井 筒 (いづつ)

●あらすじ
初番目物(神祇物)ですが、シテが女神なので鬘物の風情があります。所は北野右近の馬場。桜の名所です。ある日常陸の国鹿島の神職一行(ワキ・ワキツレ)が都に上って右近の馬場の花見に来ます。そこには花見車の押し立てた人々で賑わっています。 在原業平の古歌を口ずさんでいると、その中の侍女(ツレ)を従えた上臈(前シテ)が業平の歌を返します。女は北野の桜の名所等を話す内に、私は桜葉乃神で、月の夜神楽を見せましょうと云って消えます。神職達が待っていると、軈て桜葉乃神(後シテ)が真の姿で現れ、御代を讃え、数々の舞を見せ、虚空遥かに上がって行きます。 女車の華やかさ、桜の明るさ、女神の神々しい美しさ。太鼓の響きにより和やかな優しさが味わえます。

●宝生流謡本      内十七巻の一     脇能    (太鼓あり)
    季節=春    場所=京都北野    作者=世阿弥
    素謡稽古順=平物   素謡時間=35分 
    素謡座席順   シテ=前・上掾@ 後・桜葉の神
               ワキ=鹿島の神職

●解 説  井筒物語
本作は帰らぬ夫を待ち続ける女の霊を描いたもので、 寂しさと喪失感に耐えながらなおも夫を待ち続ける美しい愛情が主題である。伊勢物語の23段「筒井筒」を元に構成されており、 前段で伊勢物語で描かれた夫との恋が懐かしく回想される。 後段では寂しさの高じた女が夫の形見の衣装を身にまとい、夫への思いを募らせながら舞を舞う。 これは(多くの場合)男性が女装して演ずる主人公が、更に男装する事を意味し、 この男女一体の舞が本作の特徴である。 なお、題名の「井筒」とは井戸の周りの枠のことで、 主人公の女にとっては子供の頃に夫と遊んだ思い出の井戸である。 伊勢物語の各段の主人公は在原業平と同一視される事が多いが、本作でもこれを踏襲し、主人公夫婦を業平とその妻(紀有常女)と同一視している。 シテは若女や小面などの面をつけるそれは物寂しい秋の日の事だった。旅の僧が大和国石上にある在原寺に立ち寄った。そこは昔、在原業平とその妻が住んでいた所だったが、今はもうその面影は無く、あたりには草が茫々と生えていた。在原寺はすでに廃寺になっており、業平とその妻との名残の井筒からも一叢のすすきがのびていた。僧が業平夫婦を弔っていると、どこからともなく里の女(実は業平の妻の霊)が現れ、業平の古塚に花水を手向ける。 僧が彼女に話しかけると、彼女は業平の妻である事を隠しつつも、想い出の井筒を見つめ、僧に促されるまま、業平と過ごした日々を語りだす。彼女が言うには、業平は妻と仲むつまじく暮らしながらも他の女のもとにも通っていたのだが、ひたむきに彼を待ち続ける妻の心根にうたれ、女のもとへは通わなくなったのだという。「もっと業平の事を教えてください」、僧にそう促されると、彼女は業平との馴れ初めを語りだした。「昔この国には幼なじみの男女がいました。 二人は井筒のまわりで仲良く語り合ったり、水面に姿を移して遊んだりしていましたが、 年頃になると、互いに恥ずかしくなり疎遠になってしまいました。 しかしあるとき、男がこんな歌を女に送ったのです。 あなたと比べあった、振り分け髪も肩を過ぎてすっかり長くなりました。その髪を妻として結い上げるのはあなたをおいてはありえません。こうして二人は結ばれたのだという。 最後に彼女は自分が業平の妻(の霊)である事をあかし、どこへともなく去ってゆく。(ここで片幕で舞台に登場していたアイの居語(いがたり)となる。間狂言の口から同様の物語が語られる。) その晩、僧が床につくと、夢の中に先の女が現れる。 夢の中で彼女は、夫・業平の形見の衣装を着ていた。当時は形見を身に着ける事で、その人と一体になれると信じられていたのだ。そして在りし日の業平をまねて静かに舞(序の舞)を舞う。

