宝生流謡曲 「羽 衣

●あらすじ
春の朝、三保の松原に住む漁師・白龍は、仲間と釣りに出た折に、松の枝に掛かった美しい衣を見つけます。家宝にするため持ち帰ろうとした白龍に、天女が現れて声をかけ、その羽衣を返して欲しいと頼みます。白龍(はくりょう)は、はじめ聞き入れず返そうとしませんでしたが、「それがないと、天に帰れない。」と悲しむ天女の姿に心を動かされ、天女の舞を見せてもらう代わりに、衣を返すことにします。 羽衣を着た天女は、月宮の様子を表す舞いなどを見せ、さらには春の三保の松原を賛美しながら舞い続け、やがて彼方の富士山へ舞い上がり、霞にまぎれて消えていきました。   
国立能楽堂提供:『能楽図帖』より

●謡本(宝生流)参考   内三巻の五     三番目 (太鼓あり)
     季節=春  場所=駿河国三保の松原  稽古順=平物   素謡時間=40分 
     素謡座席順 ワキヅレ=漁夫
              シテ=天 人
             ワキ=漁夫白龍

●演能記        羽衣:白翔會
 物語は、三保の松原の漁師白龍は釣りから帰ると、虚空に花降り音楽が聞え、妙なる香りがして、ただならぬ様子と見るうちに、浜辺の松に世にも美しい衣が掛けられているのを見つけます。持ち帰り家宝にしようとする白龍。すると、天人が現れ衣を返して欲しいと頼みます。衣を身につけなければ、月世界へ帰ることが出来ない天人は、雁の渡って行く空を見上げつつ嘆き悲しみます。その様子を余りにも哀れに思った白龍は、天人の舞楽を見せるなら返そうと約束します。衣を身に着けて舞おうとする天人に、白龍は、衣を返せば舞楽を舞わずに天に帰ってしまうであろうと疑いを持ちます。「天に偽り無きものを(天上界には偽りはありません)」と言う天人の言葉に、白龍は衣を返し、天人は月世界の様子を語り、浦の春景色を愛で、天人の舞楽を見せ、宝を降らしつつ帰って行きます。
 舞台展開は、後見が舞台正面の先(正先)に衣の掛かった松の作り物を据えると、そこは三保の松原となります。一声の囃子で白龍(ワキ)と漁師(ワキツレ)が釣り棹を担いで登場します。松に掛かった衣を取って行こうとする白龍を、幕の中から天人(シテ)が呼び止めます。シテは〈天冠〉を付け、〈増〉の面、〈着付腰巻姿〉。長絹(広袖の衣)を附けない姿は、〈モギ胴〉と言います。「羽衣がなくては天上界に帰ることがかなわない」と歎き悲しむシテに、ワキは「天人の舞楽を見せるならば返そう」と言います。疑いの心を持つ白龍に「いや疑いは人間に在り、天に偽りなきものを」と言い、白龍は恥じ入ります。衣を受け取った天人は〈後見座〉に行き、衣を身に附けます(物著)。月世界のありさまを語り、三保の松原の景色を愛で、舞を舞います。〈序之舞〉テンポの速い〈破之舞〉に続き、〈キリ〉は華やかな型で、天上界に帰って行く態で終演になります。
 みどころは、昔話でもおなじみの、羽衣伝説をもとにした能です。昔話では、天女は羽衣を隠されてしまい、泣く泣く人間の妻になるのですが、能では、人のいい漁師・白龍は、すぐに返します。 羽衣を返したら、舞を舞わずに帰ってしまうだろう、と言う白龍に、天女は、「いや疑いは人間にあり、天に偽りなきものを」と返します。正直者の白龍は、そんな天女の言葉に感動し、衣を返すのです。天女の舞はこの能の眼目で、後に東遊(あずまあそび)の駿河舞として受け継がれたという、いわれがあります。世阿弥は、伝書の中で、天女の舞を特別なものと考えていたようで、後の時代には舞の基本とされましたが、今では大きく様式が変わっています。 穏やかな春の海、白砂青松、美しい天女の舞い、そして遠く臨む富士山。演者も観客も、幸せな気分にしてくれる能といえるでしょう。

