはあれなるは籬が島候ふか。
シテ   「さん候あれこそ籬が島候ふよ。融の大臣常は御舟を寄せられ。
      御酒宴の遊舞さまざまなりし所ぞかし。や。月こそ出でて候へ。
ワキ詞  「実に実に日の出でて候ふぞや。あの籬が島の森の梢に。
      鳥の宿し囀りて。しもんに移る月影までも。
      孤舟に帰る身の上かと。思ひ出でられて候。
シテ詞  「何と唯今の面前の景色が。御僧の御身に知らるゝとは。
      若しも賈島が言葉やらん。
      鳥は宿す池中の樹。
ワキ   「僧は敲く月下の門。
シテ   「推すも。
ワキ   「敲くも。
シテ   「古人の心。
シテワキ 今目前の秋暮にあり。
地    「実にやいにしへも。月には千賀の塩釜の。月には千賀の塩釜の。浦わの秋も半にて。
      松風も立つなりや霧の籬の島隠れ。いざ我も立ち渡り。
      昔の跡を。陸奥の。千賀の浦わを。眺めんや千賀の浦わを詠めん。
ワキ詞  「塩釜の浦を都に移されたる謂御物語り候へ。
シテ詞  「語って聞かせ申し候べし。昔嵯峨の天皇の御宇に。
      融の大臣と陸奥の千賀の塩釜の眺望を聞し召し及ばせ給ひ。
      この処に塩釜を移し。あの難波の御津の浦よりも。日毎に潮を汲ませ。
      こゝにて塩を焼かせつゝ。
      一生御遊の便とし給ふ。然れどもその後は相続して翫ぶ人もなければ。
      浦はそのまゝ干汐となつて。
      地辺に淀む溜水は。雨の残の古き江に。
      落葉散り浮く松蔭の。月だに澄まで秋風の。音のみ残るばかりなり。
      されば歌にも。
      君まさで煙絶えにし塩釜の。うらさびしくも見え渡るかなと。貫之も詠めて候。
地    「実にや眺むれば。月のみ満てる塩釜の。浦さびしくも荒れはつる跡の世までもしほじみて。
      老の波も帰るやらん。あら昔恋しや。
地歌   「恋しや恋しやと。したへども歎けども。かひも渚の浦千鳥音をのみ。
       鳴くばかりなり音をのみ鳴くばかりなり。
ワキ詞  「如何に尉殿。見え渡りたる山々は皆名所にてぞ候ふらん御教へ候へ。
シテ詞  「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教へ申し候ふべし。
ワキ    「先あれに見えたるは音羽山候ふか。
シテ   「さん候あれこそ音羽山候ふよ。
ワキ    「音羽山音に聞きつゝ逢坂の。関のこなたにとよみたれば。逢坂山も程近うこそ候ふらめ。
シテ   「仰の如く関のこなたにとはよみたれども。あなたにあたれば逢坂の。山は音羽の峯に隠れて。
      此辺よりは見えぬなり。
ワキ   「さてさて音羽の嶺つゞき。次第々々の山並の。名所々々を語り給へ。
シテ詞  「語りも尽さじ言の葉の。歌の中山清閑寺。
       今熊野とはあれぞかし。
ワキ   「さてその末につゞきたる。里一村の森の木立。
シテ詞  「それをしるべに御覧ぜよ。まだき時雨の秋なれば。紅葉も青き稲荷山。
ワキ   「風も暮れ行く雲の端の。梢も青き秋の色。
シテ詞  「今こそ秋よ名にしおふ。
      春は花見し藤の森。
ワキ   「緑の空もかげ青き野山につゞく里は如何に。
シテ   「あれこそ夕されば。
ワキ   「野辺の秋風
シテ   「身にしみて。
ワキ   「鶉鳴くなる。
シテ   「深草山よ。
地    「木幡山伏見の竹田淀鳥羽も見えたりや。
  ロンギ「眺めやる。其方の空は白雲の。はや暮れ初むる遠山の。
      嶺も木深く見えたるは。如何なる所なるらん。
シテ   「あれこそ大原や。小塩の山も今日こそは。御覧じ初めつらめ。なほ/\問はせ給へや。
地    「聞くにつけても秋の風。吹く方なれや峰つゞき。西に見ゆるは何処ぞ。
シテ   「秋も早。秋も早。半更け行く松の尾の嵐山も見えたり
地    「嵐更け行く秋の夜の。空澄み上る月影に。
シテ   「さす汐時もはや過ぎて。
地    「隙もおし照る月にめで。
シテ   「興に乗じて。
地    「身をば実に。忘れたり秋の夜の。長物語よしなやまづいざや汐を汲まんとて。
      持つや田子の浦。東からげの汐衣。汲めば月をも袖にもち汐の。汀に帰る波の夜の。
      老人と見えつるが。汐雲にかきまぎれて跡も見えず。なりにけり跡をも見せずなりにけり。
                            (中入)
ワキ待謡 「磯枕。苔の衣を片敷きて。苔の衣を片敷きて。岩根の床に夜もすがら。
      猶も奇特を見るやとて。夢待ちがほの。旅寐かな。夢待ちがほの旅寐かな。
                            (出羽)
後シテ  「忘れて年を経し物を。又いにしへに帰る波の。満つ塩釜の浦人の。今宵の月を陸奥の。
      千賀の浦わも遠き世に。其名を残すまうちきみ。融の大臣とは我が事なり。
      我塩釜の浦に心を寄せ。あの籬が島の松蔭に。明月に舟を浮べ。月宮殿の白衣の袖も。
      三五夜中の新月の色。千重ふるや。雪を廻らす雲の袖。
地    「さすや桂の枝々に。
シテ   「光を花と。散らす粧。
地    「ここにも名に立つ白河の波の。あら面白や曲水の盃。浮けたり浮けたり遊舞の袖。
                             (早舞)
  ロンギ「あら面白の遊楽や。そも明月の其中に。まだ初月の宵々に。
      影も姿も少なきは。如何なる謂なるらん。
シテ   「それは西岫に。入日のいまだ近ければ。其影に隠さるゝ。
      たとへば月の有る夜は星の薄きが如くなり。
地    「青陽の春の初には。
シテ   「霞む夕の遠山。
地    「黛の色に三日月の。
シテ   「影を舟にも譬へたり。
地    「又水中の遊魚は。
シテ   「釣と疑ふ。
地    「雲上の飛鳥は。
シテ   「弓の影とも驚く。
地    「一輪も降らず。
シテ   「万水も昇らず。
地    「鳥は。地辺の樹に宿し。
シテ   「魚は月下の波に伏す。
地    「聞くとも飽かじ秋の夜の。
シテ   「鳥も鳴き。
地    「鐘も聞えて
シテ   「月も早。
地    「影傾きて明方の。雲となり雨となる。此光陰に誘はれて。月の都に。入り給ふ粧。
      あら名残惜しの面影や名残惜しの面影。



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