●演能記   粟谷能の会 :: 『井筒』について   喜多流能楽師 粟谷明生師
「筒井筒井づつにかけしまろがたけ生ひにけらしな妹見ざる間に」「くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずして誰かあぐべき」 隣に住み育った幼なじみ同士が互いに意を伝えるために贈り合った歌です。”伊勢物語”の中でも最も有名な歌だろうと思います。”井筒”は、この歌に現される女の男に対する恋慕の情を美しく謡い上げています。 殊に死後までも続く女の純真な情は、恋愛の永遠性を感じさせるものになっています。 ”井筒”の能の見所は、紀の有常の娘が業平の装束を纏い現れる後段です。 役としての女性(紀の有常の娘)が男装し、業平になりきって舞を舞う。我が身が業平なのか、業平が我が身なのか、役者自身が区別できないくらいの陶酔の舞です。
 しっとりとした序の舞、井筒の作り物をのぞき込むクライマックス、実際感動します。
秋田県大仙市のまほろば唐松能舞台での定期能公演(平成18年8月27日)で『井筒』を勤めました。『井筒』は三番目物といわれ鬘物の代表曲で、女能の名曲です。 能楽師ならば三番目物には憧れがあり、「いつか自分も勤めたい」と夢みているのではないでしょうか。 私は天の邪鬼なのか、ずっと二番目物や四番目物の現在物の方に心が向いていて、複式夢幻能といわれるものに興味を示さないでいましたが、40歳を過ぎるあたりから、能の真髄といわれる三番目物の魅力・味わいの深さを知り、いまはその世界に引き込まれ、虜となっています。 三番目物には、「本三番目物」といわれる最高位の曲がいくつかあります。 登場人物も高貴な女性で、緋色大口袴をはき、高位之序の序之舞を舞います。 喜多流では本三番目物を勤める順序は、『半蔀』や『東北』の入門編をまず習得し、『夕顔』『楊貴妃』『野宮』『江口』『定家』と徐々にレベルを上げていきます。 残念ながら『井筒』は鬘物の代表曲でありながら、「本三番目物」ではありません。 理由は後シテの扮装が緋色大口袴を着けずに腰巻姿であること、そして序の舞が完全な高位之序でないからです。専門的になりますが、高位之序特有の序之舞の掛(かかり)の最後の拍子を踏みません。たぶん「本三番目物」に遠慮して、故意に踏まないのではないでしょうか。  (後略)


             
(在原業平関係謡曲  5曲)
                                     
小原隆夫調べ
 コード   曲 目      概        説        場 所  季節  素謡  習順
内03巻3 井  筒 在原業平ト紀有常ノ娘ノ話男装ノ舞ウ 奈良   秋   50分  中序
内09巻3 杜  若 在原業平ノ歌ト 杜若ノ精ガ舞う     愛知   夏   48分  入門
内13巻4 隅 田 川 狂女ノ母隅田川デ子ノ亡霊ニ逢ウ   東京   春   60分  奥伝
内15巻5 小  塩 在原業平ノ霊大原小塩ノ昔ヲ語る   京都   春   45分  入門
内18巻5 雲 林 院 雲林院で在原業平の霊夢      京都   春   45分  初序
 

● 参 考    
(壺 齋 閑 話)
「井筒」は世阿弥の幽玄能の傑作で、世阿弥自身自信作と考えていたことが「申楽談義」のなかにもある。筋らしいものはなく、全曲がゆったりと進んでいくが、秋の古寺の趣と女の清純な恋情とがしっとりと伝わってくる。世阿弥はこの曲の題材を伊勢物語の第二十三段からとった。(中略)
「との女、悪しと思へるけしきもなくて、出しやりければ、をとこ、異心ありてかゝるにやあらむと思ひうたがひて、前栽の中にかくれゐて、河内へいぬる顔にて見れば、この女、いとよう化粧じて、うちながめて、風吹けば沖つ白波たつた山夜半にや君がひとり越ゆらんとよみけるを聞きて、限りなくかなしと思ひて、河内へもいかずなりにけり。」この段は田舎人ものに分類されていて、必ずしも在原業平を描いたものとはいえないのだが、世阿弥はそこを敢えて、業平と紀有常の娘の恋として解釈し直した。能はこの娘の立場に立って、業平との恋の思い出を語らせている。 原作自身が美しい言葉から成り立っているので、世阿弥はそれらを借りることで、能に色を添えている。見るものは伊勢物語の世界と重ね合わせながら、その雰囲気にひたることができる。