●羽衣伝説                 
 羽衣伝説(はごろもでんせつ)は日本各地に存在する伝説。その多くは説話として語り継がれている。最古とされるものは風土記逸文として残っており、滋賀県伊香郡余呉町の余呉湖は近江国風土記・京都府京丹後市峰山町のものは丹後国風土記に見られる。 最も有名とされているのが静岡県静岡市清水区に伝わる三保の松原。なお天女はしばしば白鳥と同一視されており、白鳥処女説話(Swan maiden)系の類型といえる(白鳥処女説話は異類婚姻譚の類型のひとつ。日本のみならず、広くアジアや世界全体に見うけられる)。 日本各地に同じような伝説が伝えられている。 これらの説話の共通点として、基本的な登場人物が羽衣によって天から降りてきた天女(てんにょ) その天女に恋する男の2人である事が挙げられる。 水源地(湖水)に白鳥が降りて水浴びし、人間の女性(以下天女)の姿を現す。 天女が水浴びをしている間に、天女の美しさに心を奪われたその様子を覗き見る存在(男、老人)が、天女を天に帰すまいとして、衣服(羽衣)を隠してしまう。 1人の天女が飛びあがれなくなる(天に帰れなくなる) ここから近江型と丹後型でわかれる。 近江型(一般型) では天に帰れなくなった天女は男と結婚し子供を残す(幸をもたらす)。 天女は羽衣を見つけて天上へ戻る 丹後型では天に帰れなくなった天女は老夫婦の子として引き取られる 天女は酒造りにたけ、老夫婦は裕福となる。老夫婦は自分の子ではないと言って追い出す 天女はさまよった末ある地に留まる(トヨウケビメ)説
 羽衣の隠し場所は、 穀物の貯蔵場所 :蔵、おひつ、ワラ束の中、カマド、ナガモチ 植物の植えてある場所 :畑の中、花の中、藪の中 がある。珍しい所では、大黒柱の中というものもある。これらの隠し場所は、天女に豊穣霊あるいは穀霊としての側面があった為と考えられる。
 後日談は、 地域によりかなりの差異が認められる。幾つかのパターンとしては 昇天型 :(基本型)羽衣を見つけた天女が、夫を捨てて天にかえってしまう。子供を一緒に連れて行く場合もある。
難題型 :
天女の父が難題を出す七夕伝説に連続し、焼畑農耕地帯との関連が指摘されている。山間部に多い。
七星型 :
北斗七星のうちの1つのぼんやりしたものが泣き暮れている天女とする。なお、日本では沖縄県(北限奄美大島)にのみ存在。世界的には東南アジア、中国南部などに存在する。
再会型 :
九州地方に多い。稲作農耕地帯との関連も考えられている。 夫と相思相愛になった天女が、天の父に夫を認めてもらうため、夫を助ける。 などがある。天に帰れなくなった天女は男と結婚し子供を残す。幸をもたらす がないケースもある。舞を見たいという要望があるが、夫婦にならず男の方がその場で渡してしまう。 そのほか千葉県千葉市に伝わる羽衣伝説は、千葉氏の出自について(さらに千葉の由来について)、余呉に伝わる別の羽衣伝説では菅原道真の出自を語るなど、貴人の出生について語られている羽衣伝説もある。鳥取県中部に伝わる羽衣伝説では倉吉の地名の由来、羽衣石城主・南条氏の出自などについて語られている。
地方の羽衣伝説
静岡県静岡市清水区三保の松原 - 昇天型
滋賀県伊香郡余呉町余呉湖 - 昇天型 
京都府京丹後市峰山町 - 難題型
千葉県佐倉市 - 昇天型
鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石 - 昇天型
大阪府高石市羽衣
沖縄県宜野湾市真志喜

(平成22年1月15日 謡曲研究会)


         羽 衣  

     
                   三番目(太鼓あり)   
         シテ 天人                              季 春
         ワキ 漁夫                               所 駿河国三保松原