(平成24年12月21日 あさかのユーユークラブ 謡曲研究会)


     井 筒 (いづつ)


舞台の一隅には作り物の井筒が据えられ、そこに諸国一見の僧が現れる。僧は井筒の方を見ながら、ここが歌で名高い在原業平ゆかりの寺であることを知る。(以下テキストは「半魚文庫」を活用。)

ワキ  詞「是は諸国一見の僧にて候。我この程は南都七堂に参りて候。
      又これより初瀬に参らばやと思ひ候。これなる寺を人に尋ねて候へば。
      在原寺とかや申し候ふ程に。立ちより一見せばやと思ひ候。
      さては此在原寺は。いにしへ業平紀の有常の息女。夫婦住み給ひし石上なるべし。
      風ふけば沖つ白浪たつ田山と詠じけんも。此処にての事なるべし。
  下歌「昔語の跡とへば。その業平の友とせし。紀の有常の常なき世。
      妹背をかけて弔らはん。妹背をかけて弔らはん。

そこへ里の女に扮したシテが登場する。面は若女、衣装は唐織である。

シテ 次第「暁ごとの閼伽{あか}の水。月もこころ澄ますらん。
    サシ「さなきだに物の淋しき秋の夜の。人目まる古寺の。庭の松風更け過ぎて。 
       月も傾く軒端の草。忘れて過ぎし古{いにしへ}を。
       忍ぶ顔にていつまでか待つ事なくてながらへん。げに何事も。
       思ひ出の。人には残る世の中かな。  
    下歌「唯いつとなく一筋に頼む仏の御手の糸導きたまへ法の声。
    上歌「迷をも。照らさせ給ふ御誓。照らさせ給ふ御誓。げにもと見えて有明の。
        ゆくへは西の山なれど。ながめは四方の秋の空。松の声のみ聞ゆれども。
        嵐はいづくとも。定なき世の夢心。何の音にか覚めてまし。
        何の音にか覚めてまし。

女が業平の墓に回向する様子をみて、僧は不審に思って尋ねかける。

ワキ  詞「我この寺に休らひ。心を澄ますをりふし。いとなまめける女性{によしやう}。
       庭の板井をむすび上げ花水とし。これなる塚に回向の気色見え給ふは。
       いかなる人にてましますぞ。
シテ  詞「是は此あたりのに住む者なり。この寺の本願在原の業平は。
       世に名を留めし人なり。されば其跡しるしもこれなる塚の陰やらん。
       妾{わらは}も委しくは知らず候へども。花水を手向け御跡を弔ひ参らせ候。
ワキ    「げに/\業平}の御事は。世に名を留めし人なりさりながら。
       今は遥に遠き世の。昔語の跡なるを。しかも女性の御身として。
        かやうに弔ひ給ふ事。その在原の業平に。いかさま故ある御身やらん。    

女はこの寺が業平を祭ることを語り、是非弔いの経を上げて欲しいと僧に願う。

シテ    「故ある身かと問はせ給ふ。その業平はその時だにも。昔男といはれし身の。
       ましてや今は遠き世に。故もゆかりもあるべからず。  
ワキ    「もつとも仰はさる事なれども。こゝは昔の旧跡にて。
シテ    「主{ぬし}こそ遠く業平の。
ワキ    「あとは残りてさすがにいまだ。
シテ    「聞えは朽ちぬ世語を。
ワキ    「語れば今も。
シテ    「昔男の。
地    歌「名ばかりは。在原寺の跡旧りて。在原寺の跡旧りて。松も老いたる塚の草。
        これこそそれよ亡き跡の。一村ずすきの穂に出づるはいつの名残なるらん。
        草茫々として露深々と古塚の。真なるかな古の。跡なつかしき景色かな。
        跡なつかしき景色かな。

女が業平のことを知っているのではないかと思った僧は、女に詳しく話して欲しいと頼む。そこで女は業平と紀の有常娘とのはかない恋物語を語りだす。(クセの部分)