ワキ、ワキツレ一セイ
      「風早の。三穂の浦回をこぐ舟の。浦人さわぐ。浪路かな。
ワキサシ 「これは三保の松原に。白竜と申す漁夫にて候。
ワキ、ワキツレ
      「万里の好山に雲忽ちにおこり。一楼の明月に雨はじめて晴れり。
      げにのどかなる時しもや。春のけしき松原の。浪立ちつゞく朝霞。
      月ものこりの天の原。及なき身のながめにも。心そらなるけしきかな。
    下歌「わすれめや山路をわけて清見がた。はるかに三保の松原に。たちつれいざや。
      通はん たちつれいざや通はん。
   上歌「風向ふ。雲の浮浪たつと見て。
      雲の浮浪たつと見て。釣せで人やかへるらん。
      待てしばし春ならば吹くものどけき朝風の。松は常磐の声ぞかし。
      浪は音なき朝なぎに。釣人おほき。小舟かな 釣人多き小舟かな。
ワキ 詞「われ三保の松原にあがり。浦の景色を眺むる所に。虚空に花降り音楽聞え。
      霊香四方に薫ず。これ唯事と思はぬ所に。これなる松に美しき衣かゝれり。
      寄りて見れば色香妙にして常の衣にあらず。
      いかさま取りて帰り古き人にも見せ。家の宝となさばやと存じ候。
シテ 詞「なうその衣はこなたのにて候。何しにめされ候ふぞ。
ワキ   「これは拾ひたる衣にて候ふ程に取りて帰り候ふよ。
シテ   「それは天人の羽衣とて。たやすく人間にあたふべき物にあらず。
      元のごとくに置き給へ。
ワキ   「そも此衣の御ぬしとは。さては天人にてましますかや。
      さもあらば末世の奇特にとゞめおき。国の宝となすべきなり。
      衣をかへす事あるまじ。
シテ   「かなしやな羽衣なくては飛行の道も絶え。天上にかへらんことも叶ふまじ。
      さりとては返したび給へ。
ワキ   「此御詞を聞くよりも。いよいよ白竜力を得。
    詞「本より此身は心なき。天の羽衣とりかくし。かなふまじとて立ちのけば。
シテ   「今はさながら天人も。羽根なき鳥の如くにて。あがらんとすれば衣なし。
ワキ   「地にまた住めば下界なり。
シテ   「とやあらんかくやあらんと悲しめど。
ワキ   「白竜衣をかへさねば。
シテ   「力及ばず。
ワキ   「せんかたも。
地    「涙の露の玉鬘。かざしの花もしをしをと。
      天人の五衰も目のまへに見えてあさましや。
シテ   「天の原。ふりさけみれば。霞たつ。雲路まどひて。ゆくへ知らずも。
地  下歌「住み馴れし空にいつしかゆく雲のうらやましきけしきかな。
   上歌「迦陵頻迦のなれなれし。迦陵頻迦のなれなれし。声今さらにわづかなる。
      雁{かりがね}のかへりゆく天路を聞けばなつかしや。千鳥鴎の沖つ浪。
       ゆくか帰るか春風の 空に吹くまでなつかしや 空に吹くまでなつかしや。
ワキ  詞「いかに申し候。御姿を見たてまつれば。あまりに御痛はしく候ふ程に。
      衣をかへし申さうずるにて候。
シテ   「あらうれしやこなたへ給はり候へ。
ワキ   「しばらく。承り及びたる天人の舞楽。
      たゞ今こゝにて奏し給はゞ。ころもをかへし申すべし。
シテ   「嬉しやさては天上にかへらん事をえたり。此悦にとてもさらば。
      人間の御遊のかたみの舞。月宮をめぐらす舞曲あり。たゞ今こゝにて奏しつゝ。
      世のうき人に伝ふべし さりながら。衣なくては叶ふまじ。さりとては先かへし給へ。
ワキ   「いや此衣をかへしなば。舞曲をなさで其ままに。天にやあがり給ふべき。
シテ   「いや疑は人間にあり。天に偽なきものを。
ワキ   「あら恥かしやさらばとて。羽衣を返しあたふれば。
シテ   「乙女は衣を着しつゝ。霓裳羽衣の曲をなし。
ワキ   「天の羽衣風に和し。
シテ   「雨に湿ふ花の袖。
ワキ   「一曲をかなで。
シテ   「舞ふとかや。
地 次第「東遊の駿河舞。東遊の駿河舞。此時や始めなるらん。
地  クリ「それ久堅の天といつぱ。二神出世の古。十万世界を定めしに。
      空は限もなければとて。久方の空とは。名づけたり。
シテサシ「しかるに月宮殿のありさま。玉斧の修理とこしなへにして。
地    「白衣黒衣の天人の。数を三五にわかつて。一月夜々の天乙女。
      奉仕を定め役をなす。
シテ   「我もかずある天乙女。
地    「月の桂の身を分けて 仮に東の。駿河舞。世に伝へたる。曲とかや。
   クセ「春霞。たなびきにけり久かたの。月の桂も花やさく。
      げに花かづら色めくは春のしるしかや。おもしろや天ならで。
      こゝも妙なり天津風。雲の通路吹きとぢよ。乙女の姿。しばし留りて。
      此松原の。春の色を三保が崎。月清見潟富士の雪いづれや春のあけぼの。
      たぐひ浪も松風ものどかなる浦のありさま。そのうへ天地は。何を隔てん玉垣の。
      内外の神の御末にて。月も曇らぬ日の本や。
シテ   「君が代は。天の羽衣まれに来て。
地    「撫づとも尽きぬ巌ぞと。聞くも妙なり東歌。声そへてかずかずの。
      笙笛琴箜篌孤雲の外に満ち/\て。落日の紅は蘇命路の山をうつして。
      緑は浪に浮島が。払ふ嵐に花ふりて。げに雪をめぐらす白雲の袖ぞ妙なる。
シテ   「南無帰命月天子本地大勢至。
地    「東遊の舞の曲。
シテ ワカ「あるひは。天つ御空の緑の衣。
地    「又は春立つ霞の衣。
シテ   「色香も妙なり乙女の裳。
地    「左右左。左右颯々の。花をかざしの天の羽袖。なびくもかへすも舞の袖。
 キリ地 「東遊のかずに。東遊のかずかずに。その名も月の色人は。三五夜中の空に又。
      満月真如の影となり。御願円満国土成就。七宝充満の宝を降らし。国土にこれを。
      ほどこし給ふさるほどに。時移つて。天の羽衣。浦風にたなびきたなびく。
      三保の松原浮島が雲の。愛鷹山や富士の高嶺。かすかになりて。
      天つ御空の。霞にまぎれて。失せにけり。


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