ワキ   詞「なほ/\業平の御事委しく御物語り候へ。
地    クリ「昔在原の中将。年経てこゝにいその上。ふりにし里も花の春。
        月の秋とて。住み給ひしに。
シテ  サシ「其頃は紀の有常が娘と契り。妹背の心浅からざりしに。
地      「又河内の国高安の里に。知る人ありて二道に。忍びて通ひ給ひしに。
シテ     「風ふけば沖つ白波立田山
地      「夜半には君がひとり行くらんとおぼつか波の夜の道。
        ゆくへを思ふ心遂げてよその契りはかれがれなり。
シテ     「げに情知る。うたかたの。
地      「あはれを述べしも理なり。
     クセ「昔この国に。住む人の有りけるが。宿をならべて門の前。
        井筒によりてうなゐ子の。友達かたらひて。互に影を水鏡。
        面ならべ袖を懸け。心の水も底ひなく。うつる月日も重なりて。 
        おとなしく恥ぢがはしく。たがひに今はなりにけり。其後かのまめ男。
        言葉の露の玉章{たまづさ}の。心の花も色そひて。
シテ     「筒井筒。井筒に懸けしまろが丈。
地      「生ひしにけらしな。妹見ざる間にと詠みて贈りける程に。
        その時女もくらべこし振分髪も肩過ぎぬ。君ならずして。
        誰かあぐべきと互詠みし故なれや。筒井筒の女とも。
        聞えしは有常}が。娘の旧き名なるべし。
地  ロンギ「げにや旧{ふ}りにし物語。聞けば妙なる有様の。あやしや名のりおはしませ。
シテ    「誠は我は恋衣。紀の有常が娘とも。いさ白波の立田山夜半にまぎれて来りたり。
地     「ふしぎやさては立田山。色にぞ出づるもみぢ葉の。
シテ    「紀の有常}が娘とも。
地     「又は井筒の女とも。
シテ    「恥かしながら我なりと。
地     「いふや注連縄の長き夜を。契りし年は筒井筒井筒の陰に隠れけり。
       井筒の陰にかくれけり。

中入。伊勢物語の歌を引き合いに出しながら、ひととおり語り終わると、女は自分こそが紀の有常の娘の亡霊なのだといって、舞台を去る。すると間狂言が登場して、業平と紀の有常の娘とのはかない恋について語り、先ほどの女こそ紀の有常の娘の亡霊であるから、手厚く弔うように薦めて去る。僧がワキ座で待謡を歌っていると、後シテが業平の形見の衣装を着て登場する。頭には初冠をかぶっている。

ワキ  待謡「更けゆくや。在原寺の夜の月。在原寺の夜の月。昔を返す衣手に。
        夢待ちそへて仮枕。苔の莚に。臥しにけり苔のむしろに臥しにけり。
        後シテ一声「あだなりと名にこそ立てれ桜花。年に稀なる人も待ちけり。
        かやうに詠みしも我なれば。人待つ女ともいはれしなり。我筒井筒の昔より。
        真弓槻弓年を経て。今は亡き世に業平の。形見の直衣。身に触れて。
        恥かしや。昔男に移舞。
地      「雪をめぐらす。花の袖。

優雅な序ノ舞の後、シテは井筒に近づき、その中を覗き込みながら、昔のことを改めて思い出し、感慨にふける。一曲の最大の見所である。

シテ  ワカ「こゝに来て。昔ぞかへす。在原の。
地     「寺井に澄める。月ぞさやけき。月ぞさやけき。
シテ    「月やあらぬ。春や昔と詠{なが}めしも。いつの頃ぞや。筒井筒。
地     「つゝゐづつ。井筒にかけし。
シテ    「まろがたけ。
地     「生ひしにけらしな。
シテ    「老いにけるぞや。
地     「さながら見みえし昔男の。冠直衣{かぶりなほし}は。女とも見えず。
       男なりけり。業平の面影。
シテ    「見ればなつかしや。
地     「我ながらなつかしや。亡婦魄霊に姿はしぼめる花の。色なうて匂。
       残りて在原の寺の鐘もほのぼのと。明くれば古寺の松風や芭蕉葉の夢も。
       破れて覚めにけり夢は破れ明けにけり。


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